気がつくと、周りは真っ暗でした。一瞬だけ、月の明るい森の風景を見たような気がしましたが、いきなり強い風が吹いて、何かでんぐり返りをするように、ぐるんと自分の体が回ったような気がしたかと思うと、いつの間にか、彼は真っ暗なところにひとり座っていました。周りを見回しても暗闇ばかりで何も見えません。地面はあるらしく、お尻の下に冷たい土の感触を感じました。自分はどこにいるんだろう?と彼は考えました。確か、少し前まで、両親と妹だけの、さみしい自分の葬式を眺めていたはずだが。
「はあい」と後ろから女の声がすると同時に、暗闇の上の方に不思議なランプがともりました。男が振り向くと、そこに、抜けるような白い肌をした、長い黒髪の美しい女が、ランプの光に照らされて立っていました。男は目を見開き、うっと、言葉を喉に詰まらせました。女は微笑みながら歩いて男の前に回ってくると、言いました。
「おひさしぶり。待ってたのよ、ずいぶん」
女は意味ありげに微笑んで、男を横目で見ました。この目つき、どこかで見たことがある、と男がそう思ったその途端、彼の中で、電気が弾けるように記憶が符合しました。彼は驚きのあまり、あっ、あっと声を詰まらせつつ、女を指差しました。混乱した頭の中で、彼はここから逃げようと思いました。しかし、足が地面に接着剤でひっつけられているかのように動かず、立ち上がることもできません。男は目を皿のようにして女を見つつ、叫びました。
「…あ、赤毛の!赤毛の!あの女ぁ!…あ、あんただったのかあ!!」
「ああら、うれしい。覚えていてくれたのね」
男は足を動かそうと必死にもがきました。しかし強い魔法がかかっているらしく、足が地面にひっついてどうしても立ち上がることができません。女は焦っている男の方にゆっくりと近づいてきて、彼の前に座り、その美しい微笑みを彼の顔に近づけつつ、甘い声でささやきました。
「いい勉強になったわ。痛いのね、鉄砲の玉って。ほかにもいろいろやってくれたけど」
「…いや、いやあの、す、すまなかった。あ、その、待ってくださいよ。まさか、まさかあれがあなただったとは、思わなかったんですう!」
女が一瞬形相を変えたので、男は許しを請うように、目の前で手を合わせながらしきりに頭を下げました。女は目を金色に光らせ、舌舐めずりをするように、言いました。
「ふうん、そうなの…」女は立ち上がると、男のいるところから数歩後ろに下がり、右手をさっと横に振って、杖を手の中に出しました。
すると男はまるで蛙のように青ざめて、震えあがりました。まずい、まずい、まずい、と心の中で繰り返しながら、周りをきょろきょろと見回し、彼は叫ぶように言いました。
「い、いつものやつ、どこだ!? おれを担当してるやつ。あの間抜けそうな栗毛のバカ、どこにいるんだよう! たすけてくれ、たあすけてくれえ!」男は泣きそうになりながら、動かない下半身を揺らして、何とか立ち上がろうとしました。でも、どうしても、足を黒い地面から離すことができません。女は妖しげに微笑みながら、男を見つめ、甘い声で言いました。
「…ねえ、あなた。あたしが、あんなことやられて、おとなしく黙ってる女だと、思った?」
男は、震えながら女の顔を見ました。天使のような白い顔が、それはやさしそうに美しく微笑んでいます。金の目はもう澄んだ緑の目に戻っていました。しかし男にはそれが鬼の形相に見えました。
「ご、ごめんなさい。すみません! し、知らなかったんです。も、もう殺したりしませんから、ゆ、許してください…!」
男は何とか逃げようとしながら泣きわめくように言いました。女はあごに指をあてて小首をかしげ、目を細めて微笑みながら、少し肩をすくめて「うふん」と言いました。男は目を見開いたまま、凍りつきました。
天使の微笑みをした女は、そこで瞬時に表情を悪魔に変え、空気を切るような呪文を唱えたあと、持っていた杖を振りまわし、こん、と高い音をたてて地面を叩きました。すると男の下の地面が割れ、ぎゃひっという悲鳴を聞いた思うと、もうそこに彼の姿はありませんでした。
そのときふと、かすかな風が女の頭の上を動きました。「…ああ!遅かったか!」という声が背後から聞こえました。女は振り向きながら魔法を解き、ランプと周囲の暗闇を消しました。すると月明かりの中に、栗色の髪をした青年が息を切らせながら立っていました。月光の差し込む明るい森の中で、栗色の髪の青年と女は向かい合ってしばし話をしました。
「ひとの担当する罪びとを、勝手に横からさらわないで下さいよ。それにこういう復讐は、道理に反することですよ」青年は困った顔をして女に言いました。すると女はしらじらと月を見あげて言いました。
「あら、そうだったかしら。でも彼がわたしにしたことに比べると、二十倍はやさしいと思うけど?」
「どこまで落としたんですか? 透き見しても見えない」
「腐乱地獄の十七階くらいにいるわよ。今頃は蟹にでも食われてるんじゃない?」
「うわあ!!」青年はびっくりして、急いで手元に書類を呼び出し、お役所に救助願いを出しました。
「さてと」と女は言うと、そこから飛び立とうとしました。青年はあわてて彼女を呼びとめました。「どこにいくんです? 罪の浄化願いは出して下さいよ!」
「必要ないわよ。もうわかってるから。山に行って黄水晶七千個作ってくるわ。…まあたねえ!」
そう言うと、古道の魔法使いは、ふわりと風に乗り、空の向こうに飛んで行ってしまいました。
腐乱地獄に落ちた男は、三日後になってようやく助けられましたが、体中を人食い蟹に噛まれて、それはひどい状態になっていました。青年は罪びとに癒しの術を施しながらも、言いました。
「いいですか? 何度も言ってるけど、女の人をいじめたり殺したりしてはいけませんよ。あなたはいつも、女性を憎んで手の込んだ意地悪ばかりするけれど、女性を甘く見てはいけません。時には、とんでもない女性に意地悪をして、死んでからひどい目にあうことがあるってことくらい、あなただって知ってるでしょう」
「は、はい…」男は、腐乱地獄がそれは恐ろしかったらしく、素直に言いました。
「も、もう二度と、やりません…」