青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-01-04 03:11:47 | 月の世の物語

そこは、地球上の、ある小さな国の、ある小さな田舎町でした。

一両編成の列車が、古い小さな無人駅に止まり、開いた列車の扉から、一人の若い女が降り立ちました。女は、栗色の柔らかい髪を肩のあたりで切りそろえ、質素だが適度に愛らしい、品のよい服装をしていました。

駅を出ると、そこに少し道の広がったところがあり、三方に向かって道が延びていました。彼女はそのうちの真ん中の一番広い道に進み、その道の中ほどにある小さなスーパーに、入って行きました。食品売り場で、彼女はいくつかの野菜や肉などをテキパキと籠に入れ、今度は文房具売り場に向かいました。そこで夫に頼まれていた便箋と封筒をとり、籠に入れると、ふと、売り場の隅にある、小さな小物に目が行きました。

それは、茶色の地にピンクの花模様が描かれた、樹脂製の安物の髪留めでした。いつもなら、そんなものには見向きもしない彼女でしたが、今日はなぜだか、その花模様が目にとまり、何だかうれしい気分になりました。そして、それを手にとってしばし花模様を見つめた後、たまにはこんなのもいいだろうと、それも籠に入れました。

スーパーで買い物をすませると、彼女はまた表の道に出ました。そして道を曲がり、古い商店街に入って行きました。その商店街は、とても古くからあり、半分ほどの店はもうとっくの昔にシャッターを閉めていましたが、中にはまだ細々と営業を続けている店もあり、彼女は、その商店街の一番端にある、小さな雑貨店の前で、しばし立ち止まりました。

店の中は、異国風の内装がしてあり、見たこともない形や色をした変わった鞄や、籠の小物いれ、七宝の髪飾り、お月さまの形をした紅水晶のペンダント、異国の神様を染め抜いたタペストリ、色とりどりの陶器のカップ、木でできた小人の人形など、いろいろと魅惑的なものがたくさん置いてありました。彼女は、その店には入ったことはありませんでしたが、この商店街を通る時、なぜかいつも足をとめてしまい、ついショーウインドウから中を覗いてみるのでした。

ふと、彼女は、ウインドウの一番手前に飾ってある、陶製の小さな天使の人形に目が行きました。よく見ると、その人形は小さいながらも、細かいところまでとても丁寧に作ってありました。天使は赤いバラの咲いた小さな庭に立ち、かわいい白い服を着て、小さな白い翼を背に負い、目を閉じてうっとりと小さなバイオリンを弾いていました。彼女はその天使の、茶色の巻き毛を肩に下ろした愛らしい子供のような顔に、しばし見とれ、ほっとため息をつきました。一瞬、鞄の中の財布に手が伸びそうになりましたが、人形の足元の値札に書かれた数字を見て、あわてて手をひっこめました。彼女は、天使にちょっとほほ笑みかけると、幸せそうな顔で道の明るい方に顔を向け、歩き出しました。

商店街を出ると、少し道は広がり、古い住宅の並ぶ古い街がありました。遠くには、緑の山並みが見え、空は青く晴れあがっていました。季節は初夏でした。道の端の舗道に並ぶ街路樹たちも、若い緑に身をつつみ、生命の輝きを見せようとしていました。女はなぜか幸せでたまらず、思わず笑ってしまいそうになりました。ふと、一本の街路樹の中にこもる樹霊が、彼女に気付き、びっくりしたような目で彼女を見ました。もちろん、彼女はそんなことには何も気づかず、ただ前を向いて歩いていました。

そのときでした。一陣の風が起こり、一瞬、彼女の髪を吹きあげたかと思うと、時が止まりました。すると、彼女を取り囲むように、突然宙空に三人の聖者が姿を現し、彼女を見下ろしました。近くから見ると、女はとても白い肌をしており、丸顔で、醜女の君を可愛らしくしたような顔をしていました。聖者たちは何も言わず、一斉に彼女に杖を向け、そこから彼女に向けて青い光を放ちました。光は、まるで瓶にミルクを注ぐように、彼女の中にとくとくと満ちていきました。そして、光が彼女の体全体に十分に満ちたのを見ると、三人のうち二人の聖者はすぐに姿を消しました。残った聖者は、彼女の背後から、その背中に杖で光る文字を描き、その文字が彼女の背中にしっかりと染みこんでいくのを、確かめました。そして次に、彼は呪文を唱え始め、自分の体を、だんだんと小さく折りたたみ始めました。呪文の中で、聖者の体は見る間に小さくなり、しまいに木の葉のような形をした小さな青い光となったかと思うと、それはするりと、女の首元に入って行きました。

全ては、一瞬のうちの出来事でした。一部始終を見ていたのは、ただひとりの樹霊だけでした。彼は茫然と目を見開き、女の姿を見ていました。

女は少し、首元にかゆみを感じたかのような気がしましたが、特に気にするほどでもなく、また前を向いて歩き始めました。道は、初夏の明るい光に、満ちていました。その彼女の中で、聖者は彼女の目を通し、外界を見ていました。聖者の目には、女の幸せそうな顔と愛らしさを嗅ぎつけて、もぞもぞとうごめき出した蜘蛛やムカデの影がそこらじゅうに見えました。しかし彼女の目には、それはごく普通の、明るい日向の舗道にしか見えませんでした。彼女は日の光を浴びながら、どんどん歩いていきました。と、ふと彼女は、舗道の端の石につまずき、転びそうになりました。

(だめよ、道を歩くときは、気をつけなくちゃ)彼女は心の中でつぶやきました。でもそれは、本当は彼女の思いではなく、聖者が彼女の心の中でささやいた声でした。しかし彼女はそれを当然自分が思ったことだと思い、心の中で言いました。(そうよ。気をつけて歩かなくちゃ。ちょっとつまずいただけで、大変なことになっちゃうもの。)

女は、幸せそうに笑い、顔を真っ直ぐに上げて、また歩き出しました。早く家に帰らなくては。そして洗濯物を取り込んで、片づけものをして、そう、夕食にはちょっといつもより凝った料理を作ろう。買い物は済ませたし、準備はもう万端!
若い彼女には、愛と幸福に満ちた明るい未来しか、見えていませんでした。さらに今の彼女にとって、何よりも幸福なのは、今夜帰ってくる夫に、初めての妊娠を、告げられることでした。

足元に気をつけなくてはと、あれほど言ったのに、どうしても抑えることができず、足は自然に速まり、彼女は踊るように歩き出しました。

世界は、何もかもが平安で、美しく、幸福で、すべてが、光に、満ちていました。


 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2025-01-03 03:38:51 | 月の世の物語

その夜、天の国は新月でございました。黒い空に黄金に光る月の姿はなく、ただ、自ら光る天の国の光をかすかにはね返して、月は暗色に灯り、いつもとは違う顔を、空にかけておりました。

花の庭では、いつものように王様のための奏楽が行われていましたが、それも始まって間もなく、梅花の君が気配にお気づきになり、皆に演奏をやめるように告げました。
「まあ、もう王様はお眠りになったのですか?」「そういえば、この前も、こんな風でございました」「どうなすったのでしょう?まさかお体のお具合でも?」さわめく天女たちに、梅花の君は人差し指を口に立てて静まるようにおっしゃり、不注意なことを言ってはならぬと戒めました。天女たちは素直に自分たちの過ちに頭を下げ、梅花の君の言うとおり、それぞれ自分たちの小屋へと帰ってゆきました。

彼女らは、それから、美しい珠玉を孕む貝を育てている池を清めたり、天の国で産出する翡翠を彫って根付をこしらえたり、王様のお心をたたえるための花を育てる畑の世話をしたり、それぞれの仕事にいそしみました。新月によって、特に仕事のない者は、書堂に集まり、王様の著された美しいお詩集や、物語や、難しい学問の本などに、読みふけりました。

ただ、梅花の君だけは、王様のお宮の傍に残り、心配そうなお顔で、王様の寝顔を見つめておいででした。王様は、いつものように、ひじ掛けのついた立派なお椅子にお座りになり、ひじをついて安らかにお眠りになっておりました。見た限り、王様のご様子には、何も変わったことはございませんでした。王様はいつものように、日々、学問にお励みになり、神の御言葉を懸命に帳面に書き写したり、ご自身のお考えや御歌などを書かれて、美しい書物を著されたりしておりました。天女たちの奏楽にも楽しく耳を傾け、回数こそ少し減ったものの、学堂での講義もちゃんとこなしていらっしゃいました。

梅花の君は、王様のお顔から少し目をおそらしになり、ほう、と息をつかれました。ふと、彼女は、以前、王様が天の国をご散策になり、国の一番端の岬に立ち、空に向かって風に吹かれながら、朗々と、ご自分のお好きな歌を歌っているのを見たことがあるのを、思い出しました。

「わたしは、わたし…、わたしは、愛…」
梅花の君はつぶやくように、かすかな声でその歌を歌いました。天女たちも、王様に頼まれて、その歌を何度も奏でたことがありました。
しかし、岬の端に立って空を見ていた、あのときの王様は、いつものようにほほ笑んではいらっしゃいましたが、はるか空の彼方を見つめ、あまりにもさびしそうな瞳をなさっておいででした。そのお顔を見た時、梅花の君の胸はきりりと痛み、王様の悲しみを理解できぬ自分の学びのいたらなさを、厳しく責めたものでした。王様は、この上もなくお美しい声で、空に向かって、歌っておいででした。

「行こう。道は厳しく、つらく、そして長い。だがわたしは行こう。それがわたしの、誰にも恥じぬ、真実の道ならば……」

聖者様方は、多分ご存じでありましょう。しかし、天の国の者たちも、また学堂に集まる者たちも、さらに月の世に住む者たちも、誰も気づいてはおりませんでした。ただひとり、梅花の君だけを、のぞいては。

あの、安らかにお眠りになっている王様は、本当の王様ではなく、王様ご自身がそのすばらしい魔法の力で、見事におつくりになった、幻であることを。そして、本当の王様は、もうとっくに、ここにはいらっしゃらないことを。

のどにこみ上げるものを感じ、梅花の君は涙のあふれだした顔を羽衣で隠しながら急いでお宮の傍を離れ、空に飛びあがりました。そしてご自分の機織り小屋へと帰られたかと思うと、全ての扉と窓を閉め切り、ご自分を結界の中に閉じ込めて、その中で激しく声を上げてお泣きになりました。悲しみがあふれ、滝のように涙が流れ、それは小屋の床をいたく濡らしました。

行ってしまわれた!とうとう、行ってしまわれた!あまりにも、あまりにも、厳しすぎる道へと……!

梅花の君は小屋の床に何度も額を打ちました。悲哀が彼女を打ちのめし、どうしようもない孤独の嵐の中に魂を迷わせました。そして次に彼女は、ご自分のあばらの中で、何かが生き物のように激しく暴れているのを感じました。それは彼女ののどを無理やりこじあけてぐいぐいとのぼりはじめ、やがて一羽の白い鳥となって彼女の口から飛び出しました。宙に鳥を吐いた梅花の君は、力尽きて床にはたりと倒れ、そのまま動かなくなりました。

白い鳥は、しばし、ちろちろと鳴きながら小屋の中を飛びまわったかと思うと、突然鉄砲玉のようにまっすぐに天井を破り、小屋の屋根を抜けて、空高く飛び上がりました。それは、誰にも、決して言ってはならぬ、彼女の胸の痛い叫びの化身でした。その声は、白い鳥の中で、破れた心臓のように全身に血を浴びながら、何度も木霊のように繰り返し、叫んでいました。

神よ!なぜあなたは、あの方に、行けとおっしゃったのですか!!

白い鳥は最初、空にかかる暗色の月を、まっすぐに目指しているかに見えましたが、一瞬、ちろり、と鳴いたかと思うと、すぐに方向を変え、はてもない暗闇の向こうへ、どこへともなく消えて、見えなくなりました。

 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2025-01-02 03:14:58 | 月の世の物語

太陽風の吹く、暗い宇宙空間に、青い鳥船はゆっくりと止まりました。その操縦席では、女性役人が三つの窓から見える星の位置と、七つの計器が示す光る数字の動きを確かめながら、小さな舵を回し、微妙な位置を調整していました。やがて、すべての計器が計算通りの正確な位置を示すと、女性役人は静かに、「つきました」と言いました。船の中には、彼女のほかに、ただひとりの聖者の気配がありました。

女性役人は、未だ女性でしたが、もうすでに準聖者の資格は得ており、この仕事が終われば上部に上がることになっていました。ために声はもうかなり低く、胸も平らになり、物腰はすでに男性のものでした。

振り向くと、聖者はすでに青船の扉を開け、その外に見えるものを見下ろしていました。彼は片手に杖を持ち、もう片方の手には、今までの中で最も大きな水晶球を抱えていました。その光のために、青船の中はいっそう青く深く、まるで神の浄海の底のように光っていました。
女性役人は舵を船に任せると、聖者に近寄り、彼と同じ風景を開いた扉の向こうに見ました。「ここから見ると、まことに地球は美しいですね」彼女が問いかけると、聖者はただ、「ああ」と答えました。彼らの視線の先には、青い地球が、まるで毬のように、暗い宇宙空間に浮かんで見えました。

その聖者は、白い髪を短く刈り、長身の若者の姿をしていました。彼は、月の世のどの聖者よりも激しく苦しい修行を積み、深く高く学び進み、それゆえにすばらしい智と力を得ており、誰よりも高い空から真実を見ていました。そのためにか、その姿は凄まじいまでに美しく、鋭く地球を見下ろすその目は金色に光り、何億年を凍る氷壁のかけらを秘めているかのように冷たく、見る者を凍らせる深い悲哀をたたえていました。彼のその美しい姿を見て、心を動かされぬ女はおらず、男性化の進んでいる彼女でさえ、胸の奥に苦いものを隠していました。

聖者は地球をじっと凝視しました。目を凝らすと、何十人かの聖者が地球上の各地に作った、光る目印がいくつも見えました。彼はその目印の中でもっとも大きい、地球の真ん中にある大きな的の光を見ました。女性役人が言いました。「ここから、ひとりでゆかれるのですね」すると聖者は冷たくも静かな声で答えました。「ひとりだが、ひとりではないだろう」女性役人は目を伏せ、確かに、と言いつつ、聖者のそばを離れました。彼はこれから、自らの手で、あの地球の真ん中の真ん中に、その最後の水晶球を持って行くのでした。

「行く」と、彼はひとこと言うと、ふわりと宇宙空間に身を躍らせました。するとたちまち、真空を泳いでいた透明な精霊が幾たりか彼に従い、「ともにいきます」「ともにいきます」「ともにいきます」と彼にささやきました。彼はそれには返事もせず、ただ真っ直ぐに地球を目指しました。彼が行くに従い、彼の後を追う精霊の数は多くなり、その声の響きも大きくなりました。「ともにいきます」「ともにいきます」「ともにいきます」「ともに」「ともに」「ともに」……。

ふと、彼の目の前で、青い地球の表面がゆらぎ、そこに白い女神のお顔が見えました。女神は、長い髪を清楚に結い、その青い瞳には深い絶望をたたえながら、口元にほほ笑みを浮かべ、全てを受け入れていました。聖者ははるかなものを見るように、目を細めました。女神は聖者を見つめると、何もおっしゃらず、ただ静かに目を閉じられました。

と、また地球の表面がゆらぎ、女神のお顔は消え、代わりに今度は、たっぷりとした黒い髭を口のまわりにためた、雄々しい男神のお顔が現れました。聖者は目を見開きました。男神は、金色の目で聖者を正視しました。聖者は震えあがるような冷たい風を感じました。男神は、聖者をしばし深く見つめたかと思うと、光る目をかすかにゆがめました。そしてまるで悪戯を一緒にする子供のように、にやり、と彼に笑いかけました。とたんに、聖者の全身を、信じられぬような歓喜が貫きました。聖者は一層目を見開きました。ほおを打つ真空の痛みを感じながら、彼もまた、金色の目で、にやり、と笑いました。

すごい。すさまじい。自分は、あそこに行くのだ。あの、邪気と狂気の渦巻く腐った世界の、その真ん中の、神の怒りの熱と光の渦巻く、嵐の地獄の中へ!

全身を骨も裂けんばかりの快楽が貫き、瞬間彼は我を忘れ、高い笑い声をあげていました。

はあ、はっはっはっはっはっはっはああああああ!

その声に、まだ遠目から見守っていた真空の精霊たちが魂を揺り動かされ、彼の後を追い始めました。「ともにいきます」「ともにいきます」「ともにいきます」「ともに」「ともに」「ともに」「ともに」「ともに」「ともに」「ともに」……。

神はもう一度聖者に笑いかけると、今度はまっすぐにその視線で彼をとらえ、大きなお手で地球の真ん中の光る的を指しながら、聖者に向かって、確かな声を発しました。その声は、聖者の耳に、こう聞こえました。

「さあ、来い!」

聖者は青ざめながらもますます歓喜に酔い、杖をまっすぐにその的に向けました。行きます!今行きます!神よ!神よ!かあみいよおおお!!

そして彼は、ふと、また元の冷徹な瞳に戻り、地球の的を見据え、ただひとこと「行く」と言いました。その声に精霊たちは一斉に、「はい!」と答えました。その返事はすでに数千の大合唱となっていました。

やがて、聖者の姿は、青い地球の中へと消えて、見えなくなりました。青船の中で、一部始終を見ていた女性役人は、彼が大気を破った音、そして的を打って地中に身をたたきこんだ音をその目と耳で確かめました。ふと、彼女は、幻のように、地球の風がゆらめいたような気がしました。そして彼女は、まるで地獄に落ちていく男の悲鳴のような、微かな地球の叫びを聞きました。それはこう言っていました。

神よ神よ神よ、幾万、幾億度と裏切られながら、なぜそのように、なぜそのように、わたしを愛してくださるのか!!



 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2025-01-01 03:09:56 | 月の世の物語

「まあ、こんなとこで赤ん坊を見るなんて!」女は歓声をあげ、思わず籠の中に眠っている赤ん坊に手をさしのべました。赤ん坊はまだ生まれて間もないらしく、首もまだ座っていませんでした。女は自然にその首を手で支えながら、やさしく胸に抱きかかえました。

そこは、森の中の、一軒家の中でした。博士は椅子に座り、テーブルの上に出されたお茶に手を出しながら、言いました。「すみません。魔法を使える女の人の知り合いっていうと、あなたしか思い浮かばなくて…」すると女はほほ笑みながら博士を見て、言いました。「いいのよ。わたしも友達なんてほとんどいないの。時々村から薬を買いに来る人がいるだけ」。
博士は赤ん坊にほほ笑みかける女の嬉しそうな顔を見ながら、お茶をすすりました。すると、一瞬のどを焼けるようなものが下り、それが胃の腑に落ちたかと思うと、全身にしびれるようなものが走りました。彼は声を上げることもできず、口を押さえながらしばし薬の魔法に茫然としていました。気がつくと、彼は少し体重が軽くなったような気持がしていました。半月島の人にありがちな、ある種の垢がとれ、博士は少しの間、シャワーを浴びた後のような爽快感を感じました。博士は元々、三十代半ばほどの男性の姿をしていましたが、それも今は二、三歳ほど若返ったように見えました。

しばらくすると、博士は言いました。「…聖者様の言うとおり、胎児を育てて、赤ん坊になって生まれてくれたものの、それからどうしたらいいかわからなくて、お役所に相談に行ったんです。そしたらそこで、ずいぶんと驚かれました。実に、怪が人間に戻ったのは、カメリアが初めてだそうなんです…」
「まあ、そうなの?」女は目を丸くして、博士を見ました。「…ええ、それでお役所でも、いろいろと調べられました。カメリアは、聖者様が関わってるから、特殊な例なんだそうですが…。何でも、お役所でも、古文書の分析が進んでるとかで、怪が人間に戻る方法が、だんだんとわかって来ているそうなんです。詳しいことは教えてくれませんでしたが、一部ではもうその準備段階に入っているとか…」そのとき、どこからか、ぐっ、と言う鳴き声が聞こえました。見ると、窓辺に小さな水槽があり、中で一匹のムカデがもぞもぞと動いていました。

女は以前、若い女の治療をしたときに捕まえたムカデを、ヨハネと名付けて飼っており、その飼い方を教えてもらいに、半月島の博士の元を訪ねたことがあったのです。

「まあ、そうなの」と女はまた言い、体を揺らしながら赤ん坊を抱いていました。カメリアは何も知らないかのように静かに目を閉じ、すやすやと眠っていました。女は赤ん坊の顔をなで、その柔らかい産毛にさわりました。「まあ、この子は金髪ね。瞳は何色かしら?きっとかわいい娘になるわ」女が言うと、博士は、その幸せそうな顔にしばし呆然と見とれました。女はしばらくして、きっぱりと言いました。「いいわ、わたしがこの子を育ててあげる。向こうで子供を育てたことはあるし。もうずいぶん、あっちには行ってないけど、赤ん坊を育てるくらいはできるわ」
「そうか…あなたは火あぶりで死んで以来、地球には行ってないんでしたね」博士はつい言ってしまい、胸の中で自分のうかつさを責めましたが、女は別に気にする風でもなく、子守唄のような旋律をささやきながら、ただ幸福そうに赤ん坊を見つめていました。
その顔を見ているうちに、博士の目がふと陰り、胸につまるものが現れました。彼は赤ん坊のカメリアを抱く女から目をそらし、しばし床に目を落としました。そして、ゆっくりと顔をあげ、口を開きました。

「…お役所で、聞いたことによると、カメリアは、これから二十年かけて、二十歳まで育つそうです。そして、それから彼女は……」博士はぐっと、言葉に詰まりました。女は博士の様子の異変に気付き、はっとして彼を振りむきました。
「つ、罪を、今までの、今までやってきたことの罪を、つぐなうために、地獄に赴かねばならないと……、そしてそこで、そしてそこで、か、彼女は、今まで自分が苦しめてきた大勢の人々に、みんなで嘲笑われ、苦しめられ、何度も何度も、殺されるような目に、あわねばならないと……」いつしか博士の声は震え、頬に涙が流れていました。博士は顔を覆い、テーブルの上に伏しました。そしてその時、女の脳裏に、いっぺんに過去の記憶が蘇りました。

山のように積まれた薪の上に、縛られて動けない自分の姿の幻を彼女は見ました。誰かが薪に火をつけ、炎は燃え上がりました。女は悲鳴をあげたか、何かを叫んだか、それを覚えてはいませんでした。ただ次に蘇ったのは、炎の中で、もうすでに死んでいる彼女の遺体に向かって、まだ罵りの言葉を吐き、炎をもっとかきたてようと薪を投げ続ける、大勢の人々の、憎悪に満ちた顔、顔、顔でした。彼女はその時一人の子を持つ主婦でした。毎日の家事をただ平凡にやりこなすだけで、罪など何も犯した覚えはありませんでした。でも人々は平気で嘘をつき、彼女の罪をでっち上げ、立派な魔女にしたてあげました。

彼女は、死んでしまった自分の体の上から、彼らの顔という顔を見回していました。そして彼らが心の中で叫んでいる声をも聞いていました。それはこう言っていました。

消えろ、消えろ、おまえなんか、すべて、すべて、消えてしまえ……!

女の背筋を激しいものが走りました。瞬間、その目が光り、何かが彼女に乗り移ったかのように、その口は自然にものを言いました。

「今、わかったわ。なぜわたしが、日照界でなく、月の世に来たのか…。カメリア、あなたに出会うためだったのね」彼女は抱いた赤ん坊を胸から離し、両手で支えながら捧げ持つように少し上に持ち上げました。そしてその安らかな寝顔を見ながら、やさしくもきびしい、母の声で言いました。
「カメリア、あなたは普通の娘ではないわ。あなたはすばらしい希望。すべての怪の希望。わたしが、わたしがすべてを教えてあげる。そしてできることはなんでもやってあげる。与えられる力はすべて与えてあげる。そして、あなたは、あなたは行くの。いつかきっと、行くの……」

博士は、口もきけず、茫然と女の顔を見つめていました。いつしか涙はかわき、博士の胸の中にも、熱いものが生まれはじめていました。

「道は厳しく、つらく、長い、だけど行かねばならない、あなたは」歌うようにそう言うと、母の顔になった女は、赤ん坊を深く胸に抱きしめました。水槽の中で、ヨハネがまた、ぐっと、鳴き声をあげました。

窓辺に立ち、赤ん坊を抱くその女の姿に、博士は一瞬、聖母子の図を思い浮かべました。



 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024-12-31 03:43:42 | 月の世の物語

その日、海は青く平らかに、はるかにどこまでも広がっていました。風はなく、青い空に日は照り映え、ただ誰も聞かぬひそやかな声を、静寂の裏にすべて隠していました。

その海の底では、灰色の髪と髭を短く刈った聖者と、一人の女性役人が、海底に描いた大きな魔法陣の周りで、水晶球の来るのを今か今かと待っていました。魔法陣と彼らの周りには、三重の結界が張ってあり、そこから海上に向かって斜めに伸びる長く光る道がありました。その道にもまた、三重の結界が張ってありました。

ふと女性役人が、陣内に魚のようにまぎれこんできた邪気を、息で吹き消しました。彼女は微かに瞳に悲しみを見せ、つぶやきました。
「これだけやっても、まだ邪気がきますね。まさに、最後の難関…」
「最後ではない。まだ一つ残っている」「そうでした」女性役人は静かに返事をしました。
聖者は言いました。「天気は上々だ。神は空にいまし、すべてをごらんになっている。ここをここまでにきれいにすることは、神の助力なしにはできなかった」すると女性役人は答えました。「確かに。ここは血の雨が降りすぎている。おそろしい邪気です」すると聖者は厳しい声で眼光を強め、言いました。「これは、邪気というものではない。腐っているのだ」女性役人は、静かな声で、確かに、と答えました。

女性役人は、長いまっすぐな黒髪を、首の後ろで一つにまとめ、背中に長く垂らしていました。端正な顔立ちは繊細ながら硬質な輪郭をしており、どこか少年を思わせるところがありました。彼女は未だ、役人の身でしたが、聖者の元で長く修業を積み、深く学び進み、もうすぐ、準聖者として上部に上がり、新しい段階の学びを始めることになっていました。それは彼女にとって、女性の姿を捨て、男性として生まれ変わることでもありました。なぜなら、上部に上がれば、もう性別は必要なくなるからです。聖者がすべて男性なのは、このためでした。彼女の体内で、ひそかに男性化は進んでいましたが、未だその声は高く、胸には小さなふくらみがありました。

「軌道計算には?」聖者がもう一度確かめるように言いました。「ミスはいたしません」女性役人はすぐに答えました。と、海上から、かすかな風の音が聞こえました。
「来たな」聖者は言いました。すると、これまで見たこともないような大きな水晶球が、海面を音もなくするりとくぐって、青い光で海中を照らしながら落ちてきました。聖者と女性役人はただ黙って静かに見守っていました。水晶球は海の微かな邪気の匂いにも壊れることなく、女性役人が計算した軌道を外れることもなく、三重の結界に守られた海の道を静かに下り、無事に魔法陣の真ん中へと吸い込まれました。女性役人は、その深さも位置も十分であることを確かめると、上に向かって口笛を吹きました。

すると、それはそれは大きな水鳥が、海上で一息の風を起こしたかと思うと、ずぶりと海面を破り、弾丸のように海中に入ってきました。大水鳥は、海中にその全身を見せるや否や、突如まるで大入道のような赤い巨人に姿を変え、おおおああああ、と大きな叫びを上げながら、魔法陣に向かって真っすぐに落ちてきました。そして海底にどすんとぶつかったかと思うと、それは瞬時に赤い巨岩に姿を変えて魔法陣の全てを覆い、めりり、と音をたてて、海底の土に半身を沈めました。聖者が、ほう、と声をあげました。
「完璧だ。追加の魔法をする必要もない」女性役人は、はい、と答え、「すばらしい精霊です」と感じいったように言いながら、見事な赤い巨岩をたたえました。

「地球大浄化、か」岩を見ながら聖者が言いました。この一個の水晶球で、地球上に埋める水晶球はほぼ終わったようなものでした。あらゆる聖者や数々の役人たち、青年、少年たち、多くの者たちが地球に降り、あらゆる場所を浄化し、千個もの水晶球を地球に埋め込みました。準備は着々と進んでいました。すべては神のお導きどおりでした。

聖者と女性役人は巨岩の守りの完璧さを隅から隅まで確かめると、仕事が完遂したことを互いに認めあいました。そしてともに上を見つつ、しばし迎えを待ちました。静かな時が流れました。女性役人は軌道を囲む最外部の結界の一部に傷がついているのに気付いて、目を暗くしました。何と汚れていることだろう、ここは。しかし神はそれでもおやりなさる。

女性役人は思わず言いました。「これで、本当に、地球上に愛の花が咲くのでしょうか?」
と、聖者は弟子の見せた思わぬ女性的な愛らしさに、ほっと、笑顔を見せ、言いました。「花か。花に似ていないこともない」聖者は言葉を切り、悲哀にも似た色を目に浮かべ、しばし口をつぐみました。と、海面に大きな船の影が現れました。「青船がきた。行こう」聖者は言いながら、上に向かって泳ぎだしました。女性役人も、その後を追いました。

聖者は船の影を目指し、微かに痛む邪気の中を泳ぎながら、やさしくも厳かな声で、女性役人に言いました。「だが、咲くのは、花ではない。渦だ」。「渦?」と女性役人が返すと、聖者は、そう、と答え、続けました。「嵐の、大渦だ」。

海上では、迎えの大きな青い鳥船が、ゆったりと風に浮かび、彼らが姿を現すのを待っていました。


 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする