青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-01-31 03:24:26 | 月の世の物語・上部編

白髪金眼の聖者は、首府の長に呼ばれ、上部に戻ってきた。彼はそこで青い服に着替え、杖を一旦手元から消し、光を骨組みに、歓喜の音律を壁材に、水晶の精を粘着材として造られた、白く光る高い塔に向かう。塔は首府の中央にある。

彼らは、月の世や日照界では、聖者または準聖者と呼ばれるが、ここでは単に、「上部人」あるいはただ、「人」と呼ばれる。

空はサファイアブルーに冴えていた。中天に光る月は黄金色であったが、それは数百億年前、当時の聖者、いや上部人数百人によって建設されたものだった。彼らは偉大な力を持って、上部世界を営々と創ってきた。月はこれからも何百億、何千億年もの間輝き、上部世界を支え続ける。このようにして、かつては、月の世の月もまた、創られたのだ。それを知っているものは、上部人以上の者だけだが。

しかし彼らにも不可能はある。月は創れるが、太陽はいまだ創れない。それをやれる方は、上部の天井を超えたところにいらっしゃる。世界とは、存在とはそういうものだ。いつも、上がある。限りなく、上がある。段階というものは、そういうものだ。

とにかく、今の彼は、上部人である。サファイアブルーの空の下、上部の首府は、水晶の振動の澄んだ香りに包まれ、物質を超えた空気ではない空気で作ったガラスのような透明な建物が鋼の大地のあちこちに生えていた。所々に木々が、青い焔のように燃えて立っていた。それもまた、上部人が創ったものだ。上部の木々は、仮の霊魂を与えられ、それが役目を終えて燃え尽きてゆくまで、存在の愛なるものの喜びを歌い、上部人たちが、時に味わう苦悩と悲哀を清め続ける。

白髪金眼の上部人は、首府の中央にある塔の前に立ち、ほう、と一声、息を吐く。それが合図であり、敬意と感謝のことばである。常人には決して聴こえる声ではないが、上部人は瞬時に彼が言ったことを理解し、塔の門が開く。彼は吸い込まれるように塔に入ると同時に、見えない風の台に乗って上に上がっていく。やがて彼の目の前に、朱色の服を着た首府の長があらわれ、ふ、という。彼は白髪金眼の上部人の真の名を呼び、その仕事を言い渡したのである。白髪金眼の上部人は瞬時にそれを理解し、また、ふ、と答え、すぐにそこから姿を消す。

彼が向かったのは、首府よりはるか離れたところにある、青い鋼鉄の平原であった。ひとりの若い上部人が平原の隅に立ち、青い炎を燃やして、鋼鉄の平原に緑の草原を創ろうとしていたが、空より吹く氷風の精に拒否を示され、かなり苦労をしているようであった。白髪金眼の上部人は彼に、ふぃ、と声をかけ、その労をねぎらい、指で氷風をかき混ぜ、彼の魔法に自分の光を注ぐ。すると彼は新しき力を得て、ようやく鋼鉄の平原にひとひらの草原を創った。彼は、ぽう、と答え、白髪金眼の上部人に感謝した。

さて、鋼鉄の平原の中央には、またとないほど清く、透明に澄んで美しい、巨大な水晶の大樹が、無限に向かって腕を開くように、無数の枝を空に広げて立っていた。白髪金眼の上部人は風のように飛んでその大樹に向かう。大樹の根元には、紫色の服を着て、黒髪を長く垂らした女性のように細いひとりの上部人が立っており、その木を見上げていた。白髪金眼の上部人は彼に、つ、と声をかけた。黒髪の上部人も、つ、と答えた。それには挨拶と感謝の意味があった。もうすべては、彼が来る前にわかっていたので、それ以上の会話は必要なかった。白髪金眼の上部人は、水晶の大樹の、まるで眼前を阻む広い崖のような幹の中に入ってゆく。

ふぉう、と彼は言う。水晶の大樹の中には、光に満ちた大きな空洞があり、その白い壁には、水晶の糸がもつれあうように絡み合った複雑な回路が描かれ、ところどころに、神の開けた鍵穴のような空欄があった。今、ひとりの黄色い服を着た上部人が、薄い蛋白石の丸い板の上に座り、空洞の高いところで風のように速く手を動かしながら、次々と口から光る紋章を吐きだしては、その紋章を、回路の中の空欄にはめ込んでいた。それは常人の目から見れば、まるで彼が何十本もの腕を持っていて、それで音楽に合わせて舞いを舞っているかのように見えるだろう。地上世界に、千手観音という架空の救済者の伝説があるが、もしかしたら、それはこの姿を、誰かが夢の中で見たのかもしれぬ。それほど、その姿はそれに良く似ていた。

白髪金眼の上部人は、自らも蛋白石の板を作り、その上に乗って上に上がってゆく。そして黄色い服を着た上部人に、る、と声をかける。それは「交代する」という意味であった。黄色い服の上部人は何も言わず、すぐにそこから姿を消した。それと同時に、白髪金眼の上部人は蛋白石の板の上に座って、もう彼と同じ仕事を始めていた。口から次々と光る紋章を吐き、複雑怪奇なパズルのような回路の空欄にそれをはめ込んでいく。彼の手は上に下に左に右に斜めに前に後ろに、関節などなきがように鞭のようになめらかに動き、かすかな水晶の振動の音楽に合わせて見事な舞いをしながら、目にもとまらぬ速さで正確に紋章を空欄にはめ込んでいく。

やがて、遠くから笛の音が聞こえた。ああ、と彼は言う。長い時間が経ったと笛が知らせた。もうそんな時がきたのか、と彼は思う。短い時間だと感じていたが、もう終わってしまったか。彼は口から一枚の細く緑色に光るチップのようなものを吐きだした。そしてそれを回路の一番高いところにある空欄にはめ込んだ。すると、上方から神の声が降り、それは、ゆ、と彼に告げた。「始まる」という意味であった。とたんに、樹木が水を吸い上げるように、回路に光がとおり、はめ込まれた無数の紋章が虹のようにきらめき出したかと思うと、くぉん、と音がしてシステムが動き始めた。はぁお、彼は言いながら蛋白石の板を下におろし、大樹から外に出る。そして、大樹を管理している黒髪の上部人にまた、つ、と挨拶をする。黒髪の上部人はただうなずき、大樹を見上げる。白髪金眼の上部人もまた、彼に並び、大樹を見上げる。

ほおう、と黒髪の上部人が言う。白髪金眼の上部人もまたそれに和する。神の光が大樹に降りかかり、それは上部世界に清い桜花の霊を呼び、水晶の大樹の枝々に紅水晶の小さな玉が無数に芽生え始め、それらは次々に、とん、とん、と音をたてて開き始めた。その美しい響きは空に冴えわたる清い謎の斉唱のようであった。ああ。どちらかが言った。それは感嘆の声だ。花は見る見るうちに満開となり、水晶の大樹はそれはみごとな、おそろしく澄んで美しい巨大な桜樹となり、鋼の平原に眩しい薄紅の炎を空高く焚きあげた。

すゆ、と白髪近眼の上部人は言った。黒髪の上部人もまた、すゆ、と言い、うなずいた。それはこういう意味であった。
「第一段階は、終了した」「ふむ、そのとおり。だがこれが地上に全く実現するには、数千年とかかるだろう」「もちろん。すべてはこれからだが、もうすでに終わっている」「神の御計画に、失敗はない」「もはやこの次の大樹も、創られ始めている」「ああ、我々はやらねばならぬ」「そのときがくれば、また、見事な愛の美しき花霊がここに呼ばれることであろう」

白髪金眼の上部人は、黒髪の上部人に別れを告げ、首府の塔に帰ってゆく。そして、使命を果たしたことを長に伝え、塔を出ると、また青い服を常人の服に着替え、杖を出し、聖者としての仕事をするため、月の世に降りてゆく。

く、と彼は言う。それは笑いであった。人間よ。悲しくも幼く、そして、見事な未来でありながら、闇をさまよう者たちよ。かつてなき創造であるおまえたちのために、神が何をなさっているかを、おまえたちがいつ知ることができるだろうか。

はう、と彼は言う。眼下に月の世の月の白い大地が見え始めた。彼は月長石の平原に降り立ち、一息呪文を唱える。上部の空気を脱ぎ、言葉を常人の言語に切り替えるための呪文である。彼は杖を振り、それと同時に姿を消す。

さて、彼がそれからどこに行ったかは、彼だけの問題である。


 
 
 
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2025-01-30 03:12:58 | 月の世の物語・別章

青い鳥船は、一人の聖者と、二十数人の青年を載せて、衛星のように、地球を回っていました。鳥船の内部には、各種の知能器や観測機などが装備され、青年たちが、常に地球の様子を観測しながら、知能器のキーボードを打ったり、観測機の画面をのぞきながら、さまざまなデータを記録したり、地上にいる聖者様や青年、少年たちから送られてくる情報の暗号を解読したり、たまに、何らかの事故で傷が生じた水晶球を修理するのを手伝うために、地球上に降りたりしていました。

青年たちは、月の世の青年と、日照界の青年と、ほぼ半々の数で構成されていました。月の世の青年は、日照界の青年の影のない明るい態度やまっすぐな発言に戸惑い、日照界の青年は、月の世の青年が、時に地球上の影を見るときの悲しげにも鋭い視線に、胸を突かれることがありました。ですが彼らは、人に違いがあるのは当然だと知っているので、特に何も気にすることもなく、お互いの違いをそれぞれに興味深く学びながら、助け合って仲良く協力しあい、日々の仕事をこなしていました。

聖者はただ、青船の中で一人立ちつくし、いつも、青船の扉を開いて、静かに地球を見下ろしていました。

「やあ、ガゼルくん」月の世の青年が、ある日照界の青年に声をかけました。彼は数年前まで、日照界においてガゼルの導きをしておりましたが、その仕事で少しミスをしてしまったことをきっかけに、しばらくガゼルの導きを他の青年に預け、代わりに、この地球の状況を観測する青船の仕事に志願し、それをお役所に認めてもらったのでした。
「これ、昨日のデータなんだが、翻訳してくれるかい?」彼を「ガゼルくん」と呼んだ月の世の青年は、彼に少し暗色に煙った水晶の板を渡しました。その日照界の青年は、実年齢に比しては少し幼げな少年のような顔をしており、それほど年の変わらぬ他の青年たちに、少々からかい気味に、「ガゼルくん」と呼ばれていました。彼はそれに時々苦笑もしましたが、気にしてもしょうがないと思い、なんとなくそう呼ばれるのを、自分にもみんなにも許していました。

ガゼルの青年は、月の世の青年から渡された水晶の板を、キーボードに放り込み、画面に映り出た複雑な暗号や紋章を解読し、普通の言葉に翻訳していきました。そして一仕事終わると、ふっと息をつき、何気なくすぐ横の窓を見て、ガラスに映る自分の顔を見ました。丸い大きな青い目の少し幼げな顔は、確かに、何となくガゼルに似ているようにも思えました。
(あの仕事も、長いことやってたからなあ…、僕も、だいぶガゼルに影響されたのかな)彼は髭の無い自分の顎をなでつつ、ガラスに映る自分に向かって、少し照れたような笑いを見せました。

ガゼルの青年は、翻訳したデータを再び水晶の板に記録し、透明になってキーボードから出てきた水晶の板を、さっきの月の世の青年に渡すために、立ち上がりました。

すると、ふと彼は、青船の扉のそばで、常に凍りついたように立ちつくし、地球を見下ろしている聖者の厳しい横顔に目が行きました。聖者は常に杖を離さず、ただそこにあるだけの人形のように立ちつくし、青年たちに何を命令することもなく、ただ地球を眺めていました。聖者が何をしているのか、青年たちには一切わかりませんでしたが、聖者が、地球を見ながら常に、自分たちには見えないものを見つめ、魂の奥で彼らには決してわからない仕事をしているのだということは、わかりました。聖者は時に、かすかに眉をゆがめ、目を閉じ、おお、と嘆きにも似た声を上げることがありました。青年たちは、それを聞くと、一瞬静まりかえり、手元の仕事から目を離して一斉に聖者の方を見ました。すると青年たちの胸に、まるで亀裂を生むような鋭い痛みが走りました。まだまだ修行が足りぬと言われる彼らにも、何となくわかることはありました。

きっと聖者様は、地上に今生きているという、あの『誰か』という人を、常に見ているのだろう。その『誰か』という人が、誰なのかは、聖者以外は誰も知りませんでしたが、ただ、『聖なるもの』を荷っている方だということは教えられていました。青年たちは、聖者の悲哀を感じながら、皆同じような感情をかみしめていましたが、それを口にすることはなく、沈黙のうちに、しばし、地球と、その『誰か』という人のために、皆で祈りを捧げるのでした。


その頃、日照界では、女性魔法学者が、同じように、地下の天文台の中で常に地球を観測していました。彼女は、知能器の上に浮かび上がる青い地球の幻を、キーボードをいじってくるくると回しながら、どんな小さな変化も見逃さず、記録してゆきました。
「あのゆらぎが見えてから、もう三年は経っている。でもあれから何も変化は見えない。聖なるものは何をしているのかしら」彼女は口元に手をあててしばらくじっと地球を凝視しているうちに、ふと飲み物が欲しくなり、助手を呼びそうになりました。
「ああら、いけない。彼は今いないのだわ」魔法学者は少々口を歪め、苦笑いしながら、右手で簡単な魔法をし、お茶を作りました。そしてそれを一口飲んで、言いました。
「ああ、やっぱりだめね。ちゃんとした魔法で作らないと。あまりおいしくないわ」そう言いつつも、彼女は再びお茶に口をつけ、まだ若く未熟だった頃の味などを思い出しながら、ゆっくりとそれを味わいました。そしてお茶の器を、また簡単な魔法で消すと、もう一度地球に目をやりました。

「今頃彼は、あそこらへんにいるのね」彼女は地球上のある一点を指差し、そこに光をともしました。「神は、お優しくも、お厳しい。できることだろうけど、それをやるのはつらいでしょうね。あなたは…」魔法学者は、その地球上の一点の光を見つめながら、彼に語りかけるように言いました。そしてしばしの休息をした後、彼女は再び、地球を観測し、『聖なるもの』の降りていったという、地球上の、ある一点に光る青い大きな目印を見つめました。彼女はその青い光にも問いかけました。
「聖なるものを荷うという方、何をされているのですか。神は、あなたを、どうお導きになっているのですか?」
すると、知能器が作る幻の地球が、それに答えるように、かすかに横に揺らいだような気がしました。彼女は一瞬何かに魂をひきこまれるようなめまいを感じ、体が揺れて、足元がふらつきました。彼女は頭をぶんぶんと横に振って、すぐに自分を取り戻すと、目を見開いて驚きを見せ、幻の地球から顔をそむけて、ふう、と深い息をつきました。「…いけない。誤るところだったわ。聖域の秘密には決して触れてはいけない。そこに触れると、この私でさえ、嵐に巻き込まれる恐れがある…」
魔法学者は気を取り直し、再び知能器の前に座って、地球の幻を回して、観測を始めました。

そのようにして、何年かの月日が、過ぎました。ある日、魔法学者は、地球上に小さくも透明な美しい渦が巻いているのを見つけて、茫然と目を見開きました。
「聖なるものが、動き始めた!」彼女は思わず叫び、椅子から立ち上がりました。その渦は、ハリケーンやタイフーンのような雲の渦ではなく、目に見えない人類と怪の魂が作り上げる、血しぶきにも似た、心の叫びの渦でした。言葉を変えて言えば、それこそが地球の魂の渦でした。彼らは、地球上にあり得ない聖なるものの気配を感じ、恐れを抱き、魂を裂くような叫びをあげ、憎悪や狂気の嵐の中で自分を見失いつつありました。あの、渦の中心、風の結界に囲まれた聖域に、あの人はいらっしゃる。その恐ろしい霊圧の差に、人類は驚いて、逃げまどい、自ら起こす嵐の風に、これから迷っていくのだ。

「嵐だ、最初の嵐が起こった!」彼女は叫びました。そして、地球上のもう一点に点る光を見つめ、なつかしい彼のことを思いました。「…あなた、始まったわ、とうとう。あなたも、行くのね、あの嵐の中を。あのすさまじくも美しい、浄化の嵐の中を…」彼女はその一点を強い悲哀に満ちた目で見つめ、彼のために目を閉じ、指を組んで、神に祈りました。
「お導きを、彼にお導きを!神よ!」


その頃、青船の中では、大騒ぎが起こっていました。青年たちは知能器や観測機の間を飛び回り、データを投げ合っては、地球上に起こったその小さな渦を見つめ、茫然としながらも、刻々と変わっていく渦の状況を正確に記録してゆきました。地球各地に埋めた水晶球が、次々に点滅し、振動し、まるでその嵐を祝福するかのように、一定のリズムをとって単調な旋律を奏で始め、それが地球を少しずつ揺り動かしていくのを、観測機がとらえました。

青年たちが、観測機をのぞき、あるいは知能器の画面から、あるいは窓から直接地球を眺めながら、口々に言いました。
「これが、嵐か!」「すごい。すさまじくも醜いが、信じられないほど、美しい」「まるで、薔薇のようだ!」「神の道理とはこれだ。僕らの予測をはるかに超えている」「すごい、真実は、あまりに正確だ。こんなに正確な渦など、あり得るのか!」「本当に、本当に、地球に、渦が、咲いた!」

ガゼルの青年は、聖者のそばで、青船の扉から、地球に咲いた最初の渦を、茫然と見つめていました。人類が、おののいている。神が、動いていらっしゃる。地球上で、何かが、起こり始めている!

彼は、ふと、隣にいる聖者の、杖を持つ手が、かすかに震えているのに気付き、聖者の顔を見上げました。すると、聖者のひたすら地球を見つめている目のふちに、微量の液体がたまり、それが光の筋となって、聖者の頬を流れるのを、ガゼルの青年は見ました。聖者は静かに目を閉じ、あらゆる悲哀が自分に振りかかって来るかのように口を噛み、眉を歪め、おお、と嘆きの声をあげました。そしてガゼルの青年は、聖者が、まるで空耳のように、かすかな苦悶の声で、こうつぶやくのを聞きました。

イエ…ス…

青年ははっとし、まじまじと聖者の顔を見つめました。イエス?今イエスと言ったのですか?喉までこみあげてきた問いを、彼は無理やり飲み込み、ただ茫然と、聖者を見つめ、しばらくしてまた、地球の渦の方に目をやりました。

「イエス?あなたは、イエスなのか?」

ガゼルの青年は、脳裏にあの深くも鋭く澄んだ青い瞳を思い浮かべながら、渦の中心に向かって、問いかけました。


その頃。

天の国では、また、奏楽の途中で眠ってしまわれた王様の寝顔を、梅花の君が、そっとそばに寄り添い、悲哀のにじんだ優しげな微笑みで、見つめていらっしゃいました。
幻の王様は、いつもの御椅子にお座りになり、ひじかけにひじをついて頬を支え、眠りながらも、かすかに眉を歪め、少し苦しそうに、うっ、と、喉を鳴らされました。そしてしばらくすると、その閉じた目に小さな玉のような涙が滲み、それは頬を流れて、ほとりと彼の膝の上に落ちました。

「わが君…」梅花の君は、もはや自分の心を隠すこともなく、幻の王様に声をかけられました。「愛する、わが君…、苦しいのですか?そんなにも、苦しいのですか?」
彼女は手に持った琴の弦をかすかに鳴らし、その音で、王様の涙の苦しみを清めました。そして、ひじかけに置いた片方の王様の御手に、自分の手を、おそるおそる重ね、その清らかな御手に触れて、ああ、とため息をつかれました。彼女は、自分の愚かさを責めながらも、震えながら涙を流し、こうしてしばらく、幻とはいえ、愛する方とふたりでいられることの、静かな喜びに浸ることを、許してくださるようにと、神に願いました。
「わが君、…すべては、夢ですわ。ひとときの、ひとときの夢……」

梅花の君は、王様の御手に触れた自分の手を、聖なるものからおそるおそる逃げるように、そっと離すと、今度は琴を抱え、王様の眠りの邪魔をしないように、かすかな音をかき鳴らしながら、愛をこめて、子守唄のように清らかな慰めの歌を歌いました。
「いつかは、終わる夢…」
目を閉じると、彼女の脳裏に、青い地球の姿が浮かび、その上に咲いた、小さくも見事な、真実の赤い薔薇の花が見えました。

ああ……

眠る王様が、ため息のように、かすかな声をあげられました。

天の国の月は、その夜、望月でございました。


 
 
 
 
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2025-01-29 03:55:40 | 月の世の物語・別章

女性魔法学者は、天文台の中で、聖者の治療によって仮に与えられた腕を使い、知能器の画面を見ながら、キーボードをカチカチと打っていました。彼女の体が元に戻るには、まだよほど時間が要りましたが、聖者の作ってくださった腕はとても性能がよく、彼女の仕事を大いに助け、彼女は簡単な魔法が使えるまでに、回復していました。

彼女が、画面に映る青い地球の画像をじっと眺めていると、不意に犬の頭の助手が彼女のそばに姿を現し、「先生」と声をかけました。彼女は彼を振り向くこともなく、言いました。「わかってるわ。お役所から入胎命令が出たのでしょう」すると助手は、彼女の相変わらず冷たく厳しい横顔をしばし見つめ、言いました。「はい。そのとおりです。しばらく、先生のお世話ができなくなります。大変な時を、申し訳ありません」
「謝る必要はないわ。わたしも自分の世話くらいはできるようになったし。上部のお決めになったことに間違いはないのだから、あなたはあなたのするべきことをしなさい」魔法学者は冷静に、助手の顔を一瞥もせず、ただ画面に映る地球の表面を注意深く観察していました。

「ありがとうございます」助手は言いましたが、魔法学者は地球を観察するのに集中し、それには答えませんでした。ふと、彼女は、地球上に何かを見つけたように、「あ」と声をあげました。「ゆらいだ。あの子が、夢を見始めたのだわ」彼女は言いましたが、そのときにはもう、助手の姿はそこにありませんでした。

犬の頭をした青年は、ある、激しく岸を打つ荒波の海を前にして、岸辺の岩の上にまっすぐに立ち、海のはるか向こうを見ていました。彼は空を見上げ雲の向こうにかすむ日照を見たあと、風を一息飲みこみ、小さな炎を吐いて、呪文を唱えました。すると彼はいつしか、一匹の細長く白い竜に姿を変え、海から吹いてくる強い風に立ち向かい、飛び出しました。彼は青灰色の荒波の海の上を、時折風に押し戻されながらも、恐れることなく道を信じ、ただひたすら目的地を目指して飛んでゆきました。

そうして数日も海を飛んでゆくと、行く手の霧の向こうに、うっすらと、黒い島影が見えてきました。彼はその島を目指し、まっすぐに飛びました。それは、黒い玄武岩でできた、小さな岩の島でした。白い竜はその島に近づくと、その島に降りることはなく、ただ岸辺の近くの海すれすれに体勢を整えて止まり、ほおおおおっ、と声をあげました。すると、かちん、と空気の割れるような音がして、世界が変わりました。白い竜は一切移動していませんでしたが、世界そのものが、移動して、彼はさっきとは全く違うところにいました。彼はそれがどういうことなのかはわかっていました。竜は海面に降りると、ひざまずくように手足を海面につき、深く頭を下げました。

と、不意に、玄武岩の島そのものが、巨大な竜の神の顔になりました。おおおおおお、と竜の神は空を揺らす声をあげて、小さな白い竜を迎えました。白い竜はますます深く頭を下げ、感謝の祈りを捧げました。神が、空に響き渡る、厳かな声でおっしゃいました。

「ドゥラーゴン、小さき竜の子よ」
すると小さい白い竜は顔をあげ、はい、と答えました。神はその素直なまなざしを見つめ返し、またおっしゃいました
「ドゥラーーゴンン…、愛し児よ、行くか…」
小さい白い竜はただ、はい、と答えました。すると神は目を細め、しばし沈黙し、海の上を吹く荒い風を鎮まらせました。風は神の心に従って暴れるのをやめ、海もまた叫ぶのをやめて、静かに沈黙をゆらすかすかな歌を歌い始めました。

神は悲しみとも喜びともつかぬ、美しくも激しく澄み渡った瞳で彼を見つめました。そのまなざしの中、白い竜は凍りつくように動けなくなりました。彼は自分の全身を測られ、存在そのものを丸裸にされて全ての真実を見抜かれているのを感じました。彼は自分の小ささを痛いほど感じざるを得ませんでしたが、それでも恥じることなく、額をあげ、小さくも確かな存在の光として、神のまなざしに答えました。神は、目を細め、かすかに微笑みました。そしてまた、おっしゃいました。

「ドゥラーゴンン…、神の小さき竜よ。おまえは、石つぶての渦まく、嵐の中を、進まねばならぬ…」

「はい、わかっております」

「ドゥラーーゴンンン…、わが子よ、おまえは、愛のしるしの元、人類を、炎の鞭で、打たねばならぬ…」

すると小さい白い竜は目を閉じ、しばし神のことばをかみしめた後、目ににじむ涙を感じながら、「はい、わかっております」と答えました。

「行くか、わが子よ」神がおっしゃると、小さい白い竜は、ただ「はい」と答えました。神はその答えを深くその御心に吸い込み、小さい白い竜の心と決意を確かめたあと、ため息とともに、口から金色の炎を吐き、それで白い竜を焼きました。

小さい白い竜は、炎の熱の激しさに、微塵も動かずにただ黙って耐えました。炎は彼の全身を焼き清め、静かな風の中に消えたかと思うと、いつしか白い竜の体は、日照の金色に染まって、輝いていました。神はおっしゃいました。
「ドゥラーーゴンン…、神の幼な子よ、おまえに、使命を与える。…行け」

すると金色の竜はただ、「はい」と答え、空に浮かび上がりました。それと同時に、瞬時に世界は元に戻り、神の気配は消え去りました。金色の竜は、日照界の空に次元のカーテンを作り、それをくぐって、地球へと向かいました。

やがて彼は、地球上に降り、犬の頭の青年の姿となって、ある国の片隅にある、小さな教会の中にいました。今、その教会の中で、一人の女が、目の前に高々と掲げられた金色の十字架を前にひざまずき、一心に祈っていました。彼女の夫は今、兵として他国に任務しているのですが、もうすぐその任務も終わり、国に帰ってくることになっていました。彼女はただひたすら、夫が自分の元に帰って来るまで彼が無事でいてくれることを、神に願っていました。

犬の頭の青年は、これから約二年後、彼女の末子として、生まれることになっていました。彼はやがて母となるだろうその女性の背中を見つめた後、教会に飾られた金の大きな十字架に目をやりました。すると、その十字架には、大蛇のように大きなムカデが一匹まきついており、彼女に向かって、しきりに、「ワガコトヲセヨ、ワガコトヲセヨ」とささやいていました。それは、怪に従い、悪を行えという意味でした。犬の頭の青年は、口からふっと銀の針を吐き、そのムカデを刺し貫きました。すると大きなムカデは、ぐっ、と声をあげ、しゅう、と音を立てて縮み、元の小さなムカデの姿に戻りました。犬の頭の青年は、銀の針の刺さったムカデを呪文で手元に呼ぶと、それをしばし冷たい目で観察し、また呪文を唱えて、それを月の世に送りました。ムカデはすぐに、彼の手元から消えました。

彼はまた、祈り続けている女の背中を見ました。すると、どこからか、かすかな声が聞こえてきて、彼は目をあげました。金色の十字架が、前よりも少しつやめいて見え、清らかに澄んだ光を放っていました。そのかすかな声は、その十字架の向こうから、繰り返し聞こえてきました。彼は耳を澄まし、そのはるか遠くから響いてくる音律を、探り出しました。それは単調で素直な調べではありますが、確かな自信に満ちた声で、こう言っていました。

「義のために、迫害される人々は、幸いである。天の国は、その人たちのものである」

犬の頭の青年が目を見開き、驚いていると、不意に、目の前に、透きとおった、これまでに見たこともないほど大きな精霊の顔が現れ、その澄んだまなざしで彼を見つめ、言いました。

「正しいことをしなさい。それで人にいじめられても、それは苦しいことではない。ましてや喜びなのだ。なぜならわたしたちは、どんなに苦しい目に会おうとも、神の愛の真実を信じ、決してその道を踏み外すことはないのだから」。

犬の頭の青年は、しばし、精霊の顔を見つめ、驚きから逃げられずにいました。精霊はまるで、神のように微笑み、ただ静かに彼の答えを待っていました。犬の頭の青年は、そのまなざしを受け入れ、竜の深い声で、「はい、わかっております」と言いました。すると、精霊の顔はその言葉をとても喜び、微笑みの中に静かに消えてゆきました。

ふと、祈り続けていた女が、何かの気配を感じたかのように顔をあげ、不安げにあたりを見回しました。教会には彼女の他に誰の姿もなく、ただ金色の十字架だけが、彼女を見つめていました。犬の頭の青年は、彼女にささやきました。「心配することはない。あなたの夫は必ず無事に帰って来る。安心して待っていてください」すると女は、少し気持ちが落ち着いたように、ほっと息をつき、また十字架を見上げて儀礼をすると、そこを立ち上がり、教会を出て行こうとしました。犬の頭の青年はその後ろ姿に声をかけました。

「すまない。あなたには迷惑をかける。私はここで、やるべきことをやらねばならないから…」

女は、何にも気づくことはなく、ただ、胸に小さな希望の明かりをともして、静かに教会を出てゆきました。家では、彼女の、愛おしい二人の子供が、待っているはずでした。


 
 
 
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2025-01-28 03:44:14 | 月の世の物語・別章

緑の山々の景色を、遠くに眺められる、静かな森に囲まれた白い立派な別荘の庭で、一人の男が、妻と娘たちに囲まれ、ゴルフの練習をしていました。彼が不器用ながらもそれなりにかっこよくスイングを決めると、家族はこぞって彼をほめそやし、「すてきよ、パパ」と声をあげました。

その様子を、少し上空から、豆のさやの形の船に乗って、眼鏡の少年と、一人の女性役人がじっと見守っていました。少年が言いました。「…いいんですかね。あんなことしてて。彼、今大変なはずでしょ?」すると女性役人は、手に持ったガラスの容器を弄びつつ、下を見ながら言いました。「まあね、あれでも小国とは言え、一国の元首だもの」「国は今、資源問題で大国と対立を深めてる。彼の国でとれる資源が、別国に流れてその兵器開発に関連してるって…」「彼が今その問題で何を考えてるかはわからないけれど、もうこれ以上は無理ね。そろそろだわ」女性役人が腕時計を見ながら言いました。彼女は時計の針を見つめながら、「…五、四、三、二、一、…ボン!」と言いました。

そのとき、眼下でパターを握っていた男が、ぐ、と喉をつまらせ、頭を引っ張られたかのように背筋がぴんとひきつったかと思うと、突然大量の汚物を吐きだし、そのままばたりと地面に倒れました。家族が悲鳴を上げ、隠れて見守っていた警護員が一斉に彼の周りに集まりました。

「心臓マヒね。さて」女性役人は、ガラスの容器の蓋を開けると、「ズムドルクン・オルゾ」と言いました。すると、眼下の庭に横たわった死体の中から、もぞり、と一匹のムカデが姿を現し、女性役人の声に引き込まれるように、ぎいぎいと声を上げながら船に向かって上ってきたかと思うと、すっとガラスの容器に吸い込まれました。「一国の元首が、人怪とはね」言いながら、彼女はムカデを収容したガラスの容器に蓋をしました。「珍しいことじゃないですよ、地球では。でもなんです?ズムドルなんとかって、聞いたことのない呪文だけど」「この怪が、まだ人間だったときの最後の名前よ、見て」言いながら、彼女はムカデの入った容器を、少年に見せました。少年はそのムカデを見て、眼鏡を外しながら驚いた声をあげました。「うわ、頭が、二つある!」ムカデは、細長い体が途中でY字形に枝分かれして、それぞれの先に別の頭を持っていました。「怪の最終形態よ。存在たるものが悪を犯しすぎて、限界に近づくと、存在の愛なるものとの矛盾が巨大化して破裂しそうになり、あまりの苦しみに、意識層にある自我が愛なる自己存在から逃げようとしてこうなるの。とうとう、ここまできたのよ、人類は」女性役人の言葉に、少年は、茫然と頭を振りながら、二つ頭のムカデを見つめていました。「さて」女性役人は言うと、ガラスの容器にぺたりと月の世の紋章を貼り、呪文を唱え、それを月の世のお役所に送りました。ガラスの容器はすぐに彼女の手の中から消えました。

二人は、眼下の人々の大騒ぎを一通り見回し、記録するべき情報を記録したあと、ゆっくりと船を回し、空に向かって飛び出しました。

その頃、月のお役所では、女性役人が送ってきたガラスの容器を受け取り、さっそくその分析を始めました。二つ頭のムカデは、たくさんのコードを結びつけられた水晶製の大きな別の容器に入れられ、ある研究室の真ん中の机の上で、十数人の役人たちの視線を一斉に浴びていました。

「ズムドルクン・オルゾ。三万年前、彼はある森林の国の神官だった。しかし彼は神殿に大勢の女を集め、彼女らを神女と呼んで、神殿に供物を納めた男を相手に、みだらな行為をさせた。それに反発する神官を彼は八人殺している。女たちは彼に操られ、恥ずかしい仕事を毎日やらされた挙句、男が欲望を彼女らに示さなくなると、殺された…」ひとりの若い役人が、帳面を読みながら言いました。だれかがため息をつきましたが、役人たちは顔をゆがめながらも、それほど珍しいことではないとでもいうように、特に大きな反応は示しませんでした。と、研究室の知能器の前にいた役人が、「ひゃっほう!」と声をあげました。
「すごい罪歴だ、すごい罪歴だ。どんどん出てきますよ。うわあ、果てしない。人殺し、姦淫、盗み、詐欺、虚偽、凌辱、裏切り、おお、虐殺、戦、拷問、謀略、破壊、捏造、罠、お、お、惨い、これは惨い!」「そんなものいちいち見るな、飛ばせ!」そう言うと、研究室の室長が彼の脇から知能器のキーをポンと押し、画面は彼の罪歴の最後のページに飛びました。そこには十七行の文字の列があり、一番下の行には、ほんのさっきまで一国の元首として生きていた彼の名が太字で書かれ、その下では、「危険、注意」という大きな赤い文字が激しく点滅していました。

「これが最終形態か…、石の文書にあった図とそっくりですね」役人の一人が水晶の容器の中でうごめく怪を見つめながら言いました。「ああ。愛なる存在が、その真実に反したことをあまりにやりすぎて、限界に近付くと、こうなる。つまり、悪と愛の激しい矛盾があまりにも苦しくて、存在がその存在であることを、拒否しようとするんだ。それゆえに彼は今、ものすごい存在痛と虚無感を味わっている。あまりにつらい。あまりにさびしい。自分が、壊れていくような、すさまじい恐怖感。愛に見放されるかもしれないというおびえ。彼は愛を侮辱しながらも、それを影に引きずりながら、長い長い時を愛たる自分存在を裏切り続け、ひたすら悪を行ってきた。そしてとうとう、こうなった」室長が言いました。

「このまま放っておくとどうなるんです?」「善と悪の二つに分かれるというのは、考えられませんね」「悪は存在しない。彼がどんなに自分という存在を憎んでも、存在が存在である限り愛からは離れられない。それゆえに、完全に分裂するということはあり得ない。だが彼はその自己存在たる愛から今、懸命に逃げようとしている。しかし、愛が自分から全く離れてしまえば自分は存在しないことになる。だが、彼はその愛から逃げ、悪を信じようとする。しかし、愛を離れて全く悪になってしまえば、自分は消えてしまうことになる。かといって愛を受け入れて悪を退ければ今まで自分がやってきたことが全て愚かなことになり、それを彼のプライドは許さない。しかし悪を信じ続けて愛を退ければ自分は消滅する…同じ苦悩を繰り返す愚かなる永遠の矛盾運動だ。彼が愛なる自己存在の真実に目覚めない限り、このまま放置しておけば、彼はその恐ろしい矛盾の回転の中に引き裂かれ、やがては自己崩壊を起こし、自分自身の毒を飲んで自分を殺してしまう。要するに、自分で自分存在であることを放棄し、死者の死者の一員となり、恐ろしく深い地獄の底で永遠の浄化の荒波に洗われることになる」室長は言いました。

「死者の死者か」「…結局は、それか」役人たちは、それぞれに、知能器の画面や水晶の容器の中のムカデを見ながら、悲しげな顔をしました。

「データはとれたか」室長が、別の知能器の前にいる役人に声をかけました。するとその役人は答えました。「はい。怪の苦しみは相当なものです。魂の核が割れるように叫んでいる。それでいて、表面は凍りついたように動かない。表層自我の活動は大部分死んでいるのと同じです。その彼をかろうじて今動かしているのは…」「愛だろう」室長が言うと、知能器の前の役人は振り向きもせず、「そうです。それのみです」と答えました。「なんという矛盾だ」誰かが言いました。「こうまでなっても、やはり愛は愛するのか」。

「さて、次だ」室長は、短い呪文を唱えて、手の中に厚い帳面を出すと、それをぺらぺらとめくりながら、言いました。「とにかく、私たちは、この怪が死者の死者に落ちる前に、何とか助けねばならない」彼は帳面に息を吹きかけて、ある一ページのコピーを何枚か作り、それを周りにいる何人かの役人たちに渡しました。
役人たちは、そのコピーを読み終わると、お互いの顔を見合わせ、もの言わぬままうなずきあい、それぞれの役目を決めました。

真ん中に水晶にとじこめた怪を取り囲むと、ある役人が、天井に響く高い声をあげ、聞いたこともない呪文の古謡を歌い始めました。別の役人は、その声を追い、それに和するように、少し低い声で、同じ呪謡を歌い始めました。また別の役人は、宙に指を踊らせて小さな細い銀のペンを出し、そこから光を出して、水晶の器の中のムカデの、ちょうど頭の分かれたところに、曲線と記号の複雑に入り組んだ小さな愛の紋章を描き始めました。室長は、彼らがそれぞれに魔法の流れに乗ってきたのを確かめると、片足で床を叩きながらリズムを打ち、低い声で、ず、ず、と腹の底に響くような声で歌い始めました。一人の女性役人が、愛を表現するために、研究室の中に花園の幻を描きました。

その他の役人たちは、ただ黙って、彼らの魔法を見守っていました。魚の知恵の石文書に書いてあった、古い古い再生の儀式が、始まろうとしていました。

突然、背後から見守っていた役人の一人が、何かに引き込まれたかのように、魔法の輪に加わり、石文書には書いてなかった呪謡を歌い出しました。室長はリズムをとりながら、彼の方を見ましたが、彼の瞳が、何かに魂を奪われたかのように宙を見上げたまま凍りついているのを見て、黙って儀式を続けました。神が降りたのでした。そのようにしていつしか、研究室にいる役人たち全員が、それぞれに微妙に違う旋律の、違う呪文を歌い、天を見上げながら不思議な合唱を行っていました。ただ、ムカデに銀のペンを向けている役人だけが、じっとムカデの様子を見守っていました。

やがて、合唱が何かに操られるように不思議な高みに登ろうとしたとき、むり、とかすかな音がして、分かれたムカデの体が、だんだんと根元から融合し始めました。銀のペンを持つ役人は、声もたてず、静かにその様子を見守っていました。ムカデの体に描かれた紋章は、呪文のリズムに合わせて点滅を繰り返しながら、歌が流れてゆくに従ってゆっくりとムカデの体の中にしみ込んでいきました。室長の打つリズムが、呪謡の終章を知らせ始めると、Y字形だったムカデの体はほぼ一本の線になり、やがて、しっかりと頭が融合して、普通のムカデの姿に戻りました。花園が消え、元の研究室の背景が戻ってきました。役人たちは歌い終わり、室長が、一つ、ずん、と声を打ちました。

ふう、と誰かが息をつきました。すると、皆が、今初めて夢から目を覚ましたかのように、ざわりとして互いの顔を見合わせました。役人たちは、神がともにいて魔法を行って下さったことに軽い衝撃を受け、驚きを感じていました。なんてことだろう、と、一人の若い役人が言いました。いったい自分は何をやったのか、彼はいまだにわかっていなかったのです。

神のもたらしたひとときの愛の唱和の名残を感じながら、室長は深いため息をつき、水晶の器に手をついて、小さな声でムカデにささやきました。「ズムドルクン・オルゾ。罪びとよ、神はおまえを見捨てなかった」。

研究室にいた役人たちが、一斉に室長を見ました。「神は、すべての怪をも、救うおつもりなのだ」室長は静かに言いました。

役人たちは、少しの間、苦しいような、眩しいような目つきで、室長と、水晶の器の中のムカデを、かわるがわる見ていました。ひとりの役人が、感極まったかのように、強く瞼を閉じて唇を噛み、こらえきれなかった涙で頬をぬらしながら、天を見上げ、叫ぶように言いました。
「神よ、…感謝します!」。

室長は、そんな彼を一瞥すると、自分もまた胸に手をあてて天を見上げ、「愛なるものに御栄あれ」と彼に続いて祈りました。そして、ふっと息をつくと、すぐ皆の顔を見回して指をぱちんと弾き、言いました。「さあみんな、何もかもは、これからだ。神は常に我々とともにある。我々の仕事は、始まったばかりだ」すると役人たちは一斉に「はい」と答え、それぞれの机に向かって、自分の仕事を始めました。

ズムドルクン・オルゾは、水晶の器の中で、もぞもぞと動きながら、自分の身に何が起こったのかも知らずに、ただぼんやりと、彼らの様子を見守っていました。



 
 
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2025-01-27 03:21:50 | 月の世の物語・別章

枯れ草と痛い小石の混じる果てもない荒野の中を、カメリアは、息を切らせながら、走っていました。後ろを見ると、影のように黒い男たちが、にやにやと笑いながら、自分を追いかけて走ってくるのが見えました。
いや!いや!いや! カメリアは叫びながら、懸命に逃げました。しかし男たちは彼女を追いかけることをやめず、その黒い腕を蛇のように伸ばし、彼女の襟首を捕まえたかと思うと、恐ろしい力で彼女をひっぱり、痛い荒野の石の上にぼろ人形のように投げ倒しました。

ああああああ!!

悲鳴を上げて、カメリアは寝床から飛び起きました。激しい息が肩を揺らし、涙で頬が濡れていました。隣で眠っていた母親が、その声に飛び起きて、「カメリア、どうしたの?」と声をかけました。カメリアは涙に震えながら、母親の胸に飛び込み、声をあげて泣き始めました。

「また昔の夢をみたのね」母親は、カメリアの背中をなでながら、言いました。「大丈夫。もうとっくに終わった夢よ」母親は、カメリアを抱きながら、しばし慰めの呪文の歌を歌いました。そうしていると、少しずつ、カメリアの気持ちも静かになってきて、怖い夢にもだんだんと幕が下がり、涙もかすみ、やがて彼女は、ふうと安堵の息をつきました。すると今度は、胸の中にたまらない悔しさが生まれてきて、カメリアは母の顔を見上げて訴えるように言いました。

「わたし、男は嫌い。いやって言ったのに、いやって言ったのに!」すると母親はカメリアを抱く腕を強めて、言いました。「…カメリア、あなたと同じ思いをした女は、星の数ほどいるわ」母親もまた、遠い昔のことに思いをはせ、苦しそうに眉をゆがめました。彼女は、覚めた悲しみの中に閉じてゆく自分の心を感じながら、娘の長い金髪を、指で静かになでて、言いました。

「カメリア、あなたはかわいいわ。男はね、女よりも、よっぽど、子供なのよ。あなたがかわいくて、好きになりすぎてしまうのが、怖いの。本当に愛してしまったら、自分が女に支配されてしまうんじゃないかって、それが怖いのよ。だから男はいつも、女に意地悪ばかりするの…」母親が言うと、カメリアは母の顔をじっと見つめました。「お母さんも、同じような思いをしたことがあるの?」すると母は切なそうな遠い目をして笑い、言いました。「…もう、何を言っても、どうにもならないことよ。終わったことは、忘れたほうがいいの…」カメリアは、苦しそうな目で母の顔を見つめ、しばし唇を噛んで、黙っていました。

まだ起きるには少し早い時間でしたが、ふたりとも、もう眠れそうになかったので、今日は早めに起きることにして、親子は普段着に着替え、ふたりで朝食の準備を始めました。カメリアは賢く、母親のしつけと教育もよかったせいか、料理や縫物がとても得意な、良い娘になりました。定期的に家にやってくる役人からも、たくさんのことを教えてもらい、魔法もいろいろ使えるようになっていました。彼女は今十七歳。運命の日が来るまで、あと三年と迫っていました。役人はいつも、彼女に、「君はあらゆる怪のための道を開く使命を持っている」と言いました。その言葉は、まだ少女であるカメリアには、とても重い荷のような感じがしましたが、しかし自分がかつて怪であって、数々の罪を犯してきたことも覚えていたので、いつか、その日がくれば、やらねばならないことをやるために、行かねばならないということは、十分に覚悟していました。

カメリアは家の掃除を終えた後、母親を手伝って、薬草畑の世話をしました。薬草に魔法の水をやり終わると、彼女は背を伸ばして空を見上げ、月の光を目に吸い込みました。露草色の空の月は美しく森を照らし、カメリアの心の悲しみを、幾分澄ませてくれました。

お母さんは、忘れた方がいいと言うけれど、わたしはなかなか忘れられない。あの痛み、苦しみ、悔しさ…。どうやったら、お母さんのように、忘れることができるの?乗り越えることができるの?カメリアの悲しみが、かすかに風を揺り動かし、何か目に見えぬ魂を呼び起こして、それは聞こえぬ声を発して、少女よ、とカメリアに語りかけました。

しかし、その声は母と娘のどちらの耳にも届くことはなく、ふたりは薬草の世話を終わると、家に入りました。そして簡単な昼食を済ませ、休息に入ろうとした、ちょうどそのときでした。

「やあ、こんにちは、奥さん、カメリア!」
突然、半月島の博士が、まるで勝手を知っているという感じで家の扉を開き、中に飛び込んできました。博士は笑いながら、母親とカメリアに小さく手をあげて挨拶すると、持っていた大きな袋を、テーブルの上に、どんと置きました。博士は、何やらうれしそうに笑いながら、ふたりに声をかけました。

「今月の分の薬を持ってきたよ、カメリア。それとほかにもいろいろ…。いや、僕もね、君のおかげで役人さんと会う機会が増えて、かなり勉強したもんだから。なんかいろんなものがたくさんできてしまったんだ。まずはこれ、ヨハネの新しい食べ物だよ。今までのものにね、ちょっと魔法を加えてみたんだが。いや、科学も大事だが、やはり怪を助けるためには、魔法と愛が大事だね。よくわかったよ」

家に入って来るなり、袋から次々とものを出しながら、はしゃぐように説明する博士を、カメリアは少し硬い顔をして見つめていました。母親は、そんな娘の顔を、少し心配そうに見ていました。

「…それとね、こいつはこの前の君の検査結果だ。ええとね、一応薬は持ってきたんだが、君の罪責のこともあって、だんだんと薬が効かなくなってきてるんだよ。それでどうしても解毒が追いつかないからね、ちょっとちがうものを工夫してみたんだが…」

そのときふと、家の中を、不思議な風がよぎりました。そのかすかな香りと聞こえない声の気配に、心の奥の何かを呼びさまされて、カメリアの胸の中で何かがはじけ、彼女はぽろぽろと涙を流し始めたと思うと、突然、「先生!」と叫んで駆け出し、その胸に飛び込んでしまいました。

「う、うわ!」博士はびっくりして、思わず足元がふらついて、後ずさりしました。カメリアの思わぬ行動に、母親も驚いて、あっと声をあげました。

「ど、どうしたんだい?カメリア…」博士は、自分の胸に顔をうずめているカメリアを見て、ただおろおろと、立ちつくしていました。カメリアは、博士の青いセーターをぎゅっとつかんで、額をぐいぐいと博士の胸におしつけました。博士は困ったような顔をして、母親の方を見ました。母親も、ちょっと困ったような顔をしましたが、何か、不思議な魔法の気配を感じて、何も言ってはいけないような気がして、戸惑いながらも、口を閉じて、すまなそうに小さく目を下げて博士に謝りました。

「ええ、ええと…、カメリア、つらいことが、あったのかい?」博士は言いましたが、カメリアは答えず、ただ彼の胸の中でじっと声もたてず泣いていました。

…ああ。
だれか、見えないものが、ささやきました。どうしようもない。たすけてあげよう。聞こえない声が言いました。

すると博士は、いつか、聖者に魔法で操られたときのように、自分の手が勝手に動き出すのを感じました。え、え? 博士は、自分の腕が、胸の中のカメリアの体を抱こうとするのを、茫然と見ていました。いかん、まずい、これはまずい。彼は心の中で叫びましたが、見えないものは、無理やり彼を黙らせました。

そうして、博士は、とうとう、彼女を、自分の胸深く、抱き沈めてしまいました。博士は、カメリアの体が細く、柔らかく、あまりに小さいのに、驚いて、身の内を何かに貫かれたようなめまいがしました。甘やかな香りが、博士の頭をくらくらと揺らしました。博士は腰が砕けて倒れてしまいそうになりましたが、また、見えない何かがそれを支えて、何とか彼を立たせました。

母親は、頭の中では天地がひっくりかえるような思いを感じていましたが、何とか冷静を保ち、彼らから顔をそむけて、ヨハネの水槽などを見ながら、何も気づかないかのような振りをしていました。ふと彼女は、家の中の空気の密度が、なぜかしらいつもより濃く、灯りの火も幾分明るいのに気付きました。…ああ、なあるほど。彼女はようやく合点がいきました。何かが家の中にいる。きっと、このへんの山に棲んでいる木霊の精霊か何かが、よけいなことをしているんだわ…。

「カ、カメリア、ごめん、ごめんよ…」博士は何が何だかわからず、とにかく謝らなければと思いました。しかしどうしても、彼女を抱きしめている自分の手を動かすことができず、一体どうしたらいいのかと、これはなんなんだと、本当に、自分は何をしているんだと、胸の中でくりかえしながら、それでも、腕の中のカメリアの温かさを全身で感じて、こみあげてくる何かに溺れそうになるのを、必死にこらえていました。
そしてカメリアは、博士の腕に包まれて、どうしても、このまま溶けていくような幸福を感じざるをえませんでした。いやよ。本当は男なんて、大嫌い。みんな意地悪なんだもの。でも、どうして、先生は、先生だけは…。

どれだけ時間が経ったものか、やがてカメリアは、胸に十分に愛が満ちて、そっと顔を博士の胸から離し、うつむいて涙を拭きながら、「ごめんなさい、先生」とつぶやきました。「い、いや、僕の方こそ…」博士は、再び自分の腕が自由になり、ほっとしましたが、同時に、カメリアが自分の腕から離れてしまったことを、少し残念がっている自分に気づいて、また混乱しました。

なんなんだこれは。ちょっと待て。落ち着け。よおく考えろ。一体何をしにきたんだ、僕は。博士はずり落ちた眼鏡をなおすと、ようやく一番大事な用を思い出し、袋の中を探って、中からひとつの細長い箱を取り出しました。

「…そう、そうだ。ぼ、僕もね、ようやく、魔法を、いろいろ使えるようになったんだよ。いや、呪文と言っても、けっこう難しいもんだね。ほら、その、Fのね、発音が特殊なんだ。舌をね、かなり無理な感じにねじらないと、言えないんだね。でも練習して、なんとかできるようになったんだ。ほら、見てごらん」

そう言うと、博士はその細長い箱を開けて、二人に見せました。その箱の中には、黄色みがかった薄紅色の、雫の形をした小さな石を、細い銀の鎖に通した、きれいなペンダントが入っていました。

「月光質薔薇輝石というんだ。普通、薔薇輝石は薔薇色なんだけどね、呪文をかけて、七日ほど月光の中に干しておくと、変質してこうなるんだよ。これがね、その、良いんだ。君の体の毒を抑えることもできるし、君が悪い夢を見たり、つらい思いをするときにね、助けてくれるんだよ。薬と併用して使うといい。眠るときもつけているといいよ。…いやね、僕はね、最初、石のまま、お守り袋に入れて、君にあげようと思ったんだが、君も知ってる通り、僕には生意気な助手がひとりいてね、あんまりだっていうんだよ。それが、女の子へのプレゼントですかって。もっと気のきいたことができないんですかって。なんていうか頑固なやつでね、とにかくそう言ってきかないもんだから、僕も仕方なく、職人に頼んで、こうしてペンダントにしてもらったんだけど…」

カメリアと母親は、せっかく博士が優しい心の贈り物をしてくれようとしているというのに、博士のうろたえようがおかしくて、こらえることができず、ふたり顔を見合わせて、くすくすと笑いだしてしまいました。博士はまた、え?という顔をして、なんでこうなるんだと、ペンダントの箱を持ったまま、ぽかんと二人の顔を見つめていました。

しょうがないですねえ、また助けてあげますよ。ほうら、馬鹿になってしまいなさい。道化になってしまいなさい!

聞こえない声が、博士の耳にささやきました。博士は、何となく、何かがわかったような気がして、「ごめん、なにか、…まずいこと、言ったかな?」と言って、笑いながら、少し首をすくめました。

カメリアは、「そんなこと、全然ないわ」と言ってかぶりをふると、博士が差し出す月光質薔薇輝石のペンダントを、喜んで受け取りました。「ありがとう、先生」カメリアが嬉しそうにお礼を言ってくれたので、博士もほっと安心しました。カメリアはさっそく、そのペンダントをつけてみました。すると、本当に、なんだか、胸の中にあった重いものが軽くなり、彼女は薄紅色の希望が心の内に広がってくるように感じました。あの怖い夢の記憶も、だんだんとどこかに遠ざかって、もう忘れてもいいような気さえしました。

母親は、何かしら目の色が明るんだ娘の顔を見て、胸に安堵を感じつつ、言いました。「ありがとう。先生のおかげで、いつも本当に助かるわ」
「いや、別に、当たり前のことですよ。もともとは、僕が彼女のことを頼んだのだし…」
博士は頭をかきながら、言いました。カメリアは、博士に、お茶でも召しあがる?と声をかけましたが、博士は手を振ってそれを断り、言いました。「あ、その、研究所に用事があるから。また今度ゆっくりいただくよ。ありがとう。じゃあまた」

そして博士は、袋をテーブルの上に置いたまま、逃げるように家を飛び出すと、飛ぶように走って森の向こうに帰ってしまいました。その後ろ姿を見送った母親は、カメリアを振りかえり、少し目をとがらせて、言いました。「いたずらはだめよ、カメリア。先生が困ってたじゃないの」するとカメリアは、少し目を伏せて、小さな声で謝りました。「ごめんなさい。でも、いたずらをしたわけじゃないの。自分でも思いもしないうちに、いつの間にか、飛び込んでたの…」母親は、ふうと息をつき、笑いつつも、頭を横に振りました。いたずらっ子は、目に見えないあいつの方ね。ふたりとも、とんでもないおせっかいをされてしまったわ。

母親は家の中を見回しましたが、部屋の空気はがらんとしていて、見えないものの気配はもう何もありませんでした。母親は、カメリアに言いました。「今度先生が来るときのために、お礼とお詫びのものを、何か用意をしておかなくては。カメリア、それはあなたがやりなさいね」カメリアは、胸のペンダントに触りながら、はい、と答え、言いました。
「わたし、もっと勉強したい。先生も、役人さんも、お母さんも、みんなわたしを助けてくれる。みんなのためにも、わたしがやらなくてはいけないことは、ちゃんとやっていきたい…」
その言葉に、母親は何も言わず、ただ静かに笑っていました。そして、博士が去っていった森の向こうを見ながら、いつか、娘がその使命を終えたとき、彼女に小さな幸せが来るようにと、神に願いました。

さて、博士は、半月島の自分の研究所に戻ると、研究室に入るなり、机の前に座り、疲れ果てたというように、どたりと半身を机の上に落としました。その姿を見て、どこからか助手の少年が近付いてきて、言いました。
「どうしたんです?先生。なんか、よれよれですよ。まるで、敗残兵って感じ」
すると博士は、背中で深くため息をつき、言いました。「おい、少年、おーんなのこってのは、たまらんなあ…」
「何言ってんですか、先生も男でしょ、一応」
「…だめだ、僕は」
そう言って、机の上にへたり込んだまま動かない博士の姿を見て、少年はあきれたようにため息をつき、こりゃしばらく、使い物にならないなと思いました。そして、博士の机の上のペン立てから、勝手に一本の銀のペンを取り出すと、言いました。
「先生、怪の水槽の魔法印は、僕が書き直しておきますから。いいですね」
「…ああ、たのむよ」
そう言うと博士はまた、背中で深いため息をつきました。

机の上に投げ出した自分の腕に、カメリアを抱きしめたときのやわらかな感触が、まだ残っていました。


 
 
 
 
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