青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

ジョヴァンニ・カルリの災難

2024-11-22 03:08:22 | 猫の話

さてわたし、マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニは、昼の町の裏道を静かに歩いています。季節は春を過ぎ青葉のすがすがしい風が吹き始める頃。空を見ると、白い雲に紛れて、白い半分のお月さまが見えます。

今日はベルナルディーノのお店がお休みなので、わたしも店番の仕事はなく、ぼんやりと眠っているだけでよかったのですが、なぜか今日はそんな気になれず、こうして町に出て、ぶらぶらとしています。フェリーチャ奥さんが、わたしの姿が見えないと、ほとんど気絶しそうな声でわたしの名を呼んで探しまわるので、そう長い時間の散歩というわけにはいきません。でもわたしにも、時には家を出て、気分を変えたいと思うことがあるもので。

ふ。このわたし、マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニともあろうものが、心がつかれている。ベルナルディーノは、フェリーチャの前では、ほとんどわたしを無視しているような態度をとりますが、フェリーチャがいなくなると、とたんに表情を変え、わたしに言うのです。
「このごくつぶし。おれが精出して稼いだ金を、無駄に食いやがって」

ああ。ため息が出ます。人間は何もわかってはいない。それをわたしは、十分に理解しているつもりですから、何を言われても、人間には反論しませんが、時に、やりきれなくなることは、あります。
自分の心を理解してもらえない。どんなに愛しても、心はかえってはこない。それでも別にかまわないと思ってはいますが、そういうことが積み重なったとき、どうしても生きることが苦しく、心が病気になってしまう恐れがある。それをわたしは深く学んでいます。ですから、心が病気になる前に、こうして散歩をして、心に、美しい自然の愛を取り込みます。そうすれば、幾分、萎えた心がよみがえってきます。

おや。わたしとしたことが。なんてことだろう。道端に見覚えのあるオリーブの木がある。やれやれ。思いもしなかった。わたしの足は正直だな。それほど、疲れているのか。

わたしの足は、町にある小さな教会に向かっていました。その教会は、ごく最近建てなおされたもので、見栄えは近代的で、装飾の類も少なく、少々そっけない感じがしますが、中に入ると見える、祭壇に掲げられた十字架のイエス…ジェス・クリストの木像は、かなり古い時代に作られたものらしく、教会を建てなおしたおりに修復されて、今も神のように人間たちにあがめたてまつられています。

猫としてわたしは言いますが、ジェス・クリストほど、美しい人間はいないと思いますね。猫が、どうしても勝てないと思う人間の男は今のところ彼だけです。実に。だれがあんなことをできるでしょう。あれだけの惨い目にあいながら、神の愛の中に溶けてゆき、すべてを許す。人間は彼について、いろいろと研究しているようですが、まだまだです。

一部の人は、彼は、人間たちの罪業を背負って、自分たちの代わりに死んでくれたなどと言いますが、はは、勘違いもいいところだ。あの苦しみ、あの痛み、あの寒さ、冷たさ、自由を奪われた魂の叫び、あれを、自分たちの罪を押し付けた結果だと言って、平気でいられるのですか。紙に自分の名を書いて、十字架に貼りつければ、彼が全部それを背負って自分たちの代わりに死んでくれると。それでいいと思っているのですか。人間たちよ。馬鹿もいいところだ。

さて、わたしは、町の小さな教会につき、裏口の方に回りました。そこには、猫専用の出入り口があることを知っているからです。わたしはその入り口をくぐり、教会の中に入っていきました。そして、祭壇の方に向かいました。ああ、やっぱり、いました。

木造の磔刑像の足もとには四角い小さな台があり、そこに高窓からさした日の光が陽だまりを作っていて、猫が一匹、その台の上に寝そべっています。ジョヴァンニ・カルリです。茶白ぶちのぼさぼさの毛並みをした彼は、この教会の飼い猫でした。世話をしているのは、エミリオ・コスタという名の若い牧師さんです。ジョヴァンニ・カルリは猫としても行儀よく、人間にとって不快なことは一切しないので、そう美しい毛並みでなくても、たいそう人間にかわいがられています。その、あまり美しくはない容貌が、返って人間の心をとらえるようだ。彼は、猫たちにも、相当人気があります。あの顔でね、この町の猫たちのリーダーをしている。クレリアやマルゲリータやダフネも、彼を見るときの目は、わたしを見るときの目と、違う。ふ。全く。ジョヴァンニ・カルリ。今この世界で、ただ一人、わたしに少々不快な思いをさせる男の猫。誰も彼にはかなわない。

わたしは、ジョヴァンニのそばにゆっくりと近づいていき、声をかけました。
「やあ、ジョヴァンニ。元気かい?」するとジョヴァンニはゆっくりと目を開けてわたしを見、言いました。「これは、マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ。いらっしゃい。何か用かい?」
わたしはそれには答えず、ひらりと飛び上がって、ジェス・クリストの足もとにある小さな台の上の、ジョヴァンニの隣に座りました。ジョヴァンニは、自然に身を横にずらして、わたしが寝そべる場所を作ってくれました。ほんとうに憎いやつ。こんなこと、だれにでもできそうで、できない。彼がいると、何もかもがうまくいくんです。ほんとうに小さなことだが、美しく、大切なことを、自然にやってくれる。こんなことを。わたしのために、自分の位置を少しずらして、場所を開けてくれる。それだけのこと。だけどそれが、なかなかできることではないのですよ。わたしも、彼のまねをしてやったことがありますがね、まったく、自分らしくないと思って、すぐにやめてしまいました。

猫は賢いですから、自分の場所が欲しい場合は、相手に、少しどいてくれと言えばいいのです。そうすれば、よほど馬鹿な猫でない限り、そっと場所を開けてくれます。それで別にかまわない。

「何かあったのかい。マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ。君がわざわざぼくのところにくるときは、たいてい、何かがあったときだ」ジョヴァンニは言います。わたしは、かすかに、左の青い目をゆがめます。そっぽを向いて、痛い言葉の一つも投げたいところだが、わたしは紳士なので、そういうことはやりません。ただ、答えます。
「特に何もないさ。話し相手が少し欲しくなっただけだ。君、ジョヴァンニ・カルリほど、わたしを飽きさせない、おもしろい話し相手はいないからね」
「それは光栄だね。マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ」

わたしは、しばし、教会の高窓から差す光の陽だまりに身を置いて、静かにジョヴァンニ・カルリの隣に香箱を組んで座っていました。季節の日が暖かい。時々光がちらちらと揺れるのは、教会のそばに生えている木がこずえを風に揺らせているからでしょう。背後では、十字架にはりつけられて死んだジェス・クリストが静かにわたしたちを見下ろしています。

「鳥の声が聞こえるだろう」ジョヴァンニ・カルリが突然、言いました。わたしは答えます。「ああ、腹がすいているときには、あれほど魅力的な声はないだろうね」するとジョヴァンニはおかしげに笑い、言うのです。「たしかにね。ぼくも狩りをしたことは何度もあるよ。狩りほど魅力的なものはない。ママが、ぼくに、はじめてネズミをとってきてくれた、子供の頃のことを思い出すな」「ママはやさしかったかい?」「もちろんさ。ぼくのママは、ぼくにそっくりの茶白ぶちだった。でもきれいな猫だったよ。近所の雄猫にもてもてだった。もうとっくに死んでしまったけれど」「わたしは、ママのことはほとんど覚えていない。生まれて間もなく、わたしは箱に入れて捨てられたんだ。フェリーチャが拾ってくれたんだけど、五匹いた兄弟の中で、生き残ったのはわたしだけだった」「ああ、知っているよ。ジェス・クリストの分け前だろう。君のすてきな口癖だ」「そうともさ」

猫の人生の苦しみは、ここにあります。ほんとに、人間は、邪魔になる猫は平気で捨てる、殺す。もちろん、かわいがって大事にしてくれる人もいますがね、生まれてくる猫たちは、たいてい、誰も知らないうちに、死んで、消えてゆく。生き残った者は、本当に幸運だ。いや、本当に幸運なのかな? 死んで、消えていった、わたしの兄弟の方が、幸せだったのかもしれない。

「ここにいて、鳥の声を聞いているとね。どんな苦しみも、光に溶けて、なくなっていくような気がするよ」ジョヴァンニが、そのかすかに緑色を帯びた黄色の瞳を閉じて、言いました。わたしは、ふん、と言いながらも、彼と同じように目を閉じて、鳥の声を聞きました。日差しが、やわらかく、わたしの毛皮を温めてくれる。小鳥の声は、鈴のように落ちてきて、何かで濁っていたわたしの心に、きれいな光を入れてくれる。

わたしたちはしばし、並んで日差しを浴びながら、小鳥の声を聞いていました。

ジョヴァンニはただ黙っています。わたしは、隣にあるジョヴァンニの気配を、重く感じました。どうして、気持ちが苦しくなる時、ジョヴァンニに会いたくなるのか。わたしは、深いため息をつきました。確かに、彼のそばにいると、安心する。茶白ぶちの冴えない男。わたしは、彼に、どうしてもかなわない。この美しいマウリツィオ・パスカーレ・チコリーニともあろうものが。

わたしは、小鳥の声に、右耳を澄ましました。左耳はもちろん、聞こえないからです。わたしは、小鳥の声の美しさを感じながらも、決してそれを受け入れはしない左耳の存在を大きく感じました。わたしは、何かに少し腹が立ってきて、それをジョヴァンニにぶつけてしまいました。

「君はいいね。わたしみたいに奇形的じゃない。わたしはみんなに珍しがられる美しい男だけど、君の方がずっと自由だ。両目とも同じ色だし、耳も健康だし。わたしのように苦しむことはない」
「そうだね。ぼくには君の苦しみを肩代わりすることはできない。それは君の勲章だ。いや、生きるために必要な、重荷だ」
「重荷ね」
「猫も人も、生きる者は誰もが重荷を背負っているものさ。君がよくいうじゃないか。ジェス・クリストの苦しみの、分け前。それがその、左耳」
「ああ、そのとおりさ。この耳のおかげで、どんなに苦しんだことか。品のないやつに、この弱点をつかれて、左の頬を噛まれたことがあった。どんなに美しい音楽も、わたしには半分しか聞こえない。大切な約束を教えてくれる人の言葉を、何度も聞き逃した。そして道に迷った。何度も何度も、迷った。この苦しみ、これだけは、君に負けない。これがわたしの、あの美しい男、ジェス・クリストの味わった苦しみの、千万分の一の、分け前。これでわたしは、ジェス・クリストの十字架のひとかけらを、背負っているのさ。それだからこそ、わたしは美しすぎるほど、美しいのだ。君には負けない。この左耳がある限り」

わたしは、思わず、言ってはならないことまで、ぺらぺらとしゃべってしまいました。そうです。わたしは、この冴えない茶白ぶちの男を、ライバル視しているのです。勝手にね、好敵手として、認めている。いや、もしかしたら、彼の方が、わたしよりもずっと上なのかもしれない。

ジョヴァンニ・カルリは、わたしの話を聞いて、少し困ったような顔をして、かすかに微笑み、黙りこみました。背後にいるジェス・クリストの気配が、まるで生きているように、わたしたちを見つめているような気がしました。

なぜこんなに、わたしは彼をライバル視するでしょう。わたしはマウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ。長毛白猫、金目銀目の美しすぎる男。甘い言葉で女性に幸福を与える。だれもわたしの真似はできない。女性たちは、おもしろげに笑いながらも、わたしのことを待っている。傷ついた女性ほど、わたしは深く愛します。そして心を抱きしめる。美しくも優しい言葉をかけてあげられる。それだけで、どれだけ女性たちの心がよみがえり、美しくなっていくか、わかりますか。わたしの使命は、女性に尽くすことなのです。美しきマウリツィオ・パスカーレ・チコリーニの使命は、女性を本当の美しい女性にすることです。

しかし、女性たちは、わたしよりもむしろ、ジョヴァンニの方が、好きなようだ。なぜだかわかりますか? 簡単なことです。そう、簡単なこと。簡単なことだけど、難しいことを、彼は、いかにも自然に、誰にも知られないように、そっとやってくれる。小さなこと、だけど大切なことを、黙ってやってくれる。簡単だが、誰にもできないことを。

あれはいつのことだったでしょう。昔、ジェルソミーナという老いた雌猫がいました。わたしはまだ三歳くらいのひよっこでしたが、もう十分に、女性を喜ばせる言葉には長けていました。ジェルソミーナは不幸な雌猫で、飼ってくれていた人間の家族が引っ越していったとき、捨てられて残され、野良猫に落ちてしまったのです。彼女はもうその時、十五歳くらいになっていましたから、かなりのおばあさんでした。たぶんそれが、人間に見捨てられた理由の一つでしょう。

ジェルソミーナはある日、二匹の子猫を生みました。それはジェルソミーナは喜びました。子供がいることほど、幸せなことはありませんでしたから。ジェルソミーナはたいそういいお母さんでした。子猫の世話をそれは細やかにしていました。なんとかして、食べ物を都合つけてきては、乳を飲ませ、食べ物を与え、子猫を育てていました。だが、野良猫にとって、この生きるものたちの世界は厳しすぎた。ジョヴァンニも、わたしも、彼女が見ていられず、何度か食べ物をわけてあげたりしました。けれども、とうとう彼女は、子猫を失ってしまった。子猫たちは、すぐに猫風邪にかかり、目がつぶれて、あっという間に死んでしまったのです。老いたジェルソミーナの受けた心の傷は深かった。愛おしい子供を、すべて、失って、彼女は半分狂ってしまいました。

わたしは、ジェルソミーナに近寄り、言いました。
「美しいママ、泣かないでおくれ。ぼくのかわいいママ、愛しているよ」
けれど、そのことばは、もうジェルソミーナの心には、届かなかったのです。ジェルソミーナは、もうものを食べなくなり、日に日に痩せ衰えていきました。何もかもを失って、絶望の中に、彼女の瞳の光が消えていくのを、わたしは、見ていることしか、できませんでした。

そんなある日のことでした。ジョヴァンニ・カルリが、ジェルソミーナのもとにやってきました。わたしは、近くの木陰に隠れて、見ていました。ジョヴァンニ・カルリは言いました。
「ママ、かわいいママ、ミルクをちょうだい」
そうすると、ジェルソミーナはふと、目に光を宿らせ、ジョヴァンニを振り返ったのです。そしてうれしそうに、ジェルソミーナは言ったのです。
「ああ、かわいい子、おいで、おいで、お乳をやろ。なんでもしてやろ。あっためてやろ。おいで、ぼうや、お乳をあげるから」
そういうとジェルソミーナは、そこに横たわり、おなかのお乳を見せました。そして、ジョヴァンニは、ジョヴァンニは、何も迷うことなく、その老いさらばえてしなび果てた乳首にすいつき、やさしく彼女のおなかをもみながら、お乳を吸ったのです。
そのときの、ジェルソミーナの幸福に満ちた顔を、忘れることが、できません。

だれが、できるのか、あんなことを。ジョヴァンニ・カルリ!!

おまえには、プライドなど、ないのか! なんてことをするんだ!!

愛おしい子が帰ってきたと思って、ジェルソミーナは本当に幸せそうでした。ジョヴァンニの毛皮をやさしくなめ、何度も、かわいい、かわいい、と言いました。ジョヴァンニはただ、赤ん坊のように、ジェルソミーナによりそい、やさしく、そのもう出なくなった乳を吸っていたのです。

ジェルソミーナが死んだのは、それから何日か経った後でした。ある、強い雨の降った日の翌日、町を流れる小さな川に浮かんでいる、ジェルソミーナを、猫仲間が見つけました。ジェルソミーナの体を川から引き上げることのできる猫などいません。人間も見向きもしません。ジェルソミーナの体は、川に流され、いつの間にか水に溶けて消えていきました。

猫の最期は、たいてい、こんなもの。大切にしてくれる人間はいますけれどね、いつもこうして、たくさんの猫が静かに世界に溶けてゆく。何度生まれても、何度生まれても、すぐに、風の消しゴムに命を消されてしまう。

わたしは、胸の奥から、詰まった小石を吐き出すような、痛いため息を吐きました。すると、少しの沈黙を挟んで、隣のジョヴァンニが言いました。

「猫の人生は、つらいことが多いが、お日様はいるよ。天にね」
ジョヴァンニめ。わたしは、胸の中で返します。憎いやつだと思いながらも、彼の声と言葉を聞いて、安らぎを感じている自分を、否定することはできません。
そう、わたしは、ジョヴァンニの、この声を聞きたかったのだ。彼はいつも言う。「お日様はいるよ。天にね」

「ああ、そうだね、ジョヴァンニ。お日様はいるよ。ソーレ。わたしたちの暖かい神さまは」わたしは、できるだけ胸を張り、彼に負けそうな自分を奮い立たせながら、言ったのでした。

「何があったのかは聞かないけれど、君のことだから、そろそろ立ち直っているだろう」ジョヴァンニはさらりと言います。ええそのとおり。もう立ち直っていますよ、わたしは。
「ジョヴァンニ・カルリ。君ほどの男を、わたしは見たことがないねえ。どうだ、君の背中のぶち模様ときたら、まるで薔薇のようだ。すてきだねえ。おしゃれだ。女の子はみんな君が好きさ」
それを聞くと、ジョヴァンニは少し困ったような顔をして、笑いながら、言いました。
「まいったね。君にはかなわないよ。マウリツィオ」
わたしは、胸に何か暖かいものが満ちてきたような気がして、ジョヴァンニに笑い返し、立ち上がりました。そして、ジェス・クリストの足元から降りると、そっとジョヴァンニを振り返り、別れの言葉を言いました。
「じゃあこれで、ジョヴァンニ。話ができてうれしかったな。また会おう」
「ああ、また会おう。マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ」
こうして、わたしはジョヴァンニと別れ、教会を出て、自分の家に帰っていったのです。ベルナルディーノの無礼な態度や仕打ちにも、もう許せるような気がしていました。

ジョヴァンニ・カルリ。ただひとり、わたしがライバルと認める男。数少ない、本物の男。わたしはあなたが、大好きだ。きっと、女の子よりもね。

さて、わたしが気分を取り戻して、フェリーチャの元に帰ってきたころ、ジョヴァンニは、そっと教会を出て、外の光を浴びていました。そしてそのまま、ゆっくりと散歩をしていると、途中で、シルバータビーのクレリアに出会いました。ジョヴァンニは、武骨な男ではありますが、自分を見るときの、クレリアの瞳が、いつもやさしく濡れているのには気付いています。クレリアはジョヴァンニに出会えたことが、とてもうれしいらしく、笑いながら、言いました。
「こんにちは、ジョヴァンニ。いいお天気ね」
「ああ、いい天気だ。お日様はいつも空にいらっしゃる」
「いつもの口癖ね。でもどうしたの。あなたがそれを言うときは、たいてい、ちょっと苦しいことがあったときだけど」
「君にはかなわないね。そう、ちょっとしたことがあってね。さっきまで、教会で、マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニと話をしていたんだ」
それを聞くとクレリアは、さもおもしろそうに笑って、言ったのでした。
「それはまあ、大変な災難ね!」
「まったくね」
ジョヴァンニも、笑って、言いました。

(おわり)

 
 
 
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マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニの証言

2024-11-21 03:05:18 | 猫の話

みなさん、こんにちは。わたしの名はマウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ。今年で八歳になります雄猫です。まずはわたしの毛並みについて説明させていただきましょう。猫にとって毛並みはとても大事なものですから。わたしは、ご先祖にペルシャの猫かシャムの猫がいるらしく、幾分被毛は長く、毛並みは全身雪のように真っ白です。瞳は右目が金色ですが、左目はアイスブルーのアクアマリンを思わせる青です。よくいうオッドアイ、または金目銀目というやつですが、このおかげで、わたしは生まれつき左耳が聞こえにくく、少々、難儀しております。

わたしの飼い主は、ベルナルディーノ・チコリーニという靴職人で、今の時代には珍しく、手作りの靴を並べて売っております。店の奥に工房があり、たくさんの木型や牛皮や釘などに囲まれながら、主人は色々な靴やサンダルを毎日作っております。
店先で靴を売っているのはフェリーチャという名の、彼の奥さん。わたしはと言いますと、店先の定位置である小さな椅子の上で、まるまって眠りながら、客の呼び込みなどしております。自慢ではありませんが、わたしは毛並みも雪のように白くつややかで、瞳の色が左右で違うため、たいそう珍しがられて、わたしをひとときでもなでたり抱き上げたりしたい客が、つい店の入り口をくぐってしまうなど、よくあります。そしてわたしをなでながら、客はフェリーチャと世間話をしつつ、いつしか、一足のサンダルなど買い求めてゆくのです。

まあこうして、わたしはご主人の商売に一役買っているわけではありますが、人は言いますね。猫はいいな、ただ座って寝てるだけで、なんにもしなくていいからと。そこにいるだけで、何となく、いいことになると。ふ。人間とはほんと、何にも知らない生き物です。それは、頭と手を器用に使って、いろいろなものを作りますし、おもしろいと思っていろいろなばかばかしいことをやっておりますが、さても、彼らは一体自分が何をしているのか、さっぱりわかっておりません。彼らは、わたしたち猫が助けてやらねば、大変なことになってしまうのです。もちろんわたしたち猫は、そんなことは一言も言いませんが。まあその、こうして、猫が人間の言葉をしゃべるなどとも、思ってもいませんでしょうから。

猫がしゃべれるのかって? 現に今しゃべってるじゃありませんか。これは、本当は猫族の秘密みたいなもので、といってもまあ、その秘密を漏らしてはいけないと言う決まりもないのですが、いろいろと困ったことにもなるので、猫はみんな、何となく、ずっとこのことを秘密にしてきたのです。でも、言いたいことを言おうと思えば、猫はいくらでも人間に言いたいことがありますね。実際、口に出かけたこともありますが、ぎりぎりで飲み込みました。人間ときたら、どうしてこんな簡単なことがわからないのかと、そういうことが、しょっちゅうあるものですから。

何を言いたいのかって? ふむ、それは良い機会ですから、よし、ひとつだけ、言いましょう。人間様、どうかお願いですから、朝っぱらから朝食にけちをつけないでくれますか。パンが焦げすぎだの、ジャムが足りないだの、チーズが腐ってるだの、卵の焼き加減がどうだの、フルーツが硬いだの。まったくね、気の利かないやつに説教するつもりで、偉そうに言わないで下さいよ。フルーツが硬いのなら、自分で柔らかいのを探してくればいいじゃないですか。ほんの小さなことをひっかけて、人を馬鹿な笑いものにして、悲しい目に合わせないでください。そばにいてくれる人を、傷つけないでください。

こんなとこですか? 何気ないことのような気がしますけどね、ここらへんが大事なんですよ。人間は、全然わかってないんだ。わたしはもう、深いため息が出ます。優しいことを言えば、なにもかもがうまくいくというのに。

やあ、そろそろ店じまいですね。フェリーチャ奥さんが、店のカーテンを閉めました。ベルナルディーノは今日、靴を二足作ったようです。お客さんの希望にこたえて、深いセピア色のきれいなパンプスを一足と、子どもの誕生日のお祝いのための、赤い小さな靴と。ベルナルディーノはなかなかに腕のいい職人のようで、靴はピカピカでとてもきれいな形をしています。人間の足に、よく似合いそうだ。わたしも店番の仕事を終えて、椅子の上から降り、体を伸ばすと、フェリーチャがくれる晩御飯を食べて、ほっと息をつきます。するとフェリーチャはわたしを抱きあげて、しばし頬ずりをします。

「マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ。わたしのきれいな白ネコちゃん」フェリーチャは甘い声でわたしにささやきます。実際、彼女はベルナルディーノよりわたしを愛しているようだ。まあ、わたしはたしかに美しい男ではありますから、当然のことかもしれませんね。ベルナルディーノには気の毒だが。彼も少しは、女性の心をとらえる方法を、勉強してほしいものです。

さてと、夕食も終わり、主人二人はシャワーを浴び終えて、寝床につく前に居間のソファに並んで座り、テレビのヴァラエティ・ショーを見ています。テレビの小窓の向こうでは、プルチネッラの格好をした道化が、ナポリなまりで少々卑猥な冗談を言っています。ベルナルディーノとフェリーチャは腹を抱えて笑っています。わたしと言えば、あまりそういうものには興味ないので、居間を出て、寝室の方に向かいます。寝室の窓は鍵が甘く、猫がちょっと力加減を工夫して取っ手につかまれば、簡単に開くのです。

わたしは開いた窓からするりと出て行き、店の二階から、屋根や樋を伝って、ひらりと道に降り立ちます。今宵は望月、ルーナ・ピエーナ、お美しいお月さま、あなたほどの女性は見たことがない。輝かしくも清く白い百合の色を、どうやって手に入れたのですか? 私は月の女神に言います。ふ。これくらい女性に言えなくては、男はできませんよ。男なら、女性には尽くさねばなりません。ここんとこ、よおく勉強してくださいね。わたしの態度が、あなた方の良い見本になると、よいのですが。

さて、こうしてわたしは、お月さまにちゃんとご挨拶をしてから、月に照らされて明るい道を、どんどん歩いていきます。望月の夜には、猫の大切な集会がありますから。道を歩いていると、小さな風がわたしの髭をなでて行く。聞こえない左の耳が、少し重く感じるのはこんなときです。右の耳は風の音を聞いてくれるのに、左の耳はあるのかさえわからないほど、何もしないのです。人間は、耳が聞こえないことなど、猫にはつらくないだろうと思っているでしょうが、そんなことはない。この生まれつきの苦しみが、わたしの胸を何度締め付けたことか、生きることを暗くしたことか、それはわたしと、神しか知らない。

「マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ」誰かが呼ぶ声を、右の耳がとらえてくれました。振り向くと、白黒はちわれの、大きな雄猫が近づいてきます。わたしは彼に答えて言います。「やあ、ニコ・メローニ。久しぶりだね」
「一月ぶりだね。前の満月のときより、少し痩せたかい?」
「そうかな。だとしたら多分、理由はベルナルディーノだね。職人気質の頑固なことと言ったら、猫をてこずらせるんだ」
「君の飼い主はまだましなほうだ。ぼくの飼い主のダリオ・メローニときたら、もう半分死んでいるよ。不幸ばっかりの人生で、妻にも子どもにも逃げられて、残ったものと言ったら僕だけさ。猫は、人間を見捨てるわけにいかないからね」
「そりゃ大変だ。君がそばにいてあげなくちゃ、ダリオはきっと死んでしまうよ。あの爺さんは、大事なことが全くわかっていなかった。食事はちゃんともらえてるかい?」
「なんとかね。ダリオは今、隣町のコンビニ・ストアでバイトをしてるんだ。年寄りでも雇ってくれたらしいよ」
「コンビニ・ストアか。最近増えたねえ」
「この町にも三つあるそうだよ。人間が交代で、終夜営業している。便利にはなったけど、その分、人間は大変になったみたいだ」
「そろそろ、節度をわきまえろって、叫びたいね。人間に」
「全く同意するね」

わたしたちは話しながら並んで歩き、広場につきました。広場と言っても、人間がいっぱい歩いているあの町の真ん中の広場ではなく、空家と空家の間にできた、小さな空き地というところです。隅には大きな百合の木があって、白い月はその上にちょこんと載るようなかたちをして、わたしたちを見下ろしています。広場にはもう、三十匹ほどの猫がいました。中央では、茶白ブチの、ジョヴァンニ・カルリが、集まってきた皆に向かい、話をしていました。

わたしは猫たちの間をめぐり、シルバータビーの美女の隣に座りました。
「こんばんは。クレリア。いつも美しいね」
「あら、ありがとう、マウリツィオ。あなたの青い目、いつも素敵ね」
「うれしいね。でもやっかいものさ。この目のおかげで、わたしは運命の神の気難しさを知ったよ」
「片方の目が青い哲学者さん、楽しいお話は後でね。ジョヴァンニのお話を聞きましょ」
「ああ、もちろん」

わたしは前を向き、茶白ブチのジョヴァンニの声に、聞こえる方の耳を傾けました。

「…新しい件については、これで、ジュリアーノがやってくれることになった。ジュリアーノはまだ若いが、なんとかしてくれるだろう。だんだんと、苦しむ人間が増えている。影で助けてあげてくれ。本当に、今は、大変なことになっているから、猫も大変だ。君たちが頼りだから、ぜひお願いする。担当する件について、疑問のある猫はいるかね?」
ジョヴァンニが言うと、猫たちの中から、一匹の雌の黒猫が声をあげました。
「はあい、あたし、マルゲリータ・ルーティ。担当しているのは、エヴァンジェリナっていう女の子なの。毎日、七百個も小さな造花を作らなくちゃならないのだけど。簡単な仕事なのに、もういやだって言って、やめたがっているのよ。でもやってもらわなくちゃ、また困る人間が増えるわ。どうしたらいいと思う?」
「そうだねえ、どうしたらいいと思う、みんな?」
ジョヴァンニが猫たちに尋ねました。すると、きれいなソマリの雌猫が声をあげました。
「はい、わたし、ダフネ・アニャーニ。それはもう、わたしたちが半分以上やるしかないと思うわ。そうしたら、エヴァンジェリナは楽になるでしょ。マルゲリータは大変だけど。猫のわたしたちなら、それくらいなんとかできるわよね」
「ええ、そうね。できるわ。ありがとう、ダフネ」
「どういたしまして。猫はみんな大変だから、助けがいるときは言ってね」

このようにして、満月の夜の猫の会議は終わりました。そして、皆それぞれ、自分の担当する人間の所に行って仕事をするようにと、ジョヴァンニ・カルリが言いました。

わたしはニコとクレリアに別れの挨拶をし、自分の担当する人間の元に急ぎました。今夜は、会議があった分、少し遅くなってしまった。きっと、わたしのフランチェスコ・トッティは、とてもつらい思いをしているだろう。早く行って、助けてあげなくては。

フランチェスコ・トッティは、小さな部品工場を一人で切りまわしている、工場長です。彼は毎日、一万個の小さなネジを作らねばなりません。一人の力で一万個のネジを作るのは、熟練のフランチェスコにも、とても辛いことでした。けれども、フランチェスコがネジを作らねば、子どもたちがみんな欲しがる、キラキラきれいで楽しいゲーム機が、作れないのです。だからどうしても今日中に、一万個のネジを作らねばなりません。わたしがフランチェスコの工場に行った時、フランチェスコはまだネジを六千個しか作れていませんでした。わたしは内心、まずいなと思いました。フランチェスコはネジを作る機械を操りながら、もう死んでしまいそうなほど、疲れきっています。これ以上、人間を働かせるのは無理です。

秘密をもう一つ、教えましょう。猫には、魔法が使えます。人間の背中から、自分の魂を人間の中に滑り込ませて、その人間の代わりに、その人間のやることをやることが、できるのです。わかりますか? 言い換えると、少しの間だけ、人間の体をわたしたちがのっとって、彼らの代わりに、彼らの仕事をするのです。その間、人間の魂は眠っています。ほら、時々、人間は何かをしながら、夢中になってやっているうちに、自分がわからなくなって、ふと気付いた時には、いつの間にか仕事がたくさんできているってこと、あるでしょう。それはね、人間が、意識を失っている間、猫が代わりにやっているからなんですよ。

こうして、わたしは今夜、フランチェスコの代わりに、フランチェスコになって機械を操り、ネジをたくさん、作りました。フランチェスコの心は、わたしの後ろで、眠っていました。疲れきって、心もしびれて、死にそうになっていましたが、少し休んでいるうちに、力も戻ってきたのか、やがてふと、彼は目を覚ましました。フランチェスコは、はっとしました。時計を見て、びっくりしています。もう少しで、朝になる。機械の方を見ると、いつの間にか、メーターのネジの数が一万個を越えていました。フランチェスコは、大喜びしました。

「やった。今日も何とか、遅れずにすんだ!」

猫に戻ったわたしは、そんなフランチェスコの様子を見つつ、少しほっとして、そこからそっと姿を消し、ベルナルディーノとフェリーチャの待つ家へと向かいました。

途中、クレリアに会いました。ルーナ・ピエーナはずいぶんと西に傾いて、そろそろお日様、ソーレの気配が、東の空にかすかに漂い始めていました。
「左目の青い白ネコさん、今日もご苦労だったわね」
「そういう君こそ、クレリア。君の担当するシルヴァーナは、今夜ハンカチに薔薇の模様を何枚刺繍したんだい?」
「二千枚というところかしら。だんだん増えてくるわ。途中で刺繍の機械の調子が悪くなって、五十枚も失敗してたの。でも、わたしがなんとか帳尻をつけて、明日の分も少しやってあげたわ」
クレリアは器量よしでやさしい雌猫です。シルヴァーナをとても愛していて、いつもおまけをつけてあげるのです。かわいいシルヴァーナは、刺繍工場で夜番を働く少女。怖い工場長にこき使われて、毎夜ハンカチに薔薇模様の刺繍をさせられているのでした。

「ハンカチに、薔薇の模様があると、うれしいね」わたしはクレリアと並んで歩きながら、言いました。するとクレリアは、少し悲しげに、言うのです。
「人間は、心が寒いのよ。だから少しでも、何か暖まるものが欲しいんだわ」

途中、わたしたちは、小さなコンビニ・ストアの前を通りました。わたしはニコの飼い主のダリオのことを思い出しながら、言いました。
「こんな風に暮らしを便利にするために、たくさんの人が、苦しんでいるんだね」
「ええ、そう。人間は、文明を、進め過ぎたのよ。暮らしが便利になるのが、悪いとは言わないけれど、それにも、程度というものがあるわ。文明が進み過ぎて、そのしわよせが、一部の弱い人の肩に、重くかかっている」
「このコンビニ・ストアに商品を運んでくるために、トラックは危険なスピードで道を走ってくる。ドライバーは死にそうなほどつらい。でもやらなくては、文明が、うまくゆかなくなる。今の文明は、人間にとっては、少し進み過ぎているんだ。だからこうして、ぼくたち猫が、人間にできないことを補っている。人間には秘密でね」
「猫がやってあげないと、人間にはやりこなせないわ、今の文明は。それにしても、なぜ、人間は、こんなに文明を進めたがるのかしら?」
クレリアは、沈んでいく月を見ながら、ため息交じりに言いました。わたし、哲学者マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニは、彼女の美しい横顔の瞳を見詰めつつ、答えます。

「…それはね、人間が、不幸だからさ」

するとクレリアは、きれいな目を瞼の中にしまい、少しうつむいて、微笑みました。

「幸せって、もっと簡単なもので、いいのにね」クレリアはぽつりと言いました。わたしはクレリアにやさしく、言いました。
「銀河に染まってきたような、シルバータビーの星の君、わたしは君のことが、大好きだな」
するとクレリアは、目をまるまると見開いてわたしを振り向き、本当に素敵な笑顔で笑いました。
「あら、マウリツィオ、すてきな青い左目のお馬鹿さん、お世辞を言ったって、何もしてあげないわよ」
クレリアはそういうと、笑いながら、コンビニ・ストアの向こうの角に、走って行ってしまいました。

クレリアがいなくなると、わたしは西の空のルーナ・ピエーナに挨拶をしました。
「美しき白百合の君、あなたに会えて、あなたをたたえることができる幸せを、本当にありがとう」

わたし、マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニの、大事な仕事は、こうして今日も無事に終わったのです。明日もきっと、わたしはフランチェスコのところにいき、一緒にネジを作ってくるでしょう。

わかりましたか? 人間のみなさん。何もかも、自分たちが全部やっているのだと思ったら、大間違いですよ。あなたたちはこうして、猫に、だいぶ、助けられているのです。少しは、わかりましたか? 

節度というものを、守りましょう。やりすぎにも、ほどがありますよ。ほんと、言いたいのはこの一言に限りますね。

それではみなさん、そろそろわたしの家が見えて来ました。フェリーチャは今頃、夢でわたしと遊んでいることだろうな。昼間はずっと、寝てばかりいて、夜にはこうして、密かに人間のために働いている。

猫はずいぶんと前から、こんなことを、やってますよ。


 
 
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