青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2024-11-30 03:13:53 | 月の世の物語

愚者の行列が、草一本も生えぬ灰色の荒野を、鈴を鳴らしながら歩いていました。鈴はそれぞれの腰に結び付けられており、愚者は空高い月の光を浴びながら、水飴でもなめるように、しきりに口から舌を出しながら歩いていました。

老人がひとり、その様を家の窓から見ていました。その家には、少々魔法がかかっており、荒野にいる者には決してその家を見ることはできないのですが、その家の窓からはしっかりと荒野を見ることができるのでした。老人はもっている小さな磁器の器を、窓から外に突き出し、少し月光を汲んでから、それをお茶に入れて飲みました。荒野の月は、シナモンのきつい林檎茶のような味がしました。

老人の部屋には、一羽の白いオウムがいました。その目もくちばしも磨いた黒瑪瑙のようで、足には水晶の足輪をしていました。彼は老人の脇から窓の外をのぞき見て言いました。
「変わった行列ですね、見たこともない服を着てる」すると老人は、「どうやらだいぶ古い罪人のようだね」と答えました。

老人はお茶のカップを机の上に置くと、書棚の中から分厚い本を取り出し、ぱらぱらとめくりました。と、本の中のある一ページが、うす青い光をぼんやり放ちました。そのページを開いてみると、中で一つだけ、八文字の単語が青緑色に光っていました。老人は、「ほお…」と言いながら、眉を寄せました。「どうしたのですか」オウムは尋ねました。
「もう一万年は、ああして歩いているようだ。一万年前といえば、確か、とてもひどいことがあったんだよ。あの頃の人間は、神様のお気持ちも知らず、山ほど馬鹿なことをやっていたんだ」言いながら老人は本を書棚に戻し、窓のそばに戻りました。

「馬鹿なこととはなんです?」とオウムが尋ねました。老人は、「あそこにいる愚者はね、世界を三度滅ぼしたんだよ」と言いました。するとオウムは驚いて声をあげました。
「世界を三度も!? どうやったらそんなことができるんです?」老人は、答えました。
「遠い昔、神様が『世の救い』と名付けて世界の真ん中に植えた桃の木を、彼らは伐って、風呂釜の薪にしようとしたのだ。彼らは三度木を伐ろうとしたのだが、なぜか伐ろうとすると斧がそれをいやがり、三度とも、伐れなかったそうだ。」
「それだけですか?」
「その桃の木には、世界を愛する清い神がすんでいて、それがある限り人々は幸福に暮らせるというものであったそうだ。そういう神聖なものには高い魔法がかかっているものなんだよ。つまり人がその木を伐ろうとしただけで、伐ったことになり、すなわち世界を滅ぼしたことになってしまったのだ」

オウムは翼をバタバタさせながら窓から身を乗り出し、行列を見、それから空を見上げました。なんとも明るい月で、まるで白く燃えているようでした。「ちょっと見てきます」オウムはそう言って翼を広げ、窓から飛び出しました。

オウムは熱いとさえ感じる月光を浴びながら、藍色の空を旋回し、愚者の列に向かって低く降りてきました。すると愚者たちの行列はふと足をとめ、一斉にオウムを見上げました。ふうふうふう、ひやひやひやと、彼らはオウムを指さして笑いました。彼らの目も口腔も、まるで石炭をつめたように真っ黒でした。なにやら寒いものを感じ、オウムはあわてて老人のいる窓に向かいました。水晶の足輪をしていると、こちらからでもその窓を見ることができるのです。

あわてて帰ってきたオウムに、老人は言いました。
「愚者というのは、愚者というものであって、もう人間ではないのだ。あまりにも愚かなことをしすぎると、そうなってしまうんだよ」

一万年前の大昔、彼らが桃の木を伐ろうとしたのは、神々に嫉妬したからだそうでした。彼らは神々を世界から追い出そうと神殿を壊し、多くの人間を殺し、侮辱し、世界に凄惨な憎悪の嵐を呼んだのでした。そして彼らは暗闇の底あまりに深く落ち、愚者となって永遠に荒野をさまよわねばならなくなったのです。

「むごいですね。あの人たちは、許されることがあるでしょうか」オウムは聞いてみました。老人は、「さあ、永遠にも数種類あるからね。でもああして月の君が怒っている限り、許されることは無理だろうね」と、窓から月を見ながら言いました。

そして老人は月光のお茶を一息に飲み干すと、壁から一枚の絵を外すように、ゆっくりと窓を閉めました。





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2024-11-29 03:15:22 | 月の世の物語

暗く深い森の中を、ふたりは歩いていました。
「ずいぶんと奥ですねえ。これでは月も届かぬはずだ」ふたりのうちひとりは、二十歳を超えた青年のように見え、もう一人はまだ十二に届かぬ子供のようでした。子供は小さな瓶を持っており、それには月光を溶かしこんだ金色の酒が入っていました。その酒瓶は強い月光を放ち、その光を見ると畏れるように木々が枝を下げ、ふたりのために行く道をあけてくれるのでした。子供は酒瓶を掲げながら、青年に言いました。

「月が届かぬわけではないんです。彼のいるところには、闇のように濃い森の梢をすいて、一筋だけ月光が届くことになっているのです。でもその人は月光をいやがって、決して自分の穴から出てこないのです。あれやこれやとわたしもやってはみたのですが、どんなことをしても彼は出てこようとしないのです。このままでは…」
「あまりいいことにはなりませんね」青年は、子供の言葉を受け、続けました。「して、彼はいったい何をしてこんなところにいるのです?」

子供は、さも悲しそうに、「女人を、殺してしまったのです」と言いました。「彼は生前、ある高名な絵師の弟子でしたが、同じ弟子の中に、ひとり際立って才能の高い者がおり、それが女人だったのです。彼女は特に水に泳ぐ鯉の絵を描くのが上手く、まるで本当に泳いでいるようだと、よく皆に褒められていました。彼は外面はよき友人のふりをして、内心彼女の才能をひどく憎んでいました。そしてある夜、彼は酒の勢いで彼女に夜這いをかけ、無理やり辱めた揚句、井戸の中に放り込んでしまったのです」

青年は、ため息をつきながら額をもみました。女に嫉妬して殺す男など、数えきれないほどいるのを、年長の彼は知っていました。そしてこのように女性を苦しめすぎた男は、なぜか月光を嫌がる傾向があることも、知っていました。
「とにかく、どのように工夫しても、彼が月光を浴びようとしないので、もうどうしていいかわからず、こうして相談しているのです」子供がそういうと、青年は、目の前の枝を払いのけながら言いました。「お月さまの導きがありましょう」

そう言っているうちに、ふたりは森の奥の小さな池につきました。池の水面には、ただ一筋、細い月光がさし、池の水にきらきらと溶けておりました。子供は、「あそこです」と言いながら指さしました。それは池の向こうにある土手に開いた小さな穴でした。
「かわうその穴のようですね」と青年が言うと、「そうです」と子供は答えました。

男は今、一匹のかわうそとなって、池のふちの穴の中に棲んでおりました。耳を澄ますと、かすかに、「わたしではありません、それをやったのは、わたしではありません」とくりかえすか細い男の声が震えて聞こえました。

「かわうそさん、今日も来ましたよ。出てきてください」子供が呼びかけると、男の声は消え、ずるりと何かをひきずるような音が聞こえました。少し待ちましたが、かわうそは出てこようとはしませんでした。子供はふっと息を落とすと、光る酒瓶を、青年にわたしました。青年はうなずくと、池のそばにしゃがみこみました。そして瓶の栓をあけ、酒を一滴、池に落としました。そしてぶつぶつと口の中で何かを唱え、二本の指で酒のおちた水面をかきまわしました。するとそれは水の中でもやもやと大きくなり、やがて一匹の光る鯉が現れました。

鯉が泳ぐと、月光が雫玉のように跳ねまわって、森のあちこちを火花のように照らし、その光はカワウソの穴の中も照らしだしました。するとかわうそは、ひっと声をあげて、逃げるように穴から出てきました。かと思うと彼は、池に金の鯉がいるのを見て、きーっと、耳を裂くような悲鳴をあげました。なぜならその鯉は、あの女人の描いた絵の中の鯉、そっくりであったのです。

「おやまあ」と青年はいいました。「お月さまは悪戯をなさる」
「でもこれで、ようやく月光をあびてくれました」子供はほっと息をつきました。そして青年にいいました。「やり方を教えてください。あの鯉も寿命はそう長くないようですから。次からはわたしがやらないと」

わかっているというように、青年はうなずきました。


 
 
 
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2024-11-28 03:25:26 | 月の世の物語
 
そこは月星さえもない闇の中でした。そう遠くないところから静かな波の音が繰り返し聞こえ、濃い潮の匂いがまずい酒のように風に混じって流れていました。海があるのでしょう。こんなに波がうるさくては眠れやしないと、誰かが暗闇の中で考えていました。
「やれ、これもおつとめとはいえ、つらいものがありますな」
どこからか声がして、愚痴るように言ったかと思うと、何かぱちりとスイッチを押すような音が聞こえました。すると一瞬のうちに闇は消え、青空と砂浜、そして遠い海の風景が現れました。しかし太陽は見えず、もちろん月星もなく、空はまるで安物のペンキで塗った壁のようでした。

ひとりの竪琴弾きが、小さな竪琴を背負い、細い立木のように砂浜に立っていました。彼は足元に横たわっているものを見てしゃがみこみました。そこには半分砂にうずもれた白骨の死体がありました。竪琴弾きはポケットから不思議に光る月長石の玉を取り出し、それを頭蓋骨の空っぽの眼窩に押し込みました。「今日は右目にしましょう」竪琴弾きはそう言うと、「立ちなさい」と白骨に言いました。白骨は、ぎりっという音をさせながら苦しげに動き出し、やっと砂の上に半身を起して、重いため息をつきました。

白骨は、月長石の目で、久しぶりに見る世界を見回していました。竪琴弾きは背の竪琴を手に持ち、演奏の前のような姿勢をとりながら、いつものように先ずは白骨に尋ねました。
「さてあなたはなぜ、このように白骨のまま、永遠に砂に埋もれていなくてはならないのでしょうか」
竪琴弾きが聞くと、骨の女は風の混じる声でしぶしぶと答えました。
「自分の娘をふたり捨てたためです」
竪琴弾きは琴糸をびんとはじき、女の言葉につけたしました。
「そうです。まだ世間のことなど何もわからぬ少女をふたり、あなたは見知らぬ町の雑踏の中で見失ったふりをして、一片の迷いさえなく捨てて行ってしまいました。娘ふたりはあなたを泣きながら探していましたが、そこを性質の悪い男につかまり、娼館に売られてしまいました。ふたりのうち姉は若くして自ら命を絶ち、妹は散々働かされた揚句、使い物にならなくなると追い出され、孤独のうちに、路上で餓死しました」

風が、頭蓋骨の中をとおり、ひいというような音が響きました。白骨の女は、特に何も思わないという様子で、ぼんやりと空を見上げていました。
「母親だというのに、なぜあなたは自分の娘を捨てたのです。どんな女がそんなことをできるのかと、お月さまさえ怒っていらして、仕方なくわたしがこうして、ときどき月の光を持ってこなければならないのです」
白骨は口の中につまった砂をほじくりだすと、生きていたときとそっくりな言い方で、言いました。
「あんなもの、なんの役にもたたないんですもの」

「ほお!」と竪琴弾きは言いました。そしていましがた聞いたことを清めるように、竪琴を、びんと鳴らしました。白骨の女は続けました。
「全く、世話がかかるだけで、何にもできないんですもの。料理をやらせたって、そうじをやらせたって、何一つまともにはできないのよ。あんなばかなものはいらないんです。亭主が死んで、商売もだめになって、わたしひとり生きてくのさえ苦しかったのに、余計なものがふたりもいたんです。もういいでしょう。これくらいで」

竪琴弾きは何も言わず、しばし単純な旋律を繰り返し弾いていました。口元は笑っていましたが、帽子のひだの影に隠した瞳には怒りの色が見えました。やがて竪琴弾きは弾くのをやめ、すっと立ち上がりました。白骨の女は肋骨につまっている砂がとても重苦しいと訴えました。竪琴弾きはため息をつくと、黙って彼女の右目から月長石を取り出しました。するとまた、白骨は動けなくなり、貝殻のように軽い音をたてて砂の上にたおれました。

竪琴弾きは、竪琴を再び背負うと、これもつとめだといいながら、白骨を正しい形にきれいに並べました。そうしながら、白骨にささやきました。
「ここよりもっと深いところに落ちた罪人さえ、あなたのしたことは決してまねできないと言いますよ」
そして彼は立ちあがると、風の中の、自分にしか見えないスイッチを押しました。世界は再び暗闇となりました。竪琴弾きの気配はそれと共に消え、白骨は首を傾げるように倒れたまま、空っぽの頭の中でじんじんと考えていました。

(だれもなにもわかってないのよ)


 
 
 
 
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初恋

2024-11-27 03:26:52 | 月の世の物語

空は、トルコブルーのなめらかな板でできていました。行列は、その空に、両手に持った大きな吸盤を交互にはりつけながら、行進していました。足に触れるものは何もなく、みな空にぶら下りながら進んでいました。互いを命綱で結びあい、空を這うように進んでいく行進は、下から見ると、空をゆっくりと泳ぐ小さな蛇のようにも見えました。

月は空になく、眼下の大地にたくましく盛り上がった緑の山脈の中に、まるで巣の中に産み落とされた卵のように安らいでいました。それは山よりも大きな月で、真珠のように照り光り、大地と空を清らかに照らしておりました。

わたしたちは、どうやらこのトルコブルーの空を、ずっと這っていなければいけないようでした。何のためにかはわかりません。行列に並んだ人はみな奇妙な仮面をつけ道化のような格好をしていました。その中で、ただひとりわたしだけは仮面をつけていませんでした。理由は、わたしが一匹の猿だったからです。

わたしが死んだのは、ついこの間のことでした。国道をバイクで走っていた時、交差点で右から突っ込んでくる車に気付かなかったのです。長いとも短いともいえぬ人生でしたが、死んだときは、やっと終わったのかと、ほっとしたものでした。わたしは生きているとき、いつもうぬぼれて、人をくだらないものと見下していました。そのせいで、ついには持っていたものほとんどを失い、まだ手に残っていた古いバイクを走らせ、すべての責任を放棄して、自分の人生から逃げ出したのです。

わたしの死を悲しむものはいませんでした。別にそれは構わないのです。わたしの周りにいた者は、みんな同じようなものばかりでした。日月の目の届かないところで、罪のない蛙の腹を割いて、金の粒を盗み出すようなやつばかりだったからです。

わたしは見えない姿のまましばらくぼんやりとそこらを歩いていました。空を見ると太陽の光が目をつらぬきました。わたしはありもしないはらわたの底を、一瞬のうちにねじりとられたような痛みを感じて、急いで暗がりへ走りました。近くに樹木の多い公園があり、わたしはそこに逃げ込みました。

わたしはそこで、一人の少女に出会いました。まだ中学生くらいでしょうか、額の秀でた横顔の美しい少女でした。彼女は木漏れ日を浴びながらひとりベンチに座り、うすい文庫本を読んでいました。生前、わたしはよくこんな女の子をいじめました。彼女らの長い髪や匂やかな肌や大きな黒い瞳が、異様に憎かったのです。女は嫌いだと言って、いつも追いまわし、影から常にいやなことをしながら、うそばかりついていました。

わたしは少女をしばらくじっと見ていました。微かな風が木々の梢と彼女の長い髪を揺らしました。本のページをぱらりとめくる音が、まるで蓮の花びらのはらりと落ちる音に聞こえました。わたしは静けさにいら立ちながら、ずっと少女を見つめていました。何か黒々としたものが、わたしの中のないはずのはらわたをきりきりとしぼりました。

突然少女は本をぱたりと閉じ、顔を空に向けると目を閉じて、詩の暗唱を始めました。それは藤村の「初恋」でした。

   まだあげそめしまえがみの
   りんごのもとにみえしとき

わたしの憎悪はいっぺんにふくらんで破裂しました。わたしはこの少女を、どうにかして壺のように割砕き、汚れたハエのように踏みにじり、その存在すべてを粉砕して、燃やし尽くしてしまいたいと考えました。しかしそのとたん、足元が砂のように崩れ、わたしはどこへともなく闇の中に吸い込まれてしまったのです。そして次に気付いたとき、わたしは一匹の猿となって、空につり下がっていたのでした。

それからずっと、わたしは月も日も星もない青空を、二つの吸盤を交互に空にはりつけながら、トルコブルーの中を這っているのです。大地に降りている月は、わたしたちを照らしながら、光とともに小さな白い蛾を無数に放ち、その蛾はわたしたちの耳元に止まって、永遠に大地を踏んではならないと、月の言葉を伝えるのでした。



 
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2024-11-26 03:13:07 | 月の世の物語

そこは周りを切り立った崖に囲まれた小さな高地でした。頂の平らなところはそう広くはなく、まるで百姓家の小さな庭のようでした。高地というよりは、大地に立った高い柱の上といったほうがよいかもしれません。頂の庭には一本の木と、小さな池と、瑪瑙の岩が一つずつあり、わたしは随分と長い間、一匹の猫となってここに棲んでいました。

わたしの毛皮は灰色と黒の渦が巻くような文様をしており、首にはアベンチュリンの青いメダルをつけた細い首輪をしていました。ときどき池をのぞき見て、わたしは自分の瞳が煙水晶のように、暗い灰色であるのを確かめました。磨かれた煙水晶はつやつやと丸く、星をみれば星を宿し、月を見れば月を宿し、それはとてもきれいに光りました。

猫は美しいので、人間だったときより、わたしはわたしが好きです。人間だったころのわたしは、猫というよりはネズミでした。いろいろな大切なものを人様からネズミのようにかすめとって生きておりました。ばかなことはたいそうたくさんやりました。その結果、わたしはこの煙のようにうす暗い世界に一人で棲まなくてはならなくなり、永遠に、待っていなくてはならなくなりました。

わたしのしなければならないのは、一匹のネズミを殺すことでした。灰色の毛と黒い眼の泥のような血をした苦いネズミを、食べることでした。しかし、ここはあまりに高い崖に囲まれているため、訪れるものといえば、月星の光や、どこからか吹いてくるほこりっぽい風くらいのものでした。お日さまはおいでませんでした。いつもいつも、ここは夜でした。月は太ることも細ることもなく、まん丸のままずっと南中しておりました。しんねりとした月の光はときどき、やわらかい布のようにわたしに触れ、煙色のわたしの目を磨いていきました。

わたしは瑪瑙の岩のそばできちんと香箱を組み首を立て、前をまっすぐに見ながら来る時を待ちました。瑪瑙の岩には、何か仕掛けがしてあるようでした。そっと耳を岩に近づけると、さらさらと砂の流れるような音が聞こえ、その音の奥では、オルゴールの奏でる微かな旋律が砂に混ぜられた銀の音のように聞こえました。全く閉じた岩の中に、こんな魔法をだれがしかけたのでしょう。ふと風が吹いてきました。すると砂の音はそれに反応するように、きん、と耳に痛い音を叫びました。それは猫の小さな頭骨を貫くような音でした。わたしは頭を前足でさすりながら、痛みの収まるのをしばし待ちました。そして月を見ながら、ふと、思いがよぎりました。わたしは、なぜこんなところにいなければならないのか。来るはずのないネズミを待って。

疑問を持ってはいけないと、ある人が言っていたのを思い出しました。その人はわたしに、おまえはあまりにも厳しい試練を受けなければならないと言いました。神がお前に何をなさるのかはわからない。しかし、すべては受け入れなくてはならない。その人は悲しそうに言っていました。

ほんとうは、わたしは死なねばならなかったのです。命のすべてを、神の裁きに没収されねばならなかったのです。それはわたしのしたことが、子供のしたことといって許されるものではないほどのことだったからです。その人は、わたしがまだ若いからと、神に必死に罪の軽減を願っていました。わたしはそのそばで、言われたとおりに、反省したふりをして、うつむいていました。

猫になったのは、そのすぐあとでした。誰もいない、小さな孤独の庭で、わたしは永遠にネズミを待って暮さねばなりませんでした。神に許しを願ってくれたあの人にも、永遠に会えないのです。わたしは泣きたくなりました。そして初めて、猫の目には容易に涙は流れないことを知りました。それが一層悲しく、たまらずにわたしは立ち上がり、瑪瑙の岩の上に登って月をにらみました。

わたしは月に向かって鳴き続けました。初めて、永遠の意味がわかりました。それは、わたしが最も愛し、愛してくれた人と、二度と会えないということだったのです。わたしは受け入れなければなりませんでした。でも、それが何よりも受け入れがたいことだったと気づくのに、なぜこんなにも時間がかかったのか。

わたしは、叫びたくなりました。永遠の向こうに去ってしまった人に、「愛している」とどうしても伝えたかったのです。けして届かないとわかっていても、叫びたかったのです。でもわたしののどからほとばしるのは、まるで赤ん坊の泣き声のような、猫の声ばかりなのでした。


 
 
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