青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2024-12-31 03:43:42 | 月の世の物語

その日、海は青く平らかに、はるかにどこまでも広がっていました。風はなく、青い空に日は照り映え、ただ誰も聞かぬひそやかな声を、静寂の裏にすべて隠していました。

その海の底では、灰色の髪と髭を短く刈った聖者と、一人の女性役人が、海底に描いた大きな魔法陣の周りで、水晶球の来るのを今か今かと待っていました。魔法陣と彼らの周りには、三重の結界が張ってあり、そこから海上に向かって斜めに伸びる長く光る道がありました。その道にもまた、三重の結界が張ってありました。

ふと女性役人が、陣内に魚のようにまぎれこんできた邪気を、息で吹き消しました。彼女は微かに瞳に悲しみを見せ、つぶやきました。
「これだけやっても、まだ邪気がきますね。まさに、最後の難関…」
「最後ではない。まだ一つ残っている」「そうでした」女性役人は静かに返事をしました。
聖者は言いました。「天気は上々だ。神は空にいまし、すべてをごらんになっている。ここをここまでにきれいにすることは、神の助力なしにはできなかった」すると女性役人は答えました。「確かに。ここは血の雨が降りすぎている。おそろしい邪気です」すると聖者は厳しい声で眼光を強め、言いました。「これは、邪気というものではない。腐っているのだ」女性役人は、静かな声で、確かに、と答えました。

女性役人は、長いまっすぐな黒髪を、首の後ろで一つにまとめ、背中に長く垂らしていました。端正な顔立ちは繊細ながら硬質な輪郭をしており、どこか少年を思わせるところがありました。彼女は未だ、役人の身でしたが、聖者の元で長く修業を積み、深く学び進み、もうすぐ、準聖者として上部に上がり、新しい段階の学びを始めることになっていました。それは彼女にとって、女性の姿を捨て、男性として生まれ変わることでもありました。なぜなら、上部に上がれば、もう性別は必要なくなるからです。聖者がすべて男性なのは、このためでした。彼女の体内で、ひそかに男性化は進んでいましたが、未だその声は高く、胸には小さなふくらみがありました。

「軌道計算には?」聖者がもう一度確かめるように言いました。「ミスはいたしません」女性役人はすぐに答えました。と、海上から、かすかな風の音が聞こえました。
「来たな」聖者は言いました。すると、これまで見たこともないような大きな水晶球が、海面を音もなくするりとくぐって、青い光で海中を照らしながら落ちてきました。聖者と女性役人はただ黙って静かに見守っていました。水晶球は海の微かな邪気の匂いにも壊れることなく、女性役人が計算した軌道を外れることもなく、三重の結界に守られた海の道を静かに下り、無事に魔法陣の真ん中へと吸い込まれました。女性役人は、その深さも位置も十分であることを確かめると、上に向かって口笛を吹きました。

すると、それはそれは大きな水鳥が、海上で一息の風を起こしたかと思うと、ずぶりと海面を破り、弾丸のように海中に入ってきました。大水鳥は、海中にその全身を見せるや否や、突如まるで大入道のような赤い巨人に姿を変え、おおおああああ、と大きな叫びを上げながら、魔法陣に向かって真っすぐに落ちてきました。そして海底にどすんとぶつかったかと思うと、それは瞬時に赤い巨岩に姿を変えて魔法陣の全てを覆い、めりり、と音をたてて、海底の土に半身を沈めました。聖者が、ほう、と声をあげました。
「完璧だ。追加の魔法をする必要もない」女性役人は、はい、と答え、「すばらしい精霊です」と感じいったように言いながら、見事な赤い巨岩をたたえました。

「地球大浄化、か」岩を見ながら聖者が言いました。この一個の水晶球で、地球上に埋める水晶球はほぼ終わったようなものでした。あらゆる聖者や数々の役人たち、青年、少年たち、多くの者たちが地球に降り、あらゆる場所を浄化し、千個もの水晶球を地球に埋め込みました。準備は着々と進んでいました。すべては神のお導きどおりでした。

聖者と女性役人は巨岩の守りの完璧さを隅から隅まで確かめると、仕事が完遂したことを互いに認めあいました。そしてともに上を見つつ、しばし迎えを待ちました。静かな時が流れました。女性役人は軌道を囲む最外部の結界の一部に傷がついているのに気付いて、目を暗くしました。何と汚れていることだろう、ここは。しかし神はそれでもおやりなさる。

女性役人は思わず言いました。「これで、本当に、地球上に愛の花が咲くのでしょうか?」
と、聖者は弟子の見せた思わぬ女性的な愛らしさに、ほっと、笑顔を見せ、言いました。「花か。花に似ていないこともない」聖者は言葉を切り、悲哀にも似た色を目に浮かべ、しばし口をつぐみました。と、海面に大きな船の影が現れました。「青船がきた。行こう」聖者は言いながら、上に向かって泳ぎだしました。女性役人も、その後を追いました。

聖者は船の影を目指し、微かに痛む邪気の中を泳ぎながら、やさしくも厳かな声で、女性役人に言いました。「だが、咲くのは、花ではない。渦だ」。「渦?」と女性役人が返すと、聖者は、そう、と答え、続けました。「嵐の、大渦だ」。

海上では、迎えの大きな青い鳥船が、ゆったりと風に浮かび、彼らが姿を現すのを待っていました。


 
 
 
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2024-12-30 03:56:21 | 月の世の物語

最初見えたのは、霧、霧ばかりでした。男は、足を一歩前に踏み出してみました。すると足の下に、床があるのがわかりました。下を見ると、靴の下にコンクリートに模造大理石の板を貼ったような白い床があり、それは霧の奥に、どこまでも続いていました。

彼は走ってみましたが、どこまでいっても壁にたどりつくことはなく、上を見ても、どこまでも白い霧ばかりで、天井らしいものは何も見えませんでした。ただ、なぜか光だけはあり、それはまるで霧に混じって隠れているかのようにあたりにたちこめ、彼に奇妙な真実を見せました。
気付くと、霧の中のところどころに、黒いものの影が見え、そのひとつに近づいてみると、それは床の上に寝転がっている男でした。男は酒を深飲みしすぎたような薄黒い顔をしており、口をだらしなくあけてよだれを垂らしながら、眠っておりました。ほかの黒い影のところにも行ってみましたが、いるのはみな、似たような男ばかりでした。

「探しても、女はいないよ」ふと、背後から声がして振り向くと、そこに、骸骨のように痩せ、黒い髭や髪をだらしなく伸ばした男が膝を抱えて座っていました。男は白目の濁った眼で上目づかいに彼を見ながら、言いました。
「おまえ、女をやったろう?」男は今更ながらぎくりとしました。「ここにいるやつぁ、みんなおんなじだ。女よ。女をいじめすぎた男が、こんなことになった。おまえ何やった?」男が沈黙していると、その男は、目をゆがめてふっと笑いました。「…おれはなあ、森と石ばあっかりの小さな国に生まれてよ、そこは、戦、戦、戦ばかりの世の中だったんだ。おれたちゃ狂ってた。男はみんな、何でもしていいんだって感じになってよ、ある日みんなで村を襲って、そこの女を、かたっぱしからやっちまったのよ」黒い髭の男は言いながら膝の上に額を落としました。それを見ていた男は、床の上に立ちつくしながら、ごくりと生唾を飲み込みました。

「床、床、床、床だけの世界。いるのは、男、男ばかり。おんなは、いなあい」黒髭の男はまた顔をあげ、つぶやきました。そして深いため息をついたかと思うと、言葉を続けました。「あんた新入りみたいだから、教えてやるよ。おれはずいぶんとここにいる。…最初、病院みたいなところに行ったろう?」
男が、はっとして、そうだ、と思わず答えると、黒髭の男は、また口をゆがめて笑いました。

「あそこはな、あるときからできたんだ。骨をいじられたろ?あれはな、おれたちみたいな男が、ムカデに落ちないための手術なんだってさ。昔、半月島の先生が魔法に興味持って、なんとか勉強して、地獄ん中に作ったんだとさ。いい声の先生がひとりいたろう?」
その言葉に、男はまだ記憶の中にはっきりと残る、あの胸に響くバリトンの声を思い出しました。黒髭の男は続けました。
「それから時々、おれたちみたいのが、あそこに落ちるようになった。おかげで、おれたちはムカデにはならない。だがその代わり、ここができた。白い床と、霧だけの、女のいない、男だけの世界…」黒髭の男は声を小さくしながら目を閉じ、また抱えた膝の中に顔をうずめました。

男はしばし、信じられぬという顔で、周りを見回してみました。見ようとすると、確かに霧の中のそこらじゅうに、たくさんの男の影が見えました。彼らは床と霧しかない世界の中で、何もすることはなく、ただ寝転がっているか、座っているか、ときに指で床に、くるくると何かを書いているかだけでした。ほとんどの男が貧乏神のように痩せており、骨の見える胸が痛いように膨らんだりしぼんだりしていました。

「ここに来たやつぁね、最初狂ったように走り回って、女を探す。探し回る。でも、どこを探しても女はいない。いないってことが完璧にわかったら、すべて、こうなる。なんにもないんだ。ほんとに。なんにもないんだ。ここには。なぜだと思う?」

黒髭の男の顔が不意に憎悪にゆがみ、目がぎらつきました。と、男はそれに腹が立ち、少し目をとがらせ、「なぜ、なぜそんなに知ってる!」と強い声で叫びました。黒髭の男は、どうしようもねえな、と口の奥でつぶやきながら少し顔をそむけ、今度は男を悲しみの入り混じった目で見上げました。

「勉強さ。先生に言われなかったか?ここでは勉強だけはできるのさ。ただ、胸の中に問えばいいだけなんだ。そしたら、どこからか答えが返ってくる。だからおれはある日聞いてみた。胸の中で。『なぜここには、床と霧以外、なんにもないんだ?』って。そしたら胸の中で誰かの声がした。なんて言ったと思う。こうだ。『オンナダ。オンナガ、スベテダカラダ』」。

「女が、全て…?」男が問い返すと、黒髭の男は、「そうだ」とだけ答えました。そしてしばらくして、「たしかに、そのとおりさ、すべては、それだ。みんな、みんな、それだ。女、女なんだ……」そして黒髭の男は、再び顔を膝の中にうずめ、そのまま、石のように動かなくなりました。男は何度か彼に問いかけましたが、彼はもう何も答えようとしませんでした。

男はしばらくうろたえたようにそこらを歩きまわりました。どこに行っても、どこまで行っても、黒髭の男の言った通り、あるのは床と霧と、男ばかりでした。やがて、仕方なく、彼は自分の場所を決め、そこに座りました。白い考えが、胸を通りました。床と霧と男だけの世界。何もやることはない。だが確かあの男は、胸の中で問えと言った。そうしたら答えが返ってくると。それは本当だろうか。
だが、何を問えばいい。おれは何が聞きたい?彼は考えました。すると、ふと、病院でみた夢の中の、鯨の言葉が蘇りました。

もうすぐ彼が来る。…あれはどういう意味なんだ?と男は胸の中でつぶやきました。すると、瞬間、胸の中で何か自分とは違うものが動き、ささやきました。それは(ユケ)と言いました。男は(なんだって?)と応じました。すると声は続けました。(ミチハキビシク、ツラク、ソシテナガイ。ダガユケ。カミハイツモオマエトトモニアル)。男は胸をさすりながら、茫然とその響きを聞いていました。全身にしびれるようなものが走りました。頬に微かな風をも感じたような気がしました。

「行け……?」男は、目の前にはるかに続く霧を見ながら、つぶやきました。



 
 
 
 
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2024-12-29 03:28:23 | 月の世の物語

天の王様のお宮のそばには、花々に囲まれた小さなお庭があり、今そこでは、天女たちによって、王様のための奏楽が行われていました。彼女らはそれぞれの楽器をとり、合奏の美しさに、月光に溶けてゆくかのような幸福を感じながら、それぞれの旋律を奏でていました。

ふと、琴を弾いていた、中で一番姉役の天女が、気配に気づき、言いました。
「みなさま、おやめください」その声に、天女たちは一斉に演奏をやめ、姉役の天女のお顔を見ました。彼女の名は梅花の君といい、天の国の天女たちをまとめる長の役目もしておりました。彼女はやさしくも厳しい声で、少し声を低め、天女たちに言いました。
「王様はお眠りになりましたわ。みなさま、静かにいたしましょう。今宵はもう奏楽をやめ、それぞれのお仕事におつきください」。
「まあ、またお眠りになったのですか?」「このごろ王様は、よく奏楽の途中で眠ってしまわれること」天女たちはしばしさわめきましたが、すぐに梅花の君の言に従い、それぞれ別に持っている自分の仕事のもとへと、帰ってゆきました。

梅花の君は、王様のお宮をちらりとごらんになり、王様が椅子に座って、ひじをついて頬をささえながら静かに眠っているお顔をご覧になりました。
(また、夢の世界に、ゆかれてしまったのね……)梅花の君はそう胸の中でささやくと、すぐにお宮を離れ、自らの持つ機織り小屋へと飛んでゆきました。

その頃、王様は、夢の中で、はるかかなたまで続く、一面の白い雲の原にいました。空には月も日もなく、ただ無数の宝石のような星々が、黒い空に渦をまきながらゆっくりと動いていました。王様は、そこでは、十二くらいの子供の姿になっており、その目の前には、一本の大きな緑の木が、真っ直ぐに立っていました。その木の根元には、ちょうど子供が入れるくらいの洞(うろ)があり、その中には、不思議に翡翠色に光る、布袋(ほてい)の石像が鎮座していました。

王様は、雲の上に正座すると、背筋をまっすぐに伸ばしてから、ゆっくりと膝の前に手をつき、布袋の像に向かって、深くお辞儀をしました。すると布袋の像の口から、ひとくさりの詩のような不思議な音韻が流れました。それは、神しか知らぬ、王様の真の名でした。王様はそれに顔をあげ、はい、と返事をしました。布袋の石像はつやつやと星光をまといながら、深くも慈愛に満ちた声で言いました。
「わが子よ、精進しておるか?」すると王様は、少年ながら確かな自信のある声で答えました。「はい、日々、学んでおります」。すると布袋の像がまた言いました。「では試すぞ?」王様もまた、「はい」と答えました。

「まず最初に聞く、子よ、『愛』とはなんぞな?」すると王様はすぐに答えました。
「はい、『愛』とは、すべてです」すると布袋は少し光を強め、「おお、良い子じゃ、そのとおりじゃ。では次に聞く、『悪』、とは?」「はい、『悪』は、存在しません」布袋はさらに輝き、王様の答えを悦びました。天に回る星の下、静かな問答がしばし続きました。

「では聞く、おまえは、だれじゃ?」王様は間髪なく答えました。「はい、わたしは、わたしです。そして、わたしは美しく、とてもすばらしいものです」。
「おお!」と布袋は歓声をあげるように言いました。
「では子よ、また聞く。おまえは、できるか?」「はい、できますとも」。
「道は困難に満ちている。いや、困難などというものではない」「はい、存じております」。
「おまえは、それが、やれるのか」「やりますとも」。
「なぜやるのじゃ?」「はい、神がそうおっしゃるからです」。
「なぜじゃ? なぜ神の言うことをきく?」「はい、なぜなら、わたしは、神を愛しているからです」。
すると布袋はしばし沈黙し、目に星のような涙を灯しました。その光は布袋の像をつるりと流れ、雲海の中に魚のように溶けていきました。

「わが子よ」と、布袋は深い悲哀に満ちた声で言いました。涙があふれ、布袋の像はがくがくと震えていました。「すべての神がおまえとともにある」布袋は言いました。王様もまた、いつか涙していました。王様はしばし言葉につまり、腹から絞り出すような声で「はい、ありがとうございます!」とようやく答え、深くお辞儀をしました。

「ではしばし、眠れ」布袋は言いました。すると王様は返事をする暇もなく、ことりとそこに倒れ、すぐに寝息を立てはじめました。空の上では、無数の星が、ゆっくりと傾きながら、無音の巨大な音楽で、彼の夢の中に、語りかけていました。

王様はふと、目をお覚ましになりました。いつしか天女たちの奏楽は止み、あたりは静まりかえっておりました。王様はしばしぼんやりと宙を見つめたあと、静かに椅子からお立ちになり、お宮から外にお出になりました。

空を見ると、今宵は望月でした。天の国は、よほど月の近くにありましたが、地上のように普通に月は満ち欠けしました。彼はふと醜女の君のことを思いました。「今宵は望月か、醜女の君はさぞ忙しかろう」王様は月を見上げながらおっしゃりました。

その頃醜女の君は、王様の思ったとおり、水盤に映った月光をすくい、額に汗しつつ、せっせと月珠を作っておりました。彼女は近頃、仕事が楽しくてなりませんでした。月の世の者みなが忙しく、たいそう月珠を必要としておりましたので、それはたくさん作らねばならなかったからです。

「ああ、これだけあれば、どれだけの人のお役に立てるでしょう!」醜女の君は汗をふきつつ、樽一杯に作った月珠を見て、うれしそうに、言いました。



 
 
 
 
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2024-12-28 02:56:48 | 月の世の物語

そこは、深い紫色の石で造られた、小さな街の、小さな通りでした。道の片隅に、紅色のカーテンで入り口を閉じた小さな占い小屋があり、少年ふたりが、今そのカーテンをおずおずとくぐろうとしていました。

中に入ると、そこには一つのテーブルと二つの椅子があり、奥の椅子に、女がひとり座っていて、彼らにやさしく、「いらっしゃい」と声をかけました。女は、長い黒髪をさらりと肩に流し、その顔は天使のように美しく、宝石のような緑の瞳は、緑山を映す湖水のように、澄んでいました。彼女はやさしくほほ笑んでいましたが、少年ふたりは身を硬くして寄せ合い、必死にその顔を見ないようにしていました。

月の世で、古道の魔法使いの恐ろしさを知らない男は、馬鹿でした。しかしそれでも、つい軽い気持ちでと入って行く男は珍しくはなく、交通違反程度の罪びとが、時々とんでもない深い地獄に落とされることがありました。少年ふたりはそのことを知っていました。しかしここは、男として、どうしてもやらねばならないことがあったので、彼らは勇気を振り絞って、彼女に挨拶し、要件を言いました。

「何?役人さんが?あたしをご指名なの?」女は驚いて言いました。少年たちのうちひとりが、はい、と言って、少し震えながらも続けて言いました。
「僕の担当してる人なんですけど、戦争で死んで以来何十年も地球の海の底で閉じこもってたんで、見かねて、無理やり月の世につれて来ちゃったんです。で、僕、何度も何度も導いたり癒したりしたんですけど、彼、閉じこもってしまうばかりで…、それで役人さんに相談したら、あなたに頼んでみろって、言われて……」
女は目をぱちくりさせました。「あたしにそいつを癒せっていうの?言っとくけどあたし、男を虐めたことはあっても、癒したことなんかないわよ?」
「し…知ってます…」少年のひとりが思わず言ってしまい、もうひとりの少年に小突かれました。

彼女は少年ふたりに導かれ、ある海峡の海の底へと連れてゆかれました。彼らが海底に降り立つと、そこに、泡の中で胎児のように身を縮めて眠っている男がいました。彼女はそれを見て、「何これ? カバの怪?」と言いました。少年たちはあわてて、「ちがいますよお」「ちょっと雰囲気が似てるだけです」と続けて言いました。

古道の魔法使いは、フン!と鼻を鳴らすと、杖を出し、とにかくは先ず、癒しの魔法を試みてみました。彼女は、それこそ聖母のようにやさしくほほ笑み、この上もなく美しい声で呪文を歌い、彼の心を呼び覚まそうとしました。しかし、泡の中の男は、ぴくりとも反応しませんでした。女は魔法を止め、男に近づいて間近にその顔を見てみました。よく見ると、男は美男ではありませんが、誠実で身の硬い感じの、四角い顔をしていました。彼女は、またフン、と言い、何度か同じ魔法を繰り返しました。しかし男は相変わらず、泡に閉じこもったまま動きませんでした。

彼女は、やっているうちに、だんだんと腹が立ってきました。片目が金色に変わり、一瞬でしたが、髪の一筋が銀色に燃え上がりました。少年たちは一層身を寄せ合い、離れたところからじっと様子を見守っていました。

女はにやりと笑いました。その胸の中では、いつもの炎が燃え上がり始めていました。そして彼女は、瞬間本当の姿を見せ、すぐ元に戻ったかと思うと、杖で男を包む泡をたたき、叫びました。「あんたァ!戦死したんだってぇ!」
少年たちが、うわあ、と声をあげました。女は鬼のような形相になり、言い放ちました。
「もしかしたらそんなこと、カッコいいなんて思ってるんじゃないでしょうねえ!」

女は清めの文字を杖で宙に描きながらも、男を指さしながら言い続けました。「知らないなら教えてあげるわ。あたしはなんでも知ってるのよ。あんたたちのことなんか」
女は杖を肩の前で横に構え、ひとこと泡のような呪文を吐いてから、言いました。
「戦争なんかねえ、ちっともカッコいいことないのよ。なんで戦争が起こるか?あんた知ってるう?」彼女はそう言うと男に近づき、その耳に唇を近付けてささやきました。「妬むからよ」。

はっはあ!と女は笑って、男からひと飛びで離れ、男を鋭く指さしながら叫びました。
「戦争なんてのはねえ、要するに、ズルをやって、相手をハメて、ブゥッ殺す!!! ってことなのよ!そんなののどこがカッコいいのよ!そんなことはねえ、馬ァ鹿ァ!!のやることよ!!」

そのときでした。ふと、泡の中の男が顔をあげ、一瞬、にこりと、ほほ笑みました。そして泡がぶるぶると震えだし、少し大きくなったかと思うとぱちんとはじけ、そこに、中背だががっしりとした体格の、誠実そうな若者が現れました。男は目を見開き、茫然と上を見上げていました。しばし沈黙があったかと思うと、男は小さな声で言いました。
「そうだよ…そうなんだ…馬鹿なんだ、戦争は……」
女と少年たちは、びっくりして、彼の様子を黙って見つめていました。しばらくすると、男は目から血のような涙を流し始め、がくりと膝を折り、海底に両手をつきました。そして、うっうっと泣き始めました。

「ほ、砲弾が、砲弾が、砲弾が、降って、降って、降って…、と、友達が、目の前で、爆発して……、ふ、ふねが、ふねが割れて……、お、落ちていく、みんな、みんな、落ちていく、戦争で、こんな、こんな馬鹿な戦争で、みんなが、みんなが、みんなが……」
男は泣きながら拳で海底をたたきました。
「生きてる頃から、思ってたんだ。なんでこんなことで、なんでこんなことで、死ななくちゃならないんだって…でも男じゃないって言われるのが、いやで、何も、何も言えなくて……、くっそお!」彼は上体を持ち上げ、上を見上げて両手を上に伸ばしました。そして震えながら言いました。「い、田舎には、おふくろと、ま、まだ小っこい弟がいて…、お、俺にとてもなついてて、トンボとってやったり、メダカすくってやったり…、そ、そんなことも、みんな、みんな、燃えて……」男は上にあげた両手を拳にすると、割れるような声で叫びました。「馬鹿なんだ!そんなことは!みんな、みんな、馬鹿なんだ!戦争は、戦争は、馬鹿なんだあああ!!」

男がそう叫んだときでした、海上から一筋の光が差し込み、彼を照らしました。男は目を見開き、光に手を差し伸べたかと思うと、涙を流した顔で幸福そうにほほ笑み、ゆっくりとうつむきながら、手を顔の前で合わせました。そして男の姿は、光の中に、静かに溶けて、消えていきました。

その様子を、皆は、茫然と見守っていました。しばし沈黙があり、最初に声をだしたのは、少年でした。
「…すごい、彼、日照界に行っちゃったよ」もうひとりの少年が上を見ながら黙ってうなずきました。女は目をぱちくりとさせ、言いました。「何?あたし、彼を癒しちゃったの?」
「そ、それどころか、救っちゃいましたよ。彼、さっきので魂が進歩したんだ!それで罪が軽減されて、日照界に行ったんですよ。あれくらいならきっと、あっちで三十年くらい奉仕したらすむ!」「そうだ、す、すごいや…!!」少年たちはぱちぱちと拍手しました。

古道の魔法使いは、上を見あげながら、うそ、とつぶやきました。


 
 
 
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2024-12-27 03:29:36 | 月の世の物語

「まさか、こんなに早く、地球に戻ってくるとは思わなかったな」金髪の少年が言いました。「そうか、君は最近死んだばかりだったね」黒髪を長く伸ばした少年が、彼の横で腕を組みながら、目の前の池を見下ろしていました。ここはある山の中にある、小さな池の前でした。

「すんごく汚れてる。これをふたりで浄化しなくちゃいけないのか」黒髪の少年が鼻をつまみながら言いました。「中に、箪笥かなんか沈んでるね」「冷蔵庫だよ。きっと地球(ここ)の人間が捨てていったんだ」金髪の少年は頭をかきながら、どうすべきかしばし考えていました。

黒髪の少年は、周りの山を見回しました。木々の隙間から、池から少し上の方に、人間が造ったアスファルトの道が見えました。彼はふっと息を吐きつつ、少し口の傍をゆがめて言いました。
「昔ここは、すごくきれいな池で、白蛇の精霊が棲んでたんだ。その精霊が、ここらへんの山の天然システムを、みんな管理していたんだよ。でも人間が勝手に山を切り開いて、道を造ったりしたもんだから、池が汚れて、精霊は帰ってしまったんだ」金髪の少年はそれを受け、「うん、今だから言うけど、僕は生きてたとき、山に開いたトンネルを車で走ると、何だかいつも悲しい気持ちがしてた。すごく自分が罪深いような気がしてた」と、言いました。

「生きてても、僕らはやっぱり何か感じるんだね」黒髪の少年が言うと、金髪の少年はこくりとうなずき、「でも、どうやって浄化する?あの冷蔵庫とか、ほかのゴミとか、みんな掃除しなくちゃいけないよ。できないことはないけど、ここは人里に近いから、ここの人間にばれてしまうかもしれない」と、言いました。黒髪の少年はきっぱりと言いました。「なに、結界の魔法と、幻の魔法を組み合わせればいい。そしたら人間は簡単に近づいて来れないし、一見ここはとても汚れた池に見える」金髪の少年は口笛を吹き、「相変わらず、頭だけはいいね」と言いました。黒髪の少年は、なんだよそれは、と言い、金髪の少年の頭を小突きました。

黒髪の少年は呪文を唱え、先ず池の中にある冷蔵庫を取り出し、それを池の傍にどんと置きました。「ちょっと待てよ、このゴミはどうする?」金髪の少年が言うと、黒髪の少年は軽々と言いました。「日照界の浄化所に持ってけばいい。あそこなら物質界のものでも処理できる」「あそこは許可証がいるだろう? 事実上、地球上から物質を消してしまうことになるから、ものによっちゃ天然システムのバランスが……」と、金髪の少年が言いかけたとき、木々の間を何か四角い光るものが燕のように飛んできて、彼の指の間に挟まりました。

「何?」と黒髪の少年が聞くと、金髪の少年は、指に挟まった小さな紙を黒髪の彼に見せ、目を丸くして、言いました。「浄化所の許可証だ。しかも聖者様のサイン入り」。
黒髪の少年は、「わお」と言いました。

「よおし、じゃあ遠慮なくやるか!」黒髪の少年は力こぶをつくるように腕を曲げました。「オッケーイ!」と金髪の少年は答え、早速池の中のゴミをさらい始めました。

全ては夜のうちに、行われていました。彼らは池の中のゴミをすべてさらい、一緒に呪文を唱えて、許可証を添えてそれらを日照界の浄化所に送りました。ゴミの山は一瞬で消えましたが、ふたりは相当疲れた気がして、どちらかが長いため息を吐きました。
「邪気があるね。何だろう?」金髪の少年が顔をゆがめて言うと、黒髪の少年は最近覚えた魔法を使い、指で宙に眼鏡のようなものを描いて、それを透き見ました。「ああ、わかった。この近くで最近悪いことをしたやつがいる」「へえ?わかるの?」「うん、ゴミを捨てたんじゃない、とても汚いものを捨てたんだ」「何?それ」「愛の屍だよ。ここらへんで、どっかの男が女性の愛を裏切ったんだ。それで女性がこの池に心を捨てたんだよ」黒髪の少年は眼鏡を消し、ため息をつきました。そして何も言わずにふたりは顔を向けあい、よし、と同時に声をかけ、ふたりで同じ呪文を唱え始めました。最初彼らはかなり強い邪気の反発を感じました。瞬間、心の破れた女性の泣き顔が見えました。黒髪の少年は愛と慰めの呪文に切り替え、金髪の少年も続きました。

ふたりは汗をかきつつ、なんとか邪気を浄化に導き、その残り香を吹き消しました。はあ、と金髪の少年が、息をつき、背を丸めて膝をつかみました。「久しぶりの魔法だからね、君は疲れるだろう。あとは僕がやるよ」黒髪の少年も少し息を激しくしながら言いました。金髪の少年は前を見てきっと目を見開きました。「いや、僕もやる。これくらいできなかったら、僕じゃない」彼は光る金髪を風に踊らせて、言いました。

池の浄化には、ふたりでやって、二晩かかりました。


 
 
 
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