青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-03-11 03:08:55 | 月の世の物語・余編第二幕

気がつくと、周りは真っ暗でした。一瞬だけ、月の明るい森の風景を見たような気がしましたが、いきなり強い風が吹いて、何かでんぐり返りをするように、ぐるんと自分の体が回ったような気がしたかと思うと、いつの間にか、彼は真っ暗なところにひとり座っていました。周りを見回しても暗闇ばかりで何も見えません。地面はあるらしく、お尻の下に冷たい土の感触を感じました。自分はどこにいるんだろう?と彼は考えました。確か、少し前まで、両親と妹だけの、さみしい自分の葬式を眺めていたはずだが。

「はあい」と後ろから女の声がすると同時に、暗闇の上の方に不思議なランプがともりました。男が振り向くと、そこに、抜けるような白い肌をした、長い黒髪の美しい女が、ランプの光に照らされて立っていました。男は目を見開き、うっと、言葉を喉に詰まらせました。女は微笑みながら歩いて男の前に回ってくると、言いました。

「おひさしぶり。待ってたのよ、ずいぶん」
女は意味ありげに微笑んで、男を横目で見ました。この目つき、どこかで見たことがある、と男がそう思ったその途端、彼の中で、電気が弾けるように記憶が符合しました。彼は驚きのあまり、あっ、あっと声を詰まらせつつ、女を指差しました。混乱した頭の中で、彼はここから逃げようと思いました。しかし、足が地面に接着剤でひっつけられているかのように動かず、立ち上がることもできません。男は目を皿のようにして女を見つつ、叫びました。

「…あ、赤毛の!赤毛の!あの女ぁ!…あ、あんただったのかあ!!」
「ああら、うれしい。覚えていてくれたのね」

男は足を動かそうと必死にもがきました。しかし強い魔法がかかっているらしく、足が地面にひっついてどうしても立ち上がることができません。女は焦っている男の方にゆっくりと近づいてきて、彼の前に座り、その美しい微笑みを彼の顔に近づけつつ、甘い声でささやきました。
「いい勉強になったわ。痛いのね、鉄砲の玉って。ほかにもいろいろやってくれたけど」
「…いや、いやあの、す、すまなかった。あ、その、待ってくださいよ。まさか、まさかあれがあなただったとは、思わなかったんですう!」
女が一瞬形相を変えたので、男は許しを請うように、目の前で手を合わせながらしきりに頭を下げました。女は目を金色に光らせ、舌舐めずりをするように、言いました。
「ふうん、そうなの…」女は立ち上がると、男のいるところから数歩後ろに下がり、右手をさっと横に振って、杖を手の中に出しました。

すると男はまるで蛙のように青ざめて、震えあがりました。まずい、まずい、まずい、と心の中で繰り返しながら、周りをきょろきょろと見回し、彼は叫ぶように言いました。
「い、いつものやつ、どこだ!? おれを担当してるやつ。あの間抜けそうな栗毛のバカ、どこにいるんだよう! たすけてくれ、たあすけてくれえ!」男は泣きそうになりながら、動かない下半身を揺らして、何とか立ち上がろうとしました。でも、どうしても、足を黒い地面から離すことができません。女は妖しげに微笑みながら、男を見つめ、甘い声で言いました。

「…ねえ、あなた。あたしが、あんなことやられて、おとなしく黙ってる女だと、思った?」
男は、震えながら女の顔を見ました。天使のような白い顔が、それはやさしそうに美しく微笑んでいます。金の目はもう澄んだ緑の目に戻っていました。しかし男にはそれが鬼の形相に見えました。

「ご、ごめんなさい。すみません! し、知らなかったんです。も、もう殺したりしませんから、ゆ、許してください…!」
男は何とか逃げようとしながら泣きわめくように言いました。女はあごに指をあてて小首をかしげ、目を細めて微笑みながら、少し肩をすくめて「うふん」と言いました。男は目を見開いたまま、凍りつきました。

天使の微笑みをした女は、そこで瞬時に表情を悪魔に変え、空気を切るような呪文を唱えたあと、持っていた杖を振りまわし、こん、と高い音をたてて地面を叩きました。すると男の下の地面が割れ、ぎゃひっという悲鳴を聞いた思うと、もうそこに彼の姿はありませんでした。

そのときふと、かすかな風が女の頭の上を動きました。「…ああ!遅かったか!」という声が背後から聞こえました。女は振り向きながら魔法を解き、ランプと周囲の暗闇を消しました。すると月明かりの中に、栗色の髪をした青年が息を切らせながら立っていました。月光の差し込む明るい森の中で、栗色の髪の青年と女は向かい合ってしばし話をしました。
「ひとの担当する罪びとを、勝手に横からさらわないで下さいよ。それにこういう復讐は、道理に反することですよ」青年は困った顔をして女に言いました。すると女はしらじらと月を見あげて言いました。
「あら、そうだったかしら。でも彼がわたしにしたことに比べると、二十倍はやさしいと思うけど?」
「どこまで落としたんですか? 透き見しても見えない」
「腐乱地獄の十七階くらいにいるわよ。今頃は蟹にでも食われてるんじゃない?」
「うわあ!!」青年はびっくりして、急いで手元に書類を呼び出し、お役所に救助願いを出しました。

「さてと」と女は言うと、そこから飛び立とうとしました。青年はあわてて彼女を呼びとめました。「どこにいくんです? 罪の浄化願いは出して下さいよ!」
「必要ないわよ。もうわかってるから。山に行って黄水晶七千個作ってくるわ。…まあたねえ!」
そう言うと、古道の魔法使いは、ふわりと風に乗り、空の向こうに飛んで行ってしまいました。

腐乱地獄に落ちた男は、三日後になってようやく助けられましたが、体中を人食い蟹に噛まれて、それはひどい状態になっていました。青年は罪びとに癒しの術を施しながらも、言いました。
「いいですか? 何度も言ってるけど、女の人をいじめたり殺したりしてはいけませんよ。あなたはいつも、女性を憎んで手の込んだ意地悪ばかりするけれど、女性を甘く見てはいけません。時には、とんでもない女性に意地悪をして、死んでからひどい目にあうことがあるってことくらい、あなただって知ってるでしょう」
「は、はい…」男は、腐乱地獄がそれは恐ろしかったらしく、素直に言いました。

「も、もう二度と、やりません…」


 
 
 
 
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2025-03-10 03:11:39 | 月の世の物語・余編第二幕

白い雪花石膏のような月が、森の梢の上を転がっていました。月明かりのため、星はいくらも見えず、ただ天頂から少し西寄りに傾いたあたりに、二つの一等星がかすかに光って見えます。

二匹の白蛇は、細い声で愛の歌を歌いながら、夜の森をさらさらと歩いていました。木々がそれを喜んで涼やかな風を呼び、自分たちの歌を歌いました。森の隅に隠れているほんの小さな花も、見えない星のためいきのような、かすかな歌を歌っていました。

二匹が森のシステム管理を始めてから、どれくらい経ったのかわかりませんが、今のところ、特に変わったことはなく、森は静かに生きて、この地上でやるべきことをやり、歌うべき歌を歌っていました。森が守っている小さな鼠も、増えもせず、減りもせず、安定した数を保って生きていました。鼠は時々、きゅう、と小鳥のような声をたて、それが白蛇には、小さな宝石のような光を吐いているように見えました。それはまるで、大きな鍋に煮た星光のスープに、ほんの少し混ぜるシナモンの香りのようでした。その鼠が鳴くと、星光のスープはそれはよい香りを放って、森全体に、心地よく甘い心が染みわたり、神の微笑みが森全体に切なくも強くふりかかるのです。

二匹の白蛇は、自分たちが管理を始めてから、森の天然システムが、特に変調もきたさず、順調にリズムを刻んで行われていくことに、静かな喜びを感じていました。

「いい夜だねえ、兄さん」前を行く弟が言うと、後ろを行く兄も答えました。「ああ、いい夜だ。歌が透きとおっている。美しい愛が流れている」双子の白蛇は、うれしそうに森を見渡しました。

そうしてしばらく、静かな喜びに二匹が浸っていると、ふと、どこからか変わった風の音が聞こえてきました。「おや?なんだろう」兄が言うと、弟も言いました。「おや?なんだろう」

風はまたたく間に森の方にかけてきて、森の梢に触れ、まるで女神の髪をかき乱すような音をたてて過ぎ去っていきました。それと同時に、月のある空に一瞬赤い絹をひるがえすようなオーロラが揺れ、かすかな鈴のような音を地上に落としたかと思うと、すぐに消えてしまいました。

二匹はしばし、茫然と空を見ていました。「一体なんだろうね」「本当に、なんだろうね」二匹が空を見ながら言うと、ふと、弟が何かの気配に気づいて、後ろを振り向きました。すると、そこにいるはずの兄の姿がないのです。弟は驚いて言いました。「兄さん!どこに行ったんだい?」すると、声はすぐに返ってきました。「何を言うんだ、わたしはここにいるよ。いや、それよりおまえこそ、どこにいったんだい?」「え?」

弟は、びっくりしました。今度は前の方を見てみましたが、そこにも兄の姿はありません。「兄さん、どこに行ったんだい?」「だからここにいると言ってるじゃないか。おまえこそ、どこに行ったんだ?」
そこに至って、二匹はようやく気付きました。兄も、弟も、同じ一つの口でしゃべっているのです。

ふと、周囲の樹霊たちがずいぶんと驚いて自分たちを見ていることに、二匹は気付きました。樹霊たちは彼らに、いつの間にか、二匹が一匹になっているということを、教えました。
「ええ?」と兄は言いました。「おやあ?」と弟は言いました。そう言えば、どちらも、同じ口でしゃべっています。「兄さん、兄さんはわたしみたいだね」「おまえ、おまえは、わたしみたいだね」一匹になった白蛇はきょとんとした眼で宙を見つめました。「「どういうことなんだろう」」と二匹は同時に言いました。そして彼ら、いえ彼は、呪文を唱えて、元の姿に戻ってみました。髪も肌も服も真っ白な美しい若者がひとり、そこに立っていました。ただ、胸飾りは、瑠璃でも、柘榴石でもなく、不思議な白い筋の入った紫色の石に変わっていました。それを見て彼は弟のように言いました。「何だろう?紫水晶だろうか。透きとおっているよ」すると彼は、今度は兄のように言いました。「ちがうよ、菫青石だろう。少し紫が濃いけれど」

「「なんでなんだ?」」ふたりはいっぺんに言いました。そして少し悲しくなりました。「弟よ、おまえはいなくなってしまったのかい?」「そんなことはないよ。わたしはここにいるよ。兄さん、兄さんこそ、いなくなってしまったのかい? あんなに、わたしたちは、いつもいっしょだったのに」「ああおまえ、わたしはいるよ。ちゃんとここにいるよ。いつもいっしょにいるよ」

二人は会話を交わしていましたが、樹霊たちからみると、それは一人の人間が二役の芝居をしているように見えました。兄の言ったことも、弟の言ったことも、胸に菫青石の飾りをつけた、一人の精霊が言っているのです。

しばらくの間、一人の白い精霊は、黙って森の中に立っていました。互いに互いを失ってしまったような寂しさが胸を浸して、目からほとほとと涙が流れました。精霊は、ああ、と重い息をついて、頭の重さのままにうつむきました。風がまた森の上をなでて行きます。誰かに呼ばれたような気がして、二人、いえ一人の精霊は静かに顔をあげて上を見ました。するとそこには、それは大きな白い蛇神が、森の梢の上に軽々と寝そべり、細やかな綿毛のような白い光を放ちながら、静かにこちらを見下ろしていたのです。

神を見て驚いた精霊は、慌ててひざまずいて拝礼しました。すると蛇神は、星の香りを放つ息をふうと吐いて、精霊を清め、言うのです。

「清くも白き精霊よ。汝は一人であったが、ある目的のためにあるときから二人となっていた。片方の名を、『いるもの』と言い、片方を、『いないもの』と言った」
精霊は驚いて、顔をあげました。蛇神は静かに続けました。「または、片方を『愛』と呼び、片方を『虚無』と呼んだ。二つのうち一つは本来ないものであったが、仮にあるとしていなければならなかったため、神は汝を二人に分けた。ゆえにこれまで汝は二人であったが、鍵の方向が変わったため、元の姿に戻った」
「そ、それはどういうことですか?」思わず、精霊は言いました。それはもはや二人ではなく、一人の声でした。

すると蛇神は蛇の顔でかすかに微笑み、言ったのです。「汝は、この世界を助けて行くに必要な一つの生きる紋章の一つであった。神は心清き汝を選び、一人を二人に分け、あり得ない双子として存在させ、苦しき世界を創造しつつ営んでゆく神の御計画のための、ひとつの灯として働いていたのだ。汝は神のため、そしてこの世界のために、いかにも大切な仕事をしていた。そしてその役目が、今日、終わった。よって汝は元の姿に戻った。白くも清き精霊よ。新しき名が、汝に授けられる」

すると蛇神は、精霊にしか聞こえぬ声で、精霊に新しい真の名を教えました。精霊は驚きました。そして言いました。「ああ、世界は、世界はそういうことになっていくのですか?」
すると蛇神はまるで月に溶けるようにやさしく微笑み、静かに「そうだ」と言いました。

精霊の心の中を、歓喜が踊りました。「ああ、そうなれば、なんとうれしいことでしょう。なんという美しい希望でしょう。神よ、御身のためにこの身がお役にたてたことをうれしく思います。ありがとうございます」そういうと精霊は、深く神に頭を下げました。そして精霊が再び顔を上げた時、蛇神の姿はもうそこにありませんでした。ただ、清らかな星の香りだけが、見えない薄絹をふわりとかぶせるように、森に漂っていました。

「ああ、兄さん」と精霊は弟のように言いました。「なんだい、おまえ」と精霊は兄のように言いました。「おかしいねえ、一人なのに、二人分しゃべってしまうよ」「そりゃあ何せ、本当に長い間、わたしたちは二人だったからねえ」「でも、一人だったんだね」「ああ、昔から、何となく感じていたよ、わたしたちは本当は一人なんだと…」「わたしもだよ…」

精霊は白蛇の姿になり、また森の中をさらさらと歩きながら、歌を歌いました。小さな鼠が、その前にまろび出てきて、キュウ、と鳴きました。この鼠の吐く小さな魔法の香りで、白蛇は小さくくしゃみをしました。それはたった一人のくしゃみでした。

「ああ、わたしは今、一つの愛なのだ」

一匹の白蛇は自分の中で、二人であった自分の心が、望遠鏡の焦点が合ってくるように、だんだんはっきりと一人に見えてくるのを感じていました。胸に暖かに燃える金の光が、喉を通り美しい愛の歌となって森を流れました。樹霊たちがそれを喜び、全てを賛美する歌を歌い始めました。

小さな鼠が、キュウと鳴き、かすかな星のため息を、吐きました。風が起こり、生きている天然システムが、歓喜に揺れて清らかな斉唱を、世界に流し始めました。それはこう歌っているのでした。

「世界にどれだけ多くのものがいようとも、存在するものはただひとつ、愛のみなのだ」。


 
 
 
 
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α

2025-03-09 03:11:34 | 月の世の物語・余編第二幕
 
季節は春から夏に移ろうとしていた。道端に灯る小さな花々も、星が点滅するように、消えては咲き、消えては咲きながら、季節の風に喜びの歌を混ぜてくれる。

篠崎什は、母に選んでもらった紺のチェック柄のシャツに、はき古したジーパンという格好で、いつもの散歩道を歩いていた。背中を照らす日の光が熱い。もうすぐ蝉も鳴きだすだろう。無精で伸ばしている髪が、汗で少し首にべたつくが、面倒なので彼は床屋には滅多にいかない。母に言われているので、髭だけは剃るが。

「こんにちは、什さん」後ろから声をかけられたので、振り向くと、そこに中学生になった、るみがいた。篠崎什は、笑って「やあ、こんにちは、るみちゃん」と答えた。彼女とは、初めて出会って以来、何度か近所で偶然に会い、いつの間にか、友達のように話をするようになった。二十以上も年の離れた友達だが。

るみは中学の制服を着ていた。半袖の白いシャツから出ている腕が細く、まだ子どものようだ。どんぐりのような丸い小さな目が笑って、嬉しそうに什を見ている。るみは、什が好きなのだ。まだ小学生だったとき、本気で什に、「大人になったらお嫁さんにして」と言ったことがある。什は、子ども相手のことだからと、「ああ、いいよ」とよい返事をしたが、その約束を、るみはまだ半ば本気にしているようだ。まあ、大人になれば、気持ちは変わるものだから、いずれはそんな約束も自然に消えていくだろうが。
とにかく、什の数少ない友人たちの中では、るみは最もかわいい友人だろう。実際、この近所で、什に話しかけてくれる人間は、母をのぞいたら、るみだけだった。

「もう学校は終わったのかい?お昼前だけど」什が問うと、るみは什の隣まで走ってきて、一緒に歩きながら言った。「なんか先生たちの大会みたいのがあるらしくて、今日の授業は三時限で終わったの。家に帰る前に、こっちに来ちゃった。この前貸してもらった詩集、返さなくちゃいけないし」「ああ、それならいつでもいいのに」

什は、明るい日差しの中を、いつものように一人で散歩していたのだが、こうして今日はなんとなく、るみといっしょに散歩をするような感じになってしまった。るみは黙って什についてくる。什もべつに何も言わず、歩いていく。この男には、この世界で生きて行くために必要な、ある種の動物的勘というものが全く欠けているのだ。るみがついてきても、べつになんとも思わない。他人が見たら、どんな誤解をされるかわかったものではないのに、そんなことは思いもしないのだ。ただ、今日の散歩は、いつもと変わった散歩になりそうだなと彼は思った。子ウサギみたいな女の子がひとりついてくる。それもなかなかに楽しい。

什は道端や、近所の家々の庭に植えられている花や、日陰の小さな林檎の木に目で挨拶をしながら、道を何度か曲がり、やがて狭い公園に入っていった。その公園の隅には、だいぶ樹齢を経た大きな楠の木が立っており、その下に小さなベンチがおいてあった。什は散歩の途中、時々そのベンチに座って一休みしながら、楠の木を見あげるのが、好きだった。この楠の木は深い知者で、いつも大切なことを什に教えてくれる。什がベンチに座ると、るみは少しの間おずおずとためらったが、スカートのひだをいじりながら、その隣にそっと座った。

涼しい風が吹き、梢がざわめく音がする。楠の木が何かを伝えようとしているのだ。木々は風でものを言う。木は何かを自分に伝えたいのだなと、什は感じた。いつもなら彼はそこで目を閉じ、ゆっくりと自分の心の中にある何かと話をして、楠の木の言いたいことを感じて、自分の言葉に変換するのだが、今日はとなりにるみがいるので、それもできない。楠の木もそれがわかっているのか、葉を一、二枚、はらりと彼の足もとに落とした。什はそれを見て、何か少し、妙な予感めいたものを感じて、ふと、ほう、と言ったが、それが何か分かる前に、るみが声をかけてきた。

「わたし、今、先生に教えてもらって、短編小説書いてるんだ」什ははっとして、あわてて答える。「…あ、ああ、そうか、文芸部だったね」「うん、短編ていうより、超短編ていうの? すっごく短いお話」「へえ、どんな話?」「ううん、まだちょっと下手で恥ずかしいから、言えない。わたしもいつか、什さんみたいな詩、書いてみたいな」「詩はみんな、人によって違うものだよ。君には君の詩がある。最初のうちは、真似でもいいけどね」「…うん。什さんて、花や木や石が好きなのね。詩集にそんな言葉がいっぱい出てくる」「うん」「あと、星も好きね。北斗七星の七つの星に、みんな名前があるなんて、わたし初めて知った」「…ああ、それ、暗記してるんだよ。ひしゃくの柄の先から、アルカイド、ミザール、アリオト、メグレズ、フェクダ、メラク、ドゥーベ…」「へええ、すごい!」「ミザールにはアルコルという伴星がある。よく見ると、ミザールの横に小さな星が寄り添って見えるんだ、兄弟みたいにね」「ふうん、どうして覚えたの?」「中学の頃に、天文に興味持ったことがあって、本をたくさん読んだんだ。それで、なんとなく覚えてしまった。星を見ると、なにか懐かしいような気持ちがして、昔からよく夜空を見ていた…」

什が言うと、ふとるみが黙り込んだ。白い中学カバンをさすりながら、何やら真剣な目をして、足元を見ている。什は特に気にするでもなく、楠の木を見あげている。木が何かを伝えようとしている。それは何だろう? と考えていると、突然、るみがいった。

「什さん、わたし、こ、この詩の意味、わかんないの。教えて」そういうとるみは、カバンの中から、この前什が貸した詩集を取り出し、しおりを挟んであったページを開いて、什に見せた。そこには白い紙に青っぽいインクで星のような文字が行儀よく並び、一瞬だが什はその文字が虫のように震えてうごめいているように見えた。るみの目が何かを訴えているように苦しそうなので、什は詩集を手にとってその詩を読んだ。

宵の方 天空に釘打たれた
銀のヴェガを見つめていた
あらゆる雲と風と真空を乗り越えて
今私たちは一本の光でつながっていた

沈黙の中でまなざしを交わす
見つめ合うだけですべてがわかるひとが
ほら あそこにいる

いつか
すべてのことを語り終えて
青い風の結び目がほどけたら
私はあのなつかしいひとの元へと
帰ることだろう

野の香り山の光海のささやきに染め上げて
空に語る人々の愛の歌を織り込んだ
広い翼をひるがえし

さしのべられたあなたの
ただ一本の指をたぐり
風を越え空を越え魂の岸辺を抜け

いつか帰ることだろう

なつかしいあの故郷へと

「ああ、これは…」什は詩の説明をしようとして、言いよどんだ。彼はよく、自分がこの世界の生き物ではないと感じることがあり、その苦しくも奇妙な望郷の心をこの詩に込めたのだが、そういうことをどうやってるみに説明したらいいのか、彼は思いつかなかった。正直に話してしまえば、気がおかしいと思われかねない。彼が詩集を見つめつつ、困っていると、突然、るみが言った。
「什さん、ヴェガに帰らないで」
什は、「え?」と言って、隣のるみを振り返った。るみは震えながら什を見ていた。目に小さな玉のような涙がにじんでいる。什はあわてて言った。「わたしはヴェガには帰らないよ。これは暗喩というもので、つまりはたとえという言葉の技術で、そのまんまの意味でとるようなものじゃない…」「だって什さん、時々、ほんとにどっかにいっちゃうような顔するんだもの、空ばかり見てるし」
るみは目に浮かんだ涙を手でぬぐいながら言った。什は何やらこの少女がかわいくてたまらなくなり、やさしく笑って、彼女に言った。「わかった。帰らないよ。ずっと地球にいる」「ほんと?」「ああ、ほんとだよ」什が言うと、るみは少し安心したようにほっとして、笑顔を見せた。

るみは、詩集を什に返すと、おなかがすいてきたからと言って、小さく手を振ると、急いで走って家に帰って行った。楠の木の下のベンチで、什は去っていくるみの背中を見ながら、女の子はかわいいなと思った。思っていることを、素直にはきはきと言うるみのおかげで、什はだいぶ他人と話すのが上手になっていた。

るみの姿が見えなくなると、ふと、また楠の木の梢がざわついた。什は上を向き、その梢の音に耳を浸した。一瞬、彼の目の色が変わったが、それに気付いたのは、今、彼の目には見えない誰かだけだった。熱い風が吹いた。太陽は正午の位置を少し過ぎていた。什は声をあげずに「ああ」と胸につぶやいた。まばたきをして目を閉じ、再び開けた時、いつの間にか空が真っ赤になっていた。夕暮れ時でもないのに、まるでピジョンブラッドの紅玉を液体にして染め抜いたような赤い空が広がっている。

…ああ、きた。

と、什は思った。なぜかはわからない。けれども、それは遠い昔からの約束事だったような気がした。一瞬背筋が凍り、思いもしない涙が左目から滴った。何もわからないが、すべてはわかっている。什はベンチに座ったまま右手をあげ、天を指差した。すると真っ赤な空の天頂から、何か白いものが落ちてくる。什は目を見開いた。遠い空の果てから落ちてくるそれは、二羽の白い鳩だった。鳩は双子のように翼をそろえつつ、什をめがけて落ちてきた。什は逃げなかった。やっと、やっと来た。彼がそう思った瞬間、二羽の白い鳩は、頭から什の体の中に入り、彼の腹の底に熱い衝撃を起こして着地した。

意識はあったが、心も体も鉄のように重く動かない一瞬があった。什はめまいを起こして、しばしベンチの背もたれにつかまりながら、全身のしびれ感に堪えた。彼の中で光を切り裂くような直感が電流のように走った。それとほぼ同時に、彼は自分の中で嵐のように大量の言葉が二重三重の暗喩にくるまれながら荒れ狂っているのを感じた。書かねばならない! 彼はそう思い、めまいがおさまる前にふらふらと立ち上がって歩き出した。そして家に帰るや否や、昼食をとるのも忘れて書斎に閉じこもり、原稿用紙に、あふれださんばかりに頭の中で暴れている言葉を次々と書いていった。ペンを握る手が熱い。原稿用紙の上に焼きついた文字が時々、妙に動いているような気がした。あふれてとまらぬ言葉を、彼は次々に書いていった。頭の中の嵐の風がおさまり、言葉の泉が枯れ切るまで、書き続けた。どれだけの間書いていたのか。彼がすべてを書き終えてふと気付いた時には、夜を過ぎ、朝が来ていた。

什は時計を見て驚いた。五時前だが、夕方にしては外が静かすぎる。窓の外から朝鳥の声が聞こえる。机の端や床に積もった原稿用紙の量を見て、什はびっくりした。あれからずっと書いていたのか? 什はやっと母のことを思い出し、夕食はどうしたろうと、心配になったが、すぐにその思いは消えた。今はそれよりも大事なことをせねばならないと感じたからだ。什は書斎の窓を開けた。まだ日は上り切っていないようだが、空は明るかった。町は静かだ。まだ誰も目を覚ましてはいないようだ。だが什は、窓のすぐそばに植えてある庭木の後ろに、誰かがいるような気配を感じた。

ひとりだけではない、と什は思い、目を上げた。目には見えないが、なぜか百万の観衆の視線を今自分が浴びているような気持がした。什は、ほ、と思わず言った。什にはわからなかったが、彼はこう言ったのだ。「ああ、みなさん、きて下さいましたか」。何故にか、懐かしさに胸がつまった。什は微笑み、静かにもやさしく、何とも気品のある声で言った。

「みなさん、ありがとう」
すると、見えないたくさんの者たちが、ざわりと空気を動かしたような気がした。
「今日、ひとつの仕事を終えました。お願いいたします。鍵を、左に回して下さい」什が礼儀を正して頭を下げていうと、たくさんの見えないものがかすかな風を動かして、一斉にそこから飛びたっていった。もうすべてはわかっていたからだ。ただ、庭木の影にいる一人だけは、什のそばを離れず、そこに残っていた。

什はその庭木の影をみた。何も見えないが、見えない者は確かにいた。彼は役目として、什のそばを離れるわけにはいかなかったのだ。金髪青眼の聖者は、庭木の影でひざまずき、驚きを隠すことのできない目で、什を見ていた。什の背中で、大きな薄紅の翼が清らかな炎のように光りながら大きく天に向かって伸びていた。什の本来の姿が、彼の肉体と重なって見えた。金髪青眼の聖者は、什に向かって小さく、はぅ、と声をかけた。「あなたは、どなたなのか」という意味だった。その声は、一瞬沈黙した風によって、什の耳に届けられた。その意味はすぐにわかった。什の目はいつしか澄んだ空色になっていた。彼は人間とは思えぬ明るすぎる微笑みをし、小さくも確かな自信に満ちた声で言った。

「わたしは、オメガであり、アルファである」

そして彼は、明るい笑い顔を変えずに、上空のはるか彼方にあるものを見つめ、優雅な所作で右手を揺らし、人差し指をたててまっすぐに天を指差しながら、言ったのだ。

「これより、始まる」


 
 
 
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2025-03-08 03:13:43 | 月の世の物語・余編第二幕

「よう、おぼっちゃん、おれ貧乏なんだ。ちょっと金貸してくんない?」
髪を刺のように逆立てて、耳にピアスを三つ四つもつけた少年たち三人が、学校の近くの裏道で、ひとりの眼鏡をかけた少年を取り囲んで、にやにやと笑っていました。そのうちのひとりは、薄い灰色の目の周りを黒く塗って化粧までしていました。その顔が笑うと、それはまるで目を吊り上げた竜の怪物のようにも見えました。
「ぼく、ぼく、お金持っていません…」眼鏡の少年は灰色の冷たい壁にもたれ、カバンをしっかりと抱きしめ、震えながらも、返しました。すると化粧をした少年が、鼻息がかかるほど彼に顔を近寄せ、目をぎらつかせながら言うのです。「うそつけよ。たんまりもってたじゃん。休み時間に財布開けて札数えてたろう。見てたぜ。全部よこせよ!」「ここ、これは、だ、大事なお金で…」眼鏡の少年はカバンを抱きしめた手を強めながら、半泣きの顔で言いました。

彼を取り囲む少年たちは、神話や妖精話に出てくる怪物のように、舌舐めずりをしながら、彼の持っているカバンに手をかけ、それを引っ張って無理やり取り上げようとしました。眼鏡の少年はもちろん抵抗しました。するとカバンの留め金がばちんと弾け、中からたくさんの本やノートや筆記用具などがばらばらと落ちて道の上に散らばりました。三人のうち二人の少年が道に落ちたカバンの中身を探りましたが、財布らしいものは見つからず、化粧の少年は、ちっと舌打ちをすると、眼鏡の少年の胸ぐらをつかんで、ぐいとひっぱり、品のない罵声を眼鏡の少年の顔に浴びせました。そのときふと、どこからか強く胸に響く声が聞こえてきました。

「何してるんだ? そんなとこで」

少年たちは、一斉に、声のする方向に目をやりました。するとそこには、黒い巻き毛に青い目をした、肩の広いがっしりとした体躯の、美しい少年が立っていたのです。
「やべえ、ドラゴンだ」その少年の姿を見た途端、ピアスの一団は大慌てで逃げて行きました。眼鏡の少年は、ほっとしつつも、全身から力が抜けて、へなへなとそこに座り込んでしまいました。すると、黒い巻き毛の少年は彼に近づいてきて、言いました。
「大丈夫かい?」眼鏡の少年は、うつむいたまま、よわよわしい声で、答えました。「え、あ、大丈夫…」そうして、ほっと溜息をついて顔をあげたとき、黒い巻き毛の少年は、道に散らばった彼の本を黙って拾い集めているところでした。「いや、あ、ありがとう!」眼鏡の少年はあわてて腰をあげ、自分も道に散らばった本やボールペンを拾い集めました。

ふと、黒い巻き毛の少年は、何かに気付いたかのように、本の中の一冊を手に持って、しばし何か興味深げに見つめていました。それは小さな雑誌で、表紙には白い二羽の鳩の絵が描いてありました。黒い巻き毛の少年は、その本に何か強く引かれるようなものを感じたのですが、それが何なのかはわかりませんでした。眼鏡の少年は、雑誌の表紙を何やら真剣に見つめている黒い巻き毛の少年の横顔を見ながら、少しおっかなびっくりの声で、言いました。
「あ、そ、それ、詩の専門誌なんだ。ぼ、ぼくは、詩文が好きで…」「へえ、詩の…」「うん、ほんとは定期購読してる別の専門誌があるんだけど、その号だけは特別で、買ってきたんだよ。お、おもしろい特集があって」「ふうん、そうなのか…」言いながら、黒い巻き毛の少年は、集めた本を黙って眼鏡の少年に渡し、言いました。
「もう落ちてるのはないかな」「うん、全部拾ったと思う。あ、あの…」

用が終わったと思ったのか、何も言わずに去っていこうとする黒い巻き毛の少年を、眼鏡の少年があわてて呼びとめました。

「あ、ありがとう。助けてくれて…」すると黒い巻き毛の少年が、振り向いて言いました。
「いや、特に何もしてないし。別に気にしなくていいよ」
「あの、あの、ぼ、ぼくはアーヴィン、アーヴィン・ハットンていうんだ」眼鏡の少年が、勇気をふりしぼって自己紹介すると、黒い巻き毛の少年も言いました。「ああ、ぼくは、ドラゴン・スナイダー」
「知ってるよ。ハイスクールで君を知らない人なんていないから」
「まあ、珍しい名前だからね」
そう言うと、ドラゴンはアーヴィンに背を向けて、黙って行ってしまおうとしました。するとアーヴィンはあわてて彼を追いかけて、言いました。
「君の家、シヴェル地区だろう。ぼくも同じなんだ。わりと家が近くなんだよ。と、途中まで一緒に歩いて、いいかい?」
「うん?まあいいけど…?」
ドラゴンは別に気にもせず、アーヴィンと並んで歩き始めました。

歩きながら、アーヴィンは何やら嬉しそうに頬を紅潮させつつ、茶色の目をきらめかせてドラゴンに話しかけてきました。
「カ、カラテやってるんだってね?」「うん?ああ、親父がやってたから、小さい頃から習わされたんだ」「優勝したこともあるんだって?」「うん、二度くらいかな。ガキんときだけど」
アーヴィンは、ドラゴンの隣を歩きながら、弾む胸を抑えきれずに、言いました。「ど、ドラゴンて、す、すごい名前だよね。なんかぼく、好きなんだ、そういうの。どうしてそういう名前になったの?」するとドラゴンは、少々口の端を歪めて困ったような顔をしながらも、今まで何度も聞かれたことのあるその質問に、落ち着いて静かに答えました。「…ああ、親父がね、生まれたばっかりのぼくを抱いた時、言ったんだってさ。『こいつはドラゴンだ!』って。直感的にそう思ったんだってさ。それでドラゴンて名前になったらしい。おふくろは最後まで反対したそうだけど」「へえ、へえ、そうかあ」

アーヴィンはドラゴンと一緒に歩いているうちに、胸がうれしくてたまらず、歌でも歌いたくなってきました。彼にとってドラゴンはあこがれの人だったからです。その美しい容貌や変わった名前などが、詩作の好きな彼の想像力を痛く刺激して、一度でいいから、話がしたいといつも思っていました。そのチャンスが思いもしないときに振ってわいたように落ちてきて、彼はうれしくてなりませんでした。

「ぼくは、詩作が好きなんだ。読むのも書くのも好きだけど、今、ちょっと変わった詩人に凝っててね。外国の詩人なんだけど、おもしろいんだ。これなんだけど」
そう言うとアーヴィンはカバンの中からさっきの雑誌を出し、ページの端をおって印をつけてあるところを開き、ドラゴンに渡しました。ドラゴンは、あまり詩には興味なかったのですが、他人が気を悪くするようなことがあまりできない少年でしたので、その詩の雑誌を受け取りました。

「ここだよ、Camphor Tree。初めて読んだとき、なぜかすごいショックを受けた。なんだか言葉が弾丸みたいに胸に飛び込んで全身にしみ込んでくるようなんだ。好きで何度も読んでるうちに、暗唱できるようになってしまった。君はどう思う?」アーヴィンが、はしゃぎ気味に言うのに少し戸惑いながらも、ドラゴンはその詩を読んでみました。

Camphor Tree

この壁は
乗り越えられる壁だ
たとえどんなに難しい壁でも
無理にでもそう思うことだ
気持ちで負けてはだめだ

今はまだ力が足りなくても
いつか必ずそれを
乗り越えられる自分になる
そんな自分を信じることだ
そして一歩を踏み出すことだ
少なくとも
今何をやるべきなのか
やれるのか
考え始めるべきだ
背を向けてはならない

私があきらめたら
この世界はもう終わりなのだ
だからあきらめてはならない
そう思うことだ
背骨を千切られるような
心の痛みに出会っても
自分を見捨ててはだめだ

絶望と怠惰の沼に
自分の旗を捨ててはならない
それは乗り越えられる壁だ
乗り越えられる壁なのだ

読んでいるうちに、ドラゴンの目の色が変わって来ました。何か、熱いものに心臓をがっしりとつかまれたような気がして、彼の目は自然に詩人の名前の方に向かいました。

「…ジュウ・シノ…ザキ…?」「いや、それ、本当は、シノザキ・ジュウっていうのが正しいんだ。その詩人の国では、ファミリーネームの方を先に呼ぶのが習慣だから」「へえ、いいね、これ」「そうだろう!君ならわかるって思ってた!でも残念ながら、シノザキの詩は、これ一作しか翻訳されてないんだ。彼の国でもあまり売れてないらしい。かなり熱いファンはいるらしいんだけど、一部の批評家がすっごく汚い批評をするんだってさ。個人的感情むき出しって感じの。ぼくはとにかく、もっと彼の詩が読んでみたくて、書店に頼んで、原書を取り寄せてもらうことにしたんだ。辞書も買って、テキストも買って、自分で翻訳してみようと思って。その本を買うお金をとられそうになったところを、君に助けてもらった!」アーヴィンは財布の入ったズボンのポケットをなでながら、言いました。「…ふうん、そうか」ドラゴンは雑誌をアーヴィンに返しつつ、言いました。

「私があきらめたら この世界はもう終わりなのだ」

ドラゴンは、強く印象に残った一節を、暗唱してみました。何か、不安に似た熱いものが自分の胸で蛇のようにうごめくのを感じました。

ドゥラーーゴン…

彼はふとかすかな声を聞いたような気がして、振り向きました。風が一筋、彼の頬をなでて行きました。

ドゥラーゴンン、神の小さき竜よ…

一瞬、ドラゴンの目の色が変わりました。自分の中で、犬のように何かが吠えたぎっているような気がしました。心臓のあたりが熱くなり、正体のわからない生き物が、自分の頭の中でうごめきあばれているような気がします。しかしそれは、決して溶けない氷の檻の中にしっかりと閉じ込められて、自分の表面には決して出てこないのでした。

この感じ。時々感じる。何かの拍子に聞こえるんだ。あの声。…だれかが、ぼくを呼んでいるような…

「どうしたの、ドラゴン?」アーヴィンが、後ろを振り向いたまま動かないドラゴンに向かって言いました。するとドラゴンははっと我を取り戻し、アーヴィンの方を向いて言いました。「あ、いや、なんでもないよ」

二人で話しながら並んで歩いているうちに、やがて道は二人が別れていくところまでさしかかりました。ドラゴンは別れ際、アーヴィンに言いました。
「その詩、なんか好きになったみたいだ。今度、ノートに写させてくれないかい?」
それを聞いたアーヴィンの顔が、ぱっと喜びに明るくなりました。「いい、いいよ!なんなら、今持ってくといいよ、この雑誌、貸してあげるから!」「いいのかい」「うん、いいとも!」

アーヴィンはカバンを探って例の雑誌を取り出し、ドラゴンに渡しました。ドラゴンは礼を言いつつ、雑誌を受け取りました。
「あ、あの…」アーヴィンが、笑いながらも、どきどきする心臓をおさえながら、目を震わせて、ドラゴンに言いました。「…と、ともだちになってもらっても、いいかな、ドラゴン…」
するとドラゴンはいささかびっくりして、アーヴィンを見ました。アーヴィンは、まるで恋の告白をした少女のように唇を震わせて、ドラゴンの顔をじっと見ています。その顔にドラゴンはやさしく笑い返して、言いました。
「ああ、いいよ、ともだちになろう。えーと、ア…」
「アーヴィン、ぼくはアーヴィン・ハットン」
「そう、アーヴィン。ぼくは、ドラゴン・スナイダー」
アーヴィンは最高の笑顔をして嬉しさを現し、手を出してドラゴンに握手を求めました。ドラゴンはアーヴィンの手を握って、彼の喜びが自分に伝わってくるのが何やら快く、不思議な幸福感を感じながら、微笑みを返しました。

その夜、ドラゴンは、夕食後、自室の机で、例の詩を自分のノートに書き写しました。そしてそれを小さな声で読みながら、窓を開け、夜風に触れました。

「シノザキ・ジュウ」ドラゴンはその名を呼びました。するとまた一筋、何やら熱い風が、頬をなでたような気がして、彼は窓の外を見ました。空を見あげると、満月に近い月が、白く輝いています。一瞬、ドラゴンは目をきらりと鋭くし、窓の向こうをまっすぐに見ました。何かの気配を感じたのです。

ドゥラーゴン…

月光のわずかに混じった闇の奥から、彼はまた自分の名を呼ぶ声を、かすかに聞きました。

ドゥラーーゴンン…、神の小さき竜よ…

「誰だ。ぼくを呼んでいるのか?」ドラゴンは闇の向こうに眼を凝らしながら、小さくも鋭い声で、ささやくように言いました。

おまえは、やらねばならぬ…

そのとき、強い風が硬い板のように自分の体をたたくのを、ドラゴンは感じました。背後で、ベッドに立てかけてあったカバンが倒れる音が聞こえました。
乾いた荒い風が窓から入ってきたかと思うと、彼の部屋の中をひとあばれして、彼の耳にふっと小さな言葉を放り込んだ後、窓からばたばたと出てゆきました。

炎の竜よ…

ドラゴンは風に巻き込まれて足元がふらつき、一瞬意識を失って、気付いた時には床に倒れていました。目を開けると、天井がぐるぐると回るようなめまいを感じ、彼は再び目を閉じました。脳髄の中で、覚えてしまった言葉が、稲妻のように光を放ちました。

ワタシガアキアラメタラ コノセカイハモウオワリナノダ…

めまいがおさまって来ると、彼は頭を振りながら立ち上がり、窓枠に手をついてまた窓の外を見ました。しかし、闇の向こう、どこまで遠く視線を投げても、気にとまるようなものは何も見えません。ドラゴンは少し息を激しくしながら、胸の奥でつぶやくように、もう一度言いました。

「シノザキ・ジュウ…」

ドラゴンは窓から半身を乗り出して、月を見上げました。やらねばならぬことがある。その思いが、彼の腹のあたりで確かな形を取り始めていました。何を、何をやらねばならないのか? 何もわからない。だが、わかっているような気がする。

ドラゴンの瞳が、月の光を反射して、一瞬金色に光りました。

 
 
 
 
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2025-03-07 03:51:52 | 月の世の物語・余編第二幕

青墨色の空に、真珠のような月がかかっています。目の前には、果てしない砂漠が広がっています。どこまで歩いていても、空と月と砂漠のゆるやかな起伏以外のものは、見えません。わたしは、なぜかしら、いつのころからか、ここにいるのです。ああ、いやな風が吹く。生ぬるい風が、汚い砂を運んで私の目を汚します。わたしは目の痛さに涙を流し、しばし、子どものように声をあげて泣きます。でもその感情はすぐに、水が砂に吸われていくように、消えていきます。だってこんなのは、所詮、お芝居だからです。わたしはお芝居が上手でした。女優なんぞじゃありませんでしたよ。ただ、周囲の人をだます芝居が、とてもうまかったのです。
砂で目を痛めて泣くなんてことも、本当はお芝居。あまり痛くはありませんの。けれど、大仰に、痛い、痛いといって泣きわめいて、周りの人間を困らせるのが、わたしの趣味のようなものでしたから。誰も見ていないと言うのに、ついお芝居をやってしまいます。

風のない静かなときは、砂漠の砂は、まるで星空の星を全て砕いて作ったように、きらめいて美しく、手で砂を一すくいとって、よく見てみると、砂は本当に、小さな小さな一粒一粒が、星のように小さく光り、何かを言いたげに、かすかに震えているのでした。でもわたしは、誰の話を聞くのもいやでしたから、人間も含めて、誰もかれもが、いやでたまりませんでしたから、砂の声が聞こえる前に、それを捨てます。

そうですねえ。お聞きになりたいのなら、わたしの名を、教えてもかまいませんわ。あまり好きな名ではないのですけど。わたしの名は今、「いては嫌な者」と言います。それは、わたしという者がいるのを、皆が嫌がるからです。わたしは、何らかの重い罪を犯して、この砂漠に落ちたのですが、一体何をやったのかは、もう忘れてしまいました。覚えていてもしょうがないことですもの。ただ、わたしはこの、広い砂漠の中でひとり、いつまでもぼんやりとして、歩いたり座ったりするだけで、ほかには何もしようとはしません。確かわたしは重い罪を犯して、償いのためにここで何かをやらねばならないのでしたが、その記憶も薄らいで、一体何だったかしらと、思い出すにも、苦労するようになってしまいました。月日とはむごいもの。わたしはここにいて、一体何をしなければいけなかったのでしょう?

ほ、お知りになりたい?…そうですか。では、少々考えてみます。

…ああ、そうだ。わかりました。わたしは、この広い砂漠の砂粒を、一粒一粒数えて、全て数えた数を、神に報告せねばならないのです。この砂漠の砂粒の数を、全て数えることができ、その数が正しかったら、わたしは自分の罪を許されることになっているのです。

ふ、なんて馬鹿なことでしょう。こんな広い砂漠の砂粒など、数えられるわけがないではありませんか。もうずいぶん昔のことですけど、最初のうちは、小さなコップに砂を入れて、本当にまじめに、砂粒を数えていました。けれども、砂の数を、二百五十個まで数えたとき、もう馬鹿らしくなって、コップの中にためておいた数え終わった砂粒を、みんな砂漠の上にひっくり返し、こうしてひとり、なんにもせずに、ただ砂漠の中をさまよい歩くようになったのです。

…はて、わたしは一体、何をして、こんな砂漠にいるのでしたか?自分の頭に問うてみます。しかし記憶の奥を探れば探るほど、暗い闇が広がるばかりで、わたしは一切、自分のしたことを思い出せないのです。ただわかっているのは、わたしがいると、人間が嫌がる。そういうものに、わたしがなってしまったということだけです。なぜでしょう。なぜ人々は、わたしがいるのを嫌がるのか。そんなにいやなことをしたのでしょうか。もう一度、思い出してみます。ああ、でも頭をひねって考えようとすると、黒い闇が記憶の中の痛いところを、どうしても隠してしまうのです。たぶんわたしは、思い出したくはないのです。

思い出せと言いますか。厳しいことを言われますね。お聞きになりたいのですか? しかたありません。少し思い出すのに、時間をくださいませ。

わたしは考えつつ、砂の上を歩きます。すると、ふと流砂の中に巻き込まれ、足元がずぶりと砂に沈み、わたしは何かに引き込まれるように顎まで砂に埋まってしまいました。悲鳴をあげましたが、誰も助けてくれる人などおりません。わたしを見ているのは、あの月だけ。だれか、だれかわたしをここから、引っ張り出して下さい。…引っ張り出す? おや、気になる言葉だわ。何か思い出せそうな気がする。…ああ、そうです。わたしは人間として生きていたとき、産婆だったことがありました。よく、赤ん坊の親に、生まれてきた子を殺してくれと、頼まれたことがありました。なんて惨いことでしょう。生まれてきた子を事情があって育てることができないからと、殺して捨ててくれと頼まれたのです。もちろん、その礼はたっぷりといただきました。ええ、商売にしていたのです。わたしに頼めば、生まれてくる子を殺してくれると、ずいぶんと遠くから、わたしのところに来た女もいましたわ。なんてことでしょう。ああ、赤ん坊の声が、遠くから聞こえます。わたしは赤ん坊が産声を上げてすぐ、その鼻と口をふさぎ、窒息させて殺していました。それはもう、何人も、何人も。生涯のうちに、何人の赤子を殺したことでしょう。あまりにも惨い。ああ、本当に、惨い…

死んだ赤ん坊はみな、里の近くの山の中に、ぼろ布にくるんで、捨てました。それはもうたくさん、赤子を山の中に捨てました。あの谷は今どうなっているでしょう。誰にも見つかっていなければ、今も赤子の小さな頭蓋が無数の貝殻のようにあの谷の底に転がっていることでしょう。

わたしは目を閉じます。すると小さな夢が見えます。深い谷に捨てられた赤子の死体が土に溶け、そこから青い芽が出てきて、どんどん大きくなり、やがて一輪の赤い百合の花が咲くのです。赤い百合。見るだけで目が焼けてしまいそうな鮮やかに赤い百合の花が、谷のそこらじゅうに咲き乱れている。百合の奥からは、まるで赤いらっぱが音を吐くように、かすかな赤ん坊の泣き声が聞こえる。悲しい。なぜ殺したのか。なぜ殺すことが、できたのか。あまり、にも、むごい…

ああ、思い出しましたわ。わたしは、生まれるたびに、似たようなことをしてきました。たいてい、小さな子どもを殺したり、自分の産んだ子どもを売って金に変えたり、役立たずとののしって奴隷のように働かせた上、病気になると捨てたりしました。

あなたの心の中に憐れみはないのかと、誰かに尋ねられたことがあります。女が、なぜ子どもに、ここまで惨いことができるのかと。その人の顔は、うっすらと覚えています。確か黄色い服を着ていました。その人は何度もわたしに尋ねましたが、わたしは、別に何を答えるではなく、目を伏せて、じっとあらぬ方を見つめていました。いやだったからです。なんでこんなことをしたのかなんて、聞かれるのがいやだったからです。だってわたしは、誰よりもえらいんですから。みいんな、わたしより馬鹿なんですから。何を言ったって、他人にわたしの気持などわかるはずはないのです。

黄色い服を着たその人は、わたしに教えました。わたしが、やらねばならない罪の浄化を。わたしはそれを聞いたとき、愕然としました。わたしは、わたしがこれまで殺してきた子どもと同じように、子どものときに惨く殺されねばならないというのです。自分がやったこと、そのままの形で、何度も何度も殺されねばならないというのです。それを聞くや否や、わたしは、いやだといいました。いやです。いやです、そんなこと、絶対にいや!

なぜですって? どうしてお聞きなさるの? あなただって、こんなときは、わたしと同じことを言うはずだわ。他人が苦しいのや痛いのは別にかまわないけど、自分が同じ目にあって苦しむのは、いやなんです。痛いのや、苦しいのは、絶対にいや。当たり前じゃないの。

どうしてそんな顔でわたしを見ますの? おかしいわ。人間て、みんなそうじゃありませんか。他人は別として、自分が苦しむのは嫌だって、たくさんの人は言いますわ!

黄色い服の人は、わたしがあまりに嫌だ嫌だというのに、呆れてものも言えないという顔をしていました。そしてしばし苦しげに頭を抱えたあと、持っていた書類に何かを書き込み、長い時間がかかるが、そう痛くはない浄化の方法があると、言いました。
それがこの、はてしない砂漠の砂粒の数を、正確に数えると言うことだったのです。

わたしは、それなら、別に痛くないからいいと、思わず言ってしまいました。本当に、お馬鹿さんだわ。こんなに、こんなに広い砂漠だとは思わなかった。

要するにわたしは、永遠に、この砂漠に閉じ込められたのです。「いると嫌な者」と名付けられ。砂粒を数えきるまで、決して帰ってくるなと。お前などいたら嫌だと、誰もがわたしに言う者。それがわたし、「いては嫌な者」。

そうして今、わたしは、砂に埋もれたまま、ただじっと動くことができずにいます。時々砂が口に入って、ざらついた苦い味が舌を痛めます。両腕を動かして、何とか砂から出られないかと試してはみるのですが、砂が重すぎて、体を動かすことができません。どうしたらいいでしょう? ああ、誰か助けて。わたしを、ここから出して。

どこからか、風に乗って、かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえます。あれは、わたしの殺した赤ん坊の声でしょうか。…おや、よく見ると、いつの間にか、砂に埋もれているわたしの周りに、小さな白い毬のような、赤子のされこうべが散らばっています。わたしはびっくりして、思わず、ひい、と声をあげました。されこうべは、がらんどうの眼窩を一斉にわたしに向けながら、かすかな声で笛のような歌を悲しげに歌っています。その骨は、それぞれにみな、雪のように清らかに白く、美しい。

「おお、よしよし、おいで、かわいい子…」わたしは猫なで声で、されこうべを呼びます。彼らをなんとか利用して、砂から出してもらえないかと考えたからです。けれども、赤子のされこうべは、わたしの声を聞くやいなや、まるで嘔吐をもよおしたかのようなひどい声をあげて、次々と逃げ去っていくのです。

されこうべは、みな、わたしを見捨てて、あっという間に行ってしまいました。ああ、もう、わたしを助けてくれるものは、誰もいません。わたしは、永遠に、ここに埋もれていなければならないのか…。これではもはや、砂粒を数えることすらできない。どうすればいいのか。

いいえ、もう、考えるのはやめにしましょう。見上げれば青墨色の空に、真珠のような月がかかっています。目の前には、果てしない砂漠が広がっています。

わたしは、「いては嫌な者」。多分、永遠に、この砂に埋もれて、動けないまま、時を食べて行かなければならない。

満足されましたか。わたしの身の上を聞いて。ええ、誰かに言ってもかまいませんわよ。悪いことばかりして、自分のことだけしか考えない人は、こんな目にあうぞと。ふふ、でもわたしだって、言わせてもらうわ。あなたがどんなことをして、どんなうそをついているか、顔を見ればすぐにわかりますもの…。

ああ、誰もいない。わたしはわたしに向かい、女優のように芝居をしている。演じるのもわたし、それを観るのも、わたし。白い月が照りつけて、時々わたしの頭を刺します。少し時が経つと、わたしは風が運んでくる砂にすっかり埋もれてしまいました。闇の中に、どんどん深くとりこまれてゆきます。もう月も見えない。

だれでしたか? わたしは。そして何をしたのでしたか? 脳髄の中から、だんだんと記憶がはぎとられてゆく。暗い砂の中は、暖かく、わたしはまるで胎内に眠っている胎児のようです。なんとなく、わかるような気がします。きっとわたしは、胎児なのです。そしてきっといつか、生まれるのです。

静かな暗闇の時を噛んで食べながら、わたしは温かな砂の中で、眠ります。わたしがいつか、生まれたとき、母はどんなにかうれしい顔をして、わたしを抱いてくれるでしょうか。


 
 
 
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