青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

小さな小さな神さま・3

2025-04-07 01:59:18 | 小さな小さな神さま

「そこにおられるのはどなたですか」
 小さな神さまが驚いておりますと、盆地のちょうど真ん中辺りから、大きな石のようなものがズンと伸び出してきて、それがぱんと弾けました。するといつの間にか、大きなお美しい青年の神が、小さな神さまの目の前に立っておられました。
「これは失礼をしました。あなたがこの盆地の神でいらっしゃいますか?」
 小さな神さまは、突然の訪問の非礼をわびるとともに、ご自身のお名前とご身分を名乗られ、簡略に要件を述べられました。盆地の神は、小さな神さまに、ていねいにお辞儀をされてから、自分の名は大羽嵐志彦の神であるとおっしゃいました。
 大羽嵐志彦の神は、青年のたくましいお姿に似合わぬ、乙女のように清楚なお顔立ちを、そよがせるようにほほ笑まれ、おっしゃいました。
「にんげんを育てられるのですか?」
「はい、ここでこうして拝見して、ぜひに欲しいと思いました」
 小さな神さまは、力強くおっしゃいました。大羽嵐志彦の神は、ほほ笑んだまま、少し困ったように眉を寄せられました。
「しかし、難しいものですよ。最初のうちはかわいいのですが、そのうちいろいろと小理屈を言うようになります。神のことなどおかまいなく、勝手なことをやり始めたり、あれこれと我がままばかり申したり……。近ごろでは、よほど無茶な悪戯もするもので、やれやれ、ほとほと困り果てておりますよ」
「そうはおっしゃいますが、どうしても育ててみたいのです」
「最初はみな、そうおっしゃるのです。あまりにかわいいのでね。しかしそのうち、かわいいだけではすまなくなるのですよ。生半可ににんげんを育てようなどとは、お思いにならない方がよろしい。一度ご自分の土地にお帰りになって、よくよく考え直した方がよろしいかと」
 大羽嵐志彦の神はおっしゃいましたが、小さな神さまのご決心を変えることはできませんでした。
「いや、にんげんがわたしの谷に来てくれるのなら、どんな苦労もいといません。どうか、少し分けてはくださいませんか」
「ああ、それは、いけません」
 大羽嵐志彦の神が、にべもなくおっしゃるので、小さな神さまは驚かれました。
「なぜ? わたしは御礼に差し上げられるものを、何も持っていないわけではないのですよ?」
 すると大羽嵐志彦の神は、ますます困った顔をなされました。
「いや、違うのです。これには……」
 と、その時でした。下の盆地の方から、何やらちんちんと、かわいらしい音が響いてきました。
 小さな神さまが下をごらんになると、ちょうど盆地の真ん中の、木々に囲まれた広場のようなところで、にんげんたちが集まって、にぎにぎしく騒いでおりました。
「おや、あれは何でしょう?」
「ああ、あれは祭の練習をしておるのですよ」
「まつり?」
「年に二度、春と秋、わたしの社ににんげんどもが集まって、舞い歌いながら神と遊ぶのです」
「ほう……」
 小さな神さまは、感心なされて、祭の様子をしげしげとごらんになりました。社の前庭には、白い石を一面に敷きつめてあり、その中で、愛らしく着飾った稚児や乙女や若者たちが、歌ったり、鈴を振ったり、笛を吹いたりなどして、楽しげに笑っておりました。
 それを見ているうちに、小さな神さまは、なぜ盆地の神がいけないとおっしゃったのか、ようやく分かりました。
 にんげんたちが、歌い踊るたびに、その小さな体の奥が、ちらり、ちらりと、炎がひらめくように震えて光るのが見えるのです。よく目をこらしてごらんになると、それらはみな、小さい小さい光の核でした。
 核は、貝の中に秘められたくず真珠のように、それぞれにみな微妙に違う形や色をして、にんげんたちの小さな命の社の奥に、大切に守られていました。そしてそれらの核の前には、全て、蜜のようにとろりと金に光る、美しい滋養の滴が、一つ一つ餅を供えるように、配られていました。
 にんげんたちが歌い踊ると、核の中に金の餅が転がり込んで、それは鈴のように快い音をたてるのです。
(ああ、なんという音だろう……)
 小さな神さまは、お身の上を洞の冷風に拭われるような、驚きを感じられました。なぜならそれは、小さな神さまには、それまでに聞いたこともないような、何とも不思議な音だったのです。
「……やあ、皆で歌っている。輪を囲んで踊っている……。なかなかに良い技ではないか。あれはあなたが教えたのですか?」
「種は植えてはやりましたが、後のことは少しずつ、あれらが工夫して考えました」
 大羽嵐志彦の神は、目を細めておっしゃいました。小さな神さまは驚きながらも、目を吸い込まれるように、再び祭の様子にお顔を向けました。
「おや、ひとり稚児が転んだ。おお、痛い痛い……泣いているぞ。おやおや、若者が抱き上げた……皆が集まってきた。おお稚児が笑った、笑った……なんと皆、仲の良いことだ……」
 小さな神さまは、はっとされました。そしてしばし、呆然と、言葉を失われました。
「にんげんとは、こころまでも、神のまねをするのか……」
 小さな神さまはお顔をあげて、大羽嵐志彦の神を見つめられました。大羽嵐志彦の神は、りんとしたお眉に、深い慈愛をたたえられながら、下界のにんげんたちの様子を、優しく、厳しく、ごらんになっていました。小さな神さまは、大羽嵐志彦の神が、いかにこれらのものを愛しておられるかを、理解されました。小さな神さまは深く恥じ入られ、大羽嵐志彦の神に許しを請われました。大羽嵐志彦の神は、笑ってかぶりを振られました。
「ああ、それにしても、かわいいものだ……。どうすれば、にんげんをわたしの谷へ呼ぶことができるでしょうか」
 小さな神さまがおっしゃいますと、大羽嵐志彦の神は、お眉の辺りに少々思案を乗せられながら、再びやわらかくほほ笑まれました。そして、東に遠くかすむ、青い山影を指さしました。
「あの山の彼方に、にんかなという四方を湖に囲まれた秀麗なる青峰があり、そこにおわせられるにんかなの神に、お頼みになるとよいでしょう」
「ありがとう。では早速訪ねてまいりましょう」
 小さな神さまは、再び深々と頭を下げられますと、懐から竜を呼び、それに乗って飛びたとうとされました。しかし、いざゆかんとする前に、大羽嵐志彦の神が呼び止められました。
「いや、待ちなされ。にんかなは遠く、途中にはいくつかの試練もございます。その水の竜だけがお供では、少々心もとない」
 言うが早いか、大羽嵐志彦の神は、口からプップッと小さな白、青、朱、三色の珠を吐き出されました。三つの珠はくるくると回りながら卵が弾けるように次々と姿を変え、いつしか目の前には大羽嵐志彦の神にそっくりで衣の色ばかりが違うお三方の神が立っておられました。
「我が分け身なる神、美羽嵐志彦、早羽嵐志彦、於羽嵐志彦。道案内にもなりましょうから、お連れになるとよいでしょう」
 大羽嵐志彦の神は、おっしゃいながら、くるくると手を回されました。するとお三方の分け身の神は、あっという間に元の珠にもどりました。
「いや、そこまでしていただいては……」
 小さな神さまは固辞しようとなさいましたが、大羽嵐志彦の神はうなずかれませんでした。
「あなたはご存じないが、きっとこれらの力が入り用になる時がまいります。どうぞお連れになってください」
 大羽嵐志彦の神は、お髪を一筋ほどいてしなやかな緒をこしらえられますと、三色の珠をその緒に連ね、小さな神さまのお首にかけられました。そこまでされると、もうお断りするわけにもゆかず、小さな神さまは、ありがたくその珠をいただきました。三つの珠は、小さな神さまの白い衣の胸に落ち着くと、ころころと涼しい音をたてました。
「ありがとう。ではいってまいります」
 小さな神さまは、一礼をなされると、青い竜に乗って、再び飛びたたれました。空は、あっという間に、希望を胸に灯した小さな神さまのお姿を、吸い込んでしまいました。大羽嵐志彦の神は、遠く空の向こうにお目を飛ばされながら、小さな神さまのために、ゆっくりと頭を垂れられました。

  (つづく)




 
 
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小さな小さな神さま・2

2025-04-06 02:14:14 | 小さな小さな神さま
 2

「谷はこんなにも美しく、満ち足りているのに、この胸の奥に、虚ろが小さなひび割れのように繰り返し生まれるのは、何としたものだろう」
 ある日小さな神さまは、いつものように山のてっぺんにお座りになって、自問されました。するとほほを触れてゆく風が、寂しげな笛のような音で、「悲しまないで」とささやきました。
「悲しんではいないよ。ただ少し考えているだけなのだよ」
 小さな神さまは、にっこりとほほ笑んで、答えられました。しかし、考えているだけでは何も分からぬので、通りかかった季節の雨雲の神を呼び止められて、お尋ねになりました。雨雲の神は、竜のように長い裳裾を空にひきずりながら、小さな神さまの方にお顔を向けて、お答えになりました。
「どうですか。にんげんをお育てになっては」
「にんげん?」
「にんげんは、育て方も難しいのですが、おもしろいものだそうですよ」
「ほう。それは姿が良いのですか? それとも声が良いのですか?」
「にんげんは、神のまねをするのですよ。上手に育てれば、詩歌を作り楽を奏でるようにもなるし、美しい町を造り、美しい庭なども造るそうですよ」
 それを聞いたとたん、小さな神さまのお目から、ぴょんと星が一つ生まれて、火花のように空中でぱちぱち弾けました。
「なんと、詩歌などを!? いや、それはたしかにもしろい!……して、どこにゆけば、にんげんを手にいれられますか?」
「さあ、どうか。にんげんを育てておられる神にお聞きになってはどうでしょう。ちょうど、あの東の山向こうの盆地の神が、にんげんをたくさん育てておりますよ」
「ありがとう。では早速訪ねてまいりましょう」
 小さな神さまは、大喜びで立ち上がられますと、深々と額を下げられました。雨雲の神は、かしこまりながら小さな神さまのお礼の心を受け取られ、やがて風を呼びながら、次の土地に雨を降らせるために、いってしまわれました。
 小さな神さまは、谷を見下ろされますと、ゆっくりと踊るような所作をなされ、滝の周りの水気を、くるくると糸を巻き取るように集められました。凝結した水気のかたまりに、小さな神さまが、ふっと息を吹きかけますと、風と水が瞬間渦のようにぐるぐるからみあい、それはあっという間に一匹の青い竜となって、小さな神さまの足元にかしずきました。
 小さな神さまはその竜の上にひょいとお乗りになると、さっそく飛び立とうとされましたが、その前に、思い出したように、あっと声をあげられました。
「おっといかん、忘れるところだった」
 小さな神さまが、片手でほほをぽっとたたかれますと、お口の中から、小さな白い珠がひとつ、飛び出しました。小さな神さまがその珠に向かって、「わがわけみなるかみ」と呼びかけられますと、珠は火花を放ってぱちぱち弾け、その中から、もうひと方の小さな神さまが、現れました。
「わたしは少し出かけてまいりますので、留守をお願いいたします」
 竜に乗った元の小さな神さまがおっしゃいますと、分け身の小さな神さまは、深々とお辞儀をして、「かしこまりました」とおっしゃいました。
「よし、これでよい。では竜よ、いこう」
と小さな神さまは、東の山のてっぺんをお指しになって、おっしゃいました。すると竜は、洞窟を渡る風のように深い声で「はい」と答え、兎が跳ねるように空に躍り出ました。そして高天を吹く風に乗って一気に東の空へと飛び渡ると、目指す山の上空で、竜はゆっくりと旋回して、やがて静かに頂に降り立ちました。
 小さな神さまは竜から降りられますと、またくるくると手を振って、竜を小さな水気の珠にして、懐の中へと隠しました。そして眼窩の盆地に何げなく目をやられ、その変わった様子に、目を見張られました。
 緑の中を、糸を張ったように、細く白い道が縦横に走っており、その間を、小さな箱のような家々が、川底にはりつくタニシのように、一面にびっしりと並んでおりました。緑の土地は、きれいに手入れをされて、しつけのゆき届いた木々や草花が、行儀よく肩を並べておりました。そしてそれらのものの透き間に、何やらノミのように小さいものが、あちこちできゃらきゃら声をたてながら、動き、騒ぎ、飛び跳ねておりました。
 よく見ると、その道や家々は、稚拙ではありますが、それなりにきれいに秩序だって並んでおり、小さいものたちは、愛らしい知性の萌芽を額に灯らせながら、愉快に笑ったり、手足を懸命に動かして働いたり、辻に立って自分の考えを披露したりしておりました。
「ほうほう……」
 小さな神さまはとても感心なさったご様子で、何度もあごを引きました。にんげんは神のまねをすると聞いてはおりましたが、ここまで似ているとは思わなかったのです。胸の奥で、ざわざわと騒ぐものがあり、小さな神さまのお心の中には、たちまちのうちに情愛がわき起こりました。それは小さな神さまを、今までにないほど幸福な境地へと誘いました。しばしの間、神様はまるで愛子を見つめる母のように、にんげんたちをうっとりと見下ろしておりました。
「おお、これがにんげんか! なんとかわいいものだろう! 盆地の神に、少し分けてもらえないかと頼んでみよう」
 するとその時、空気の一点を鞭打つように、すぐそばで声がしました。

  (つづく)





 
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小さな小さな神さま・1

2025-04-05 01:50:53 | 小さな小さな神さま

  1

 昔、どことも知れない深い深い山の奥に、小さな谷がありました。
 谷は、青々と、湿っていて、絹糸のようなせせらぎや、日の光に力強く盛り上がる緑や、たわわに実る木の実、梢や水辺を飾る色とりどりの花々などがあって、それは美しいところでした。
 せせらぎには、磨いた水のかけらのような透明な魚が、川底の石に紛れた珠玉のように息をひそめていたり、冠のような角をした鹿や、翅に瑠璃をはめこんだ蝶々などが、水を飲みに訪れました。樹上には品よく装いした小鳥たちが巣作りにいそしみ、枝々にはどんぐりを追いかける栗鼠が走りました。
「ああ、美しいなあ。こんなに美しいところは、きっとめったにないに違いない」
 さて、今、谷をおおうもやの向こう、小さな山のてっぺんに、ちょこんとお座りになって、ため息を深々とつきながら、谷を見下ろしておられる小さなお方は、いったいどなたでしょう?
 きらきらしいお顔立ちに、穏やかでやさしいほほ笑みをうかべ、豊かとは言えませんがやわらかくつややかなお髪を、ちんまりと角髪にまとめておられます。赤子のようなお姿をなさってはおりますが、このお方は、この小さな谷をつかさどっておられる、りっぱな神さまでありました。
 この神さまのご本名は、大遅此芽稚彦の神さまと、おっしゃるのですが、ここでは単に小さな神さまと、呼ばせていただきましょう。
 小さな神さまは、しばし満足そうに谷をごらんになっておりましたが、やがてひょいと腰をお上げになると、ほんの一足で谷のせせらぎに降りられ、みぎわに咲いている小さな花に尋ねられました。
「野の花よ、風や光のぐあいはどうだい?」
 すると花は、恥ずかしそうに頭を垂れて、言いました。
「風も光も、ちょうどよいぐあいです」
「そうか。ここで花を咲かせているのは、どんなぐあいかな?」
「とてもうれしいことです。幸せなことです」
「それはよかった」
 小さな神さまは満足してほほ笑まれると、また一足で、今度は木の上の巣のほとりへとゆかれました。
「どうだい、卵のぐあいは?」
 小さな神さまがお声をかけられると、母鳥は、そわそわと翼を動かしながら、言いました。
「はい、順調です」
「そうか。ここで巣作りをして、どんなぐあいかな?」
「ここは暖かく、食べるものもいっぱいあって、子育てにはとてもよいぐあいです。赤ちゃんが生まれたら、ご報告にまいります」
「そうか」
 小さな神さまはうれしそうにうなずかれますと、すいと天に上られ、そのまま飛ぶように天を走ってゆかれました。
 小さな神さまは、谷の一番奥の、小さな滝のところへとゆかれました。その滝の向こうには、小さな神さまが最も丹精してこしらえられた、水晶の洞窟があるのです。
 滝は、頭上を深い緑におおわれた、つややかな黒い崖に、ほっそりとかかっておりました。小さな神さまが滝に近づかれますと、微細な水の粒がしっとりと辺りを包み、光が頭上の梢から射しこんで、小さな虹がいくつか、水気の中に遊んでいるのが見えました。そして、その薄衣のような帳を、小さな神さまがくぐられますと、辺りは急に夜になりました。
 暗く湿った洞窟のあちこちには、天井にも壁にも床にも、水晶の株が無数に植えこんであり、それは輝かしい昼の神を畏れて、星々がすべてこの小さな空洞に逃げこんできたかのようでした。滝がもたらす冷気が、ひえびえと辺りに満ち、微かな空気のそよぎが、水晶の内部に秘められた弦をやさしくかなでて、それは静かで、清らかな宇宙の水辺のせせらぎを思わせる涼しい音楽となって、小さな神さまのお耳を楽しませるのでした。
 洞窟の中央には、小さく平らな岩が横たわってあり、小さな神さまはそこをご自身の御座と決めておいででした。小さな神さまはその小さな御座にお座りになりますと、ひととき水晶たちの調べに御魂を泳がせ、やがて歓喜の息をおつきになりました。小さな神さまの吐息からは、時折小さな星のような光が生まれて、それはしばらくふわふわと空中を漂い、やがて水晶の柱の一つに、ひょいと吸いこまれました。すると水晶は、瞬間燃え上がるように青く光り、ぱちぱちと音をたてながら震えました。しばらくすると何もなかったかのように静かになりましたが、小さな神さまは、水晶の内部で、繭をほどくように先ほどの光がほぐされていくのを、ごらんになりました。やがてその小さな光の糸は、ゆっくりと再び織り上げられて、新しい水晶の株がまた、この世に生まれてくるのでしょう。小さな神さまは、そんな水晶たちのつつましやかな仕組みが、こつこつと行われていく様子を、目を細めながら喜ばれました。
「ああ、よい」
 小さな神さまは、おっしゃいました。すると、小さな神さまがそうおっしゃったとたん、谷じゅうの生き物が、同時に喜びに震えました。小さな神さまが喜んでいらっしゃる。それは谷の生き物たちにとって、この上ない幸せでありました。小さな神さまがこの谷に住んでおられ、にこにこと笑顔でいらっしゃる限り、この谷は永遠に平和で、美しくあることができるのです。ですから、この谷の全ての生き物は、今とても幸せでした。あまりにも幸せすぎて、小さな神さまが時々、ほんの少しの寂しさにお胸を染められることに、誰も気づくものは、ないほどでした。

   (つづく)





 
 
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2025-04-04 02:12:10 | 月の世の物語・後の歌

大陸のほぼ中央部に、台地状に盛り上がる山脈があった。連なる山々は裾に森を引きずりながら、それぞれにテーブルのように平らな頂上部を、天に向けて開いていた。
その山脈のふちの、少しとがった峰の大きな一つ岩の上に、今一人の聖者が立っていた。彼は黒檀のように黒い肌をしており、オーソドックスだが仕立てのよさそうな灰色のスーツを着ていた。黒い瞳から放たれる彼の視線は、山脈の下に広がる森の向こうの、原野にある青い水をたたえた湖にそそがれていた。気象を管理する精霊によって、その木々まばらな野と湖には定期的に雨が注がれ、湖がけして乾かないように、野の草木がみずみずしく、ちょうど良い具合に育つように、愛のこもった細やかな世話がされていた。

「精霊の管理は見事だ。天然システムのリズムを歌として感じて歌う。まさに、神はすべての存在の中に、甘くも豊かな素晴らしい真実を流し込む。ふむ」

黒檀の聖者は瞳に力をこめ、湖の一隅にある小さな人間の集落を見た。そこには、森の木で作った小さな船を頼りに、湖に出、骨で作った釣り針で魚をつり、湖の岸を耕してそこにパンのような味のする豆や野菜を育てて、暮らしている人間たちがいた。
まだ文明の明りを確かには知らぬ、原野の民族は、自分たちのことを、タロク、すなわち「わたしたち」という名で呼んでいた。

聖者は目を少し横にずらし、魔法の呪文を唱えた。すると、風景が、まるで変色したニスをはがされるように、その奥の真実の姿を見せた。青い光の点が、広い原野をまるですみれの花園にするかのように、あちこちに群れている。聖者は、その青い光が、すばらしく複雑な計算で組まれ、地に深く縫い付けられた、紋章を形作っているのを見て、感嘆の息をついた。ふむ。神の紋章はすばらしい。

聖者は快い笑いの声を、風に吐くと、言った。「これは確かに、あと五百年は見るに見られぬ。人類は、まったく、幸福だ。神はまことに、お前たちのために、なんでもして下さる」

黒檀の聖者は、幸福感と愛を深く感じながら、目を細め、もう一度、タロクの村を見た。そのとき、山の下の方から、誰かが登ってくる気配がした。目を下にやると、水色の制服を着た役人が一人、山を登ってくる。

「聖者さま、そろそろお時間が迫っています」黒い髪の白人系の顔をした役人は、黒檀の聖者の顔を見上げつつ言った。聖者は、「ふむ、そうか、ではいくか」と言って、峰を降りようと右手を振った。そのとき、聖者のすぐそばまで登ってきた役人が、少し驚いた表情を見せて、言った。

「聖者さま、その格好でいかれるのですか?」
役人の声に、聖者は右手の所作を止め、横目で彼を見つつ、言った。
「何か問題でもあるかね?」
役人は、聖者の灰色のスーツを見つつ、少し遠慮がちに言った。「その格好では、少し…、なんと申しますか、もう少し威厳のある恰好をしていただいた方が、その…」
「これでは威厳がないかね」
「ああ、その、たいそうすばらしいのですが、相手は文明国の民ではなく、まだだいぶ原始段階にある人間ですから、その、もう少し派手にしてみてはいかがかと…」
「なるほど」
そういうと聖者は、左手でパチンと指をはじいた。すると聖者はいつしか、灰色のスーツの上に、革製の上等なマントを着て、頭には、金の縁取りのついた、トルコ帽のような帽子をかぶっていた。マントの留め金は金とエメラルドを細工して美しい魚の形にしたものだった。
「ふむ。まだまだかな、羽根でもつけるか、いや、こうしよう」聖者はまたパチンと指をはじいた。するとその右目が金色に輝いた。「どうだね?」聖者が問うと、役人は苦笑いをしつつ、「とてもすばらしいです」と言った。

「よし、ではいこう」そういうと黒い肌に金色の右目をした聖者は、右手を振り上げ、風の中に飛び出し、峰を降りて原野の方に向かった。役人もそのあとを追った。

聖者は、原野の中で、一本だけひときわ美しい樹霊の気配を持つ大木の梢に、ひらりと降りた。役人も後に続いた。大木の根元から少し離れたところに、白い花をつけた野茨の茂みがあった。聖者は、ふむ、とうなずきながら、遠くから、精霊に導かれ、一人のタロクの若者が、ふらふらとこちらに近寄ってくるのを見た。

「彼の名は何と言ったかな?」聖者が問うと、役人は答えた。「パレ・アリ・ルツ…カケスのときの五日目の月という意味の名です。タロクは、原始的な太陰暦を使っていますので。カケスのときとは今の暦で、ほぼ六月に当たります」「要するに六月五日に生まれたのだな」「はい。呼ぶときは、アリと呼んでください」「うむ」

会話を交わしている間も、タロクの若者はだんだんとこちらに向かって歩いてくる。聖者はその若者の姿を見た。その姿は、ネグロイドの特徴が濃いが、肌は黒いと言うよりは褐色であり、胴が長く、体型はモンゴロイドに近かった。縮れた黒い髪を長く伸ばして、頭の後ろで奇妙な髷をつくり、それを木の櫛で飾っていた。獣皮で作った腰布をつけ、たくましい胸には、鳥の羽根と魚骨を細工したビーズを連ねた首飾りがあった。黒く大きな瞳は、何かをもとめて熱く輝いている。

「ほう。美しい」聖者が言うと同時に、若者は茨の茂みにたどりつき、そこによろよろと倒れこんだ。

「ま、まにまに、たる、と、くみ…」若者は茨の前に頭を下げ、うずくまりながら言った。それは「神よ神よ、わたしはここにきました、という意味の、タロクの言葉だった。

聖者は、数分の間、その若者を見つめた。若者が、茨の前で、神に対し、愛を捧げる、優れた動作をするのを、真剣に見つめた。そして、心の中で、よし、と言った。優秀だ。これならば、できる。

聖者は左手を上にあげ、ほう!と叫び、一陣の風を起こした。風は野の砂を巻き上げ、若者を取り巻いて一息の渦を巻いた。白い野茨の花が、かすかに香り、若者に愛を送った。野茨は彼にささやいた。

アリ、アリ、あなたはきょう、神に選ばれた。

若者は、かすかにその声を聞いた。精霊が彼の髪をなで、目の前にある大樹の上を見るように導いた。若者は自然に首を動かし、その大きな黒い目を大樹の上に向けた。なんと美しくも純真な瞳か。神の創造とはこういうものか。若くして使命を授かるものよ。愛しているぞ。聖者は、若者の素直な姿に、愛を掻き立てられつつ、心の中で思った。不覚にも涙が出そうになった。

若者は、大樹の上に、金色の光を見た。驚きのあまり、声が出ず、その姿勢のまま凍りついた。聖者は光の中から、ゆっくりと姿を現し、彼の瞳を見返した。若者は、その姿の、あまりにも不思議で、大きく、美しく、威厳があり、夜のような黒い肌に星のような金色の右目をしているのを見た。

聖者は重い声で若者に語りかけた。
「あなたは、神の使いの前にいる。礼儀をしなさい」

そうすると若者は、ふと我に返り、あわてて頭を地につけ、深い礼儀をした。聖者は若者の礼儀正しいことをほめ、続けた。

「パレ・アリ・ルツ、その呼び名はアリ、あなたは今日、神によって使命を授けられた。これから五十日の間に準備をし、妻と子供を連れて、湖より出る川を下れ。そして、七日間を歩き、初めてであったカケスの声を聞いたところに、家を作りなさい。そこにはあなたの子孫の楽園がある。木の実があり、ふしぎなきのこがあり、川からは魚がたくさん捕れる。庭を作り、妻とともにそこをたがやし、豆とばらを植えなさい。アオサギのときが来るまでに、すべてを終わらすように」

若者は、震えながら、金の右目をした神の使いの声を聞いていた。神の使いは、若者がその言葉を覚えるまで、三度同じことを言った。

「わ、わかりました。タル、タル、わたし、行きます。川下ります。つまこ、つれていきます」

若者は、地に額を擦り付け、震えながら言った。

「よし」と神の使いは言った。それと同時に、光は消えた。

若者は、神の使いの気配が消えても、しばしそこから動けなかった。彼の頬を涙が濡らしていた。すばらしい神の使いに出会えたことが、うれしくてならなかったのだ。金色の右目の神の使い、…マナ・カン・テクル、マナ・カン・テクル、と彼は繰り返した。

やがて、若者は精霊に導かれて立ち上がり、もう一度深く神への礼儀をすると、足元をふらつかせながらも、はやる心に追い立てられるように、村へと帰って行った。

大木の上から、彼の姿を見ながら、聖者は背後の役人に言った。
「なかなかにいい男だ。若いが、骨がある。良いものを選んだな」
「ええ、それは厳選いたしました。彼の使命は高い」
「これから彼は川下に向かい、そこで家を作る。やがて彼を追って、タロクの村から数家族が来る。そこで五百年をかけて、一つの部族を育てる。その部族の名はタロクではなく」
「はい、タロカナ…新しいわたしたち、という名になります。マナ・カン・テクルという名も、彼らの子孫に神話として伝えられるでしょう」
「よい名だ。おもしろい。神の御技はいつもそうだが」

聖者はそういうと、その風変わりな神の使いの姿を脱ぎ、元の灰色のスーツ姿に戻した。そして役人とともに少し上空に飛び上がり、若者がマナ・カン・テクルと叫びながら、村に向かっていくのを見た。

「さて、これでわたしの仕事は終わったな」
「はい、ありがとうございます。お手数をおかけいたしました」
「何のことはない。ふむ。上部の取り決めだ。若者や役人ではなく、我々が芝居をせねばならないのには、それなりのわけがある」
聖者と役人は言いながら風に乗り、野を離れて元の山の上に戻った。

聖者は再び、山の上から原野を見下ろし、呪文を唱え、目に力をこめて、大地に描かれた大きな青い紋章見た。それは、神が大地に描いた、守護の紋章であった。その紋章により、五百年は、あのタロクとそこからわかれた新部族は、ほかの人類に発見されることなく、この野で健やかに育てられる。聖者にはその紋章から香り立つ神の深い愛に感嘆せざるを得なかった。なんと美しいのか。紋章はどれもみな少なからず薔薇に似ているが、この複雑な紋章はまさに大地に描かれた巨大な薔薇の絵にほかならない。

「イングリッシュ・ローズ、か。ハイブリッド・ティもよいが。なんといったかな。その品種の名前」
「スノウ・アンダー・ザ・ムーンです」
「月下の雪か。清らかにも白い薔薇。人類はまさか、自分たちの生み出した薔薇の遺伝子が、改良因子として組み込まれ、新しい人類がここに生まれようとしているとは、思いもすまい」
「まさに、そのとおり。薔薇の品種改良も、神の導きでしょう。曰く、愛の遺伝子。アリはその因子を授けられたがため、自然に見事に、愛を行っていく。薔薇は愛の因子だ」
「ふふ。これより五百年の後、タロカナと現生人類の混血が始まる。タロカナ族の伝える因子は、罪業によって歪んだ現生人類の遺伝子を新たな方向に導いていくための、光となる」
「はい。それ以上のことは、神しかご存じではありません」
「われわれは、われわれのできることをするだけだ。しかし、なんとも、雄大だ。神の救いとは、こういうものか」

聖者は深くため息をつきながら、快い笑顔で笑った。人類の未来は、苦しくも、明るい。こうして、いくつも、何重にも、救いの種が、地上にまかれている。

聖者が役人に別れを告げ、姿を消した頃、アリは村にたどりつき、村の中を喜びに泣いて走り回りながら、神の御使いの名を叫び、使命を授けられたことを部族の人々に伝えていた。

「マナ・カン・テクル、右目が炎のような金だった。美しく、素晴らしい使いだった。タル、わたしはいく。川を下っていく。あいする、つまこ、つれてゆく!」

 
 
 
  (月の世の物語・全編終)







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2025-04-03 01:42:54 | 月の世の物語・後の歌

スティーヴン・ディラック博士は、書斎の窓のカーテンをあげ、外の空を見ました。灰色の雲が重くどんよりと立ち込めて、遠くに見える高層ビルのてっぺんが雲に触りそうなほどです。
「雨がきそうだな」博士はつぶやくように言うと、カーテンを閉め、明るい書斎を見回すと、戸棚に飾ってある小さな金色の光るメダルに目をとめました。それは、博士がこの世にて行ったすぐれた業績を評価するために与えられた、まぶしい勲章でした。見ようによれば、キリストの頭部を飾る薔薇の形をした光輪のようにも見えるその勲章を、博士は、しばし誇らしげに見つめました。

スティーヴン・ディラック博士は今年で八十四歳。豊かに実りを得た人生を今、ゆっくりと振り返ろうとしていました。
彼は若き頃から医学の道を志し、思い心臓病患者を救うために、新たな治療法や手術の方法の研究に一生を捧げました。彼の考えた新たな治療法によって、多くの心臓病患者が救われました。彼は、この道の権威として崇められ、新たな伝説として、医学の歴史に輝かしい名を遺したのです。

スティーヴン・ディラック、心臓病の救世主。

「よい人生だったな。ほんとうに、よいことができた。たくさんの人が喜んでくれた。わたしは、満足だ。素晴らしい人生だった」
ディラック博士は、ゆっくりとため息をつきながら、言いました。

そのときでした。外の方で、どろどろと雷鳴が響き、書斎の窓をびりびりとゆらしました。

ドン!と空が割れるような音がしました。

雷が、すぐ近くに落ちたようでした。その音は、ディラック博士の心臓をも揺らしました。博士は全身から力が抜け、床に吸い込まれるように、自分の体が力なく倒れていくのを感じました。博士は床に倒れ、またその床を通り過ぎても倒れ、いつしか、青い奈落の中を、まっさかさまに落ちていたのです。

なんなのだ! これは!

博士は声をあげました。周りを見回しても、青い色一色しか見えません。下を見ても底のようなものは見えず、博士はどんどん落ちていきます。何がどうなっているのかわからぬまま、誰かが博士の耳元で叫びました、「この愚か者め!」

ふたたび、どこからか、雷鳴が響きました。それとほぼ同時に、体全体が何かにどんとぶつかって、博士は苦痛にうめきました。するとすぐ近くから聞き覚えのある声が聞こえました。

「おっと。よし、計算通りだ」

博士は、しばしの間くるくると目を回していました。すると聞き覚えのある声が言いました。

「だいじょうぶですか。あまりこんな乱暴な魔法は使いたくないんですが、今、竪琴がつかえないもので」

めまいがおさまってくると、博士はそるおそる顔をあげて、声のする方を見ました。ああ、と、博士はほっとした息をつきました。
「あなた、でしたか。どうなるかと思った」
気がつくと博士は、人一人をすくい上げられそうな、大きな虫取り網の中に、すっぽりとはまりこんでいたのです。虫取り網の太い柄の端は、竪琴弾きの手に握られていて、その竪琴弾きは、竪琴に乗って、青い中空をふわふわと浮かんでいるのでした。

「あ、あなたが、わたしを助けて下さったんですね」ディラック博士がいう言葉を、聞いているのかいないのか、竪琴弾きは少し困ったような顔をして細いため息を吐き、言いました。
「今回はいろいろと頭をしぼりましたよ。罪びとにもいろんな人がいるもので、そのたびにいろいろと工夫をするのですが。ほんとはこんなことに竪琴を使いたくないんです。魔法が細やかに使えなくなりますから」

博士は、網の中から顔をあげて、青一色の周りを見回しながら、言いました。
「わたしは、死んだのですね」
「ええ、そうです。十五分ほど前かな。突然の心臓発作で。遺体はもうすぐ家族の人が見つけるはずです」
「ここはどこです? 月の世ですか? でもそれはおかしい。わたしは人々のために尽くす、よい人生を送ってきました」
「まったくもう、お忘れですか」

そういうと竪琴弾きは呪文を唱え、手元に書類を呼び出すと、右手をくるりと回して、博士を指さしました。とたんに、博士の、立派な白い髭をした風格のある聖者のような姿は消え、そこに、無精ひげと髪をだらしなく伸ばした、骨と皮ばかりの貧相な男の姿が現れました。男は背が低く、顔も奇妙に歪んでおり、衣服も、元の立派なスーツから、あちこちが破れて汚れたくたくたのみすぼらしい衣服に変わっていました。

「思い出しましたか? それがあなたの本当の姿です」
「わ、わたし…は…」
「いいですか? 最初の予定では、あなたは普通のサラリーマンとして生きるはずでした。ある小さな会社の経理係として。そして、人生の後半の二十年を、妻の介護にあてて、罪の浄化をするはずでした。あなたは前の前の人生で、妻を見捨てて殺していましたから」
「そ、そんな…、あ、あれはみな、夢だったと、言うのですか? わたしは、心臓手術に関して、画期的な方法をあみだした。すばらしい勲章をもらった。欲も少なく、人々に尊敬され、すばらしい人だと称賛を浴びた。わたしは、すばらしい人間だったのです。あれが、すべて、夢だったと…」
「ドクター・スティーヴン・ディラック」
竪琴弾きが、深いため息とともに言いました。

「あなたは生まれる前、怪と契約しましたね。本当に、あれほど言ったのに。あなたは、妻に尽くす人生など嫌だった。もっと輝かしい栄光の人生が欲しいと言った。全く、怪はよい仕事をしてくれました。あなたのために。いいですか。あなたがあみだした画期的な方法。それはあなたのものではありません。怪が、他人の頭から盗んできて、あなたに与えたのです。そして、あなたの方が、先に世間に発表してしまったため、あなたのものになってしまったのです。本当は、本当にそれをあみだした人が、あなたの人生を歩くはずでした。その人が、数々の人を助け、勲章をもらえるはずでした。しかし、あなたに盗まれてしまったため、その人は、医学研究の道をあきらめ、他の道に進みました。あなたは、こうして、他人から栄光の人生を盗んだのです」

博士は、呆然と聞いていました。今、まさに、まざまざと思い出したからです。自分の本当の姿は、これだと。あの、恰幅のよい、聖者を思わせる白髭の紳士は、すべて、怪が作り出してくれた、偽物の自分だと。

「…ああ、たしかに、あれは夢だった。ほしいものすべてを手に入れた。だが、すべて、うそ、だった…、ほんとうの、わたしは…」
竪琴弾きは、悲しげに笑いつつも、厳しく言いました。
「これからも、あなたの名は医学の歴史に輝かしく残ります。あなたの業績によって、助かる命も増える。あなたはすばらしいことをした。けれども、残念ながら、それはあなたの功として、計算されません。その一部は、もともとそれをあみだした人の元に流れてゆき、大部分は、神が預かります。そしてあなたには、重く、他人の人生を盗んだという罪が残る」

「浄化をせねば、ならないのですね。何をするのですか」
博士は、網の枠をつかみながら、ぼんやりと言いました。すると竪琴弾きは、言いました。
「こんなやり方は、好きではないのですが。許してください。竪琴が弾けないので、少し乱暴になります」

とたんに、虫取り網が、がくんと揺れたかと思うと、博士はまた青い中空に放り出され、まっさかさまに落ちていきました。悲鳴を叫びながら、何十分と落ちていったかと思うと、博士はいつの間にか、大きな舞台の上にいました。見ると、目の前に大きなグランドピアノがあります。博士はもとの立派な白髭の紳士の姿に戻り、ピアノの前に座っていました。黒い素敵なスーツを着て、胸には輝く薔薇の勲章がありました。観客席を見ると、そこには何千という観客がいて、あこがれと期待に満ちたまなざしで博士を見ています。

ピアノを弾くのか?と博士が思っていると、耳元に竪琴弾きの声が聞こえてきました。
「鍵盤をよく見てください。数字が書いてあるでしょう」
博士は、ピアノの鍵盤を見てみました。すると竪琴弾きの言うとおり、白い鍵盤に、0から9までの数字が書いてありました。黒鍵には、星や月や太陽や花などの形をした、妙な記号が書かれていました。
「それは一種の計算機です。使い方は、ピアノ自体が教えてくれるので、すぐにわかります。では次に、目の前の楽譜を見てください」
博士は楽譜を見ました。するとそこには、二行の数字の列がありました。
「その数字は、上が円周の長さ、下が直径の長さです。あなたはこの舞台で、観客の視線を浴びながら、円周率の計算をせねばなりません。観客は奇跡を望んでいます。あなたが、円周率を割り切るという、奇跡をなすことを、望んでいます」
「馬鹿な! 円周率など、割り切れるわけがない!!」
「それはどうか。とにかくやらねばなりません。あなたはとても有能な人。頭のよい人。すばらしい医学博士。できぬはずはないと、観客は思っています。さあ、始めてください」

博士は、震えながら、1の数字を押しました。ポンと、ピアノが鳴りました。とたんに、観客席から感動の声があがりました。
「ブラヴォ!」
博士は、その声に支配されているかのように、ピアノを弾き、計算を始めました。

π=3.14159265…

「ブラーヴォ! ブラーヴォ!」

358979…

「ブラヴォ! ビューティフル!」

32384626433…

「素晴らしい!奇跡の人だ!救世主とは彼のことだ!」

観客の声に、博士は叫びました。「やめてくれ!やめてくれ!こんなことできるわけがない!! 永遠に、永遠に、割り切れるわけがない!!」

「そうです。永遠に計算し続けなければなりません。あなたにはそれができると、みな信じているのですから」竪琴弾きのささやきが、耳にはいのぼってきました。博士は呆然としながらも、ピアノをひきつつ、計算をし続けました。ピアノの奏でる音楽はまるでめちゃくちゃで、聞いているとまるで脳みそをかき回されるようなめまいを感じました。それでも彼は計算し続けねばなりません。指が、まるで自分のものではないかのように動き、ピアノの鍵盤を次々とたたいてゆくのです。

832795028841971693……

「…だめです! むりだ!! こんなこと、できるわけがない!! やめてくれえ!!」

博士は、もうたまらず、ピアノの鍵盤を、ばんと叩きました。するといっぺんに幕が降りて、博士はいつの間にか真っ暗な闇の中に立っていました。何も見えませんでしたが、博士は自分が、元の貧相な自分の本当の姿に戻っているのを、感じました。

「やれやれ、もう音をあげましたか」竪琴弾きの声がどこからか聞こえてきました。

「いいですか? あなたはすばらしい人なんです。地球世界では、あなたの名前は、ずいぶんと長く残ります。あなたは人格の高い人として尊敬され続ける。多くの学生があなたにあこがれ、あなたに続こうと、医学の道を目指します。だが」
「…そうです。みんな、うそです。わたしは、いやおれは、立派な人格者なんかじゃない。すべては、芝居なんです。嘘の芝居なんです。みんな、怪にやってもらったんです…。ほんとうのおれは、ほんとうのおれは、とんでもない、馬鹿なんだ…」
「それを認めますか?」
「…はい」

博士だった男は、うつむきながら、ぼそりとつぶやくように、答えました。すると、前方から、かすかな光が見えてきました。

「なんですか?」と、博士だった貧相な男が尋ねると、竪琴弾きの声が闇の奥から答えました。「とにかく、その光に向かって、進んでください。ほんとに、こんなやり方は、好きではないんですが」

博士だった男は、竪琴弾きの声に導かれ、ゆっくりと、その光に向かって進みました。近づいてみると、それは、暗闇にきりこまれた小さな扉でした。扉は、病院などによくある白い扉に似ていました。その扉には、縦に長い長方形のすりガラスの窓があって、光はその窓から漏れていたのです。

「その扉を開けてください」竪琴弾きの声が聞こえました。博士だった男は、おそるおそる取っ手に手をかけ、扉を開けました。とたんに、たまらぬ悪臭が流れてきて、男は歪んだ顔を一層歪めました。光に目が慣れてくると、扉の向こうには、信じられぬ景色が広がっていました。

そこは、十九世紀くらいの古い町のように見えました。白い漆喰の壁の家が、なだらかな斜面の上にたくさん並んでいます。ずいぶんと大きな町のようでしたが、人影は見えず、ただ、家の壁も道もそこらじゅうが糞尿で汚れており、蠅が群がりたかっていました。腐った牛肉の塊も、あちこちに落ちていて、それには白いウジが無数にわいていました。

男が鼻をつまみながら呆然としていると、また竪琴弾きの声が聞こえました。

「あなたは、これから、この町を、ひとりで掃除しなくてはなりません。なぜならあなたが地球上でやったことは、こういうことに等しいからです。あなたは、腐った一つの町を、きれいに清めたのです。ですから、できぬはずはありません」
「そんな、そんなことを、やらなくちゃ、いけないんですか?」
「もちろん、そうです。もうあなたは、それだけの称賛を受けてしまったのですから。勲章もね。言っておかねばならないことは、この町ではもう、あなたの正体はばれています。一歩だけ、町に入ってみなさい」

男は言うとおり、町に一歩足を踏み入れてみました。とたんに、鞭のような風が彼の頬を打ち、つぶてのような声が彼の耳を刺しました。
「この恥知らず! よくもあんな嘘がつけたものだ!」
「なんてことでしょう。あの人、あんな人だったの?」
「だまされた。すごいやつだと思っていたのに!」
「馬鹿な奴。とんでもないものを盗んだ!」
「盗っ人め! けち臭い盗っ人め!」

男は周りを見回して声の主を探しました。しかし人影はありませんでした。ただ、風だけが何度も彼の体を打ち、見えない人間たちの罵りをぶつけるのです。

「盗っ人め! 馬鹿が盗んだ! おそれおおいものを、馬鹿が盗んだ!」

男は震え上がりました。凍りついたように、そこから一歩も動けなくなりました。竪琴弾きの声が、冷たく言いました。

「このように、あなたには、二通りの選択が与えられています。永遠のπの計算、そして、糞尿の町の清掃。つまりは永遠の栄光と、永遠に似てはいるがいずれは終わりの来る、恥辱の労働。どちらに、行きますか?」

男は、糞尿にまみれた町を呆然と見ながら、黙りこみました。上を見あげるとそこにはフレスコ画のような明るい青が広がっていましたが、月は見えません。ただ遠い空の果てから、雷鳴が聞こえ、かすかに雲が光りました。竪琴弾きが、もう一度、言いました。

「どちらに、進みますか?」




 
 
 
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