青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-01-22 03:10:44 | 月の世の物語・別章

月の世には、ただひとところだけ、罪のない人々が住むところがありました。そこには、やわらかな毛布をどこまでも広げてしきつめたような、はてもなくひろがる黄色い砂丘があり、勿忘草色の空に浮かぶ黄金色の月が、ほんのりと熱を含んだ月光で、常に砂丘を温めていました。

黄色い砂丘のあちこちには、透明な水晶の卵がたくさん散らばっていて、その中には、寒さに心を閉じた人々が、硬く目を閉じ、胎児のように自分を抱いて眠っていました。彼らは、地上で生きていたとき、魂が生きてゆくために必要な愛を与えられることが少なすぎ、それがために、あまりに寂しく、苦しく、深く傷つき、石の心の中に深く魂を閉じ込めてしまい、罪のないにも関わらず、どうしても月の癒しを必要として、死後この砂丘を訪れ、透明な水晶の卵の中に、魂の安らぎを求めて閉じこもっているのでした。

卵の間の所々には、たくさんの月色灯が細い立木のように立っており、月光とともに彼らの心を照らし、温めようとしていました。そして、たくさんの女性の導き手が、水晶の鈴をころころと鳴らしながら、美しい呪文の歌を歌いつつ、愛に飢えた氷のような人生を送ってきた人々の心を癒そうと、細やかに卵の世話をし、日々、彼らに愛を語り続けていました。

ある日、一人の導き手が、遠く砂丘の向こうに、蜃気楼のように、青い海が見えるのに気付きました。するとその導き手は、あるひとつの水晶の卵を探し出し、その中に眠っている一人の女に近づいて、そっとその耳にささやきました。
「さあ、出なさい」すると、卵の中の女は、何かに操られるかのように、うっすらと目を開き、何を見るでもない瞳を、ぼんやりと導き手の方に向けました。その瞳を見て、導き手の女性は、胸に激しい痛みを感じざるを得ませんでした。なんとひどいことをされたのか、あなたは。愛されて当然なのに、なぜ人々は、ひとかけらの愛さえ、あなたに与えなかったのか。

女は生きていたとき、染色を芸とする一人の職人でした。彼女が染めあげて布に描く絵は、それはそれは美しく、人々に感動を与えました。たくさんの人々が、彼女の才能をほめ、評価しました。しかし、本当に彼女が必要としていたものを、与える者は、誰もいませんでした。彼女は、布の中に、とても美しい理想の貴公子の姿を描くのが上手でした。そんな、地上にはありえない天使のような男性を布の上に描くことが、彼女の幸福でした。しかし、彼女は美しくはなかったため、地上の男性は決して彼女に愛を与えようとはしませんでした。そして、彼女を生んだ両親さえもが、彼女の才能を喜ぶよりも、密かに嫉妬して、表面上は温かな言葉をかけつつも、彼女のために必要な本当の愛を与えることをしませんでした。

彼女は、その鋭い芸術家の感性の中で、周囲の人々の嘘に敏感に傷つき、表面上は笑って嘘につきあいながらも、内面は深く傷つき、それは魂の奥に、氷の刃を受けたほどのひどい寂しさの病となってとりつき、彼女の人生を一層寒く、孤独にさせてゆきました。

そのようにして死後、彼女はこの黄色い月下の砂丘に降り、ひっそりと水晶の卵の中に閉じこもり、じくじくと痛む自分の魂の傷と語り合いながら、一人ずっと、己の卑しさと愚かさをかみしめつつ、ただ石のように動かず、眠っていたのでした。

導き手は、水晶の鈴をころりと鳴らし、女に微笑みかけました。すると女は、魔法にかかったように、手をその鈴にのばし、そのままするりと卵から抜け出しました。「さあ、いきましょう」導き手は女の手をとり、ゆっくりと立たせると、その体を支えるようにしながら、彼女に合わせてそろそろと歩き、女を蜃気楼の海辺へと連れてゆきました。

砂丘の丘を、一つ超えると、もう海風が吹いていました。海は瑠璃色で、はてもない向こうまで広がっていました。導き手は、女を海辺に座らせると、自分もその隣に座り、水晶の鈴をころころ鳴らしながら、やさしい呪文の歌を歌い、その魂に愛を深く語りかけていきました。
「さあ、そろそろおいでになりますよ」導き手は言いました。すると、海のはるか向こうに、小さな人影が現れ、それがだんだんとこちらに歩いて近づいてくるのが見えてきました。女は、ただ何もわからないというように、ぼんやりと海を見つめていました。

人影は、海の上をゆっくりと歩いてきて、岸辺にいる女の方へと近づいてきました。その人の姿が、すぐ目の前まで来たときになって、はっと、女は気付きました。その人は、背の高い細やかな体をしたとても美しい青年で、水色に透き通った長い髪をしており、青ざめたような白い額に、金に縁取られた丸い瑠璃の玉をはめ込んでいました。その瞳もまた深い瑠璃色で、天使のように美しい顔に、切ない愛の微笑みを表して、静かに女を見つめていました。

「ああ」女は声をあげました。昔彼女は、こんな風に、不思議に古風な服を着た、美しい若者の姿を布に描いたことがありました。目の前の人は、その絵の中の若者に、それはよく似ておりました。女はしばしただその人の美しい姿に目を奪われていました。その人は、女のまなざしをやさしく見つめ返し、そっと女の名前を呼び、「あなたを愛している」と言いました。しかし、その声は、石のように固まってしまった女の心の壁に阻まれて、その奥の彼女の痛い魂の傷にはまだ届きませんでした。

導き手が彼女の耳元に口を寄せ、ささやきました。「忘れましたか。彼はずっと、あなたを導いていた精霊です。あなたの芸術の霊感を助け、常にあなたを愛していた精霊です。ああ、悲しいことに、あなたの人生の中で、心よりあなたを愛していたのは、あの頃あなたの目には見えなかったこの方だけでした…」

女はただ沈黙して、精霊の姿ばかり見ていました。すると精霊は、右手を風の中に振りあげ、月光を一つかみ取ると、拳の中でしばしそれをもみこんで、それを女の目の前に突き出し、ゆっくりと手を開きました。するとその手の中には、小さな金の箱があり、精霊は彼女の目の前で、静かにその箱を開きました。見ると箱の中には、月光でできた金に、血のように赤い珊瑚の珠をはめ込んだ、細い指輪が入っていました。精霊は、その指輪を箱から取り出すと、女の小さな白い左手をとり、その薬指に、そっと指輪をはめ、もう一度、「あなたを愛している」とささやきました。

女は、ただ、精霊の顔ばかり見つめていました。そして、昔の自分の技を思い出し、右手で砂をかいて、美しい若者の顔を描き始めました。精霊はまた、「あなたを愛している」と言いました。そして、何度も、何度も、彼がそういうたびに、女の顔は、少しずつ、美しくなってゆきました。やがて彼女は、砂の上に、それは見事な、美しい若者の微笑みの顔を描いていました。

「あなたを愛している」精霊は言いました。そうして、その声は、やっと、彼女の石の心を破り、かすかにその魂に響きました。すると、彼女は、表情を凍りつかせたまま目を見開き、涙をほろほろと流し始めました。嗚咽が漏れ始め、彼女は手で顔を覆うと、幼女のように泣き始めました。導き手はその背中を優しくなでて、「いいのですよ、いいのですよ、それはあなたのものなのです。あなたが受け取って、当然のものなのです」と言いました。女は導き手の膝の上にくずおれ、ひとしきり、泣きじゃくりました。
ああ、ああ、ああ…

やがて、ふと風向きが変わり、水色の透明な髪をした若者が、空を見上げました。「ああ、そろそろゆかねば」彼は言いました。導き手に背中をたたかれ、女は泣き顔をあげて、精霊の方を見ました。精霊はその顔にまた微笑み、「心よりあなたを愛している」と言うと、そっと背中を向けて、また海の向こうに向かって歩き始めました。

「大丈夫、また来てくださりますよ。あの方は決してあなたのことを忘れはしませんから」導き手が言いました。女はただ、砂の上に手をついて、海の向こうに消えていく精霊の後ろ姿を見送っていました。そしてその姿が、本当に海のかなたに消えて見えなくなってしまうと同時に、海も消え、もうそこには、はるかな砂丘ばかりが広がっていました。

「立ちましょう」導き手が言うと、女は黙って立ち上がり、彼女に体に支えられながら、砂の上を歩いて、また自分の卵の中に戻ってゆきました。金の指輪は、温かい月光を宿し、彼女の寂しさにそっと唇を近付け、愛していると、かすかな声で繰り返し、オルゴールのようにささやき続けました。

導き手は、女が前よりも少し美しくなり、幾分、魂の傷が癒えているのに、ほっと息をつくと、ふとまた、気配を感じて、振り向きました。すると今度は、砂丘の向こうに、はるかな緑の草原の蜃気楼が見えました。導き手は、卵の群れの中を探し、ある若者が閉じこもっている、少し青く染まった水晶の卵を見つけ出しました。

「さあ、出なさい」導き手は、水晶の鈴をころりと鳴らして、彼の耳にささやきました。すると彼はすぐに目を開けて、彼女の導きを待つこともなく、すぐに卵から出てきました。彼はかつて、地上で純真な愛を詠った詩人でしたが、真心で愛していた女性に、ひどい裏切りをされて見捨てられ、それゆえに魂に深い傷を負い、寒い孤独の病に落ちて、そのまま命萎えて死んでしまったのでした。

若者は命じられることもなく、自ら自分の左手に目をやりました。その薬指には、月光の金に青いトルコ石の玉をはめ込んだ指輪がありました。
「いきましょう。またおいでくださったわ」導き手が言うまでもなく、彼は草原を目指して歩き始めました。そして彼はもう知っていました。草原の向こうから、かつて彼の詩の霊感を助け、心より彼を愛し導いていてくれていた精霊が、ひたすら自分を目指して歩いてきてくれていることを。彼女は、銀の長い髪の間から、三本の紅玉の小さな角を生やしており、透き通った薄紅色の美しい瞳で、いつも彼の真実のまなざしを吸い込んでは、心から「愛している」と言ってくれることを。

「ああ、ああ」と、彼は子供のように笑いながら駆けだし、草原を目指しました。導き手は、慌てて彼を追いかけました。愛する人、愛する人、愛する人!彼は叫びながら走り、草原の端にたどりついて、はるかかなたからやって来るその人の姿を見つけました。
喜びが胸にあふれ出し、彼は、ああ、ああ!と空に響く声で、彼女を呼び続けました。精霊はその声にこたえ、細い手をあげて、彼に向かって振りました。

涙が若者の頬を流れ、その魂が、生き生きと息づいて光り出すのを、そばから導き手がそっと見守っていました。導き手もまた、彼のほおをなでる風に、そっと「愛している」という声をまぜて、その耳に忍び込ませました。

このようにして、まだ若くして弱く、ただ純真でありすぎるがゆえに、正直でありすぎるがゆえに、地上で深く傷つきすぎた人々の魂を、温かき砂丘の月の使いである女性の導き手たちは、水晶の鈴をころころと鳴らしながら、遠い遠いはるかな昔から、ずっと癒し続けているのでした。


 
 
 
 
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2025-01-21 03:18:19 | 月の世の物語・別章

日の都の片隅に、大きなガラスの温室を備えた植物園があり、そこを、ひとりの女性が管理していました。温室には、地球上の熱帯や温帯や寒帯などに棲む植物が、何の不思議もないという顔で自然に肩を並べて咲いたり、薫ったり、葉や枝を伸ばしたりしていました。女性は日照界の水色の制服を身につけ、黒髪を長くたらし、切れ長の細い瞼の奥には、まっすぐに澄んだ美しい茶色の瞳を隠していました。

彼女は植物の霊たちをとても愛していましたが、中でも一番好きなのは、イネでした。なぜなら彼らは、常に愛をもって、自分の全てを与えるために地上に生きているからでした。彼女は日々、イネと語り合い、己自身を与えるという愛の痛みと喜びを、胸に深く吸い込み、魂に歓喜を覚えながら、学んでいました。

ある日、そこを、ひとりの人間の若者が、訪れました。彼は、地上で生きていたとき、一人の芸術家でした。彼はとても優れた才能を持ち、純粋に正しいことを信じていて、地上でまっすぐに絵画の道に励んでいました。しかし、その才能と美しさを怪や周りの人たちに妬まれ、彼は様々な惨いいじめに会い、結局最後は皆に馬鹿者とののしられて見捨てられ、酒と薬に溺れたあげく、何枚かの理想の女性像を地上に残して、孤独に死んでしまいました。

彼のような目にあった人々は、死後、よく自分をいじめた人々に復讐してしまい、その罪によって月の世に向かう者もいるのですが、彼はそうはせず、自分をいじめ殺した人々を恨まずに許したため、日照界の門をくぐりました。そして、日の都にある芸術の学校に通いながら、再び地上で生まれる日のために、日々学んで過ごしていました。

若者は、おずおずと温室の扉をくぐると、中にいる女性に挨拶をし、いつものようにスケッチブックを出して、彼女に絵を描かせてくれと、頼みました。女性は、戸惑いつつも微笑み、「いいですよ」と答えました。すると若者は大喜びで、温室の片隅に座り、スケッチブックに鉛筆を走らせながら、言いました。
「あ、いいです、ポーズはとらないで。自然に動いていてください。僕が勝手に描いていますから」若者は、幸福に満ちた素直な瞳で、温室の中で働く彼女の姿を追い、次々に、何枚も、彼女の顔や、何気ないしぐさや、イネに触れるときのやわらかな指先などを、描いていきました。

若者は、この日照界の女性に、恋をしていました。彼女にも、それはわかっていました。彼女は、人間の素直な恋心を、優しく受け止めながらも、心の中には、少し戸惑いを感じていました。彼が、彼女を見て、思わず感動のため息をつくときなど、どうしていいかわからず、思わず植物たちにふれようとする手が固まってしまいました。

罪びとの心を導くことも難しいことですが、人間の、素直な愛の心に触れていくことも、苦しいことでありました。彼女は、彼のために、自分を無いことにして、全てを与えねばなりませんでした。なぜなら彼が見ているのは、まだ、本当の彼女自身ではなく、彼女の向こうに見ている、女神のように美しい理想の女性像であったからです。

スケッチブックに十何枚かの素描を仕上げたあと、若者は、まだ幼さは感じるものの変わらぬ素直な明るい目をして彼女に近づき、仕上げた絵のいくつかを見せました。スケッチブックの中には、彼女が思いもしなかった、髪のかすかな乱れや、ほんのりとしたほほえみや、何かに驚いたときの瞳などが、とても豊かな技で、見事に描かれていました。女性はしばしそれを見ると、本当に、見事ですね、と素直に喜び、「ありがとう、いつも美しく描いてくださって」とお礼を言いました。若者は恐縮しながら、言いました。「これをもとにして、今度は油絵の完成作品を描いて持ってきます。すばらしい霊感を得ることができました。神とあなたのおかげです。絵が完成したら、ぜひ見てください」女性は微笑みつつ、ええ、もちろん、と答えました。若者は相変わらず、嬉しさを満面に表して、温室を去っていくまで彼女の顔からずっと目を離さずにいました。

若者が去っていくと、女性は微笑みを変えることはなくも、少し疲れを覚え、イネの元を訪れて、癒しを求めました。イネは、ほほ、と笑い、やさしく言いました。「あれでいいのですよ。あの若者は、あなたを困らせるようなことは決してしませんから」すると女性はあごに指をふれながら、目に悩みの色を見せて言いました。「わかっているの。でもむずかしいわ。男性の心って、時々、どうしていいかわからないくらい、わたしを悩ませるの。彼らはとても純粋で、深くわたしたちを愛してくれるけれど、ほんとうはどこかが違うってことを、わかっている人は少ないのだもの」「彼は、そんなに愚かではありませんよ。人間は確かにまだ若いけれど、彼は、適切な場所で、間違っていることは間違っていると、ちゃんと言える人です。あんな若者がいることが、人類の未来を本当に明るくさせるでしょう。あなたは何も悩むことはありません。あなたは、ただ、あなたでいればいいのです。そうしたら彼は、あなたから勝手に何かを得て、自らを創造してゆきます。男性が女性に求めているものは、ほんのごく簡単なことですよ。ただ、自らとして、ほほえんでいればいいのです」イネはやさしく言いました。

そして日照界の女性は、再び、日常の仕事に戻ってゆきました。彼女は温室の植物の霊たちと、日々、人間たちのことについて語り合いました。ある熱帯の森の野生蘭は、強く人間を批判しました。彼らの地球上でのものを知らなすぎることや、驕りたかぶっていることを見ていると、自分の方が恥ずかしくてたまらないと、彼は言いました。彼女は彼と語り合い、人間はまだ若くて学んでいる途中なのだと言いました。白い頂を抱く高山に棲むある黄金色の小さな花は、いつもため息をつき、人間が風を汚しすぎると嘆いていました。彼女は、本当にそうねと、相槌を打ちながら、どうにかしていかなければと、花と同じため息をつきました。温室の隅で、密かに咲いている薔薇は、彼女が話しかけると、少し困ったような微笑みを見せ、ただ静かに心を閉じて、何も言おうとはしませんでした。彼女は薔薇の心に触れると、彼らの心の傷がどんなに深いかを感じ、悲哀に沈まざるを得ませんでした。

このようにして、彼女は毎日植物と語り合い、彼らから得た人間に関する情報や感想などを記録してゆき、植物と人間のきずなを地球上でどうやって結んでゆけばいいかという課題に、日々取り組んでいるのでした。

あれからよほど日が経ったある日のこと、また突然、芸術家の若者が温室の彼女の元を訪れました。彼の手には、大きなカンヴァスが抱えられており、彼は相変わらず満面に喜びを表しながら彼女を見て、「できました!見てください!」と温室のガラスに響く声をあげました。彼はあれから少し日焼けして、肩のあたりの筋肉が増えていました。それは彼が、彼女の絵を描くために、上質の絵の具を手に入れようと、どこかで労働奉仕をしてきたからでした。日照界の女性は、微笑みを変えず、戸惑いを隠しながら彼の心を受け入れ、温室の隅に立てかけられたカンヴァスの絵に、見入りました。

そこには、澄んだ茶色の瞳に、イネの緑を映しこんで微笑む、美しい黒髪の女の姿が描かれていました。彼女は白い指をイネのまっすぐな緑の葉の中に差し込み、熱い憧れの色を表情に表して、ひたすらまっすぐに、何かを追いかけているようにイネを見つめていました。それを見た女性は驚いて、はあ、と思わず感動の声をあげました。

「すばらしいわ」と彼女は言いました。…ここまで、この人は、わたしを見ていたんだわ。彼女は、若者の才能と思わぬ魂の進歩に驚いていました。そう、わたしはいつも、こんな風に、イネに憧れている。確かに、イネのようになりたいと願っている。彼はそれを見抜いていたのだわ。なんてこと。わかってなかったのは、わたしのほうだったのね。彼がわたしに恋するのは、ああ、わたしが、イネを愛しているからなのだわ!

彼女は胸の感動を隠すこともなく、歓喜の心でしばしの間ずっと絵に見入っていました。そんな彼女の顔を、若者もまた、嬉しげに見ていました。やがて彼女は言いました。
「ありがとう、わたしを描いてくださって。とても、うれしいわ。わたしはいつも、こんな風に、イネを見ているのね」
「はい、それは美しく、愛に満ちた目で。僕はそれが嬉しくてたまらないんだ。こんな女性がいるんだって、嬉しくてたまらないんだ。それを表現してみたい。いっぱい描いてみたい。また地上に生まれることができたら、今度こそ、女性の本当の美しさを、地球上で表現してみたいのです」若者は、熱い心で彼女に語りかけました。日照界の女性は、男性の熱い心に触れると、まるで神に触れたかのように一瞬おののき、身の縮むような怖さを少し感じました。彼女は何かに揺れ動こうとする自分の心を律し、しばし自分を離れたところから見て、観察しました。そう、女性とは、こうして男性を愛してしまうものなのかしら。彼女は、自分の胸の中に、エロスが発した矢の傷のような痛みがあるのを、確かに感じました。彼女はその痛みを実感し、そこから魂を揺すぶる何か熱いものが動き出すのを感じていました。これが、恋というものなのかしら?

若者と女性は、絵を前にしながら、何も言わず、ただふたりでいることに、不思議な熱い幸福を感じていました。すると、突然神は、ふたりに何の予感も与えることなく、無理やりその魂を一つの器の中に入れて溶かしていまいました。あまりのことに、ふたりは茫然としました。女性は、今自分に熱く注がれている若者の視線に、全身を抱きしめられ、どうしてもそれにあらがえない自分の弱さに驚いていました。なぜこんなことがあるのか。なんという快楽。なんという苦しみ。一体なぜこんなにも、男と女は、恋の中に溶けあってしまうのか。わからない。でもここにふたりでいると、それだけで、もう他に何も見えなくなってしまうほど、あなたを、あなただけを、求めてしまうのだ。神様、わたしたちに、一体何をお与えになったのですか?若者は震えながら涙を流し、女性の横顔をひたすら見つめながら、自分を突き動かそうとする何かに必死に耐えていました。

やがて、温室の植物たちが、いつまでもふたりに浸っている彼らに、そっと声をかけました。もうそろそろ、お時間ですよ、おふたりさん。するとふたりは、はっと現実に戻り、同時に後ろを向いて、ずっと植物たちに見られていたことに気づいて、恥じらいの苦笑いを見せつつ、ほっと安堵の息をつきました。

「また、絵を描かせてもらっても、いいですか」若者は、カンヴァスを抱えながら、日照界の女性に言いました。「ええ、わたしでいいのなら」と女性は笑って答えました。

日照界の女性は、カンヴァスを持った若者が、手を振りながら去ってゆくのを、温室の入り口から見送りました。そして彼の姿が消えて見えなくなると、つかの間の恋の美酒の香りに少しの間ゆらめき、すっと背筋を伸ばして天を見上げ、神に祈り、すぐに平常の自分に戻しました。彼女はイネの元を訪れ、言いました。

「どうしよう、わたし、彼を好きになってしまったわ」するとイネはまた、ほほ、と笑い、「それはそれは。お気をつけあそばせ。恋とは、まことに苦しいものですよ」と言いました。

女性は、何かがおかしくてたまらぬというように白い歯を見せてイネに笑いかけ、今日起こった美しい出来事を思い返しては、ほおっとため息をつき、秘密の記憶の詩の中に、それを深く織り込んでゆこうと、思いました。


 
 
 
 
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2025-01-20 03:13:44 | 月の世の物語・別章

学校は、周りを楠の森に囲まれた、広い緑の庭でした。庭の隅には、街灯のような一本の高い月色灯が点っており、その下で、白い服を着たひとりの女性教師が立って、書物を開き、しばし不思議な音韻の呪文を歌っていました。

空には梅の種のような、ほんの少し欠けた月があり、薄藍の空に沈み込むようにかすかに青く染まった光を放っていました。庭のあちこちには、小さな水晶の結晶が、キノコのように生えており、それが月光を吸いこんで、月色灯とともに、緑の庭の教室を明るく照らしていました。

生徒たちは、教師を取り囲んで、自分の敷物を思い思いのところに置いて座り、しばし教師の呪文の歌に聴き浸っていました。

やがて教師は呪文を歌い終わると、生徒たちに語り始めました。生徒たちはみなそれぞれ、地球上で生きていたときの影を背負っており、表情にどこか歪みを見せ、ひざの上に肘をのせて面倒くさそうに斜めからこっちを見たり、目に強い反抗の色を見せながら、腕を組んで胸をそらしたり、馬鹿にするような目で女性教師の姿をなめるように見ていたりしていました。

教師は、石のように落ち着き払った静かな声で、生徒それぞれの名を呼びながら、それぞれにそれぞれの罪の意味を教えてゆきました。
「でも先生!」生徒の一人が声をあげました。それはモンゴロイド系の顔をした、少々頭の薄く禿げた黒髪の小男でした。
「それは、私がやったんじゃありません!裏から怪に操られたんです!」教師はその男の顔を見ると、静かな声で答えました。「ええ、そうですね。今地球上には、怪がたくさんいます。そして、人の人生を狂わせてやろうと、いつも狙っています。あなたの心には、いつも怪がささやいていました。憎い、憎い、ねたましい、ねたましい、と。でもあなたには、その声に反抗することもできたのです。結局は、あなた自身が、怪の言葉に屈して、それに従ってしまったのです。それを罪ではないとは決して言えません」

すると生徒は目をぎらつかせ、まだ何か文句を言いたげに、ぶつぶつと口の中で何かを繰り返していました。女性教師は、その生徒をしばし見つめると、右手で不思議な所作をし、天を指差して呪文を唱えました。すると、月色灯の上に、緑色に光る大きな紋章が現れました。それを見たとたん、生徒たちは一斉に緊張し、急いで姿勢を正して頭を下げました。中には指を組んで祈り始めるものもいました。
紋章は、月の世を導くある一柱の神の紋章でした。地球上では神を信じないという者も、ここにくれば誰もが神の前に頭を下げました。ここでは、実際に神の姿を見、その御業を見たことがない者はいないからでした。

教師もまた、その紋章に頭を下げ、深く感謝の言葉を述べると、また一定の儀礼の所作をして、紋章を消しました。生徒たちの間に、ほっとした空気が流れ、彼らはしばし呆然としながら互いの顔を見合わせました。ざわざわとし始めた生徒たちを、教師は鎮めると、さっきの小男を立たせ、自分の罪を述べるようにと、厳しく言いつけました。男は、苦しそうな顔をしながらも、仕方なく語り始めました。

「…はい。わたしは、会社で、ひとりの有能な部下に嫉妬し、彼の才能をつぶしました。それによって、彼は自分が地上で果たすはずだった仕事を果たすことができなくなり、結果的にそれは、多くの人を苦しめることになってしまいました」
「そうですね。あなたのしたことは、ごく簡単なことでした。ただ、その人のした仕事の、小さなところにケチをつけ、親切を装って余計な進言をしたのです。あなたは何度も繰り返し、そうやって彼を巧妙にいじめ続けました。そして、彼は自分の仕事全てをあなたに否定され、自分というものは馬鹿なものだと思いこまされてしまったのです。そして、本来やるはずだった仕事をすることが、できなくなってしまった。それは一見、たいしたこともないことのように思えましたが、実は大変なことだったのです。彼は使命を持っていました。地上に降りて学び、ある事業を興し、それによって、人類の罪の一部を浄化するという、大事な仕事をするはずでした。彼がそれをやれば、たくさんの人が、罪から解放され、生きるのがより楽になるはずでした。しかし彼がそれをやることができなかったため、いまだ人々はその罪の償いに苦しめられ続けているのです」

教師の言葉を聞きながら、男はうつむいて苦しそうにきょろきょろと目を動かしていました。いらだたしさが彼の足を妙な格好にねじらせていました。教師は男を座らせると、また続けました。

「このように、地球上には今、憎しみや妬み、孤独、悲哀、恐怖、さまざまな悪知恵を巧みな屁理屈に隠した偽善があふれています。地上で生きることはまことに苦しい。多くの人は、怪のささやきに負け、人生を失敗してしまいます。でも、中には、それに耐えて、何とか正しく道を歩もうと、あらゆる挑戦を続けている人もいます。彼らの存在が、地球上の生をかろうじて何とか支えているのだと言えましょう。では次の質問です、人類は、いつも、同じことが原因で、人生を失敗します。それは何ですか。答えてください」

教師は、庭の隅に座っている、きつい化粧をしたひとりの白人の老婆を指差しました。彼女は自分を何とか若く見せようと、少女のように髪を長くたらし、花模様の可憐な服を着ていました。老婆は答えました。「はい、それは、『NO』ということです」
「そう、そうです。NO、いやだ、きらい、だめだ。あるいは、『ちょっとそれはねえ』、『やめてよ、信じられない』、『馬鹿みたい、そんなこと』、『ほかにもっとちゃんとしたことはできないの?』、『まだそんなことやってるのね』…などなど、あなたはよく、自分の娘にそう言っていましたね」教師の言葉に、老婆は憎悪と嫉妬の混じった目で彼女をにらみながら、小さな声で震えながら答えました。「…はい、そのとおりです…」
老婆は、娘が自分より若く、愛らしく、未来と希望にあふれているというだけで嫉妬し、彼女の人生をずっと邪魔し続けました。娘はそんな母を憎み、やがてある男と結婚すると同時に、母親のいる実家には一切顔を見せなくなりました。そして母親が夫を失い、ただ一人残されて、病に落ちても、決して彼女に会おうとはしませんでした。結局彼女は、娘に見捨てられ、一人小さな家の隅で、娘を含めて世間の人皆を呪いながら、老い衰えて孤独に死んだのです。彼女の遺体が警察によって見つけられた時には、彼女はもう白骨に近い状態になっていました。

「人生の多くの失敗は、そう、『いやだ』と言ってしまうことが原因なのです。『おまえなど、いやだ』、『そんなことをするのは、いやだ』、『つらいのは、いやだ』…、人間はよくそう言います。そして全ての人を拒否して馬鹿にし、自分だけをいいものにしたがります。他人は馬鹿にして、自分だけが偉く、最もすぐれているのだと、思いたいのです。それはなぜでしょう。はい、次の人」
女性教師は、今度は別の、黒い眼鏡をかけた肩幅の広い褐色の男を指差しました。男は立ち上がり、それが法律だから仕方ないという感じの、事務的な言葉で返しました。
「はい、それは、人間がいつも、存在痛に苦しんでいるからです」
「そうですね。人類はいつも、存在痛に苦しんでいます。それは、この自分が、馬鹿で、必要のないものだと感じている、とても悲しい痛みです。怪はいつも、生きている者にささやき続けているのです。『おまえなど、いらない』、『おまえなど、馬鹿だ』、『はやく死んでしまえ』…。その声に心を侵された人々は、嘘の鎧で卑屈な自分の心を守り、巧妙な隠喩で他人を馬鹿にし、憎悪を隠して微笑み、皆と仲良くするふりをして、ひとりの部屋で胸の憎悪をぐつぐつと煮込みながら、誰かを罠にはめるための、巧みな知恵を編んでいるのです…」

教師は声のトーンを上げ、一息呪文を唱えて、その場に流れる不穏な空気を清めてから、続けました。「その地球上で正しく生きるためには、存在痛をなんとかしなければなりません。そして怪のささやきに負けぬため、愛を、しっかりと学び、それを実行する強さを身につけねばなりません。愛こそが、存在痛を癒すただひとつのものです。全ての不幸は、人が、人を馬鹿にすることから始まります。それは愛ではありません。人の存在を、丸ごと否定することなのです。真実の幸福は、人が人を愛することから始まります。みなさんに問います。愛を、知っていますか?」すると生徒たちは一斉に、「知っています」と答えました。教師は言いました。「では、愛を、実行することを、あなたたちはできますか?」すると生徒たちはざわめき、ため息をつき、あるいは顔をそむけ、あるいは下を向いて自分の膝をたたくなどして、それぞれの気持ちを表しました。彼らにとって、愛は、とんでもないものでした。地球上でそれをやれば、一斉に怪に襲われて、人生の全てを壊され、悲劇的な死に追いやられてしまう恐れがあるからです。ですから常に、外見は愛を装いながら、他人よりも賢く立ち回り、自分の人生だけを何とかうまく運ぶことが、一番大事だと考えるのが、彼らの当たり前になっていました。

教師は別に驚きもせず、その様子を静かに見守っていました。彼らの中のためらいや憎悪や不安やさまざまにうごめく暗い気持が、その場の空気を痛め、それが一斉に教師に対する嫉妬へと燃え上がり、ハエのように集合して群衆の暗黒に変化していくのを、月光や水晶の光が密かにさまたげ、静寂の中に散らしていきました。

そのとき、月色灯が、鈴のような音を歌い鳴らし、授業が終わったことを告げました。生徒たちの中に、ほっとゆるんだ空気が生まれ、彼らは肩の力を抜いて互いの顔を見あい、苦い歪んだ笑いを見せました。

「では、今日はここまで。次の授業は七日後です。必ず皆、ここに集まってください。来ない方は罪になります。わかっていますね」教師が言うと、生徒たちは一斉に、はいと答え、教師の合図を待ってその場から立ち上がり、敷物を持って次々と姿を消してゆきました。緑の庭に、生徒の姿がなくなると、教師はひとり月色灯の下で、ふっと息を落とし、右手で魔法をして白い碗を出すと、月光を汲んでそれに白い粉薬を混ぜ、一息に飲み干しました。

ああ、今日も終わったわ。薬を飲んで、生徒たちから浴びていた汚れを清めると、彼女は月を見上げながら誰にいうともなくつぶやきました。すると、楠の樹霊のひとりが、彼女に声をかけ、ねぎらいました。
「いつも大変ですね、先生」女性教師はその声に振り向き、笑顔を見せながら言いました。
「仕事ですもの。大変だなんて言ってはいられないわ。罪びとはいつも、形だけは立派に答えて、なかなか本当の進歩を見せてはくれないけれど、こうして繰り返しやっているうちに、何とか真実に導いていけるのではないかと、そう思ってやっているの」
すると楠の樹霊は、少し悲しげな目で彼女を見つめ、「…はるかな道ですねえ」と、慰めとも皮肉ともとれぬ言葉を言いました。女性教師はただ黙って、笑っていました。

やがて女性教師は、手に持っていた白い碗を消すと、薄藍の空に浮かぶ月や、常に生徒たちを照らし、励まし続けてくれていた水晶たちに礼をし、神に感謝の祈りをささげ、自分も少し休むために、そこから姿を消しました。

だれもいなくなった緑の庭の学校では、かすかに青い月光が、神さまだけが知っている本当の未来の秘密を言いたげに、小人のようにくすくすと笑いながら水晶の中に忍び込み、次の授業のための準備をし始めました。


 
 
 
 
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2025-01-19 03:12:44 | 月の世の物語・別章

月の世に、修羅の地獄はありました。そこには群青色の空の真ん中に、深くさげすむ歪んだ目の形をした細い二日の月がかかっており、たくさんの罪びとたちのやっていることを、いつも静かに見下ろしていました。

地上には深い森があり、罪びとたちはそれぞれに、木の棒や石や考えられる限りの使える武器を使って、常に他人と戦い、殺しあっていました。どのような原始的な武器でも、打たれた痛みはすさまじく、流血を見ることなどしょっちゅうでした。そして殺されても死ぬことはなく、三日後にはよみがえって、再び戦いを始めました。彼らは生前、敵と戦ってばかりいて、たくさんの人を殺しました。そして死後もそれを止めることができず、自分以外の者は全て敵だと言うように、会う者会う者、全てを攻撃していました。

今、その修羅の地獄で、一つの反乱が起こっていました。ある、最近死んだばかりの罪びとを中心に、生前縁のあった者たちが集結して、修羅の地獄を管理していた青年たちを攻撃しはじめたのです。彼らは一斉に青年たちに憎悪の瞳を向け、火のついた棒や石を投げられるだけ投げて、必死に彼らを殺そうとしました。青年たちは、何とか彼らを鎮めようとしましたが、彼らの首謀である罪びとは、かなりの知恵者らしく、巧妙に青年たちの裏を読み、思わぬところから攻撃をかけ、彼らを散々悩ませていました。

「やあ、どうだ、今の様子は?」乱を聞きつけて急いで降りてきた、茶色の髪をした一人の青年が、修羅の地獄の上空で、反乱で少し傷を負った同僚の、緑の目の青年に声をかけました。「やあ、君、休みはどうだったかい?」緑の目の青年は茶色の髪の青年を振り向き、少し息を荒げながら言いました。「ああ、友人と会ってきた。懐かしかったよ。それで今度は、こっちの友人の相手をしに来た」「それはご苦労なことだ。大変な友人だよ」緑の目の青年は、ポケットから小さな月長石のかけらを取り出すと、それを指でぽんと弾き、魔法で宙にひとりの男の顔を描きました。それはあごだけが奇妙に細長く伸びた、ぼんやりとした三白眼のどこか陰湿な感じのする男でした。

「二か月前にここに落ちた罪びとだ。彼は生前、テロリスト滅殺のための特殊部隊に所属していて、テロ組織の幹部を十人殺した。そのうちの四人は獄中での拷問殺。これがまた惨い。また暗殺活動中に関係の無い市民十六人を巻き込んで殺したこともある。結局は自分もテロリストに殺されたんだが、こいつがここで、自分が殺したテロリストたちと出会って、こういうことになった。要するに、どうして自分があいつらと同じなんだと言いたいらしい」「よくあることだ。自分が敵と同等だとは思っていないんだ、彼らは」「修羅の地獄とはそういうものだ。とにかく、彼らを鎮めるためには、この罪びとを何とかしなきゃいけない」「聖者様の助けは?」「いや、僕たちで何とかしよう。聖者様たちは今、地球の方で忙しい」。

修羅の地獄を管理する青年たちは、それぞれに、月長石でできた美しい短剣を持っていました。茶色の髪の青年は、胸を右手でぽんと打つと、その光る短剣を出して手に持ちました。そして下界の森を見渡しながら、反乱の首謀者である罪びとを探しました。「目印は、特徴的なあごだ。あれが修羅の森の木々を脅かす。たぶん木々が彼をみつけたら、何かの合図をしてくれるだろう。石が飛んでくるから、低空を飛ぶ時には気をつけろ」緑の目の青年もまた、短剣を持ちながら、森の木々の上を飛び、茶色の髪の青年に言いました。森の上には、同じように彼を探す青年たちの姿が、たくさん飛んで見えました。

茶色の髪の青年は、すいと低空に降り、しばし森の梢すれすれを飛びました。すると、ぐあお、と獣のような声をあげて、森に潜んでいた罪びとたちが一斉に彼に向かって石を投げ始めました。そのうちのいくつかを彼は短剣で跳ね返し、いくつかを、足と腹に受けました。木々の隙間から見える罪びとたちの顔は、憎悪に歪み、相手を殺すということだけしか考えていない、まるで魂の見えぬ獣よりも落ちた瞳をしていました。
「すさまじいな。修羅は人の魂をすりつぶす。まるで人間に見えない」茶色の髪の青年は言うと、呪文を唱え、月光を自分の周りに集めて、罪びとたちには自分の姿が見えないようにする魔法を使いました。そうして森に降りると、ほう、と梟の声真似をし、森の木々に合図しました。森の木々の樹霊たちは、その合図に応えて、かすかに枝をさわさわとゆらしました。

(かれは、かれは、石の中にいます!)樹霊のひとりが心の声で言いました。(石の中?)青年が返すと、(はい、かれは、かれは、まほうを、まねします。すこし、まねします、石にかくれる、まほう、つかえます。いま、いま、かれは、石の中を、いどうしています。つねに、せいねんたち、みています。にくしみに、もえています。ころそうとしています。ころそうとしています。ころそうとしています)と、木々たちは教えました。

ふと、上空から、おおう!と誰かの叫ぶ声が聞こえ、森がざわりとうごめきました。ほかの樹霊が、ほう、ほう、ほう、と声をたて、心の声で叫びました。(ちゅうい!ちゅうい!ちゅうい!ひとりやられた!右目、火の棒にやられた!ちゅうい!ちゅうい!かれら、目をねらう!目をねらう!)

茶色の髪の青年は、上空を驚いた目で見上げながらも、とにかく、森の中をあごの長い男が隠れていそうな岩を探し始めました。時に、罪びとが潜んでいる茂みのそばを通りましたが、姿を消している彼の気配には気付かず、彼らはただ、ぐるぐると吠えながら、目をきょろきょろとまわし、握りしめている石を投げつける的を探していました。

茶色の髪の青年は、木々の枝下を飛ぶように走りながら、森の中に点在する岩を一つずつ確かめ、例の罪びとの気配を探しました。上空を飛ぶ青年たちは、あるいは短剣で石を跳ね返し、あるいは鎮めのラッパを吹き、何とか罪びとたちの憎悪を鎮めようとしていました。森の中の岩を探して走っているうちに、茶色の髪の青年は、ふと、背後に不穏な気配を感じ、振り向きました。しかしその時にはもう遅く、あごの長い例の男が、「馬鹿め!それで隠れたつもりか!」と叫びながら、彼の頭めがけて火のついた棒を振り下ろすところでした。青年は頭に一撃を受け、うっと声をあげてそのまま地面に倒れました。そのとたんに、魔法が消えて、彼は罪びとたちの前に姿をさらしてしまいました。彼を見つけた罪びとたちは、目に狂気の笑いを見せながら一斉に彼の周りに集まり、嘲笑いながら彼を足で踏みつけたり蹴りつけたりし始めました。あごの長い男は、歯をむいて恐ろしい笑いを見せ、火の棒を彼の目めがけて突き刺そうとしました。青年は反射的に火のついた棒を左手でつかむと、右手で短剣を光る玉に変え、すばやく呪文を唱えて、それを爆発させました。

爆発は、森の木々をも巻き込んで、罪びとたちをいっぺんに吹き飛ばしました。茶色の髪の青年は、文字通り踏んだり蹴ったりの目に会った体をふらふらと立ち上がらせ、周りを見回しました。例のあごの長い男は、腰のところで体が半分に割れ、ずいぶんと離れたところに吹き飛ばされて倒れていました。他の罪人も、彼と似たような格好で、体に惨い傷を負い、あちこちに散らばって横たわっていました。森の木々が、一斉に叫びました。

「つかまえた!つかまえた!つかまえた!かれを、つかまえた!」すると上空を飛んでいた青年たちが何人か、茶色の髪の青年のところに降りて集まってきました。緑の目の青年が、惨事の真ん中に茫然と立っている茶色の髪の青年の肩をたたき、言いました。「すまなかった。君ひとりにやらせてしまった」すると茶色の髪の青年は青ざめながらも、落ち着いた声で言いました。「いや、これが僕の仕事だ。それよりも、今回は、たくさんの罪びとを、殺してしまった」「死んではいないよ。修羅の地獄では、死にたいと思っても死ねない。どんなむごい殺され方をしても、三日後にはよみがえって、また殺し合いを始めるんだ」「わかってる。でも、殺したことには変わりはない。木々も傷つけてしまったし、お役所に行って、罪の浄化を願ってくるよ」「ああ、そうした方がいい。後の処理は僕たちがやる。…言っておくけど、君のしたことは、決して間違ってはいない。あの場合、仕方なかった。僕でも、あの状況に落ちたら、君と同じことをやったろう」「…ああ、ありがとう」茶色の髪の青年と、緑の目の青年が会話を交わしている間、上空を飛ぶ青年たちはラッパを吹き、呪文の曲を流しながら、罪びとたちに首謀者のつかまったことを教え、鎮まるように叫び続けていました。

こうして、何とか反乱は治まりました。あごの長い三白眼の男は、三日後には割れた体もつながって生き返り、何もかもを忘れて、また憎悪と狂気に燃えて、戦いを始めました。しかしもう、彼を中心に罪びとたちが集まることはありませんでした。なぜなら、彼は乱を起こした罪により、首から下が毛の生えた類人猿のような姿になって、人間の声を発することができなくなり、魔法も使えなくなったからです。

茶色の髪の青年は、罪を浄化するため、三か月の間、罪びとたちに混じって、巨大な石臼を回し、豆真珠の粉をひく労働をしました。それは時には管理人に奴隷のように扱われ、鞭打たれねばならない、とてもつらい仕事でした。

彼は重い臼を回す棒を額に汗を流して押しながら、今頃修羅の地獄では、あの細いさげすみの月の光を浴びながら、罪びとたちはまだやっているのだろうかと、考えていました。


 
 
 
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2025-01-18 03:28:07 | 月の世の物語・別章

天文台は、地下にありました。なぜなら地上に建てては、常に空を照らしている日の光の、眩しい気高さをおそれて、小さな星の光は身を隠してしまうからです。そこで星の運行を研究している魔法学者は、日の都のほど近く、山を越えて少し離れた平地の地下に、広い空洞があるのを見つけ、そこに魔法で金の天文台を造りました。

天文台に備えた水晶を磨いた大きなレンズの望遠鏡は、闇の次元を超えて簡単に空の星を透き見ることができました。魔法学者はそんな大きな魔法の天文台を、一人で造れるほど、かなり高い智と力を備えており、それゆえに高い誇りを持ち、氷のように冷たい横顔の奥に、愛の灯を、高い塔に処女を閉じ込めるように隠していました。

魔法学者は、女性でした。彼女は長い髪を丁寧に編みこみ、魔法学者のしるしである四角い帽子をかぶり、黒い道服を着ていました。彼女は、天文台の中にある大きな知能器のキーボードをカチカチと打ちながら、画面に映る小さな星を見ていました。それは太陽系をひそかに回っている、まだ誰も知らない名もない氷の小惑星でした。彼女はだいぶ前からその星が、妙な振動をして軌道を回っているのに気付き、それをずっと観察していました。

と、部屋の扉がぎいと開き、誰かが入ってきて、彼女に「先生」と声をかけました。振り向くと、彼女の助手であるひとりの青年が立っていました。彼は、首から下は普通の人間の男性のようでしたが、頭だけは狼のように耳を立てた白い犬の容をしていました。彼は普通に人間の言葉を話し、魔法学者に言いました。

「調査結果が出ました。星の振動の原因は、地球が発した惑星探査機でした。探査機に潜んでいた邪気が、たまたま軌道上に落ちて、星がその汚れをこわがっているのです」
それを聞いた魔法学者は、深々とため息をつき、言いました。
「やはりね。人類は愚かだわ」
「先生、それを言ってはおしまいです。確かに人類は、高い技術をあまりに無邪気に使いすぎますが、私たちの仕事は、星を調査することによって人類を助けることなのですから」
「無邪気にね。それはとても優しい言い方ね」
魔法学者は冷たく言い放ちました。すると犬の頭をした助手は、かすかに片目を歪め、彼女を見つめました。彼は思いました。女性とは、なんと不思議な存在だろう。母のように優しく全てを受け入れるかと思えば、物事を丸ごと冷たく切り捨てることもある。それでいて、その笑顔ときたら、花のように愛らしいのだ。

「このまま放っておいて、この星が汚れに触れてしまっては、地球の運行にも影響が出るわ。真空の精霊が軌道を清めているはずだけれど、それでも追い付かないほど、汚れてしまったのね」
「はい、影響は少ないとは思いますが、決していいことではありません。人類の運命にも、影をさしかける恐れがあります」
「太陽系の運行は、全て神がおやりなさっている。精霊でも清められないのなら、神がそれをおやりになるはず。だのになぜ、神は地球のために、それをおやりにならないのかしら」

犬の顔をした助手は、しばし魔法学者から目をそらして、それを言うべきかどうか考えました。しかし彼の口は彼のためらいを無視して開きました。
「それはたぶん、神が私たちにそれをやれと言っているせいではないでしょうか。神は私たちがその星を常に観察し、研究していることをご存知です。神は私たちなら、軌道を清められるだろうと、私たちにおっしゃっているのではないでしょうか」
すると魔法学者は、その答えは当然だというように驚きもせず立ち上がり、同じ部屋にある別の知能器の前に移りました。その知能器のキーボードの中の白いキーをカチリと打つと、目の前の中空に大きな天球儀の幻が現れました。透き通った天球儀のあちこちには、星座を表す紋章がたくさん描かれて、それぞれの色に美しく光っていました。魔法学者は、キーボードを右手でカチカチといじりながら、しばらく知能器を相手にゲームのようなことをして、天球儀の紋章を動かしたり、裏返したり、光の色を変えたりしていました。そして左手には細い光のペンを持ち、見えない紙に何かをしきりに書いていました。

犬の頭の青年は、魔法のち密な計算に熱中している魔法学者を見ると、ふとそこから姿を消し、どこかへ行ってしまいました。

よほど時間が経って、ようやく魔法学者は「ふむ」とうなずき、言いました。「確かにできないことはないわ。とても難しいけれど。神がこれをやれと私たちにおっしゃっているのなら、やるしかないわね」彼女がそう言ったとき、犬の頭の青年はもうそこに戻っていました。そして小さな白い紙を、魔法学者に差し出し、言いました。
「そのとおりだと思います。お役所からも、許可が出ました」魔法学者は許可証を受け取り、そこに押してある日照界の紋章を見つめながら、「あなたの気が利くことといったら、天才的ねえ」と、明るい笑顔を見せました。

魔法学者は息をふっと吐いて、手の中に厚い書類の束を出し、それを半分助手に渡しました。「これが呪文よ。今すぐに覚えてね」助手は受け取った書類を風のような速さでぱらぱらとめくり、光る目でそれを読んで行きました。そしてそれを三度繰り返した後、「はい、覚えました」と言って書類から目を離しました。そのとたん、書類は彼の手の中から消えました。

魔法学者は手に杖を出し、「では行きましょう、あまり時間はないわ」と言いました。そして杖を振って天文台の隅に次元のカーテンを作り、そこをくぐりました。犬の頭の青年も、その後に続きました。カーテンの向こうには、闇の中に星々が散らばる、宇宙空間がありました。魔法学者は目を光らせ、空間のあるところに、ひどく傷んだガラスの割れ目のようなものがあるのに気付きました。魔法学者は驚き、「計算以上に、ひどいわ」と言いました。

魔法学者と助手は、その割れ目の放つ汚れの悪臭に顔をゆがめながらも、そこに近づいていきました。そして事前に言い合わせた通り、声を合わせて長い呪文を歌い始めました。魔法学者は呪文に合わせて、杖を踊るように動かし、中空に数々の魔法の印と紋章を描いてゆきました。すると割れ目はそれに反応し、少しずつではありますが、小さくなってゆきました。しかし、半分ほどに割れ目が縮まると、どんなに呪文を歌っても、割れ目はそれ以上小さくならなくなりました。魔法学者は焦りました。彼女の計算では、長い呪文の流れの六割程度のところで、汚れはほとんどなくなるはずでした。しかし、呪文がその六割を過ぎて、七割、八割のところまで来ても、割れ目は一切反応せず、暗い口を中空に開けたまま、そこにありました。

呪文の九割を読み終えた時、魔法学者は、星が、軌道をわたって、だんだんとこちらに近づいてくるのに気付きました。いけない、と彼女は思いました。このままでは星が汚れに触れ、太陽系での役目を放棄してしまう恐れがある。危機を感じた彼女は素早く頭の中で計算し、ある魔法を行うことを瞬時に決めました。助手は、隣にいる魔法学者が、突然、予定とは違う呪文を唱え始めたのに気付き、叫びました。
「先生!いけません!それをやっては!!」しかしもう呪文は放たれた後でした。その呪文が割れ目の中に飛び込んだと同時に、割れ目はがしゃりとしまり、一瞬にして汚れは消えました。しかし同時に、次元の衝撃からくる反動が、絶対零度の冷酷な刃の破裂となって彼女に襲いかかり、彼女はその衝撃で自分の杖と腕を一瞬にして砕かれました。

自らの力を超える魔法を使い、両腕と杖をいっぺんに失い、それゆえに魔法の力をも全て失った魔法学者は、疲れ果て、力なく宇宙空間に浮かびました。助手は、飛びつくように彼女の体を抱き上げ、涙を流しながら言いました。
「なぜ、このようなことを!」彼がそれを言うと同時に、小さな星は無事に汚れの消えた軌道を渡り、通り過ぎてゆきました。魔法学者は助手の腕に抱きかかえられながら、言いました。
「愚かねえ、わたしも。愛には、かなわないわ」

助手は涙を流しながら、彼女を抱きしめ、そのままカーテンをくぐり、元の天文台へと戻りました。彼は彼女を天文台の隅の長椅子の上に寝かせると、ひとしきりそのそばで、泣き声をあげていました。

「なぜ、なぜ、神はこのようなことを…!」助手が泣きながら言う言葉に、魔法学者はやさしく答えました。「心配しないで、腕はまた再生するわ。時間はかかるけれど。魔法の力も、だんだんと戻ってくる。神の御心は、わかっているの。私たちは時に、愛を全うするために、自らの存在を賭けて挑まねばならない。そうして、今の自分を超えた自分の力が自分のどこにあるかということを、神に教えられるのよ」

魔法学者の言葉に、助手は頭を抱え、耐えきれぬというように、激しい嗚咽をあげました。
「愛は、愛は、このようにも惨いことを、人にさせるものですか!」
「私は自分の意志でやったの。誰に命じられたのでもないわ。愛を責めてはだめよ。あなたのためにならない。それよりも、助けてちょうだい。疲れたから、少しお水が欲しいの」
その言葉に助手はすぐに反応し、右手の魔法で、清い水の入ったガラスのコップを出し、腕のない魔法学者を助けて、それを飲ませました。

「ありがとう。おいしいわ。誰かに優しくしてもらうのは、ずいぶんとひさしぶりね」
魔法学者は、少女のように微笑み、ほんとうにうれしそうな顔で、助手を見つめました。助手もまた、涙を流しながら、笑ってうなずきました。

天文台の中で、二人はしばし沈黙の休息をともにし、ひそやかにも清らかな愛の、耳には聞こえぬ声を、交わしていました。


 
 
 
 
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