月の世には、ただひとところだけ、罪のない人々が住むところがありました。そこには、やわらかな毛布をどこまでも広げてしきつめたような、はてもなくひろがる黄色い砂丘があり、勿忘草色の空に浮かぶ黄金色の月が、ほんのりと熱を含んだ月光で、常に砂丘を温めていました。
黄色い砂丘のあちこちには、透明な水晶の卵がたくさん散らばっていて、その中には、寒さに心を閉じた人々が、硬く目を閉じ、胎児のように自分を抱いて眠っていました。彼らは、地上で生きていたとき、魂が生きてゆくために必要な愛を与えられることが少なすぎ、それがために、あまりに寂しく、苦しく、深く傷つき、石の心の中に深く魂を閉じ込めてしまい、罪のないにも関わらず、どうしても月の癒しを必要として、死後この砂丘を訪れ、透明な水晶の卵の中に、魂の安らぎを求めて閉じこもっているのでした。
卵の間の所々には、たくさんの月色灯が細い立木のように立っており、月光とともに彼らの心を照らし、温めようとしていました。そして、たくさんの女性の導き手が、水晶の鈴をころころと鳴らしながら、美しい呪文の歌を歌いつつ、愛に飢えた氷のような人生を送ってきた人々の心を癒そうと、細やかに卵の世話をし、日々、彼らに愛を語り続けていました。
ある日、一人の導き手が、遠く砂丘の向こうに、蜃気楼のように、青い海が見えるのに気付きました。するとその導き手は、あるひとつの水晶の卵を探し出し、その中に眠っている一人の女に近づいて、そっとその耳にささやきました。
「さあ、出なさい」すると、卵の中の女は、何かに操られるかのように、うっすらと目を開き、何を見るでもない瞳を、ぼんやりと導き手の方に向けました。その瞳を見て、導き手の女性は、胸に激しい痛みを感じざるを得ませんでした。なんとひどいことをされたのか、あなたは。愛されて当然なのに、なぜ人々は、ひとかけらの愛さえ、あなたに与えなかったのか。
女は生きていたとき、染色を芸とする一人の職人でした。彼女が染めあげて布に描く絵は、それはそれは美しく、人々に感動を与えました。たくさんの人々が、彼女の才能をほめ、評価しました。しかし、本当に彼女が必要としていたものを、与える者は、誰もいませんでした。彼女は、布の中に、とても美しい理想の貴公子の姿を描くのが上手でした。そんな、地上にはありえない天使のような男性を布の上に描くことが、彼女の幸福でした。しかし、彼女は美しくはなかったため、地上の男性は決して彼女に愛を与えようとはしませんでした。そして、彼女を生んだ両親さえもが、彼女の才能を喜ぶよりも、密かに嫉妬して、表面上は温かな言葉をかけつつも、彼女のために必要な本当の愛を与えることをしませんでした。
彼女は、その鋭い芸術家の感性の中で、周囲の人々の嘘に敏感に傷つき、表面上は笑って嘘につきあいながらも、内面は深く傷つき、それは魂の奥に、氷の刃を受けたほどのひどい寂しさの病となってとりつき、彼女の人生を一層寒く、孤独にさせてゆきました。
そのようにして死後、彼女はこの黄色い月下の砂丘に降り、ひっそりと水晶の卵の中に閉じこもり、じくじくと痛む自分の魂の傷と語り合いながら、一人ずっと、己の卑しさと愚かさをかみしめつつ、ただ石のように動かず、眠っていたのでした。
導き手は、水晶の鈴をころりと鳴らし、女に微笑みかけました。すると女は、魔法にかかったように、手をその鈴にのばし、そのままするりと卵から抜け出しました。「さあ、いきましょう」導き手は女の手をとり、ゆっくりと立たせると、その体を支えるようにしながら、彼女に合わせてそろそろと歩き、女を蜃気楼の海辺へと連れてゆきました。
砂丘の丘を、一つ超えると、もう海風が吹いていました。海は瑠璃色で、はてもない向こうまで広がっていました。導き手は、女を海辺に座らせると、自分もその隣に座り、水晶の鈴をころころ鳴らしながら、やさしい呪文の歌を歌い、その魂に愛を深く語りかけていきました。
「さあ、そろそろおいでになりますよ」導き手は言いました。すると、海のはるか向こうに、小さな人影が現れ、それがだんだんとこちらに歩いて近づいてくるのが見えてきました。女は、ただ何もわからないというように、ぼんやりと海を見つめていました。
人影は、海の上をゆっくりと歩いてきて、岸辺にいる女の方へと近づいてきました。その人の姿が、すぐ目の前まで来たときになって、はっと、女は気付きました。その人は、背の高い細やかな体をしたとても美しい青年で、水色に透き通った長い髪をしており、青ざめたような白い額に、金に縁取られた丸い瑠璃の玉をはめ込んでいました。その瞳もまた深い瑠璃色で、天使のように美しい顔に、切ない愛の微笑みを表して、静かに女を見つめていました。
「ああ」女は声をあげました。昔彼女は、こんな風に、不思議に古風な服を着た、美しい若者の姿を布に描いたことがありました。目の前の人は、その絵の中の若者に、それはよく似ておりました。女はしばしただその人の美しい姿に目を奪われていました。その人は、女のまなざしをやさしく見つめ返し、そっと女の名前を呼び、「あなたを愛している」と言いました。しかし、その声は、石のように固まってしまった女の心の壁に阻まれて、その奥の彼女の痛い魂の傷にはまだ届きませんでした。
導き手が彼女の耳元に口を寄せ、ささやきました。「忘れましたか。彼はずっと、あなたを導いていた精霊です。あなたの芸術の霊感を助け、常にあなたを愛していた精霊です。ああ、悲しいことに、あなたの人生の中で、心よりあなたを愛していたのは、あの頃あなたの目には見えなかったこの方だけでした…」
女はただ沈黙して、精霊の姿ばかり見ていました。すると精霊は、右手を風の中に振りあげ、月光を一つかみ取ると、拳の中でしばしそれをもみこんで、それを女の目の前に突き出し、ゆっくりと手を開きました。するとその手の中には、小さな金の箱があり、精霊は彼女の目の前で、静かにその箱を開きました。見ると箱の中には、月光でできた金に、血のように赤い珊瑚の珠をはめ込んだ、細い指輪が入っていました。精霊は、その指輪を箱から取り出すと、女の小さな白い左手をとり、その薬指に、そっと指輪をはめ、もう一度、「あなたを愛している」とささやきました。
女は、ただ、精霊の顔ばかり見つめていました。そして、昔の自分の技を思い出し、右手で砂をかいて、美しい若者の顔を描き始めました。精霊はまた、「あなたを愛している」と言いました。そして、何度も、何度も、彼がそういうたびに、女の顔は、少しずつ、美しくなってゆきました。やがて彼女は、砂の上に、それは見事な、美しい若者の微笑みの顔を描いていました。
「あなたを愛している」精霊は言いました。そうして、その声は、やっと、彼女の石の心を破り、かすかにその魂に響きました。すると、彼女は、表情を凍りつかせたまま目を見開き、涙をほろほろと流し始めました。嗚咽が漏れ始め、彼女は手で顔を覆うと、幼女のように泣き始めました。導き手はその背中を優しくなでて、「いいのですよ、いいのですよ、それはあなたのものなのです。あなたが受け取って、当然のものなのです」と言いました。女は導き手の膝の上にくずおれ、ひとしきり、泣きじゃくりました。
ああ、ああ、ああ…
やがて、ふと風向きが変わり、水色の透明な髪をした若者が、空を見上げました。「ああ、そろそろゆかねば」彼は言いました。導き手に背中をたたかれ、女は泣き顔をあげて、精霊の方を見ました。精霊はその顔にまた微笑み、「心よりあなたを愛している」と言うと、そっと背中を向けて、また海の向こうに向かって歩き始めました。
「大丈夫、また来てくださりますよ。あの方は決してあなたのことを忘れはしませんから」導き手が言いました。女はただ、砂の上に手をついて、海の向こうに消えていく精霊の後ろ姿を見送っていました。そしてその姿が、本当に海のかなたに消えて見えなくなってしまうと同時に、海も消え、もうそこには、はるかな砂丘ばかりが広がっていました。
「立ちましょう」導き手が言うと、女は黙って立ち上がり、彼女に体に支えられながら、砂の上を歩いて、また自分の卵の中に戻ってゆきました。金の指輪は、温かい月光を宿し、彼女の寂しさにそっと唇を近付け、愛していると、かすかな声で繰り返し、オルゴールのようにささやき続けました。
導き手は、女が前よりも少し美しくなり、幾分、魂の傷が癒えているのに、ほっと息をつくと、ふとまた、気配を感じて、振り向きました。すると今度は、砂丘の向こうに、はるかな緑の草原の蜃気楼が見えました。導き手は、卵の群れの中を探し、ある若者が閉じこもっている、少し青く染まった水晶の卵を見つけ出しました。
「さあ、出なさい」導き手は、水晶の鈴をころりと鳴らして、彼の耳にささやきました。すると彼はすぐに目を開けて、彼女の導きを待つこともなく、すぐに卵から出てきました。彼はかつて、地上で純真な愛を詠った詩人でしたが、真心で愛していた女性に、ひどい裏切りをされて見捨てられ、それゆえに魂に深い傷を負い、寒い孤独の病に落ちて、そのまま命萎えて死んでしまったのでした。
若者は命じられることもなく、自ら自分の左手に目をやりました。その薬指には、月光の金に青いトルコ石の玉をはめ込んだ指輪がありました。
「いきましょう。またおいでくださったわ」導き手が言うまでもなく、彼は草原を目指して歩き始めました。そして彼はもう知っていました。草原の向こうから、かつて彼の詩の霊感を助け、心より彼を愛し導いていてくれていた精霊が、ひたすら自分を目指して歩いてきてくれていることを。彼女は、銀の長い髪の間から、三本の紅玉の小さな角を生やしており、透き通った薄紅色の美しい瞳で、いつも彼の真実のまなざしを吸い込んでは、心から「愛している」と言ってくれることを。
「ああ、ああ」と、彼は子供のように笑いながら駆けだし、草原を目指しました。導き手は、慌てて彼を追いかけました。愛する人、愛する人、愛する人!彼は叫びながら走り、草原の端にたどりついて、はるかかなたからやって来るその人の姿を見つけました。
喜びが胸にあふれ出し、彼は、ああ、ああ!と空に響く声で、彼女を呼び続けました。精霊はその声にこたえ、細い手をあげて、彼に向かって振りました。
涙が若者の頬を流れ、その魂が、生き生きと息づいて光り出すのを、そばから導き手がそっと見守っていました。導き手もまた、彼のほおをなでる風に、そっと「愛している」という声をまぜて、その耳に忍び込ませました。
このようにして、まだ若くして弱く、ただ純真でありすぎるがゆえに、正直でありすぎるがゆえに、地上で深く傷つきすぎた人々の魂を、温かき砂丘の月の使いである女性の導き手たちは、水晶の鈴をころころと鳴らしながら、遠い遠いはるかな昔から、ずっと癒し続けているのでした。