天下人と天下の豪商
神屋宗湛の巻
豊国(ほうこく)神社 ほか
こんにちは。
今週のミステリーハンターは秀吉殿の正室・北のマン所でございます。
私の内助外助の功もあって秀吉殿が天下人になられた事を考えれば、憚りながら私も上げマンと申すことができるとは思いますが、何せこのマンでは子を成すことができず、それが唯一の不マンにございます。
失礼。
1585年(安土桃山時代中期)、一度は戸次川(へつぎがわ)の戦いで島津軍に大敗を喫した秀吉軍でしたが、翌1586、ようやく家康を臣従させた秀吉殿自らが弟・秀長殿とともに総勢20万の兵をもって九州征伐を開始。
秀吉殿が西側(肥後側)を、秀長殿が東側(日向側)を侵攻します。
島津軍は北部九州をあきらめ自国の国境防衛に専念しますが、結局島津義久が頭を丸めて降伏を申し入れ、その後しばらく抵抗していた島津義弘も降伏。
義久には薩摩、義弘には大隅が安堵され、九州征伐は完了しました。
この戦いの最中、降伏した秋月種実が島井宗室から取り上げた「楢柴」を秀吉殿に献上したのは先に風呂椅子殿が述べられた通り。
島井宗室、神屋宗湛の“W宗ちゃん”は、九州征伐の後方支援にかなりの協力をしたことと思われます。
戦後、秀吉殿は箱崎に滞陣し、先に済ませた南九州の国分(くにわけ)に続き、北九州の国分を行ないます。
これにより、大友氏は豊後一国を安堵。
筑前には小早川隆景(こばやかわたかかげ)が入りますが、博多は直轄地となります。
秀吉殿の参謀・黒田官兵衛孝高(よしたか。後に長政に家督を譲ってからは如水)は、豊前に12万5千石を与えられていますが、これは秀吉殿がキレモノすぎる孝高の野心を警戒したためなどとよく言われますね。
大友氏から譲り受け、九州征伐でも活躍した立花宗茂(むねしげ)は、直臣の大名として柳川13万2千石が与えられています。
あわせて秀吉殿は島津軍によって焼き払われた博多の復興を命じ、黒田孝高が立案した町割に基づき(実は孝高は前年に秀吉からの指示で博多の下見を行なっていた)、石田三成ら5人の町奉行と“W宗ちゃん”らによって、復興事業が進められました。
半島気味に突き出していた沖の浜と博多浜の間は埋め立てられて、那珂川と石堂川(御笠川)の間に格子状の街区が整備されています。
後に「太閤町割」と呼ばれるものですが、実際にはこの頃の秀吉殿はまだ関白だったので、この呼称には語弊がありますね。
山笠で知られる「流」という自治単位もこの「太閤(本当は関白)町割」で定められたものです。
この時秀吉殿は「定」という、博多商人を保護する御朱印状を与えています。
これは9カ条からなり、博多の楽市楽座を定め、税金を免除し、武士の居住を禁止したもので、なかには
一、喧嘩口論於仕者不及理非双方可成敗事(喧嘩口論は両成敗ぢゃ…第4条)
一、誰々によらず不沙汰停止の事(人に因縁をつけちゃいかん…第5条)
一、押買狼藉停止之事(押し売り押し買い乱暴狼藉はしちゃかん…第9条)
など面白いものもあります。
秀吉殿が社殿を寄進した櫛田神社の境内にある博多歴史館には、太閤町割りの際に神屋宗湛が使ったという間杖(「博多津町割吉辰 宗湛」と記されている)のレプリカとともに「定」の複製品も展示されていますので、ぜひ一度ご覧ください。
櫛田神社が所蔵する「定」の複製品を撮影させていただいた。 | |
「定」の複製品などを展示する博多歴史館は本殿左手にある。 |
もちろん秀吉殿の腹の中には、来るべき朝鮮出兵のために兵站地を整備しようという目的もあったのでしょう。
“W宗ちゃん”も秀吉殿の腹づもりは知っていたでしょうが、目的はともかく、この機を利用して博多を復興し、堺以上の自治都市、商人の町にしようと燃えていたのだと思います。
両者の利害が一致して、博多の復興は急ピッチで進みます。
チャラチャチャ~
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神屋宗湛は石見銀山の発見、運営などでひと山当てた大富豪の家系のボンで、先に風呂椅子殿が述べられた通り、本能寺で信長様に謁見するも、明智光秀の謀反で命からがら逃げ帰っています。
博多区中呉服町の本興寺には、宗湛が本能寺で寝ていた夜に大黒天の悪夢で明智軍の攻撃から逃れられたとして、帰国後、宗湛が寄進したという大黒天が伝わっています。
本興寺の大黒堂に祀られている、宗湛寄進と伝えられる博多甲子大黒天。博多人形の祖ともいわれたが、実際はそれより古い朝鮮陶製の貴重なものらしい。普段は厨子の扉が閉じられているが、甲子(きのえね)の日にご開帳となり、毎年1月10日には大黒天まつりが行なわれる。 |
秀吉殿が初めて宗湛とお会いになったのは、九州征伐の軍令を発した1586年の正月のこと。
前の年の12月から上洛していた宗湛は、京都大徳寺の和尚・蒲庵古渓(ほあんこけい)のもとで剃髪し、宗湛という名はこのときからお使いになったようです。
正月に3日に大坂城で行なわれた大茶湯の会で、多数の大名や茶人を前に秀吉殿は宗湛を「筑紫の坊主」と呼んで、ご贔屓にされたとか。
もちろん秀吉殿にとっては九州征伐を前に博多の有力商人を手懐けるためであり、宗湛もそのことは心得ていたものと思われます。
秀吉殿が筥崎宮に滞陣されている間も何度も茶会が催され、そこでは博多の町割についても話がされたことでありましょう。
また、秀吉殿は宗湛を伴ってフスタという南蛮船に乗り、箱崎浜から博多浜へ視察に出かけたりもしています。
筥崎宮の近く、恵光院にある燈籠堂。かつては筥崎宮境内の松林の中にあり、この燈籠堂の前に設けた小さな茶室で千利休が宗湛、宗室らを招いて茶会を催したらしい。ちなみに恵光院自体ももともと筥崎宮の結縁寺(?)だとのこと。 |
利休が箱崎浜の千代松原で、秀吉や宗湛らを招いて開いた茶会で、鎖を吊るして釜を掛け、松葉を焚いて湯を沸かしたといわれる利休釜掛けの松。松が2本あって、いったいどっちなんだか(実際の茶会の場所はここよりもう少し筥崎宮寄りだったそうなので、この松も眉唾か?)。秀吉らが詠んだ和歌の短冊は、筥崎宮に収められているらしい。釜掛けの松は九大医学部構内にありますが、何の案内もないようなので探すのに苦労します。下のMAPをご参照ください。 |
利休が筥崎宮を訪れた際に奉納したとされる石燈籠(国指定重要文化財)。本殿右手にあって近寄れないので、一般庶民は楼門から奥を覗くしか見る術がない。 追記 近くで撮らさせていただきました。 |
さて、話は変わりますが、1588年、秀吉殿の信任も厚かった大徳寺の古渓和尚が、なぜか秀吉殿の勘気を被り、博多へ流されます。
古渓といえば、宗湛の頭を手がけた(?)あの和尚さまです。
宗湛や宗室らは和尚のために妙楽寺の中に大同庵という庵を建てて、和尚を迎えました。(妙楽寺のご住職によると、このころの妙楽寺は博多の町とともに島津に焼かれて瓦礫の山だったろうとのこと)
それから2年(足掛け3年)、千利休の働きかけもあって、古渓は許されて京へ帰ることとなったとき、よくしてくれた近所の人たちへのせめてもの恩返しとばかりに、古渓は庵の井戸に「火伏せ」の祈祷を施しました(既存の井戸ではなく水が湧き出たという話も)。
以後、この水を持ち帰って家にかけると火難除けになったといい、この水は古渓水と呼ばれるようになりました。
駐車場の奥、注意してないと見落としそうな場所にある大同庵跡・古渓水。 |
古渓水の石碑は古渓和尚400年忌の際に記念する井戸とともに現在の妙楽寺境内に建てられたが、平成16年に地元の人がこの場所を大同庵跡・古渓水として整備した際に移設されたらしい。 |
古渓水のところには古渓和尚の木像があったらしいが、1945年6月19日の福岡大空襲で焼失したのだとか。和尚の霊験もナパーム弾には敵わなかったか。 |
1592年(安土桃山時代後期)から始まった2度の朝鮮出兵でも、宗湛は秀吉の側近並みの存在感で活躍します。
一方の島井宗室は宗湛に比べて影が薄いのですが、ひとつは宗湛の日記が宗湛の働きを克明に後世に伝えていること(宗室も日記を残しているのですが、いったいどんなものだったのか…)、もうひとつは宗室が朝鮮出兵に反対し、その朝鮮出兵のために武士が博多に出入りしだして、ないがしろにされていた秀吉の「定」の遵守を何度も秀吉に訴えていたことなどで、秀吉に煙たがられていたのかもしれません。
石田三成と親しかった宗湛は、秀吉没後の遠征軍の帰還にも尽力し、関ヶ原に向けた西軍諸将の茶会の場にも、はるばる伏見にまで出向いて参加しています。
江戸時代になってからは、宗湛はパッとすることなく黒田家の御用商人として晩年を過ごしたようで、没後は妙楽寺に葬られています。
没年は1635年(江戸時代前期)ですから、妙楽寺が現在の場所に再興してからのことですね。
生前、宗湛は太閤町割の際に与えられた広大な敷地に屋敷を建てて住んでいて、秀吉殿が訪れたこともあったようですが、秀吉殿亡き後は屋敷の中に秀吉殿の御霊を祭っていたとか。
博多復興300年の明治19年(1886年)、宗湛の屋敷跡に博多の豊国神社が整備されました。
妙楽寺にある宗湛の墓。 |
博多小学校の裏手にある豊国神社/神屋宗湛屋敷跡。この場所は奈良屋町だが、その北側には神屋町という地名が残る。宗湛と無関係ということはないでしょう。 |
元は宗湛の屋敷に秀吉を祀っていたはずだが、いまや豊国神社の鳥居の陰に神屋宗湛屋敷跡の碑が置かれている。おまけに妙な柵があって、とても見にくい。 |
本興寺
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福岡市博多区中呉服町6-21
恵光院(燈籠堂)
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福岡市東区馬出5-36-35
利休釜掛けの松
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福岡市東区馬出3-1-1九州大学医学部構内(基礎研究A棟前、建物に向かって右手)
大同庵跡/古渓水
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福岡市博多区奈良屋町-4-25
豊国神社/神屋宗湛屋敷跡
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福岡市博多区奈良屋町1-17
(つづく)
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