天下人と天下の豪商
島井宗室の巻
崇福寺
1240年(鎌倉時代前期)創建 ほか
ミナサン、コンバンハ。
今週ノみすてりーはんたー、ルイス・風呂椅子デス。
ぽるとがるカラ来タ宣教師デス。
聞クトコロニヨリマストー、信長殿ハー、1582年6月1日(安土桃山時代前期)ノ本能寺ノ変ノ前日ニ茶会ヲ催サレー、ソコニー、二人ノ博多商人ガー、訪レテイマス。
(めんどくさいので後は日本語でお話しましょう)
一人は島井宗室(しまいそうしつ。嶋井とも宗叱とも)、一人は神屋宗湛(かみやそうたん)。
博多のお笑い考古学者の間では、宗室・宗湛で“W宗ちゃん”と呼ばれ、研究に余念がありません(ちなみに宗湛はこの頃は出家前なので神屋貞清(サダキヨ!?))。
宗室は「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」とかいう凄いお宝(茶入らしい)を持っていて、それを信長に献上し、かつ信長自慢のお宝を見せてもらうという約束をしていたらしく、茶会もそのお披露目が目的だったとも言われています。
宗湛の方は何をしに行ったのか分かりませんが、宗室の付き添いでしょうか?
“博多の金持ちコンビ”ということで二人で1セットだったのかもしれません(まさに“W宗ちゃん”)。
井伏鱒二の『神屋宗湛の残した日記 』によると、信長は宗湛に「お前は博多の田舎に居たのだから、ろくな絵は見ていないだろう。明日は、ゆっくり掛軸や道具を見せてやる」と言ったそうなので、さすがに単なる付き添いということはないはず。
来るべき(信長の生きているうちには来なかったけど)九州平定に向けて、博多の商人たちとは懇意にしておいたほうがいいと考えたのでしょう。
W宗ちゃんにとっても、天下人・信長殿の後ろ盾を求めていたものと思われます。
茶会を終えて、二人はそのまま本能寺に泊まりました。
そして運命の翌6月2日未明、明智光秀の軍が本能寺に襲いかかります。
宗室は持参した「楢柴」に加え、壁に掛かっていた「弘法大師筆千字文(せんじもん。漢字千字が使われた、漢字練習用の詩)」を、宗湛は牧谿(もっけい。13世紀後半の宋の僧で信長のお気に入りの水墨画家)の「遠浦帰帆図(えんぽきはんず)」を持って脱出しました。
しかし、彼らはなぜ戦闘中の本能寺にあったお宝を持って逃げたのでしょう?
いわゆる火事場泥棒ってやつでしょうか?(笑)
信長から「大事な品だから持って逃げよ」とでも指示があったのでしょうか?
それとも貴重な宝を焼失させてはいけないという純粋な気持ちで自主的に持ち出したのでしょうか?
2013.4.1追記
W宗ちゃんの脱出は信長の黒人家臣・弥助が案内したという話もあるので、信長の指示で持ち出したのかもしれませんね。
空海自筆の「弘法大師筆千字文」は後に空海ゆかりの東長寺に納められました(たぶん宝物庫の中なので拝観不能(追記:見た))。
一方の「遠浦帰帆図」は、しばらく宗湛が所持し秀吉にも披露していたようですが、どういう訳か後の秀吉の形見分けリストに家康への形見として載っていて、現在は東京国立博物館だか京都国立博物館だか徳川美術館だかにあるそうです。
2013.4.1追記
東長寺の藤田紫雲住職に話を伺ったところ、「千字文」は2枚の屏風に分かれていたらしく、宗室が持ち帰ったのはその片割れ、つまり500文字分とのこと。
弘法大師が17~18歳頃に書いたものと鑑定されているらしい。写真もお借りしました。
チャラチャチャ~
<CM>
島井宗室は博多商人の例に漏れず、明や朝鮮との貿易で財を成した人で、堺の商人とも交流があり、茶人としても知られています。
大友氏や対馬の宗氏の保護の下に貿易を行ない、大友氏が島津氏に圧迫され始めると、自分の特権を守るために信長に保護を求めたということです。
後に秀吉の庇護を受けるようになり、九州征伐に協力、博多の復興に力を入れますが、朝鮮出兵では大事な取引先との戦争には反対。
自ら朝鮮に行ったりして戦争回避を図りますが、秀吉の怒りを買って蟄居させられます。
蟄居を解かれた後、一応、後方支援には協力しますが、博多奉行・石田三成らと和平の裏工作を進めたとか。
関ヶ原後は福岡藩主となった黒田氏の福岡城築城に貢献し、没後は黒田氏の菩提寺でもある崇福寺に葬られました。
死に際して跡継ぎの息子(養子)に商売をやっていく上での17ヶ条の家訓を伝えていて、これが社訓のルーツだとかいって、ビジネス書にも取り上げられたりしています(ビジネス書なんか読んだことないけど)。
本能寺から持ち帰った「楢柴」については、大友宗麟や秀吉の再三の懇願も頑に応じなかったのですが、大友氏に対抗した島津氏方の秋月種実(たねざね)に大豆100俵で半ば脅し取られ(このとき、「楢柴」を受け取りにきた使者をもてなした数寄屋を、使者が帰った後に叩き壊したとか)、九州征伐の際に秀吉に献上され、最後は家康に授けられましたが明暦の大火で消失したとのことです。
宗室は町人であることに誇りを持った、気骨溢れる人だったようで、あるとき秀吉に望みを訊かれ、「海の中道より内海(博多湾)を拝領したい」と答えたとか。
「ならば武士となって所領するか」と秀吉が言うと、「武士は嫌ひ」と答えたそうです。
島井宗室屋敷跡の碑。太閤町割の際に公役免除として秀吉に与えられた場所だと思われる。屋敷にあった、荒廃した博多の町の瓦礫をぬりこんで造られた「博多べい」は櫛田神社の境内に移設されている(写真右)。
宗室の墓がある崇福寺(そうふくじ)は、聖福寺、承天寺と並んで博多の三禅窟と呼ばれていますが、他の2寺とはエリアが離れていて、文化財も県レベルどまりなせいか、個人的にはいささか地味な存在のような気がします(そのため、ここまで登場機会がありませんでした)。
創建は1240年(鎌倉時代前期)。
聖一国師こと円爾とともに宋に渡った湛慧(たんえ)によって、太宰府の横岳に建立されました。
翌年、円爾が宋から帰国すると湛慧はこれを招き、円爾は宋で師事した無準師範(ぶしゅんしばん)から最初のお寺にかけるようにと与えられた「勅賜萬年崇福禅寺」の八大字を額に掲げ、晴れて「崇福寺」となりました。(円爾が承天寺を開くのはこの後なんですね)
その後、承天寺と同じく官寺となり、後嵯峨天皇より「西都法窟」の勅額を賜ったりしていますが、1586年(安土桃山時代中期)の岩屋城の戦いの際に焼失。
1600年(江戸時代初期)に福岡に入った黒田長政によって現在の場所に再建されました(元の場所には「大宰府別院」が建てられているそうな)。
1612年には宗室の寄進で塔頭・瑞雲庵が再建されています。
この縁で、宗室の墓が崇福寺にあるのでしょう(瑞雲庵は明治時代に廃寺になったらしい)。
山門は1918年(大正7年)に福岡城の本丸表御門を移築したもの。 2012年春に内部が特別公開された。 | |
唐門はおそらく1600年の再建時に名島城から移築したもの。 | |
黒田家の墓所の入口「藤水門」。黒田家の墓所は市内に何カ所かあるが、ここには如水・長政親子が眠っている。寺務所で鍵を借りれば中でお参りすることもできる。 追記:平成25年から、9:00~17:00は「藤水門」が開門されることになったそうです。コチラのコメント欄参照 | |
上段右が如水、左が長政の墓。 |
何せ広い墓地の中で案内板も何もないので確証はないが、たぶんこれが宗室の墓。これで間違いなければ場所はココです。 |
次回は“W宗ちゃん”のもう一人、神谷宗湛についてお話しましょう。
デハ、ミナサン、
アテブレーベ、オブリガード(また近いうちに、ありがとうございました)。
島井宗室屋敷跡
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福岡市博多区中呉服町5(第一観光さん前)
崇福寺
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福岡市博多区千代4-7-79
(つづく)
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