青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-02-01 04:02:34 | 月の世の物語・上部編

上部世界に、はるかに広がる、青い水素の海があった。その白い波は雲のようにかすみつつ、遠い果ての岸辺で、虹色につやめく真珠質の崖を洗っていた。

その海の中央に、水晶の琴を打つ音律を固めた、小さな島があり、今そこに、ひとりの上部人が降り立った。彼は髪も目も青く、その顔は蝋のように白かった。白い服を着た彼が、黒みを帯びたその島の上にまっすぐに立つと、それはまるで一筋の光の棒のようであった。

海には、一匹の、巨大な炎魚が棲んでいた。それこそは、この上部世界に住む、稀なる女性の中のひとりであった。彼は、海に向かって、とん、と叫んで、炎魚を呼んだ。すると彼女は、すぐにそれに答えて、海からざわりと顔を出し、彼の顔を見た。炎魚は、文字通り、そのひれは燃え上がる炎であり、その鱗はその炎を結晶させて形作った丹色の珠玉のようであった。ただ、瞳だけが、透き通ったベリルのような緑であった。

彼は、これから果たさねばならぬ使命のために、仮に自分の姿を女性にしなければならなかった。彼よりももっと年経た上部人であれば、自力で女性になることもできるが、彼は上部人としてはまだ段階が比較的若かったので、どうしても彼女の助力を必要としたのだ。

炎魚には、呼ばれた時にはもうすでに全てが分かっていた。彼女は、島の上に立つ彼に向かって、真珠色の炎を吐き、るる、と歌った。すると、彼の身に、光が宿り、体に変化が起き始めた。胸に小さな丸みが現れ、陽根が消え、体内に小さな秘密の部屋ができた。彼はいつしか、長い青髪と透き通った青い瞳の、可憐なひとりの少女となっていた。彼女は、ほぅ、と言って炎魚に礼を言うと、炎魚は、ふ、と答え、水素の海の底へと静かに帰っていった。彼女はそれを見送ると、すぐに島の上から姿を消した。

次の瞬間、彼女は花野にいた。そこは、かつて数人の上部人が、やすらいを必要とする上部人のために、協力して創った野であった。どこまでも広がる緑の原に、色とりどりの珍しい花々が永遠に咲き乱れている。空は水色であった。月は真珠であった。彼女は、透き通る衣をまとい、貞女のごとくひざまずいて神に祈り、「とぅ、ほ」と言って、天に向かって、体内の部屋の鍵を開けた。すると神は、その部屋に向かって、蝶のように小さな一羽の白い鳥を放った。鳥は彼女の体内の部屋にまっすぐに入り込み、くるりと回って、小さな白い玉に変わった。彼女はすぐに部屋の鍵を閉めると、自分の腹を抱き、しばし受胎の幸福に浸った。胎内の玉はやわらかな絹の上に着床し、夢を見始めた。彼女は花野に横たわり、全身を大地に預けた。そして繰り返す神のささやきの愛撫を受けながら、歓喜の声でそれに答え続けた。

やがて、月満ちた。ある日、彼女を激痛が襲った。彼女はあわてて魔法を行い、花野の一部に穴を掘った。穴は深く、暗かったので、彼女は月光を呼び、穴の壁に塗って自分を照らした。痛みはどんどん激しくなった。望月のように膨らんだ腹が心臓のように波打っていた。ああ、ああ、ああ。彼女はあえいだ。その苦しみの声に、上部世界に住む風の精霊が引き込まれ、彼女を助けるためにやってきた。彼女は、三日も、苦しみ続けた。そしてとうとう、全身をみずから切り裂いて、一頭の、子牛を産んだ。その子牛は雪のように白く、額にはすでに、一本の小さな青い角があった。瞳もまた、澄み渡る青であった。

出産に疲れ果てた彼女を、精霊が愛で癒した。少し力を取り戻した彼女は、子牛を育てるために胸を開き、乳房を出した。乳は月光水のようにあふれ出し、それは花野に一筋の小川を作り、子牛は水のようにそれをがぶがぶと飲んだ。

月日はまた過ぎた。子牛は、若牛となり、母と精霊たちに守られ、十分に準備が整った。彼はそろそろゆかねばならない。すると、母である彼女の胸に激しい痛みが生まれた。若牛は、これから、月の世に降り、月光に溶けて、歓喜の音楽の元となる霊感の響きへと変身してゆくのだ。それは若牛にとって、自らは死んでゆくことを意味した。

う、と彼女は言った。それは、自分は何をしたのか、という意味だった。死なせるために、彼を生んだのか。こんなことなどあっていいのか。だが、彼女の心が、母としての悲哀に引き裂かれる前に、彼女は彼に戻った。

そして、ほう、と息をつき、冷たく厳しい男の目で若牛を見た。若牛は彼を見上げ、むぅ、と答えた。すべてはわかっているという意味だった。若牛はその澄んだ青い目で、母であった彼の目をしばし静かに見つめると、おお…と言いながら彼に背を向けた。若牛はゆっくりと花野を歩き、風に溶けていくように姿を消した。母であった彼は、若牛が、月の世に降り、月光の中に次第に溶けてゆくのを、次元を超えて見える目で、静かに見守った。遠くから、さざ波の音が聞こえた。まるで、子守唄のようだ。遠い炎魚の海も、あの者の運命を悲しんでいるのかもしれぬ。だが、悲哀は無駄だ。すべては神の導きの元、正しく行われてゆく。

やがて、若牛は、かすかに、かちん、と内部の音を立て、自分を壊し、死んだ。それと同時に、あまたの美しい歌が生まれた。向こうの世界にいる人々には、まだ聞こえぬ、新しい神の歌が生まれた。それは、長い長い月日を、目に見えぬ光の星として、月の世に在りつづけ、風に、花の香のように清らかな音律を深く織り込み、人々の霊感を刺激し、多くの新しい光の言葉を生み、魂の物語を、少しずつ、正しい道へと導いていく。

ああ、と彼は言った。彼の中で、すでに抜け殻となって横たわっている母が泣いていた。あの歌を、あの歌を、人々は、聞くことができるだろうか。わかることができるのか。それができるようになるとしたら、一体いつのことか。考えてはならぬ。だが、彼の中の母の心はそれにあらがい、彼を苦しめる。

うぉ、と彼は言う。「わが子よ」という意味である。涙が流れるのを、彼は自分に許した。自分の身を裂いて、全てを生みだすもの。女よ。我々は、おまえたちの苦しみを知る。そしてそのために、全てを行ってゆき、何度でも死ぬことであろう。

彼は呪文を唱え、服を常人のものに着替えた。そしてくるりと体を回し、杖を持ち、聖者の姿に戻った。それは灰色の髪と髭を整え、紺瑠璃の瞳に深い悲哀を灯した、背の高いひとりの老人であった。彼は杖を横に構え、ひゅう、と言うと、すぐにそこから姿を消した。

誰もいなくなった花野の上に吹く風に、光る文字が一つ書かれてあった。それは任務が完了したという意味の文字であった。風はすぐに首府の塔にその文字を運び、首府の長は、はあ、とそれに答え、彼をほめたたえた。


 
 
 
 
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2025-01-31 03:24:26 | 月の世の物語・上部編

白髪金眼の聖者は、首府の長に呼ばれ、上部に戻ってきた。彼はそこで青い服に着替え、杖を一旦手元から消し、光を骨組みに、歓喜の音律を壁材に、水晶の精を粘着材として造られた、白く光る高い塔に向かう。塔は首府の中央にある。

彼らは、月の世や日照界では、聖者または準聖者と呼ばれるが、ここでは単に、「上部人」あるいはただ、「人」と呼ばれる。

空はサファイアブルーに冴えていた。中天に光る月は黄金色であったが、それは数百億年前、当時の聖者、いや上部人数百人によって建設されたものだった。彼らは偉大な力を持って、上部世界を営々と創ってきた。月はこれからも何百億、何千億年もの間輝き、上部世界を支え続ける。このようにして、かつては、月の世の月もまた、創られたのだ。それを知っているものは、上部人以上の者だけだが。

しかし彼らにも不可能はある。月は創れるが、太陽はいまだ創れない。それをやれる方は、上部の天井を超えたところにいらっしゃる。世界とは、存在とはそういうものだ。いつも、上がある。限りなく、上がある。段階というものは、そういうものだ。

とにかく、今の彼は、上部人である。サファイアブルーの空の下、上部の首府は、水晶の振動の澄んだ香りに包まれ、物質を超えた空気ではない空気で作ったガラスのような透明な建物が鋼の大地のあちこちに生えていた。所々に木々が、青い焔のように燃えて立っていた。それもまた、上部人が創ったものだ。上部の木々は、仮の霊魂を与えられ、それが役目を終えて燃え尽きてゆくまで、存在の愛なるものの喜びを歌い、上部人たちが、時に味わう苦悩と悲哀を清め続ける。

白髪金眼の上部人は、首府の中央にある塔の前に立ち、ほう、と一声、息を吐く。それが合図であり、敬意と感謝のことばである。常人には決して聴こえる声ではないが、上部人は瞬時に彼が言ったことを理解し、塔の門が開く。彼は吸い込まれるように塔に入ると同時に、見えない風の台に乗って上に上がっていく。やがて彼の目の前に、朱色の服を着た首府の長があらわれ、ふ、という。彼は白髪金眼の上部人の真の名を呼び、その仕事を言い渡したのである。白髪金眼の上部人は瞬時にそれを理解し、また、ふ、と答え、すぐにそこから姿を消す。

彼が向かったのは、首府よりはるか離れたところにある、青い鋼鉄の平原であった。ひとりの若い上部人が平原の隅に立ち、青い炎を燃やして、鋼鉄の平原に緑の草原を創ろうとしていたが、空より吹く氷風の精に拒否を示され、かなり苦労をしているようであった。白髪金眼の上部人は彼に、ふぃ、と声をかけ、その労をねぎらい、指で氷風をかき混ぜ、彼の魔法に自分の光を注ぐ。すると彼は新しき力を得て、ようやく鋼鉄の平原にひとひらの草原を創った。彼は、ぽう、と答え、白髪金眼の上部人に感謝した。

さて、鋼鉄の平原の中央には、またとないほど清く、透明に澄んで美しい、巨大な水晶の大樹が、無限に向かって腕を開くように、無数の枝を空に広げて立っていた。白髪金眼の上部人は風のように飛んでその大樹に向かう。大樹の根元には、紫色の服を着て、黒髪を長く垂らした女性のように細いひとりの上部人が立っており、その木を見上げていた。白髪金眼の上部人は彼に、つ、と声をかけた。黒髪の上部人も、つ、と答えた。それには挨拶と感謝の意味があった。もうすべては、彼が来る前にわかっていたので、それ以上の会話は必要なかった。白髪金眼の上部人は、水晶の大樹の、まるで眼前を阻む広い崖のような幹の中に入ってゆく。

ふぉう、と彼は言う。水晶の大樹の中には、光に満ちた大きな空洞があり、その白い壁には、水晶の糸がもつれあうように絡み合った複雑な回路が描かれ、ところどころに、神の開けた鍵穴のような空欄があった。今、ひとりの黄色い服を着た上部人が、薄い蛋白石の丸い板の上に座り、空洞の高いところで風のように速く手を動かしながら、次々と口から光る紋章を吐きだしては、その紋章を、回路の中の空欄にはめ込んでいた。それは常人の目から見れば、まるで彼が何十本もの腕を持っていて、それで音楽に合わせて舞いを舞っているかのように見えるだろう。地上世界に、千手観音という架空の救済者の伝説があるが、もしかしたら、それはこの姿を、誰かが夢の中で見たのかもしれぬ。それほど、その姿はそれに良く似ていた。

白髪金眼の上部人は、自らも蛋白石の板を作り、その上に乗って上に上がってゆく。そして黄色い服を着た上部人に、る、と声をかける。それは「交代する」という意味であった。黄色い服の上部人は何も言わず、すぐにそこから姿を消した。それと同時に、白髪金眼の上部人は蛋白石の板の上に座って、もう彼と同じ仕事を始めていた。口から次々と光る紋章を吐き、複雑怪奇なパズルのような回路の空欄にそれをはめ込んでいく。彼の手は上に下に左に右に斜めに前に後ろに、関節などなきがように鞭のようになめらかに動き、かすかな水晶の振動の音楽に合わせて見事な舞いをしながら、目にもとまらぬ速さで正確に紋章を空欄にはめ込んでいく。

やがて、遠くから笛の音が聞こえた。ああ、と彼は言う。長い時間が経ったと笛が知らせた。もうそんな時がきたのか、と彼は思う。短い時間だと感じていたが、もう終わってしまったか。彼は口から一枚の細く緑色に光るチップのようなものを吐きだした。そしてそれを回路の一番高いところにある空欄にはめ込んだ。すると、上方から神の声が降り、それは、ゆ、と彼に告げた。「始まる」という意味であった。とたんに、樹木が水を吸い上げるように、回路に光がとおり、はめ込まれた無数の紋章が虹のようにきらめき出したかと思うと、くぉん、と音がしてシステムが動き始めた。はぁお、彼は言いながら蛋白石の板を下におろし、大樹から外に出る。そして、大樹を管理している黒髪の上部人にまた、つ、と挨拶をする。黒髪の上部人はただうなずき、大樹を見上げる。白髪金眼の上部人もまた、彼に並び、大樹を見上げる。

ほおう、と黒髪の上部人が言う。白髪金眼の上部人もまたそれに和する。神の光が大樹に降りかかり、それは上部世界に清い桜花の霊を呼び、水晶の大樹の枝々に紅水晶の小さな玉が無数に芽生え始め、それらは次々に、とん、とん、と音をたてて開き始めた。その美しい響きは空に冴えわたる清い謎の斉唱のようであった。ああ。どちらかが言った。それは感嘆の声だ。花は見る見るうちに満開となり、水晶の大樹はそれはみごとな、おそろしく澄んで美しい巨大な桜樹となり、鋼の平原に眩しい薄紅の炎を空高く焚きあげた。

すゆ、と白髪近眼の上部人は言った。黒髪の上部人もまた、すゆ、と言い、うなずいた。それはこういう意味であった。
「第一段階は、終了した」「ふむ、そのとおり。だがこれが地上に全く実現するには、数千年とかかるだろう」「もちろん。すべてはこれからだが、もうすでに終わっている」「神の御計画に、失敗はない」「もはやこの次の大樹も、創られ始めている」「ああ、我々はやらねばならぬ」「そのときがくれば、また、見事な愛の美しき花霊がここに呼ばれることであろう」

白髪金眼の上部人は、黒髪の上部人に別れを告げ、首府の塔に帰ってゆく。そして、使命を果たしたことを長に伝え、塔を出ると、また青い服を常人の服に着替え、杖を出し、聖者としての仕事をするため、月の世に降りてゆく。

く、と彼は言う。それは笑いであった。人間よ。悲しくも幼く、そして、見事な未来でありながら、闇をさまよう者たちよ。かつてなき創造であるおまえたちのために、神が何をなさっているかを、おまえたちがいつ知ることができるだろうか。

はう、と彼は言う。眼下に月の世の月の白い大地が見え始めた。彼は月長石の平原に降り立ち、一息呪文を唱える。上部の空気を脱ぎ、言葉を常人の言語に切り替えるための呪文である。彼は杖を振り、それと同時に姿を消す。

さて、彼がそれからどこに行ったかは、彼だけの問題である。


 
 
 
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