青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2024-12-22 04:06:47 | 月の世の物語

深い森の奥、緑の香り濃い聖域の中で、ひとりの童女が、目を閉じて静かに笛を吹いておりました。梢の隙間から、さらりと金の布を下ろすように月光が射し、かすかな風の響きを従えながら、清い笛の音は森の秘密の中に、静かに溶けてゆきました。童女は白い古風な着物を来ており、清めの赤玉を三つ首にかけておりました。黒髪も古風に結い、きれいな赤い紐で髷を結んでおりました。

童女はふと目を開け、笛を吹くのをやめました。見ると森の緑の下草が、微かにゆれてざわめいていました。童女は目をぱちぱちさせながら、しばし息をひそめて、大地の魔法を見ておりました。すると青草が一筋、天に向かってまっすぐに伸び、それが微かな風のそよぎを感じたかと思うと、緑の一部がくらりと揺れ、まるで卵のように、大地から一つの水晶球が生まれました。童女は、にこりと笑いました。水晶球は風の上にくるくると回りながら浮かんでいました。童女は笛を懐にしまうと、水晶球に近づき、くるくる回る水晶球を、小さな白い手で捕まえました。そして、聞いたこともない呪文を旋律にのせて歌いながら、一歩一歩踏みしめて、聖域の外に出ました。

すると、とたんに童女は姿を変え、そこに一人の聖者が現れました。聖者は白い髪をした長身の青年でした。聖者は水晶球が聖域外の風に触れても、びくともしないことを確かめると、月を見上げて、月光を口に吸い、しばし口を閉じた後、ふっと、光の炎を水晶球の中に吹き込みました。すると水晶球の中で、青い炎が燃え始め、それはあたりを青い光で明るく照らしました。聖者は静かな声で、短い呪文を水晶に吹き込んだ後、よし、いけ、と言って水晶球を空に投げました。するとまるで闇にさらわれたように、水晶球は空中に消えて見えなくなりました。

その頃、地球世界のある氷海の底では、ある聖者と、青年が、水晶球の来るのを待っていました。青年は氷海の底に聖者が描いた魔法陣の見事さに息を飲んでおりました。どれだけの間学べば、これほど見事に、正確に描けるのだろう、と思いました。

「もうすぐですね」と青年は言いました。聖者はこくりとうなずきました。この聖者は老人の姿をし、白い髭を長くのばし、とても古い時代の服を着ておりました。青年は今回、彼の補助としてともに地球のこの氷海に下り、魔法陣の下地になる仮の聖域をつくるのを手伝いました。
彼らの周りには、巨大な銀のリボンのような魚が一匹泳いでおりました。それは体の大部分は魚と言えましたが、顔だけは美しい人間の女の顔をしていました。氷海の精霊は水の中に清めの音律を流しながら、来るべき時を共に待っていました。

「今回で十六個目か。神は一体、何をなさろうとしているのでしょう?」ふと、青年が聖者に問いました。聖者はしばし沈黙を噛んだあと、老人の姿に似合わぬ若々しい声で答えました。「はっきりとしたことは言えぬ。神の御言葉は一文字読むのに百年かかるからの」
「確かにそうですが…」青年が言いました。すると精霊が、低い女の声で言いました。「わたくしの予測ですが、神は聖なるものを使って霊的情報網のようなものを地球世界にお創りになりたいのだと思いますわ」氷海の精霊は賢く、かなり位の高い智霊のようでした。
「きっと時がくれば、各地に埋めた水晶の光が全てを上手く運ぶんだと思いますわ。」

「しっ!」突然聖者が声をあげました。「来た」精霊が上を見て言いました。青年は魔法陣のふちに立ち、海に浮かぶ厚い氷の岩を下から見上げました。その氷の岩をすき、大きな光る水晶球が水の中に現れました。水晶球は青い光で海中を照らしながら、ゆっくりと水の中を飛んできたかと思うと、聖者の描いた魔法陣の真ん中に、見事にするりと吸い込まれました。
「入ったな」聖者が言うと青年は地中に目を凝らし、「入りました」と答えました。すると精霊は何も言わずに魔法陣の上にとぐろを巻き、一瞬蒼い髪をした女の姿に戻り、たちまち大きな蒼い氷塊に姿を変えて魔法陣を隠しました。聖者は呪文を歌い、時が来るまでその氷が溶けることも割れることも汚されることもないように、深い魔法をかけました。青年は聖者の呪文に従って声を合せながら、氷が金剛石のように硬く固まってゆくのを見ていました。

「よし」聖者は言いました。青年は、氷塊に触れつつ、精霊に言いました。「どうだい、苦しくはないかい?」精霊は答えました。「大丈夫です。ちゃんとできますわ」。青年はほっと息をつきました。
「ではいこう、また次がある」聖者が言いました。青年と聖者は、精霊に別れを告げると、静かに海を昇っていきました。
 
 
 
 
 
 
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2024-12-21 03:43:37 | 月の世の物語

女は、ある高地の崖のふちに立ち、眼下に広がる原野を見ていました。彼女の背後には白い山猫が一匹、岩の上に寝そべりながらくすくす笑っていました。「また男を一人、地獄に落としたんですってねえ」猫は女に言いました。女は古道の魔法使いでした。彼女は黒髪の美女の姿のままで、杖を持ち、空や風の様子を見ながら言いました。「それがどうだって? だいたい人間の男ってのはね、女を馬鹿にして自分を偉いことにしとかなきゃ、何にもできないのよ」山猫は笑いながら、「はあい、ご正解」と言いました。「実際、今わたしがやってることも、そういうやつらが嘘ばっかりついてやってきたことの、尻ぬぐいじゃないの」すると山猫は、「またまたご正解ぃ」と言って笑いながら立ちあがり、魔法使いのそばに歩いてきました。そして原野を見渡しながら、「でも、あなただってずるいですよ。そうやってすんごい美人に化けて、男に寄って来いって言ってるようなもんじゃないですか」と、言いました。
女は空を見上げ、「さてと、そろそろかしらねえ」と、とぼけました。

あ、と山猫が声を上げ、首をのばしました。魔法使いは目を金色にし、杖を空に突き出しました。空に星のような光が一瞬きらめき、笛のような音をたてて、何かが落ちてきました。「くるわ」女は崖を飛びおり、原野に立ちました。山猫も続きました。空から、青い炎を宿した透明な水晶球が、原野を目指して流星のように落ちてきました。「大きいわ。大丈夫かしら」魔法使いは言いながら飛ぶように地を走り、水晶を追いました。「よし」彼女が言うと同時に、水晶は事前に彼女が清めておいた魔法陣に落ちました。

彼女が魔法陣のところにやってくると、水晶は陣の真ん中に半分埋もれていました。後から山猫が追ってきて、「半分しか入っていませんねえ」と言いました。魔法使いはちくしょう、と思わず汚い言葉を吐いて、急いで清めました。「地球は甘くないわ。あれだけやって、半分しか埋もれないなんて」魔法使いは言いながら、元の姿に戻り、杖で風をかき混ぜ、もう一度清めの魔法を始めました。呪文を三度繰り返し、月光と日照の二つの紋章を描き、最後に大地の紋章を描いて、大いなる地球の神の助けを請いました。と、雨のすじのように清い光が上方から降り、魔法陣に深く染みこみました。水晶球はかすかに揺れ、音もなく地中にすっと吸い込まれました。

「いけます。かなり深いところまで行きましたよ」猫が地中を覗き見ながら言うと、魔法使いは、「よおし」と言って大地を、とん、と杖で突きました。「本番はこれからね」魔法使いは空を見上げ、地球世界の日照をにらみました。金色の目が鏡のように映え、神がともにいる、と彼女の胸にささやくものがありました。

山猫は後ずさりし、彼女の魔法を見ていました。魔法使いは目を閉じ、両手を大きく空に向かって開くと、今度は赤子を呼ぶ母のような声で、歌い始めました。ときおり、小鳥の声が混じり、緑の森を吹く風のような音も聞こえました。すると、水晶球の埋もれた魔法陣の真ん中から、青い芽が顔を出しました。魔法使いの額を汗が流れました。彼女は歌いながら、高い精霊に助力を請いました。すると彼女の歌にそって見えないものがともに歌い出し、それは空に響く合唱となりました。

魔法陣の真ん中に芽生えた緑は、幹を伸ばし枝を伸ばし、見る間に大きくなりました。彼女は歌い続けました。途中で声がとぎれかけたとき、だれかが代わりに彼女の声を使って歌うのを感じました。魔法使いは神がともにいることを確信しました。頬に涙が流れ、何かが彼女の胸を歓喜に導きました。命がうごいていました。瞬間光の中ですべてが溶け合い、それと同時に、何かが爆発したように強い風が渦を巻き、気付いた時には、目の前に大きな緑の大木が立っていました。

魔法使いは、大地にばたりと倒れました。「大丈夫ですか?」山猫が近寄りながら言うと、魔法使いは、大丈夫よ、と答えました。そして半身を起し、「こんどはあなたの番ね。ちゃんとわかってる?」と言いました。すると山猫は彼女の目の前で、瞬時に本来の姿に戻りました。それは原野と同じ色の肌をした美しい若者でした。彼は山猫の姿を捨て、「わかってますよ」と言いつつ、大木の中に入っていきました。彼はこの原野の精霊でした。

しばらくして彼女は立ちあがり、緑の大木を見上げ、元は山猫だった精霊に声をかけました。「気分はどう?」すると木はざわりと枝を揺らし、答えました。「なかなかです。木もいいもんですねえ」彼はこれから、何百年かの月日を、地中の水晶を守る神木として生きるのでした。

魔法使いはふうと息をつき、今回はきつかったわ、と言いつつ、また地に座りこみました。


 
 
 
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2024-12-20 03:15:31 | 月の世の物語

太平洋の真ん中に浮かぶ小さな火山島で、子供がひとり、しきりに赤く熱い溶岩を杖でつついていました。いえよく見ると、溶岩の正体は毛並みの赤い光る犬の群れでした。犬は火山に棲む精霊で、大地の炎の化身でもあり、一たび怒ればどうすることもできない野生の熱を秘めて、激しく子供に吠えかかっていました。
「しっ、しっ、おとなしくして」彼は、犬を恐れることもなく、小さな杖を振り、鎮めの詩を歌いながら犬たちの怒りを冷ましていました。そうして、山の火が大きく燃えすぎないように、いつも気をつけていました。

海風を浴びた犬たちが冷えておとなしくなると、子供は少しほっとし、固まった溶岩の岩に腰かけて、少し休みました。と、青い空の高いところから、何か小さなものが、流星よりも早くこちらに向かって降りてきているのが見えました。子供は「あ、やっときたな」と立ちあがって、杖をふりました。

やってきたのは、豆のさやのような船に乗った、ひとりの少年でした。少年は子供のすぐ近くまで船をもってくると、「やあ、頼まれたもの、持ってきたよ」と言って、船の中から大きな袋を出し、子供に渡しました。子供は袋を受け取ると、早速袋を開いて中を確かめました。袋の中身は、豆真珠の白い粉でした。子供はその粉を一つかみ取り、それを犬たちに向かって振りかけました。すると犬たちは、くうんと鳴いて、さらに深く眠りに落ちました。

「ありがと、今お礼のもの作るから、待っててよ」子供は言うと、溶岩のまだ赤い所を少しとって、それに呪文を混ぜ込んでから、くるくると風で回して、小さな玉を作り始めました。「これでいいや、後は風がやってくれる。ねえ、できるまでちょっと時間がかかるから、その間何か話をしないかい?」と子供がいうと、船の中の少年は、そうだねえ、と考えて、言いました。「月の世に聖域ができたの、知ってるかい?」「知ってるよ。そんな話は、こっちにも風が運んでくるんだ」子供が言うと、少年は船から身を乗り出し、「いや、それがさ」と言いました。「どうやら、あの聖域には、神さまの秘密があるらしいんだってさ。」

「神さまの秘密?」と子供が言うと、少年は「月の世の占師がね、みんな言うんだよ。もしかしたら神様は、地球世界にも聖域を作るつもりなんじゃないかって」と、言いました。すると子供はくすっと笑いました。「まさか。こんな蜘蛛やムカデばかりいるところ、どこをどうやって聖域にするのさ」
「ぼくだってそう思うよ。でも、どんな占師が何度占っても、いつも同じカードが出るんだってさ。聖者さまは、誰も何も言わないけど、何か知ってる感じなんだ」少年が言うと、子供も、ふうん、と言って、「確かに、神さまは、ときどきとんでもないことをなさるからねえ」と言いました。

子供は立ちあがり、海の遠くに見える、白い雲の塊を指さしました。「ほら、あそこにも神さまがいらっしゃる。ずいぶんと前からあそこにいらしてるんだ。」
「うん、多分あそこで何かやってるんだね。でも、なんだか、ちょっと変じゃないかい?」
「変てなんだよ。それはとても失礼だぞ」
「そういう意味じゃなくてさ、地球世界には滅多に来ないような神さまが、今いっぱいこっちに来てるってことなんだよ」言われて子供は、あ、と声をあげました。「ほんとだ。言われてみれば、確かにあの神さまをこっちで見るのは初めてだ。」
ふたりはしばしの間、神宿る白い雲の塊を黙って見ていました。

「神さまは何をおやりになっているんだろう?」少年がひとり言のように言ったとき、子供が、あ、できた、と大きな声で言いました。少年が振り向くと、ピンポン玉ほどの小さな灰色の玉が、風の中でくるくると回っていました。子供はそれに、えい、と声をぶつけ、玉を半分に割りました。すると中から、卵の黄身のように、熱い金色をした光玉(ひかりだま)が現れました。
「はい、これ」子供は玉を少年の方に差し出しながら、ちょっと得意そうに言いました。「地球の火で作った魔法玉は、特別に強いんだ。たぶん千年は光が燃えているよ」少年が玉を手にとってみると、本当にそれは暖かく、まるで全身の血流を光る熱がめぐってくるように感じました。少年は子供に「ありがとう」と言い、玉をポケットの中に入れました。

別れの挨拶を交わすと、少年は船を動かし、青い空を登り始めました。子供は彼の船が見えなくなるまで、杖を振っていました。


 
 
 
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2024-12-19 03:38:34 | 月の世の物語

そこは小さな白い部屋の中でした。部屋に電灯はなく、代わりに白い壁や天井がやわらかな光を放っていました。鍵のかかったドアには鉄格子の入った窓があり、その窓の向こうに、廊下の向こう側の黒い窓を横切る、金の月光の筋が見えました。

男が一人、部屋の隅に座って壁にもたれていました。彼はここに来てからというもの、自分以外の人間を見たことがありませんでした。ただ、鉄格子の向こうに、ときどき人の足音がぱたぱたと聞こえたり、歩きながら話す人間の声と足音が、前を通り過ぎていくことがありました。
また時に、ドアが開き、検査だという声がして、見えない人間に、光る粉を飲まされたり、薬のしみこんだ紙を体にはられたりすることがありました。ここは病院だろうか? なんでみんな透明人間なんだろう、と男は考えました。

ある日、ばたばたという大勢の足音と声の一群がやってきて、男の部屋の前で止まりました。そして胸に響くバリトンの声が言いました。
「この人だね。例の罪びとは」すると、若い女の声が答えました。「ええ、そうです。生前、彼は幼女三人を、悪戯目的で誘拐して殺しています」だれかがため息をつきました。「むごいね」「ここに落ちてくる罪びとはみなこんなものですよ」「こっちの検査結果によると、十七番目の霊骨が……」

声の一群は彼の部屋の前でしばしがやがやと騒ぎ、また去っていきました。男は部屋の隅で、もたれた壁からずりおち、床に倒れました。彼は、体を抱えて、ふっふっと笑い、まるで氷の中にいるように体を縮めました。つらい、つらい、つらい、つらい、と自分の中で誰かの声がしました。

男はいつしか眠りにつきました。夢の中で彼はきれいな薄紅の花が咲き乱れる野にいました。彼は笑って、苦しいことなど何もなかったように青い空や雲の流れを見あげました。心地よい風が彼の胸を涼しく通り、それは彼の傷んでいる骨や血を健やかに清めてくれるようでした。
と、突然黒いものが遠くの空に現れ、風景に黒い染みがだんだんと広がってくるように、彼に近づいてきました。男は逃げだそうとしましたが、そこから動くことができませんでした。近付いてきたのは、一頭の、大きな鯨でした。鯨は小さな目で彼を見ると、静かな声で言いました。
「もうすぐ彼が来る」
男は、え?と声をあげました。鯨はもう一度、「もうすぐ彼が来る」と言って、ゆっくりと方向を変え、再び空の向こうに飛んでゆきました。

「もうすぐ彼が来る」と彼はつぶやいて、はっと目を覚ましました。気がつくと彼は、手術室のようなところにいて、ベッドに寝かされていました。姿の見えない女の声が、彼に言いました。「目を覚ましたのね。心配しないで、何も怖くはないわ」彼はものをいうことも、動くこともできませんでした。みると手術室の天井には、電灯ではなく、奇妙な青い炎が、天井に固定された水晶玉の中で燃えており、それはなにものをも焦がすことなく輝いて、部屋を青く照らしていました。

別の女の声が彼に言いました。「あなたは、今回の罪で、霊骨が一つ砕けてしまったの。人が大きな罪を犯すとね、魂の中の骨がだんだんと傷んでくるのよ。それでこれから、その砕けた骨の代わりに月長石の骨を魂に埋めるの。ちゃんと根付くといいんだけど」女の言葉にかぶさるように、バリトンの男が言いました。「根付くさ。過去に失敗例はない」「確かに、失敗例はありませんわ」「心配は禁物だ。主たる愛がある限りは、全てはよい方向に進んでゆく。われわれも、そしてこの罪びともまた、愛の一部なのだから」

男は目を閉じました。ベッドの周りを何人かの男女がせわしく動く気配がし、誰かが自分の体の中でしきりに何かをいじっているのがわかりました。しばらくしてバリトンの男の声が響きました。
「よし、だいじょうぶだ」
その声に、彼がふと目を開けると、そこには白い服をきた男女が六、七人立っていて、彼を一斉に見つめていました。
「浄化の風がくるまでには、骨はもう治っている。君の試練はそれからだ」バリトンの男は厳しい声で言いました。男は茫然として、周りを見回していました。

 
 
 
 
 
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椿

2024-12-18 03:38:51 | 月の世の物語

「そうか」と、博士は小さな声で言いました。彼は研究室の窓辺で、一匹の蜘蛛の怪と、話をしていました。その蜘蛛の話を聞いて、博士は衝撃を受け、何を言っていいかわからず、眼鏡をはずして目を覆い、しばしうつむいていました。そして途切れた会話が、そのまま消え入りそうになる直前、博士は顔をあげ、言いました。
「よく話してくれたね、カメリア。つらかったろう」

カメリアというのは、その蜘蛛の名でした。言葉を話す怪は珍しくはありませんが、彼女のように流暢にしゃべる蜘蛛を、博士はほかに知りませんでした。この窓の隙間から、彼女が研究所に入ってきてからというもの、博士はその蜘蛛と会話することが多くなり、名前が必要だと考えた博士は、彼女が好きだという花の名前を、彼女の名にしたのでした。
カメリアはその名前を、少し恥じらいながら悦びました。自分はそんなにきれいなものじゃないのに、とこそりと言いましたが、博士は聞こえないふりをして、その日から彼女をカメリアと呼ぶことにしたのです。

カメリアは、研究所で博士や少年と暮らしているうちに、だんだんと心を開くようになり、自分からいろいろなことをしゃべるようになりました。彼女から得る情報は、博士の研究の大きな助けとなりました。そしてある日、とうとう彼女は、自分が怪となった元々の出来事を、博士に話したのです。

それは遠い昔のことでした。彼女はある男と恋に落ち、彼を深く愛しました。しかし男はある日、彼女の目の前で「こいつは俺の女だから好きにしていい」とその仲間の男たちに言い、彼女は数人の男たちに輪姦されたあげく、首を絞めて無残に殺され、捨てられたのでした。
その日から彼女は、男を激しく憎み、幸福に結ばれた男女を妬み、多くの人を殺し、あるいは不幸のどん底に落とし、とうとう怪に落ち、神さえも憎む毒を吐くようになったのでした。

つう、とカメリアは鳴きました。博士はふと目を光らせ、カメリアに、「それは、つらいっていう意味だね」と言いました。カメリアは少々あわてて、なんでわかるの?と博士に聞きました。博士は笑顔を見せ、「なんとなくさ。怪はよくつらいつらいと泣くけど、君はなんだか、その言葉が苦手なんじゃないのかい?」するとカメリアは、何だか、自分の胸が広くなったように感じました。実に、そのとおりだったからです。

「先生はすごいのね、なんでもわかるみたい」カメリアは言いながら、博士のほほ笑む顔をしばし見つめました。博士は、まだいろいろと彼女に質問したいことがありましたが、今の彼女の気持ちを思い、ほかの話をすることにしました。彼は窓の外を見上げ、半分に欠けた月を指さし、「どうして、この島から見える月が、半分しかないか知ってるかい?」と問いました。カメリアは、いいえ、と言いました。
「あれはね、科学的な視点からでは、世界の半分しか見ることができないっていう、神さまの僕たちへの教えなんだよ。でも僕はあえて科学にこだわって、こうして科学的な方法で、どうにかして怪を救えないかと考えている。でもなんだか、今は少し、魔法を使ってみたい気分だ。使えるものならね」
博士は月を見上げながら、静かに言いました。カメリアはその横顔を見て、自分の中で、何かきりりと痛むものを感じました。

カメリアは、自分が不幸に陥れた、ある夫婦のことを思い出しました。仲睦まじく愛し合っている彼らを妬んだ彼女は、その幸せを無残な形で破壊しました。
普段の彼女なら、彼らの不幸を見て、「馬鹿な人たち」と言って大笑いするはずでした。だのになぜかそのとき、彼女は笑えませんでした。冷たい悲哀が胸をつかみ、彼女の足は震え、不意に、恐ろしいことをしてしまった、と思いました。

彼女がこの研究所を訪れたのは、それから何年か経ってからでした。半月島の研究者の噂を蜘蛛仲間から聞き、彼女は何かに導かれるように、風に乗って島にやってきました。そして博士と少年に出会い、カメリアと呼ばれ、こうして過す日々に、幸福さえ感じるようになりました。

カメリアは黙ったまま月を見上げている博士の横顔を、じっと見つめていました。彼を照らす月の光が、ふと強く輝いたような気がしました。カメリアは震えました。そして自分に、(だめよ、わたしは毛むくじゃらのおばけなんだもの)と言い聞かせました。

魔法は、もう起こりはじめているのかもしれませんでした。

 
 
 
 
 
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