青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-02-06 03:26:30 | 月の世の物語・上部編

「そぃ」と、青髪の上部人は言った。青い髪の持主は、上部では珍しくなかったが、彼の髪は深く濃く、明るい月のもたれる宵の空の桔梗色に似ていた。

彼は鋼の大地の一隅に座り、呪文を唱えて、隣に一本の柳の木を立てた。そしてその枝に、月のように丸い銀の鏡をかけた。銀の鏡の中では、あるひとりの人類が、高い舞台に立ち、民衆に向かって、長い演説をしていた。青髪の上部人は、目をかすかに歪めつつ、じっとその様子を観察していた。

「にと」…何を見ている? 背後から声がした。振り向くと、黒い髪をしたひとりの上部人が、いつの間にか後ろに立っていた。彼は青髪の上部人の友人だった。ふたりとも、ついこの間まで地球にいて、何年かの月日を各地の地質浄化のために費やしていたのだが、このたびしばし休息を得るために、上部に戻ってきたのだった。黒髪の上部人は青髪の上部人の隣に座り、同じように銀の鏡を見た。

「よ、に」と、黒髪の上部人が言った。…ほう、選挙演説だね。大国の元首を決めるのか。「たりむ」…そう、なかなかにおもしろいぞ。嘘ばかりついている。見事なものだ。いや、嘘という言葉さえ、恥ずかしくて隠れてしまいそうだ。「いをん」…こいつは現職だね。今度の選挙に通るのは無理だろう。で、何がおもしろくて、こんなものを見ているのだ?

青髪の上部人は、苦笑しつつ、自分の額を指ではじいた。すると、銀の鏡に映る映像が変わった。鏡の中に、虹のようなとりどりの美しい色を織り込んだ夢のような絹のカーテンが現れた。カーテンの裾には、金糸を編み込んだレースの縁飾りが、細やかな花の模様を宝石細工のように並べて光っていた。黒髪の上部人が、顔を歪めた。友人が何を自分に示したいのか、すぐに気付いたからだ。そして、少し苦々しく目を細めて、隣の青髪の上部人を見た。「ゆの」と青髪の上部人は言った。…見ろ、見事だ。カーテンが翻る。すると、彼の言うとおり、銀の鏡の中でカーテンが翻った。するとその裏では、大きな鉛のロボットが、何百と群れをなし、たくさんの木の実のような赤いものをぐしゃぐしゃと踏み潰して地をのし歩いていた。踏み潰しているのは、命だった。無残な叫び声が、ロボットの足元から聞こえた。人の命がほとんどであったが、木や動物の命もあった。黒髪の上部人は苦しそうに目を背け、言った。「ふつ」…わかった。もうやめてくれ。

すると青髪の上部人はすぐに、鏡の映像を、元の選挙演説に戻した。黒髪の上部人は、はあ、と深い息をついた。「そにる、ちりね」青髪の上部人は言った。…気分を害したか?すまない。だがわたしには、少々こいつが興味深いのだ。見事だろう。彼は、まことにすばらしい歌い手だ。その言葉ときたら、本当に虹のように美しい愛を、見事に織りあげる。だが、裏では、邪魔者という邪魔者を、虫のようにつぶしている。特殊警察というものがある。権力とは毒だ。まさに、愚だ。

黒髪の上部人は困ったような顔をしながらそれに答えた。「ふる、ひぬぇ」…わかっている。これが人類の現実だ。こんなことに驚いていては、我々の仕事はつとまらぬ。しかし、君は実にきついことを言う。人類を愛してはいないのか? 
「ね、ひゅみ」…そういうわけではない。ただ、君より少し、彼らに対して抱く苦い思いが、多いだけだ。
「くゆ、ひ」…確かに。君のような人がいても、おかしくはない。それだけのことを人類はやっている。

黒髪の上部人はまた深いため息をついた。そしてまた、鏡に映る人類を見た。現職の候補は、演説を終え、大勢の民衆から喝采を浴びて、笑いながら手を振っているところだった。その笑いが、鉄でできている仮面に、ふたりには見えた。「ひ…」…これが人類か、と、黒髪の上部人が目を歪めながら、苦しそうにつぶやいた。

鏡の中の人間は、仮面に貼りつけた笑いをふりまきながら、大勢の人間と握手を交わしていた。その大勢の人間たちもまた、仮面をつけていた。嘘だった。すべては、嘘だった。何もかも、まるでおかしな芝居にすぎなかった。今も、こんなことをやっているのだ、人類は。今更驚くことではない。だが、青髪の上部人は、鋭い目で鏡を見つめると、ほぉう、と長い息を吐き、「ふぇぬ、もえ」と言った。それは、こういう意味だった。「…民主主義か。ふ、要するに、馬鹿の言うことを聞け、と言う意味だな」
それを聞いた黒髪の上部人は、思わず声をあげて笑った。「ゆぃ、るみ!」…全く、君といると、あきることがない!まさにそのとおりだ。だが自重はしたまえ。言葉が過ぎると、後に辛いことが来る。「ふ」…そんなことは、わかっている。青髪の上部人は言った。

青髪の上部人は、ふん、と息を鼻から吐くと、右手を横に振り、鏡を消した。そして、はぉう、と深い風を吐いた。彼は目を閉じ、眉に苦悶のしわを寄せながら、しばし動かなかった。悲哀の黒い幕が痛く彼の心に落ちた。黒髪の上部人は、悲しげに目を細め、彼の横顔を見つめた。同じ悲哀が、彼の胸をもふさいだ。

桜樹のシステムはもう、動き始めている。目に見えないところで、神は時代の車輪を回していらっしゃる。だが、地球に生きている人類は、まだ、何もわかってはいない。

「ちろ、ぬひ」と、黒髪の上部人が言った。すると、青髪の上部人は目を開けて、「ほろ、こり」と言った。彼らはしばし、風に静かに揺れる柳の木の下で、会話を交わした。

「人類も馬鹿ではない。あれがみな嘘だということくらい、とっくに気づいている。気づいていながら、やっているのだ。ほかに、何をやれることがあるのか、彼らはそれを知らないだけなのだ」
「ああ、確かに。今の彼らには新しい時代のページをめくることが、できない。誰かが教えてやらねば、自分が今やらねばならないことすら、わからないのだ。だから同じことばかり繰り返す」
「そう、だが、彼らは、新しいことを教えてくれる者を、ことごとく、殺してしまう。その者を妬み、憎悪をぶつけ、卑怯な方法で、いとも簡単に、殺してしまうのだ」
「愚かの極みだ。今まで、何人の希望の人がつぶされたか。人間が、魂に関する深い知識を積まないままに、すべてをまるっきり平等にしてしまったからこそ、こうなった。魂の段階の低い者ばかりが権利を振りかざし、自分より段階の高い者をことごとく妬んで殺してしまう。そのために、時代に新しい風を呼べる高い人材が、まったく地上に生きられなくなった。これが、民主主義の致命的な欠陥と言うものだ。時代を高めることのできる人間が今、地上に誰もいないのだ。時代は停滞し、だんだんと腐ってゆく。そして嘘ばかりがはびこり、嘘つきばかりが偉くなり、嘘だけで幻の世界をつくる。人類は気づいているだろう。このままでは、いつかはとんでもないことになるということに」

青髪の上部人が言うと、黒髪の上部人は、一息、沈黙を飲み、眉を歪めて、友人の顔から目をそらした。人類の未来の幻影が垣間見えた。彼の目に青い悲哀が霜のようにはりついた。

青髪の上部人は、緑の柳を見上げると、もう一度呪文を吐き、また鏡を作った。さっきの現職候補の姿が映った。夜になっていた。彼は、私邸の一室で、秘書と明日の遊説についての打ち合わせをしていた。その彼のそばに、ふと、灰色のスーツを着た体格の良い男が近づき、何事かをささやいた。現職候補はそれにうなずき、つぶやくように言った。それは、上部人たちにはこう聞こえた。
「ゴミは掃除しておけ」

すると灰色のスーツの男はうなずいて、すぐに彼のそばから離れた。上部人たちは悲しげにそれを見ていた。その意味はわかっていた。彼は、特殊警察に、一人の女を殺せと命じたのだ。その女がどういう人間なのかも、ふたりにはすぐにわかった。そして彼らが、どんな方法で彼女を殺し、それをどんな方法で秘密の中に塗り込めようとしているかということも、わかった。青髪の上部人は、く、と胸に声をつまらせ、頭を横に振った。黒髪の上部人は、氷のように青ざめ、悲しそうに鏡を見ていた。

「ちと」…もう、見るのはよそう。悲哀が増えるばかりだ。そう言うと、黒髪の上部人が右手を振り、鏡を消した。

「ぬみ」…愚かなのは、わたしの方か、と青髪の上部人は投げるように言った。「ひ、かや」…人類よ、おまえたちを全く憎むことができたら、わたしはどんなにか楽だろう。青髪の上部人が、喉をこするように言った言葉に、黒髪の上部人が答えた。「みる、えひ」…愛は、時に、苦しすぎる。我々は、愛だからこそ、苦しむ。君の苦い思いも、愛ゆえのものだ。人類を、愛することしかできないわたしたちの苦しみを、君はたぶん、わたしよりもずっと強く感じているのだろう。

青髪の上部人は目を伏せてかすかに微笑み、ただ「ふ」と言った。それには、友人への愛と感謝の意味がこもっていた。黒髪の上部人もまた、その彼の苦悩する横顔を、愛のこもった目で見つめた。柳の枝が揺れ、青い香りが沈黙の中に流れた。二人は心を共有し、黙って、空を見上げた。そこには、銀の魚の群れのような星が光っていた。美しい神の気配がした。時は静かに流れた。星の光は少しずつ彼らの悲哀を清めた。やがて、青髪の上部人は、天から胸に染みいるような愛が落ちてくるのを感じ、魂の奥に清らかにも痛い悲しみが刺さるのを感じた。彼は愛のガラスの中に深く沈みこみ、歓喜と悲哀の溶けた光の中で、あえかな卵が割れる音のように、かすかにも魂の奥からほとばしる声を出した。
「い、あめ、かり」…ああ、やらねばならない。たとえ可能性が、虚無よりも虚しくとも。愛は、やらねばならない…。

彼はもう一度呪文を唱え、鏡を出した。そして、例の現職候補を見た。彼は少し青ざめて、書斎の椅子に座っていた。何かよからぬことが起こったらしかった。「よ、ひみ」と黒髪の上部人が言った。…おや、失敗したらしいぞ。女が、どうやら、先手を打って逃げたらしい。青髪の上部人は、ほう、と言って目を見開いた。現職候補は目をあらぬ方向に向けながら、何かをぶつぶつとつぶやいていた。それは、「嘘だ、嘘だ、嘘だ…」と聞こえた。

「もく」「にれ」「じむ」…、ふたりは鏡を見ながら言った。
「マスコミだな。どこかの記者が嗅ぎつけたらしい」「おお、苦しそうだ。ばれたな、とうとう」「やれ、一気に崩れるぞ」「ああ、そう時間はかからぬ。彼は全てを失う」

青髪の上部人は額を指で弾き、鏡の映像を変えた。虹色のカーテンが無残に引きちぎれ、その後ろに、鉛のロボットが次々と倒れ、赤い炎の中にゆらゆらと燃えていくのが見えた。ほむ、青髪の上部人は目を見開いて言った。炎の上を吹く風の中に、ひとひら、桜の花びらを見つけたからだ。
とぅい…、神よ、と青髪の上部人は言った。黒髪の上部人もそれに和した。真実の時代は、もう地上に来ている。桜が、地上に何かの風を起こし始めている。

鏡の映像が、また変わった。書斎に、現職候補の姿はなかった。どこに行ったのか。ふたりはもう追わなかった。ただ、鉛のロボットを燃やしていたと同じ炎が、彼の私邸の柱の根元に、小さく灯り始めているのに気付いた。

ああ、幻が崩れる、という意味のことを、どちらかが、上部の言葉でささやいた。


 
 
 
 
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2025-02-05 03:36:38 | 月の世の物語・上部編

月は青みを帯びた蛋白石であった。空は青磁色であった。大地は黒い鋼だった。
今、その鋼の大地の上に、四角い、白と青磁色の碁盤模様の大きな薄い板が浮かんだ。それは、ひととき、ある目的のために生まれたひとつの舞台であった。数十人の上部人たちが、その舞台を囲んで、静かに様子を見守っていた。どこからか、ちりん、と言う鈴の音が聞こえた。それと同時に、白と青磁色の碁盤模様の舞台の隅に、一人の白い服を着た上部人が現れた。そして、それより二秒遅れて、その反対側の隅に、緑色の服を着た上部人が現れた。二人は、顔を見合わすと、同時にうなずき、舞台の上の、自分の定位置に、互いに向かい合いながら静かに座った。

一息の風が、はあ…、とかすかなため息を伝えてきた。静寂を少し和らげようとしたのだった。静寂に全く凍りついてしまえば、背景が、きりりと割れて壊れてしまうような気がしたからだ。空気は緊張して千切れそうな琴糸のようにはりつめていた。二人の上部人は、舞台の上で互いに鋭くまなざしを交わし合い、同時に、「ふ」と言った。「はじめる」という意味であった。石のような沈黙が、一瞬、落ちた。ほかの上部人たちは舞台を囲み、静かに見守った。

「てるに」と、白い服の上部人がきらりと言った。すると間髪いれず、緑の服の上部人が、「えぉみ」と言った。すると白い上部人が目を鋭くし、「かぉゆ」と言った。緑の服の上部人は、肩をかすかに揺らし、「るぁい」と答えた。彼らは、詩によって問答をしていた。それは、彼らにとって、剣を交えあう魂の真剣勝負のようなものだった。上部人たちはよく、こうして、真理を追うために、あるいは神よりの未来の言葉を探るために、詩の言葉を用いて対話し、戦うことがあった。彼らの交わした詩の対話は、以下のようなものである。念を押すが、最初の言を発したのは、白い服の上部人であった。

「緑の薔薇は、どこに咲く」「赤き泉の、ほとりにて」「赤き泉に、何は棲む」「青き翡翠の蛙棲む」「青き蛙は何歌う」「白き虹なす玉を吐く」「玉の言葉は何故に」「鉛の風の呼ぶ故に」「鉛の風は、何をする」「己の灰の影を拭く」「影は浄めて消ゆるのか」「消ゆるとすれば何痛む」「痛むと言うは、どの声か」「それは真珠を焼く煙」「焼いたものなら、あるものか」「消えしものなら歌はない」「歌は何を望むのか」「赤き泉の声ゆえに」「赤き泉はなぜ赤い」「緑の薔薇の見えぬ故」「緑の薔薇は、どこに咲く」「赤き泉の、ほとりにて」「赤き泉は、どこにある」「閉じし眼の、金の鳥」「鳥はいつ鳴く、いつ歌う」「神の眼の青む時」…

彼らはこうして、高い詩の言葉を、剣をあわせるように投げ合いながら、真理を追いかけ、未来を占っていた。戦いとは言うが、勝負がつくようなものではなかった。勝者も、敗者も生まれはしなかった。ただ、互いに戦ったという、喜びだけがあった。己の力を、同じ力で返してくれる相手がある、それが彼らの大きな喜びであった。彼らにとって、戦いとは、そういうものであった。
無粋なことではあるが、彼らの詩の言葉の戦いを、分かりやすく、以下に解説しておく。

「緑の薔薇はどこに咲いている。薔薇とは、真理の表現だが、それは緑ゆえに森にまぎれて、目には見えないのだ」「その薔薇は、赤い泉のほとりに咲いている。命のめぐりの源の、真の愛の泉である」「その愛の泉には、何が棲んでいる」「青い翡翠の蛙のような、愛らしい真実の心が生きている」「その心は何を語る」「とりどりの色をまといながらも、清らかに白い、素直な愛の調べを歌う」「その歌は、何のために歌われる」「鉛のように重い影を背負う者の、悲哀を、許そうとするために」「鉛のように重い影を背負う者は、何をしているのか」「自分の灰色の影を、消し去ろうと、懸命に布で影をぬぐっている」「影は、ぬぐって消えるものか」「消えるものならば、蛙の愛を呼ぶものか。影の痛みに泣くものか」「影の痛みは、何より生じた」「真珠のような愛を焼きつくし、すべてを失ってしまったのだ」「真珠の愛は消えたのか」「いや、消えはせぬ。それは決して燃えはせぬ。痛い火傷は負いつつも、真の愛は消えはせぬ」「その愛は、なぜ歌っているのか」「赤い泉の声にかきたてられ、歌わずにいられぬのだ」「泉の水はなぜ、赤いのか」「緑の薔薇の真実を、虚偽の風より守るため、真の紅を隠しているのだ。いつか真の蘇るとき、緑の薔薇にそれを塗る」「緑の薔薇は、どこに咲く」「赤き泉の、ほとりにて」「赤き泉は、どこにある」「それは人間の閉じた目の奥に棲む、愛の小鳥。それは影に眠る人間の魂の奥、真の愛の棲む、悲しくも静かな沈黙の檻」「その愛の鳥は、いつ、鳴くのか、いつ、歌うのか」「神の、清き愛の眼が、青い地球の上に、開くとき」…

ほおぉ…と、舞台を囲んでいた上部人たちから、歓喜の声がもれた。「んるぅ」と誰かが言った。「まさに、すばらしい。これは、真実だ。現実の地上世界も、まことに、そうなっていくだろう」という意味だった。誰かがそれに、「つ、ぃぬ、ろ」と答えた。「そのとおりだとも。どのように歌おうとも、我々はいつも同じ歌を歌っている。愛をたたえている。絶え間ない愛の美しい行いのすべてをたたえている。その表現の仕方は人によって皆違うものだが、そのたたえる歌の、これほど巧みなことを見るのは、実に、久しぶりだ」と彼は言ったのだ。

対話の勝負は、数分で終わった。しかしそれは、それを聞いていた上部人たちにとっても、また対話をしていた上部人たちにとっても、何時間もの時が経ったように、感じられた。それほど、深い、対話だった。彼らは互いに、深く語り合った。互いの愛に、深く入り込み、響き合い、剣のようにことばをぶつけ合い、その激しい痛みと、苦しみと同時に、己の中にみなぎる力の存在を感じる、高い喜びに、酔いしれた。これほどの力がある者がいるのだと、対話を交わした上部人たちは、互いに互いを見つめ、微笑みあい、喜びを与えあった。この戦いは、彼らにとって、存在する自分と言うものが何者であるかを知る嬉しさを味わうことのできる、幸福の一つであった。

「おり」「ちぬ」「ぃみ、と」…ふたりはしばし、舞台の中央で手を握り合い、会話を交わし、互いをたたえ合った。「すばらしかった。君の言葉はわたしの胸を激しく打った」「その言葉を、そのまま君に贈りたい。わたしも、かなり、痛かった。だが嬉しかった。君の力は、すばらしかった」「感謝する。また、戦おう。君がいることが、わたしは、嬉しい。君という人がいることを、神に、感謝する」「わたしも、ともに、感謝する」…

こうして、対話の勝負は終わった。二人の上部人たちが舞台を降りると、舞台はすぐに消えた。集まっていた上部人たちは、しばし、花が風に騒ぐように、それぞれに自分の歌を発し、そばにいる誰かを相手に小さな問答をした。愛とはなんとすばらしいものだろう。これほどたくさんのものがいながら、皆、自分たちは同じ、愛というものなのだ。それなのに、愛はみな、違う。何千、何億、何千億、数え切れないほどの、愛の美しい形がある、表現がある。創造は、無限の彼方まで広がっている。歌っても歌っても、歌はつきることがない。花が咲いて、枯れても、また咲き、歌うことが、永遠に途切れることがないように、歌は新しく生まれ続ける。新しいものは、次々と生まれ続け、無限に成長し、発展してゆく。なんという喜びか。そして時に、こうして、力の拮抗する相手とぶつかりあい、戦い交わすことは、実に、嬉しいことだ。痛くも苦しい、己の喜びの、叫びだ。

ほう、つ。やがて上部人たちは、対話の戦いの熱の名残を胸に灯しながら、それぞれ自分の持つ仕事の元へと帰るために、次々とそこから姿を消していった。今日交わされた詩の対話によって、占われた結果は、確かに、神の愛の物語からもたらされたものだろう。真実、その対話の結果の通り、やがて、地球に、神の真実の愛の眼が開き、人類が愛に目覚め、自ら歌い始めるときが、必ず、来ることだろう。その場にいた、誰もが、それを硬く信じた。そしてそのためにこそ、自分たちは、あらゆることを、やってゆくだろう。ただ、愛のために。

ああ、何もかも、美しかった。彼らは、この上ない幸福を感じて、帰って行った。

最後に、ただひとり、緑の服の上部人が、残った。彼は、自分の仕事に戻るまで、まだ少し時間があったので、今少し、対話の余韻に浸っていたかったのだ。彼は、微笑みながら、自分の右手を見た。そこに、白い服の上部人が、最初に、「てるに」と言った時、自分が受けた衝撃の跡が、青いあざとなって残っていた。あれは、痛かった。緑の薔薇とは、神が、人間のために、巧みに、嘘の彩の中に紛れ隠しておく、真実の愛の隠喩だと、彼はうけとった。それはどこにあるのか、彼は瞬時に「赤き泉のほとり」…つまりは、人間の奥にも確かにある真実の愛の中だと答えたのだが、はたして、それが的確な表現だったかどうかは、そのとき判断できなかった。だがその答えは確かに相手の胸の的を打ったようだった。快い反撃が、返ってきた。嬉しかった。

「ほむ」彼は言いつつ、青磁色の空に浮かぶ月を見上げた。そろそろ仕事に戻る時間がせまった。「りつ、ひ、よの」彼は言った。…幸福だ。ああ、人間に、この幸福を、教えてやりたい。この、真実の愛の、幸福の、どんなにかすばらしいことかを、なんとか、彼らに教えてやりたい…。

彼は、口笛を一節吹くと、そこから姿を消した。誰もいなくなったその場所に、しばし静寂が降りたが、風が、ふと、何かに感じて、震えた。見えない、何者かが、空気の向こうから、この場所を静かに見ている気配がした。それは一瞬、い、と言ったと思うと、白い月の光の中に、大きくて透明な顔をゆるりと出してきた。どうやら、上部人とは違う何者かが、ここで行われていたひととおりのことを、ずっと見ていたらしい。その透明な顔は、風にまばたきをすると、かすかに口の端をあげて微笑み、それだけで、魔法を起こした。

瞬時のうちに、鋼の黒い大地に、緑の薔薇の園ができた。苺水晶の砂利を底に敷き詰めた小川がその中にひとすじ、流れていた。その小川の源をたどると、そこには、紅玉を盛り上げたような小さな赤い泉があった。誰が魔法をしたのか。それはわからなかった。ともかくも、この美しくも不思議な奇跡を、上部人たちが見つけるのは、これから数日後のことだ。

風が驚いているうちに、透明な顔はどこかに消えていた。緑の薔薇は甘やかな香りを放った。風はやがて喜びの歌を歌い、麗しい緑の薔薇の園の上を快く流れ始めた。青磁色の空の彼方に、かすかに、鳥の羽ばたく音が、聞こえた。


 
 
 
 
 
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鹿

2025-02-04 03:24:02 | 月の世の物語・上部編

とぅ、おぅ…、なんということだ、神よ、なんということだ。

ひとりの若い上部人が、嘆きながら、天を見あげつつ、一筋の道を歩いていた。空は藍色だった。月は百合のように白く澄んでいた。行く手には、こんもりと青く広がる、胡桃の森があった。道は蛇が吸い込まれるように、その森に向かって細く伸びていた。上部人は、足元を少しふらつかせながら、その森の中に入っていった。とたんに、目に涙があふれ、足が萎えるように彼はそこに座り込んだ。悲哀が、重い石のように彼の胸の底に沈んでいた。それをどうにかしなければ、次の段階に踏み込めないほど、今の彼は傷ついていた。癒しを必要としていた。だから彼は、この森に来たのだ。

彼はしばし、森の隅にある一本の胡桃の木の幹にもたれ、座り込んだまま、動かなかった。頭の奥に、ほんのさっきまで見てきた地獄の風景がよみがえった。涙は止まらなかった。

夜だった。戦闘機が、蝿のように空を飛んでいた。火の雨が降った。町が、焼けていた。人々が焼けていた。魂が割れ叫んでいた。血が、ほとばしる泉のようにあちこちから噴きあがった。骨はがれきの中に砕けて散らばった。嵐のような悲哀が起こり、怨念と呪いの毒を生む苦悩が巨大な獣のように、黒くうごめき始めていた。

戦争だった。ある町を、空襲が襲ったのだった。彼は、数十人の青年と少年たちを率いて、その処理をするために、その町に向かったのだった。そして、すべての凄惨な出来事をその目で見、そこで起こったすべての暗黒の苦悩をなんとか浄化するための、最初の段階の仕事をしてきたのだった。

青年たち、少年たちは、破裂する爆音と炎の中を飛び回り、死んでゆく人々の魂を次々と導いては、彼らが怨念の黒沼に魂を沈める前に、月の世や日照界につれて行った。あまりにも悲惨な死に方をした人間の魂は、そのまま放っておいては、呪いの毒に犯され、いかにも簡単に怪に落ち、それからどんな害を世界にもたらすかわからないからだ。青年たちは、癒しと慰めと愛の歌を歌いながら、死んだ人の魂の怒りをひととき鎮め、悲哀を麻痺させると、行儀よく整列させ、死後の世界へと導いていった。若い上部人は、準聖者の姿を取り、彼らの指揮をとっていた。

戦闘機の群れが、轟音を響かせて去っていった。炎は町を焼き続けたが、一夜明けた時、それはようやくおさまりはじめた。所々で、大蛇が舌を出すように炎はひらめいたが、それもやがては風に消えた。燠火は炭になって崩れた家々の柱や鴨居の中で蛍のように静かに点滅した。生き残った人々の恨みと苦悩のうめきが風を泥のように染めた。町は焼きつくされた。残ったものはほとんどなかった。青年、少年たちは働き続け、苦悶の中に死にゆく人々の魂を導き続けた。それと同時に、愛の歌を歌い、大地の悲しみを癒そうとした。神が、上空ですべてをごらんになっていた。皆が涙を流していた。準聖者も泣いていた。

そのようにして、何日が過ぎたか。ようやく、焼け野原が落ち着きを取り戻し、生き残った人々が、心に傷を抱きながら、無理にでも自分を奮い立たせ、悲惨な現実を乗り越えようと、生きることに踏み込み始めたころ、準聖者は、青水晶の小杖を笛に変え、ひとつの長い呪曲を吹いた。美しい音律は焼け野原の上を流れる風を目に見えない青い光に染め、不思議な金の粉を町に振りまいた。少年たちが、豆真珠の粉を月光水にとかしたものを、生き残った人々の頭にすりつけていった。それは悲哀に沈む魂を少しぬくもらせる秘薬でもあった。

準聖者の吹く笛の音は、町中を、一定の法則の筋道を通って流れ、金の粉を繰り返し振りまき続けた。するといつしか、音律に青く染まった風の筋道に従って、焼け野原となった町の地の底から、青い百合の芽がちらちらと顔を出し始めた。もちろん、その百合は生きている人々の目には見えはしなかったが、百合は青い茎と葉を見る見るうちに伸ばし、一斉に白い花を咲かせ、町をまるごと囲んでしまうほどの、大きな白い紋章を大地に描いた。清らかに白い百合の花でできた、清めと鎮めの魔法の紋章であった。その紋章の効力で、凄惨な殺戮によって生じた大地の呪いと苦悩の黒い影を、何とかして清め、封じねばならなかった。そうせねば、大地の呪いは常に人々に復讐と攻撃を語りかけ、彼らの魂をもっと凄惨な殺戮の中に迷わせ、これから人々がここで生きていくことが、本当に苦しくなりすぎてしまうからだった。

紋章をすっかり描き終わると、準聖者は笛を口から離し、それを元の小杖に変え、紋章が完成したのをしっかりと目で確かめてから、深いため息を風に吐いた。これから、どういうことを、どれだけ長い間やっていかなければならないか、それが彼の心をしばし、暗くさせた。だが、やらねばならない。やらねば、ならない。そうせねば、人類の生が、地球が、とんでもないことになってしまうからだ。風が準聖者の頬を冷たく冷やし、それが涙でぬれていることを改めて教えた。彼は小杖を手に持ったまま、しばし何を考えることもできないほどの、痛い悲哀に打ちのめされた。だが、言葉と体は勝手に動いた。やらねばならない。彼は、青年、少年たちを導き、ただひたすら、惨い殺戮の後処理をやり続けた。それは、数か月ほども、かかった。

そのようにして、やっと事態が落ち着きを取り戻し始めたころ、準聖者は、あとを青年たちに任せ、ひととき、自分も安らうために、上部に戻ってきたのだった。

準聖者の姿から、元の上部人の姿に戻り、彼は自分の心を癒すために、この胡桃の森にやってきた。彼の受けた傷は、思ったよりもひどかった。あまりにも、苦しすぎた。彼は胡桃の幹にもたれながら、しばし、赤子のように泣いた。胸の奥にこもる悲哀が彼を重く苦しめた。彼は地に泣き伏し、叫んだ。「ひ、おゅ、ぬつ!」…人類よ、おまえたちは、おまえたちは、なんということを、したのか!

彼は地に伏したまま泣き続けた。すると、どこからか、ころん、という音が響いてきた。ころん、ころん、ころん…、その音はだんだんと増え、大きく響き、森を揺らし始めた。若い上部人は涙した顔をあげ、それを見た。胡桃の木に生っている無数の金の胡桃が、柔らかな光を放ちながら揺れ、鈴のような音を鳴らして、快い音楽を鳴らしているのだった。すべては、森の隅で泣いていた彼のために、胡桃の木がやっていることだった。その清らかな合奏は、彼の嘆きを優しく包み込んだ。そして、深い愛の言葉を語りかけた。若い上部人は、ふらりと立ち上がると、子供が母の姿を探して追うように、鈴の鳴る森の中を走り始めた。「あい、あい、あい」…わたしは、わたしは、ここにいる…。彼は言いながら、森の奥深くまで、走って行った。胸の中の悲哀が、走っていく彼の足に合わせて、石のように弾んだ。それは時折、彼の全身の骨に響くように痛んだが、森の深みに入って行くにつれ、少しずつ、その痛みはしずまってきた。やがて彼は、走ることに疲れ、ゆっくりと足をとめた。どこまできてしまったのかわからないほど、深く森に迷い込んでしまった。帰る道が、わからなくなった。でもそれでもよかった。森は、道は、生きているものだから、自分が求めさえすれば、いつでもそこから新しくできるものなのだ。

悲哀の石は、幾分小さくなっていた。彼は少しいつもの自分を取り戻し、静かに森を見回した。風に、胡桃の木はざわめき、彼に語りかけた。「いよ、てみ」…愛する人、悲しまないで。愛する人、苦しまないで。

上部人は、胡桃の木の枝に手をやり、その鈴の実を見上げながら、感謝した。あふぅ、と彼はつぶやくと、少し微笑みながら、ゆっくりと森の中を歩いた。ふと、どこからか、水の音が聞こえてきた。ほう、彼はつぶやきながら、その音のする方向を目指して、森を進み始めた。やがて、低く垂れさがった胡桃の木の枝の向こうに、一筋の清い川の流れが見えた。ほむ、と彼はつぶやき、胡桃の枝をくぐって、川のほとりまで来た。そして川辺に座り、その冷たい水に、手をくぐらせた。しびれるような冷気が全身をめぐり、痛くへこんだ魂の傷に、何か熱いものが塗られた。彼は神経に針がささるような痛みを一瞬感じ、ぅ、と言って、手を川の水からひっこめた。

百合の色をした白い月光が、川面を照らしていた。静かな時間が過ぎた。上部人は何も考えず、ただ微笑んで、川面にはねかえる月光に目を濡らしていた。喜びは、再び、かすかに蘇り始めていた。あい、と彼はまた言った。「ああ、わたしだ。わたしが、ここにいる」という意味だった。悲哀は消えなかったが、彼は幾分明るく微笑み、森を見あげた。そのときだった。

ふと、青い幕が、眼前に落ちた。胡桃の木の幹を、二十本も集めたほどの、太く青く長い足が一本、音を立てることもなく、目の前に静かに降りてきたのだ。上部人は、驚いて目を見張った。しん、という音がした。空気が驚いて、ガラスのように、固まった。風が、息を飲んだ。森が、凍りついたように黙り込んだ。

上部人は、おののきながらも、おそるおそる、上を見上げた。森の上高く、天に、とてつもなく大きな、青い鹿の、顔があった。鹿は、激しくも澄んだ瑠璃の瞳で、静かに、彼を見下ろしていた。その頭にある二本の角は、白い石英のように清らかに澄んで光り、優雅に曲がりながら複雑に枝分かれして伸び、そのてっぺんは月にも届きそうなほど、高かった。青い鹿は、一本の前足を、上部人の前に下ろし、ただ静かに彼を、見下ろしていた。

神であった。神が、いらっしゃったのだ。

上部人は、川のほとりに、ひれ伏した。そして「とぅい、とぅい」と繰り返した。神よ、神よ、神よ…

おお、ほおおおぅぅぅ…

神が、厳かに空に響く声で、おっしゃった。「… お こ な え …」と言う、意味だった。上部人は、あまりの驚きに、何をどう答えていいのかわからなかったが、とにかく、「とぅ、やぇ」と繰り返した。「神よ、御名に御栄あれ、御栄あれ」という意味だった。

しばし沈黙があった。空が、ざわりとゆれた、川面に、神の青い影が映っていた。上部人はただひれ伏し、息をひそめてその影を見つめていた。そのうちに、全身に満ちる熱いものを感じ始めた。魂の奥から、泉のように、歓喜があふれ出た。幸福が、鈴の割れるように、内部で叫んでいた。

神よ、神よ、神よ。なんということか。なぜいらしてくださったのか。わたしのためか。それとも、これから、わたしの、やらねばならぬことのためか。それほど、あなたは、人類を、愛していらっしゃるのか!

彼はひれ伏したまま目を閉じ、神に感謝と幸福の祈りをささげた。「ねに、に、あい、ふや」…何もない。わたしには、わたし以外の何もない。けれども、わたしは、わたしを、あなたにささげます。神よ。どのように苦しいことでも、やっていきます。神よ、わたしは、やります。道は、苦しい、そして長い。けれども、わたしは、わたしには、できます…、できますとも!

そうして、彼が、再び顔をあげたとき、彼は、一番最初にもたれかかった森の隅の胡桃の木に、まだ、もたれていた。ほぅ?彼は目を見開いて周りを見回した。夢を見たのか?しかし、胡桃の森に、かすかに青く清浄な神の香りの名残があった。天を見上げると、あの気高くも清らかに白かった巨大な枝角の気配が、月光をかすかに跳ね返して、透明な白い光の大樹の幻影を、空に描いていた。

神は、いらっしゃったのだ。確かに、いらっしゃったのだ。彼は、思った。胸が、愛に満ちていた。彼は震えながら、手に小杖を出し、それを笛に変えて、吹いた。清らかな音律が高く空に響いた。それに合わせるように、胡桃が金の鈴を鳴らした。胸の奥から次々と湧き出でてくる愛が、まだ冷たく残る悲哀を包み込んだ。彼は悲哀と喜びを同時にかみしめ、再び涙した。

風がふと、森の奥でさわりとささやいた。上部人は目を開け、笛から口を離した。「きの」…ああ、そろそろもう、地球に向かわねばならない。彼は言った。あの百合の紋章を、補修しなければならないからだ。彼は、その仕事を、これから、何百年かの間、やっていかなければならなかった。ほとんど毎日のように、紋章を補修していかねばならなかった。人間は誰も知らぬ、秘密の浄化を、ひっそりと、長い間、やっていかなければならなかった。人類が、戦争によって自ら作った暗闇の苦悩に、これ以上、落ちてゆかぬために。

上部人は立ち上がった。そして、神と胡桃の森に、深い感謝の意をささげると、呪文を唱え、すぐにそこから姿を消し、首府に向かった。悲哀は残っていた。だが、やらねばならないことは、やれる。きっとこの悲哀は、消えることはない。だが、愛は、やっていくだろう。わたしは、やっていくだろう。

「ひ」…人類よ。と、彼は言う。おまえたちのなしたことを、清めるために、どれだけの者が働いているかを、いつおまえたちが知るか、それはわたしの求めることではない。だが、わたしはやろう。神も、そしてわたしも、おまえたちを、愛しているのだから。

若い上部人は、準聖者の姿をとり、上部から月の世に降りて行った。そしてまた、地球に向かった。彼は知らなかった。胡桃の木が、彼の胸の中に、ひそやかに、自らの金の鈴を一つ、埋めてくれたことを。その鈴は、聞こえぬ金の音で常に彼の胸を清め、彼がこれから味わうであろう多々の苦悩と悲哀を軽くし、少しでも彼の魂の傷を癒そうと、長い時を、かすかにも確かに鳴り続けていくであろうことを。

愛はいつも、そうやって、ひそやかに、行なっているのだ。すべてのことを。


 
 
 
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2025-02-03 03:48:33 | 月の世の物語・上部編

「ふぃゆ」と、上部人はつぶやき、一息、口から風を吐いた。むん、彼は熟考した。はたしてやってみるべきかどうか。やってみても、結果は見えていることだが、あえてやってみることも、よいかもしれない。と彼は思ったが、一方で、また同じ結果を見るだけだという思いもあった。実験は、何度やっても同じだ。この幻想の魔法実験は、いつも同じ結末に落ちる。

「お、るぃ」、彼はまたつぶやいた。…しかし、真実を何度も見るのは、そう悪いことでもない。なぜこれを、度々わたしがやりたいと思うのか、そこに、何を求めているのか、本当はそれこそが、大事な問題なのかもしれない。彼はやはり、過去に何度も繰り返した実験を、もう一度、試みてみることにした。

「いゅ」彼は言うと、杖を振り、風を一息、糸のように巻き込んだ。大地は、青い鋼でできていた。空は、月のない鉄紺のはてしない虚空だった。星もなかった。暗闇の中で彼は自ら光を放ち、世界でただ一つの星のように、燃えていた。彼は杖に巻き込んだ風を、ふわりと青い玉に巻き、呪文でそれを燃やして、小さな白い月を作り、風の上に放った。小さな白い月は、鋼の大地の一隅を、青白く照らした。

その次に彼は、ある呪文と唱えた。「ないはずの大地よ、あれ」という意味の呪文だった。すると、小さな白い月の下に、透き通るはずのない黒曜石の、透き通った絹のようなひとひらの大地が、幻のように浮かんだ。それは、あるはずのないものを、あるとして仮定して、強引にこの世界に創りだしたものだった。それは存在するはずのないものだが、仮にあるものとして、一時、呪文によって、創られたのだが、本当は、創られてはいなかった。つまりは、創ったのだが、本当は創っていないのだ。あるはずのない、ものだからだ。しかし、それはあるものでなければならなかったので、仮にあるとして、そこに出現したのであった。だが、本当は、ないものなのだ。しかし、それをあるとしていなければならない、そういうものであった。だからそれは、実際に、目で見ることはできた。

上部人は、ひとひらの、ないはずの大地の上に、呪文で光の柱を立て、何本かの青い竹を創った。竹は、ないはずの大地の上に次々と現れ、いつしか青くしなやかな美しい竹の林となった。竹林は、彼が創りだしたひとときの白い月の光の下、それは美しく、清らかに、青く盛り上がった。んりぃ、と彼は言った。…おお、まさに、幻想的だ。美しい。さて、これから、何を試みてみようか。

彼はまた、杖で風を呼び、それを指でよじって、小さな光の糸を作り、呪文を吹きこんで、一匹の白いトンボを作った。そしてそのトンボを、竹林の中に放ってみた。彼はもう一度、風を呼び、またトンボを作った。またそれを竹林に放った。そうして彼は、同じような魔法を繰り返し、ほかにも、バッタや、タマムシや、透き通ったカゲロウなどを、何匹も作り、竹の森に放った。また、風に火を燃やして、黄金色の小さな花を、竹の根元に散らしたりもした。そうやって彼は、着々と、ないはずの大地の上に、美しい竹林の世界を創り上げていった。

水晶のような風が吹き、竹林を通り過ぎていった。涼やかな青い竹の香りが満ちた。やがて竹林の奥で、小鳥が歌い始めた。夜啼き鳥であった。また、影の中をすべる、瑪瑙の縞のような青いトカゲも現れた。それは黒水晶の小さな目に、月の光を宿して、竹林の影の中を、かすかな光の糸のようにもつれうごめいた。真珠を水に溶かしてその水面を切り取ったかのような、虹色につやめいた白い蛾が、花のように風に飛んだ。白い月の光は、竹林の中に透き通った布のように降り注いだ。竹林は、それはそれはみごとな、美しい世界となった。何もかもが、愛の光の元、つつましやかに命を営み、華麗にも端正な神の歌を語り始めた。

ゅる、上部人は目を細めながら言った。ほむ、と言った。彼は常に杖を揺らしながら魔法を行い、その大地の基盤を支えつつ、小さな竹林を創り続けた。竹林の中では、不思議な生と死の輪廻が繰り返され、静かな繁殖と殺戮が起こっていた。命は喜びと悲しみを味わった。それらの声は切なく、胸に響くものがあった。愛は幻想のような白い月から降り注いだ。そうして、光と影の彩なす見事な竹林の世界を、彼は魔法で織り続け、同時に大地の基盤を支え続けた。時々、魔法をする杖をもつ手に、氷のささるような痛みが走った。彼はそれに耐えて、魔法を続け、大地を支え続けた。しかし、痛みはどんどんと激しくなった。杖が、鉛のように重くなり、持っていられないほどになった。だが、彼は持てる力を振り絞ってそれを持ち上げ、骨にきしる痛みに耐えながら、魔法を行い、大地を支え続けた。竹林は在り続けた。多くの虫やトカゲや蛇や小鳥が、その中で動いていた。凄惨な死があった。幸福な誕生があった。月がすべてを許し、愛をふりまき、抱きしめた。あまりにも美しい世界だった。

上部人は、鉛よりも重くなった杖を、かろうじて両手で支え、呪文を唱えつつ、魔法で大地を支え続けた。どれほどの時間が経ったか、やがて、月が、ふと、陰った。う、と上部人は言った。月が、気付いた、という意味だった。彼は顔を歪めた。杖を持つ腕が、もう千切れそうだった。呪文を唱える声も、途切れがちになり、喉がかすれ、やがて、舌も凍りついた。彼はとうとう、ごとり、と杖を鋼の大地の上に落とした。それと同時に、あるはずのないものをあるとして仮定して創った、透き通るはずのない黒曜石の透き通った大地が、消えた。すると、あれほど、あでやかにも清らかに美しかった青い竹林の世界が、一斉に砂のように崩れ、霧のように砕け散った。そして、すべてが灰となって鋼の大地の上に流れ落ちたと思うと、一瞬、それは青白い光の炎をあげ、すぐに風に溶けて、消えてしまった。後には、何も残らなかった。ただ、小さな白い月だけが虚空に浮かび、静かに光っていた。

つぅ、と上部人は言った。やはり同じか、という意味だった。幻想の虚数魔法実験は、いつも同じ結果になる。常に、ないはずの大地をあると仮定する虚数の魔法を行っていなければ、どんな創造を行っても、すぐにすべてが無に帰する。だが、その仮定の魔法を、永遠にも似た長い時間を行っていくことは、少なくとも、自分にとっては、不可能だ。ないはずのものを、無理にあるとして行う創造は、結果的に、こうならざるを得ない。どんな大数にも、0をかければ全てが無に帰するように、大地があるはずのないものであれば、その上にある何もかもが、無いことになるのだ。

「ひ、みゅ、ぃ」彼は、無理な魔法を長い時間行って強い疲労を覚え、大地の上に腰をおろしながら言った。…一体なぜ、わたしはこうまでして、何度もこの実験を続けるのか、人類よ、おまえたちが悲しすぎるせいなのか。彼はしばし腰を鋼の大地に預け、白い月を消し、自らの光も消し、闇の中に溶けていくようにして、自分を抱えた。時々耳に忍び込む自分のため息は、まるで自分のものではないように聞こえた。悲哀は氷のように胸の中に凍えた。孤独の眠りに、彼はしばし目を閉じた。風が彼の額を、冷たく濡らした。時が過ぎた。

「くゅ」…ここにいたか。誰かの声が、上から落ちてきた。上部人が目をあげると、光をまとって、黒い髪と髭の聖者の姿をした上部人が、上空から自分のところに向かって降りてくるところだった。聖者の姿をした上部人は、鋼の大地に腰を下ろした上部人のすぐそばに降り立ち、挨拶をすると、しばし、ふたりで会話を交わした。

「るり」「てゅ、に」「ほみ」…
「交代の時間だが、疲れているか?」「いや、そうでもない。もうそんなに時間が経ったのか」「また例の実験をやっていたのか?何度やっても同じだろうに」「ああ、わかっては、いるのだが…」「君の気持が、理解できないわけではない。君にとっては、悲しすぎるのだろう、この真実が。それは、実に君らしいことだと、わたしは思う」「君の理解に感謝する。交代しよう」…

腰をおろしていた上部人は、立ち上がり、黒髭の聖者の姿をした上部人と、杖を重ね合わせた。すると、またたく間に、二人の姿が変わった。虚数実験を行っていた上部人は、飛んできた黒髭の聖者と、全く同じ黒髭の聖者の姿となり、代わりに、黒髭の聖者の姿だった上部人が、元の上部人の姿に戻った。彼らは、二人で、一人の聖者の姿を共有していた。そして、その姿で日照界に降り、若者たちの指導をするのが、今の彼らの大切な仕事のひとつであった。

「の、ゆぇ」…虚数の魔法は、体力を消耗する。本当に疲れてはいないか。無理をすることはない。引き続き、わたしがやってもいいが。「るち、る」…だいじょうぶだ。心配することはない。大事な弟子を放っておくわけにはいかない。「にに」「きと」「いふ」…

「今回は、何を創ったのだ、一体」「竹林を創ってみた。実に美しいものができた。だが、結果はいつもの通りだった」「すべて無に帰したか」「ああ、虚数の大地は、常に魔法を行って支えていないとすぐに消滅する。その上に、どんなすばらしいものを創造しても、大地を支える魔法が続かなくなると、みな塵と消える。いや、塵さえ残らない」「そう。だが、人類は、そういうことを今、実際やっているのだ」「ああ、そうだ。何万年と、同じことを繰り返している」「あるはずのない大地の上に、世界を作り続けている…」

「とぅい、とぅい、むえ、のる、ひ」黒髭の聖者の姿となった上部人が、ため息とともに、何もない鉄紺の空を見上げながら言った。…神よ、神よ、あなたは、今も、あの、重い魔法を、行い続けているのですか。人類を助けるために。虚数でできた、存在しない大地を、あるものとして支える、あの千本の指が奏でる音楽のように繊細な呪文と、長く重い忍耐の要る、恐ろしく困難な魔法を。地球と言う、壮大なる世界で。あまりにも、長い、長い時を。あなたには、それができるのだ。なんと、美しいのだろう。なんと、大きいのだろう。そしてそれは、どんなにか、悲しいことだろう…。

すると、それに答えるように、もう一人の上部人が、ある一つの詩の音韻をささやいた。「しき、いぇ」…登る者は、死ぬ。下る者は、生きる。

「しき、いぇ」黒髭の聖者の姿となった上部人もそれを繰り返した。そして悲しげに視線を大地に落とした。人類はまだ、虚数の大地の上に自ら築いた、幻の砂の山を登り続けている。その先に何があるかさえ、知らずに。あのまま登り続けていれば、いつかは、全てが無に帰する時が来る。その前に、なんとかしなければ、ならない。そう思うと、彼は、何かに焦る気持ちに、自らの魂を焼かれるような思いがしたが、深いため息でそれを吐き、平静を取り戻した。

「い」…では、行ってくる、と彼は静かに言った。もうひとりの上部人は答えた。「とる、ぃ、しゅ」…ああ、今はそうしたまえ。だが、君の思いを、神は知っている。何かのお導きがあるだろう。わたしも、君と心をともにする。きっと、そう遠くない未来、今まで君の試みてきたことのすべてを、役に立てねばならぬことを、君はせねばならぬだろう。「いむ」…ああ、ぜひ、そうであってほしい。

黒髭の聖者は、友人に別れを告げると、ふわりと大地から飛び上がった。疲れは残っていたが、仕事のためには、それを問題視することはできなかった。彼は空を飛びながら、再び言った。

「しき、いぇ」…登る者は、死ぬ。下る者は、生きる。
それは、遠いはるかな昔から、上部に伝えられてきた、神より持たされた詩のことばだった。そのことばを、聖者たちは常に、見えないところから人類に語り続けてきた。しかしその真の意を、魂の感性の中に受け取る人間は、ほとんどいなかった。そして今も、人類は登り続けている。あるはずのない、虚数の山を。

わたしも、やらねばならぬ。いつかは。この胸に焼けつく思いのすべてをぶつける、何かを。神の愛のために。そして、人類を、あの幻の虚数の山から、下ろすために。

鉄紺の空が、やがて青みを帯びてきたかと思うと、不意に空に白い月が点った。首府の光が、地平線の向こうに見えてきた。黒髭の聖者は、風に乗って首府に飛んで来ると、そこから日照界に降りていった。光に満ちる日の都が眼下に見えてきた。彼は空を下りながら呪文を唱え、言語を切り替えた。風に彼の灰色の衣服がはためき、それはかすかに、竹林の青い香りを放った。


 
 
 
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2025-02-02 03:38:47 | 月の世の物語・上部編

首府より少し離れたところに、一つの町があった。それは町というより、一つの大きな寺院のような建物であった。青ざめた白い光の柱は町にたくさん立てられ、空気のようなベリルを月光水に溶解させ、その化学変化から生じた煙を固化し、壁材として町を囲った。粘着材は一巻の物語の音韻であった。その物語は、古い古い時代の上部人が著した、真の存在の使命の意味を深く考察したものであった。それゆえにその町ではいつも、真理を正しく追う心に、焦るようにかき立てられる者たちが集まり、さまざまな議論や、考察や、計算や、創作が試みられていた。

町の真ん中には、高くも巨大な半球形の天井があり、上部を超えたまた上部から下ろされた、清い日照の明かりがその最も高い所に灯っていた。ために、町の中は、その外部より一層明るく、眩しい光に埋もれていた。その中の風景はまるで、人々が乳の中を泳いでいるようでもあった。彼らは光の中で、それぞれに自分で自分の座席や机を作り、時に珍しい書物を開き、新しい知恵を求めたり、ときに輪を囲んで議論し、魔法についての新しい知恵をみなで編み出すために、高き神よりの霊感を得ようとし、ときに、自らの魔法を用いて、光の壁に複雑な文様を組み合わせた一つの世界の設計図を描いたりした。

「おぅ、る、あふい」今その町の中の一隅で、ある上部人が言った。「実験をしてみたいのだが、ともに見てはくれないか。それほど珍しくはないものだが、今少し、それをやってみたい心がわたしにあるのだ」と彼は言ったのであった。彼の周りには、十人ほどの上部人がいた。彼らは黙ってうなずき、彼に「よし」という意を表した。するとその上部人は、得たりと思い、右の手を、す、と横に滑らせ、小さな青水晶の小杖を出した。彼はそれで、琴の糸を弾くような音楽を鳴らし、周囲の上部人たちの前に、一枚の白い蛋白石のスクリーンを出した。ほう、と誰かが言った。彼のやろうとすることがわかったからだ。他の誰かが、少し眉を歪め、目を少しスクリーンからそらし、よ、と不快の意を示した。スクリーンを出した上部人はそれに対して、頭を下げ、「ぃる」と言って陳謝した。

上部人は、青い小杖を、びんと鳴らした。するとスクリーンの画面に、一人の青い人間が、現れた。それは、人類という存在の全てを表現する紋章のようなものであった。ぉうり、と、誰かそれを指差して、言った。「苦しい。めずらしくもない。だが本当のことを度々と見るのは、ためにならぬことではない。何か君は、これによって新しきものを我らに示すのか」と彼は尋ねたのだ。実験を行うと言った上部人は、ただ、「い」と言った。「やってみねばわからないが、とにかく見ていてくれたまえ」という意味であった。

上部人はスクリーンの横に立ち、青水晶の小杖を振り、また不思議な音楽を鳴らした。すると画面の中の青い人間が、走り始めた。彼は、あまりにも苦しそうに、激しく息をしながら、走っていた。走っているのは、果てもない荒野であった。空は血に染まったような朱色であり、日も月もなかった。それは、世界が焼けただれ、全ては失われてしまったからであった。青い人間は、朱色の空の光を浴び、ほんのりと紫色に染まりながら、ただ、息を切らして走っていた。彼は、探していた。そして、逃げていた。上部人たちはすべてもう知っていた。彼が探しているのは、自分以外の人間だった。そして、逃げているのは、自分からだった。彼は、自分を、自分で背負うことをいやがっていた。なぜならそれは、とても愚かな、汚れた、恥ずかしくてたまらないことを行い、あまりにも小さく、つまらない、取るに足らない、ゴミのようなものでありながら、巨大な鉄のように重く、深い罪の影であったからだ。彼は、自分以外の人間を探し、どうにかして、そのいやな自分を、その誰かに押しつけられないかと、考えていた。彼は、自分存在を、他の存在に押し付け、すべて背負わせようとしていたのだ。それがために、他の人間を探していた。だが、もう、世界は滅びていたので、彼の他には誰も人間はいなかった。彼は、永遠に孤独に、自分以外の人間を、自分の存在をその人間に背追わせるために探し、走り続けているのだ。

「つ、むぃ」と、スクリーンを作った上部人が言った。「ここまでは、いつもと同じだ。怪の心象風景は、まさにこれそのものだ。ほとんどの人類の魂もまた、これと似た状況に陥っている」と彼は言ったのだ。「ぃの」誰かが言った。「これからどうするのだね?」と尋ねたのだ。スクリーンを出した上部人は、つ、と舌の奥でささやくと、また青水晶の小杖を振り、今度は、手元に小さなクリソベリルのかけらを出した。そしてそれを、一息の呪文とともに、スクリーンに放り込んだ。次に彼はまた小杖を振り、今度は小鳥の声を固めた、金の粒を出した。彼はまたそれを、スクリーンの中に、呪文とともに放り込んだ。そして次は、小杖を笛に変え、それで一息、彼の創作した不思議な音楽を鳴らした。

すると、スクリーンの中の青い人間の前に、ひとりの、白い人間が現れた。青い人間は、それを見て驚いた。自分以外の人間がいるなど、彼は思いもしなかったようだ。青い人間は、白い人間を見て、最初はただ、驚いて沈黙しているばかりだったが、やがて、その存在が確かなものであるとわかると、突然、口を開き、うるさい鴉のようにしゃべり始めた。彼が言っていることを聞いて、スクリーンを見ていた上部人たちは一斉に顔を歪め、うぉうぬ、と叫んだ。「不快なり。なんと愚かな」彼らは言ったのであった。

青い人間は白い人間を罵倒していた。それはそれは見事な、美しい彩を織るような見事な隠喩の歌で、白い人間を、侮蔑していた。それは恐ろしくも巧みな、饒舌にもほどがある長い詩曲であった。知恵足らぬものがそれを聞けば、いかにもそれは、人間存在をたたえる歓喜の歌にも聞こえるだろう。だが、その歌の裏には、ことのはの美の衣に覆い隠した、憎悪、恨み、妬み、あらゆる人間の影の苦しみがのたうち、うごめいていた。ああ、と誰かが嘆いた。神より学んだことのはの美を、彼らはなんということに使うのだろう。悲哀が彼らを襲ったが、彼らはそれぞれに自分をしばし植物の霊のように静まらせ、自分を癒し、そこにとどまり、黙って実験を見守った。

白い人間は、初め、自分がほめられていると思って、喜んでいたが、いつしか、自分が、青い人間によって、奴隷のように扱われ、彼の代わりに、彼のすることをみな、自分がやらされていることに、気付き始めた。そして彼は、疑問を持った。美しい言葉を語る青い人間に対し、初めて、「なぜだ」ということを言った。「なぜ、あなたは、そんなにもたくさんのことを言うのだ。あなたは、まるで次々とゴミを捨てるかのように、たくさんの言葉を吐くのだが、それは、とても、美しい言葉には、聞こえるのだが、なぜか、心に響かぬのだ。わたしは、萎えてゆくばかりだ。なぜ、美しい言葉が、美しいとわたしに響かないのか。それを聞けば聞くほど、わたしは苦しくなるばかりなのだが、それはなぜなのだ」白い人間が言うと、青い人間は、初めて、顔に憎しみを表した。彼は巧みな言葉で、反抗は許さぬ、と白い人間に言った。おまえは、おれだ。おれのことは、すべて、おまえがやるのだと、彼に言った。青い人間は、初めて、鞭を取った。そしてそれで、白い人間を打った。おまえは、いらぬものだ、と彼は巧みな隠喩で言った。おまえは、おらぬものだ、と彼は見事な詩で歌った。ゆえに、おまえは、おれだ。おれのすべてを、おまえは、負うのだ。おまえは、おれのものだ。青い人間は、憎しみに燃える目で、白い人間に言い続けた。

「おぅくるぅぅ…」スクリーンを見ていた上部人たちが、一斉に嘆いた。ある上部人が言った。「くぉぅ」、…こうならざるを得ないのか、やはり。「もん、ふ」…段階の問題だ。彼らはまだ幼い。技だけはかなり巧みだが、真の意味は何も分かっていない。「り、おる」…これから、どういう進展があるのか。実験はまだ続くのか?

スクリーンを作った上部人は沈黙したまま頭を下げ、しばし状況を見つめてくれるようにと、彼らに頼んだ。

青い人間は、白い人間を鞭うち続けた。そして己がやるべきことを、無理やり、すべて彼にやらせた。おのれが払うべき罪を、すべて、彼に払わせた。白い人間は何度か反抗を試みたが、青い人間ほど、強く憎しみを持つことができなかったので、ことごとくそれは、青い人間によって砕かれた。やがて彼は、疲れ果て、病に落ち、血も枯れ果て、とうとう、息絶えた。青い人間は、白い人間が、何度鞭うっても、動かないことに、よほど時間が経ってから、気付いた。白い人間が死んだのを、青い人間は認めたくなかったので、まだ、その骸を、鞭打ち続けた。その体が、朽ちて、骨が見え始めても、まだ、鞭打ち続けた。おれは、おまえだ。おまえは、おれだ。おれは、おまえだ。おまえは、おれだ……と、彼は言いながら、まだ鞭打った。しかし、それはやがて、終わらねば、ならなかった。青い人間は、認めなければならなかった。もはや、彼は動かない。行ってしまった。自分の元から、永遠に去ってしまった。

それを認めた青い人間は、ようやく鞭を振るう手を下ろし、ぐらりと揺れて前に倒れたかと思うと、地に伏して激しく泣いた。そしてしばらくして、ぎゃあ、と高く吠え、すばやく起き上がると、骸を抱きしめて、叫んだ。「愛している!帰ってきてくれ!!」

「ぬ」それを見た一人の上部人が吐き捨てるように言った。「愚かな」と彼は言ったのだ。

「何をいまさら、言うのだ」死んだ白い人間の魂が、青い人間の耳には聞こえぬ、風のような声でささやいた。そして彼は、本当に、世界の向こうに消えて行った。もう、決して帰っては来れないところへ、行ってしまった。

青い人間は再び、孤独になった。彼は、骸を抱きしめたまま、荒野に佇んだ。その目は、虚無のようにうつろだった。何を失ったのか。自分は何をやったのか。考えがよぎった。すると、それを待っていたかのように、スクリーンを出した上部人は、小杖を揺らし、手の中に、水晶の小瓶を出した。その中には、ちらちらと青く光る粉が微量入っていた。それは、ロードクロサイトを青く燃やし、浸食される魚類の眼から練りだした無残な悲哀を溶かしこんだ、一種の幻覚性碧青光を放つ、魂の劇薬であった。彼はそれを、瓶ごとスクリーンの中に放り込んだ。

変化は、すぐには起こらなかった。実験を見ている上部人たちは、静かに経過を眺めていた。青い人間の瞳の虚無の中に、わずかながら変化が見え始めたからだ。彼らはそれを見逃さなかった。それが何の予感なのかも、すでにわかっていたが、誰も何も言わなかった。

ああ…、スクリーンを出した上部人が言った。それに答えるように、変化は起きた。青い人間が抱きしめている骸が、かすかに動き、ことん、と地に落ちた。するとそれは、見る間に青い芽を出し、どんどんと茎をのばし、葉を伸ばし、つるを伸ばし、やがて一本の大きな薔薇の大樹となった。薔薇の木は透き通るような巨大な緑の塊であったが、花は一つもつけてはいなかった。青い人間はそれを見て、何かにつき動かされるように、薔薇の大樹を登り始めた。空には、いつしか、太陽があった。その朱色の光を目指して、彼は薔薇の木を登った。青い人間は、ああ、と叫んだ。彼は、何かが、わかるような気がする、と言いたかったのだ。彼は、薔薇の刺に全身傷つきながらも、何かに追い立てられるように薔薇の木を登り続けた。その間も、薔薇の木は成長を続け、彼が登れば登るほど、大きくなり、どんなに登っても、てっぺんにたどり着くことはできなかった。それでも彼は登り続けた。登ってゆくほど、薔薇の刺は激しく痛く彼を刺した。彼はそれが、かつて、白い彼に向かって、彼が言った言葉の化身だということに、気付いた。その痛みの、激しいこと、苦しいことに、やっと気付いた。ああ、と彼はまた言った。涙を流し、それを飲んだ。それはしびれるように苦かった。すると、薔薇の木の、彼のすぐそばに、ほんの小さな、薔薇のつぼみが一つついた。つぼみはまだ硬かったが、かすかに紅の光を、やどしていた。薔薇は語った。愛していたと。あなたを愛していたと。あなたを、愛していたと。

青い人間は唇を噛み、目前をはばむ、とりわけ大きな刺に、自ら自分の腕を、思い切り刺した。うああ!と彼は叫んだ。腕は裂け、その痛みは激しく彼の魂を揺さぶった。愛している、と彼は叫んだ。彼は自らの血を浴びながら薔薇を登り続けた。登って行くほどに、彼の青い体から、青い色がぽろぽろと干からびた皮のように剥がれ落ちて、彼はだんだんと白くなっていった。その青い色が、かつて自分が自分に塗った嘘だったということを、彼は思い出した。そしてとうとう、彼は薔薇の成長においつき、その木のてっぺんにたどり着き、太陽に手を伸ばし、それを、スイッチのように、押した。そのとき彼はすでに全身真っ白になっていた。

世界に、歌が、鳴り響いた。神が、始まる、と言った。荒野はまだ、荒野であったが、その奥で、眠っていた種が、ようやく彼を許し、うごめき始めた。
彼は、薔薇の木のてっぺんで鐘のように叫んだ。

わたしよ!わたしよ!わたし自身の、わたしよ!

涙が彼の頬を激しく濡らしていた。彼は幸福に震えていた。彼は気付いたのだ。自分が存在していることに。そして、何が何であろうと、すべてをやっていける者が、自分であるということに。

そしてどれだけの間、彼は薔薇の木のてっぺんに立っていたのか。風がふと、彼に気付けと言った。そして彼は気付いた。そして、彼は、スクリーンの向こうから、こちらを見た。彼は、自分を見ていた人たちに気づいて、驚きのあまり、彼らを見回した。そして、「あなたたちは、誰だ?」と、スクリーンの前にいた上部人たちに、尋ねた。

上部人たちは、ほお!!と叫んだ。

スクリーンを出した上部人は、小杖を揺らし、金色の紋章を描き、それをスクリーンに投げ込んだ。とたんに、スクリーンは消えた。実験は、終わった。

「ほぅむ、じゅ、れ、なき」と彼は言った。それは「これは、一つの試みである。実験とは言ったが、まだはっきりとそう言うのには恥ずかしいもののある、物語のようなものである。魔法計算もまだかなり甘いと思う。しかしわたしはこれをひな形に、もっとさまざまな魔法計算を行い、一つの計画を練ろうと思う。もちろん、今のわたしの段階では、実際に全てがこの通りにできるとは思えないが、かなり、良い結果を生むことができるのではないかと、考えている」という意味だった。
すると、周りの上部人たちは顔を見合わせ、それぞれに、「ほむ」「んぬ」「てな」「ぃるぅ」とざわめいた。おもしろい、と彼らは感じたようだ。中には、自分も協力してみよう、という者もいた。

彼の実験は、首府に提出され、再びそこで試みられた。そして、しばしの間、長たちによって審査が行われ、いくらかの改善点を示されて戻ってきた。それを受け取った上部人は、「をぅ」と自分にささやいた。まだ学びが足らぬ、という意味だった。しかし、やってみるべし、という印は、確かに押されてあった。彼は、改善点を見直し、もう一度実験を行い、魔法計算にもっと深く踏み込むべく、新しく学びを始めた。師を請い、教えを願った。

彼はそれから、数人の仲間とともに、何度も実験をやり直し、種々の新しい知識と経験を得、魔法計算を繰り返し、物語を練り直した。そしてそれが、実際の魔法計画として首府に認められ、行われることが決まったとき、それは、大いなる神の御計画の物語の中の、数行の対話の結晶となって、一つの明るい光を放っていた。


 
 
 
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