青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

醜女

2024-11-25 03:06:52 | 月の世の物語

ここは天の王様の住んでおられるお宮でございます。お宮と申しましても、王様はたいそう質素なことを好みましたので、そう大きくはなく、おひとりですごすに十分な広さの小さなお宮でございました。御心のお美しい王様のお宮の周りには、たくさんの美しい天人が羽衣に風をはらませ、琴を弾き、鈴を鳴らし、歌を歌いながら飛んでおりました。それらの天人の仕事は楽曲を奏で、王様の御心の静かな喜びを、清らかな花の震えるようにかきたてることでした。すると王様は、すべてのもののために、もっとも美しいことばをこの世に生み出すことができるのです。

しかしこの、悦び満ちる天のお宮には、たくさんの天女の中に、ただひとりだけ、小さな醜女がおりました。醜女は自分の醜いのを恥じ、いつも顔を隠し気味に羽衣をかぶっておりました。彼女の仕事は、毎日、天のお国のあるお庭にある大きな水盤に映る、月のお仕事の手伝いをすることでした。この天の国は桂の香りもただよってくるほど月に近く、月はたいそう大きく見えました。醜女は望月の夜が来ると、水盤に月の美しい光が映るのを確かめ、それを小さな匙ですくって丸め、たくさんの月の光の珠を作るのが常でした。月珠が小さな桶にいっぱいになると、醜女は仕事をやめ、水盤に映る月のためにかすかな歌を歌いながら小さな儀式をしました。小さな声ではありましたが、それは胸にすきとおるような美しい声で、月はたいそう醜女の歌を悦ぶのでした。

それが終わると、醜女は桶を頭にのせ、天の国の端にある銀の河へと向かいました。そして川辺に座り、両手をひらひらと蝶のように舞わせ、小さな儀式をしたあと、河の中をのぞきました。

河に映るのは、あまりにも小さな罪人たちの行く末でした。それらの人々は、地上で深い罪を犯したがために、永遠のからくりの中で光さえ浴びることなく、苦悩の中に迷っている者たちなのです。醜女は、その罪人たちのひとりひとりに向かって、月珠を落とすのです。そうすればしばし罪人の苦しみはやわらぎ、胸の中がまるで明かりがともったようにぬくもるのです。醜女は月珠に一つずつ、呪文のような言葉をかけながら、それらがすべての罪人のところに届くようにと、願うのです。

罪人にはいろいろな者がおりました。たとえば、それは豪華な王宮の中の、薔薇色の大理石でできた底なしの崖のきわに、左足の親指一本で永遠に立っていなければならないという者がいました。ほかには、窓もない暗い部屋の中で、開かないオルゴールの鍵を必死で回している者もいました。その部屋にはそれはたくさんの鍵が山のようにありました。しかしそのオルゴールは、鍵で開くのではなく、ある呪文で開くのを醜女は知っておりました。それを教えられるのは、ときどきその部屋を訪れる小さな蛇なのですが、暗闇の中、彼はその存在にすら気付かずにいるのです。

醜女は罪人たちに神の憐みの訪れるように願いながら、空になった桶を持って立ち上がりました。するといつしか、彼女の背後に、天の王様が立っておられました。醜女はびっくりして、思わず顔を隠しました。醜女は何よりも、自分の顔を見られることが悲しいのです。ですから、王様の前でも、ほかの天人の前でも、いつも顔を隠しておりました。

天の宮の王様は、ほほ笑みながら、それでもよいというように、真実しか語らぬという美しい声で、いつも醜女にもっとも苦しいことをおっしゃるのです。

「本当にあなたは、お美しいですね」
すると醜女はたまらなく悲しくなり、まるで責め立てるようにふるえながら言うのです。
「おたわむれを」

醜女は王様の前から逃げるように走りだし、水盤のもとにもどりました。滂沱と流れる涙を水盤の中に落としながら、醜女はすがりつくように月に手を伸ばしました。

月は静かにほほ笑み、乳色の光で彼女の涙を洗いながら、泣かなくてよいと、醜女にささやくのでした。


 
 
 
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蝶の道

2024-11-24 03:23:10 | 月の世の物語

針葉樹の暗い森の中、まっすぐな一本の道を、わたしは歩いていました。目を上げると、空は、深緑の木々の梢に縁どられ、ぎざぎざに破られた青い紙のように、頭上に細長く流れていました。その空の中で、白い絹の糸のような雲はもつれあい、それに絡みつかれたように、細い昼の月が見えました。月はほほ笑みの形をして、まるで誰かが空で笑っているようにも見えました。

わたしの歩く細く長い道は、果てしなく前に続き、鈍いだいだい色をしています。それは木の葉ではなく、だいだい色の翅をした蝶の死骸が、木の葉のように、無数に散り敷いているのでした。
一歩歩くと、しゃり、と音がして、蝶の翅はいとも簡単に粉々になりました。わたしはできるだけ、蝶の少ないところを選びながら歩きました。

わたしの左手には小さなフクロウの形をした銀の腕時計がありました。時計と言いますが文字盤も針もなく、ただカチカチという音がするたびに、タンザナイトの青い目が左右にせわしく動くのです。その体内には瑠璃や水晶のような、闇と光の歯車の仕掛けがあって、それは時の中で割れることも腐食することもなく、正確に永遠を数えます。そしてときどき思い出したように、フクロウは、ほう、といって何かを知らせるのです。でもそれが何を知らせているのかは、わたしには全くわかりません。

わたしはもう、本当に長い間、森を歩き続けています。疲れることはありません。でも 、裸足の足にふれる蝶の翅の感触が、歩くにつれて重くなり、そのうち足に血のにじむように痛くなり、とても歩けなくなるのです。だいたい、なぜわたしはこんなところを歩いているのでしょう。

今までのようなことはしてはいけないと、ふとだれかがわたしにささやきます。わたしは背筋にぞくりと寒さを感じます。ささやいたのはだれでしょう。フクロウの時計でしょうか。それとも月か、森の木霊でしょうか。

わたしは、足元の蝶の一つを拾い、それをしばしじっと見つめました。蝶の翅はだいだい色というより、虹のような光沢をまとった薄い朱色でした。わたしは思わず、ほお、と声をあげました。どんな者が細工をしたのやら、その翅は貝を薄く削りだして作ったものだったのです。それは紙よりも薄い翅で、表にはまるで七宝のような、美しい文様が描かれてあるのです。しかもその文様は、どの蝶も、どの蝶も、一つとして同じものはないのでした。

こんな見事なものは見たことがないと、わたしがため息をつくと、また声が聞こえます。それは何やら、ころころと水のような音を立てて、まるでわたし自身の中からわきあがってくるようなのです。声は、このまま蝶の道を歩いて、どこにいくのかと尋ねてきます。わたしは蝶の死骸をそっと道に戻し、考えます。そもそもなんでわたしはここにいて、森を歩いているのでしょう。いったいどこに行くつもりなのでしょう。なぜこんな美しい貝の翅をした蝶を、踏み砕いているのでしょう。

永遠を数えるフクロウの声が響きます。月は相変わらず雲の中でほほ笑んでいます。そうだ。わたしは、神さまに約束したのでした。でも何を約束したのかは、どうしても思い出せません。とにかく今、わたしは一歩も動けずにいます。これ以上蝶を踏んで歩くことが、できずにいます。どうやったら、蝶を踏まずに歩いていけるのか、わたしは考えに考え、とうとう蝶の道を歩くのをやめ、道の右側の暗い森の中に足を踏みいれました。それは道なき道でした。いったいどこに向かうのかも、もともとわたしにはわかりませんでしたから、蝶の道も森の道も、たいして変わりはないことでした。

森に入り、振り向くとすでにそこにあの蝶の道はなく、暗い森ばかりが広がっています。
上を見るとこずえの隙間から、月は半月となって大きく笑っているのが見えました。そうか、こっちでよかったのだと、わたしは胸をなでおろしました。
わたしはどこにいくのでしょうと、わたしはどこかにいるだれかに尋ねました。すると森が深く深呼吸をするように、青い香りがする風がとおりました。
 
知らずにいるほうがいいことは、知らずにいたほうがいいのだと、わたしは思いました。
そして冷たい森の土の感触を足の裏に感じながら、歩きはじめました。あのたくさんの蝶を、わたしはどれだけ壊してしまったのか、今更ながら、悲しく思いました。ずいぶんとずいぶんと、長い間あの道を歩いていましたから。

涙が流れ指を組みすべてに許しを願いながら、わたしは森の中を歩きはじめました。いつしかあたりは夜に染まり、木々もその中で闇に溶けてしまったかのようになりました。ふと、木々の梢の合間をすいて、ひとすじの月の光が、ひたと地面に落ちました。するとそれは一瞬栗鼠のように森を走りだし、まるでこちらへ来いというように、少し離れたところの木の枝にくるくるとまり、ふわりと消えたのです。

かちりと、フクロウの歯車が切り替わる音が聞こえました。

 
 
 
 
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うさぎ竜

2024-11-23 02:50:40 | うさぎ竜

ある、西の方の海の彼方にある、小さな島に、うさぎ竜は住んでいた。うさぎ竜は、一応竜の仲間だったけれど、友達のように、火を吹いたり、川の水をあふれさせたりして、人間をいじめるのが苦手で、というより、とてもできなかったので、いつもひとりで、仲間とは離れて、小さな島でひとり暮らしていた。

うさぎ竜は、ちょうど、うさぎと竜の真ん中のような姿をしていて、全身は真っ白な毛皮に覆われていた。もちろん、耳はうさぎのように長くて、目は紅玉のように赤かった。背を流れるたて髪は炎のような金色で、背には鳩のような白い翼があった。うさぎ竜はときどき、その翼を広げて、月のよい夜などには空に飛び出し、風と一緒に笛のような歌を歌いながら、夜空をただひとりでゆったりと飛んだりするのが、好きだった。

うさぎ竜は、竜のくせに、うさぎみたいに臆病だったから、竜の友達も、人間も、苦手だった。大昔、まだ人間が竜といっしょに暮らしていたころは、うさぎ竜も人間の村に住んでいたことがあったけれど、やがて人間が、竜を怪物と言って退治し始めたとき、大急ぎで逃げていった。友達の竜の中には、人間に殺されてしまったものもいっぱいいた。うさぎ竜にも、それはとても悲しかった。けれど、たいていの竜は、悲しい顔をして、人間の世界から逃げて行った。竜というものは、人間が、それなりにやさしくして、そっとしておけば、乱暴などしないのに、人間は、竜の姿が大きくて、とても恐ろしくて強そうなのが、とてもいやだったらしい。だから、もう、竜は人間の仲間ではなくなってしまったのだ。うさぎ竜はそれが悲しかった。人間が求めさえすれば、竜はなんでも、人間のためにいいことができたからだ。

今では、友達の竜の中には、時々、人間に意地悪をするものもいる。昔、人間に意地悪をされたことがあって、それの仕返しをしているのだ。目に見えない姿になって、火山を動かしたり、雨を降らして大水を起こしたりしている。それで、人間は時々、とても困ったことになる。でも人間は、それが大昔に、自分たちが竜をいじめたことが原因だとは、わかっていない。ただの自然現象だと思っている。竜をいじめることは、ほんとうは、とても、愚かなことなのだ。人間は決して、やってはいけなかったのだ。うさぎ竜は、まだ人間といっしょにいたとき、それを村の子供たちに教えてあげていた。

「竜はね、大きくて怖い顔をしているけれど、人間の世界で大事な仕事をしているんだよ。竜とともだちになれば、人間にはとてもよいことがあるんだ。それはまだ、君たちにはわからないんだけどね、ほんとうにいいことになるから、竜を見ても、そんなに驚かないで、仲良くしておくれね」

子供たちは賢く、うさぎ竜の話を聞いてくれた。うさぎ竜は普通の竜よりよほどかわいい姿をしていて、やさしかったので、子供たちはどの竜より、うさぎ竜が好きだった。でも、人間たちはやがて、うさぎ竜が教えたことなどみんな忘れて、竜を怖がって近寄らなくなってきた。竜は恐ろしくて怖いものだと言って、時々、鎧を着けた勇ましい格好をした男たちが、槍や剣を振りまわして、竜をやっつけに来るようになった。うさぎ竜は悲しかった。人間にはどうして、目に見えるものしか見えないのだろう。目で見えることだけで、全てを決めつけてしまうんだろう。

うさぎ竜は、もう、人間の世界から離れて、何千年と、この島で孤独に暮らしている。島には、薄紅色の、一重の薔薇の咲く森があって、それが季節ともなると甘やかな香りをふりまいて、島じゅうを美しい夢の衣で覆ってくれる。さみしいけれど、さみしくなんかない。ひとりでいることは、もともと好きだったし、森の木々や、薔薇はとてもやさしくて、うさぎ竜のやわらかい心に、やさしく歌いかけてくれるからだ。

いつまでも、ここにいたいなあ。うさぎ竜は、島の真ん中にある小さな山の、小さな洞窟の中に寝そべり、ため息をつきながらそう思う。ひとりでいれば、誰ともけんかせずにすむし、誰にもいじめられることもない。いじめられるのは、悲しい。昔一緒に遊んだ子供たちが、おとなになって、自分に石を投げつけてきたときは、それは悲しかった。胸が破れて、洪水のように涙があふれ出した。怖くて、つらくて、うさぎ竜はあわてて村から逃げて行った。もう二度とは、あの村には帰れない。人間とはいっしょに住めない。もうあれからよほど時がたって、人間も、竜のことなどすっかり忘れて、そんなものはこの世に存在しないものだと思っているそうだし…。

ある星空の夜のことだった。寒い季節で、シリウスが東の空に氷のように光っていた。うさぎ竜は、葉を落とした木々の森の中をそっと歩きながら、冬風の中で眠っている薔薇の木を見に行った。春になるにはまだ間があるけれど、薔薇はもう花芽の準備をしようと、枝の中に水をためて、それがかすかに、ころころと音をたてていた。うさぎ竜は、鈴のような声で歌い、厳しい冬風を少しおとなしくさせて、薔薇のために、ひととき、温かい見えない歌の衣を着せてあげた。薔薇は、寒さに凍えていた枝先を少し揺らして、うさぎ竜に、聞こえない声で、ありがとう、と言い、微笑んでくれた。うさぎ竜もうれしかった。冬の間はそうやって、うさぎ竜は薔薇の世話をするのが常だった。薔薇は真実の花だから、決して嘘はつかない。薔薇の言うことは、みんなほんとうのことなのだ。だからうさぎ竜は薔薇が大好きだった。ほんとうのことほど、心にうれしいことはなかったから。

人間は今、どうしているだろうなあ? 薔薇の世話をしながら、うさぎ竜は時々思う。竜をやっつけるようになってから、人間は嘘をつくのがひどくなった。あっさりとばれるような嘘を平気でついて、それを本当にするために、あらゆる変な理屈を組み立てるようになって、その理屈で、本当に嘘の世界を作り始めた。もう人間と住まなくなってよほどたっているから、あれからどうなったのか、うさぎ竜は知らない。でも、あのまま、嘘ばっかりついて、嘘の理屈で町を作り続けているとしたら、今はどうなっているのだろう? それは大変なことになっているだろうなあ。だれかが、本当のことに気づいて、ちゃんと人間に、正しいことを教えてあげてくれていたら、いいんだけど。

春になった。風がやさしくなり、快い季節の歌を歌い始めた。森の木々も、若い緑の芽を吹き始め、薔薇も枝を伸ばして、小さなつぼみをつけ始めた。薔薇は喜びを歌いながら、こつこつと、花を咲かせる準備をしていた。うさぎ竜は、薔薇のために歌を歌った。薔薇が、身も心も美しくて、本当のことしか言えぬ清い魂であるということを、まごころのことばで歌った。すると薔薇は本当に喜んで、たとえようもない美しい真実のことばで、うさぎ竜に答えてくれるのだ。

かわいいうさぎ竜。臆病で、弱くて、やさしいうさぎ竜。知っているわ。あなたが竜なのに、うさぎなのは、決して誰もいじめることができないから。傷つくことより、傷つけることのほうが、怖いから。やさしくて、悲しい、うさぎ竜。ひとりでいることが、みんなのためだと思っている、うさぎ竜。あなたが好き。あなたが、あなただから、あなたが好き。

うさぎ竜は、それを聞くと、少し照れたような、困ったような顔をした。薔薇はやさしいけれど、本当のことしか言わない。本当のことを言われてしまうと、うさぎ竜もときどき、恥ずかしくなる。そして、ふと、思う。ひとりでいることは、あまりいいことじゃないかもしれない。友達の竜のように、姿を消して、少しは人間たちと、何か関わった方がいいのかもしれない。傷つくことも、傷つけることも、あるだろうな。自分は竜だから、吐こうと思えば火も吐ける。けれど、火傷をしたら、それは痛いだろう…。うさぎ竜は、ため息をつく。自分の吐いた火で、人間が火傷を負ったことを想像すると、それだけでもう、自分の手がひりひりするような気がするからだ。

やがて、薔薇は、薄紅の一重の花を、一斉に咲かせた。森に星空が舞い降りたような花野ができた。薄紅の薔薇は笑って、ころころと生きる喜びを歌ってくれた。太陽が降り注いで、薔薇の薄紅を一層輝かせてくれた。風が大喜びで踊った。うさぎ竜はうれしかった。季節の盛りは、まるで森と空と風がみんな集まってオーケストラを奏でているようだ。森の緑は華やかに輝き、枝々では小鳥や栗鼠が光の玉のように踊っていた。ところどころ木の根元にすみれやたんぽぽや名も知らぬ花々も咲いていた。うさぎ竜は、新しい花を見つけるたびに、声をかけて挨拶した。それはこんなふうに。

「やあ、美しい方。あなたはほんとうにきれいだ。お会いできてうれしい」

すると花は喜んだり、声をかけられたことにびっくりして、却って恥ずかしがったり、戸惑ったりするのだ。野の花は、ただ黙って密やかに咲きながら、静かに歌っているのが仕事だと思っていたから、わざわざ誰かが自分の元を訪れて、丁寧に挨拶などしてくれると、却って驚いてしまうらしい。でも、うさぎ竜の優しい心は、花にはすぐに見えるから、花はいつも、戸惑いつつも、ほんとうのことばでお礼を言ってくれ、ささやかなお返しをしてくれるのだ。それはかすかな歌で、真実の心が、珠玉の魚のように中で泳いでいる魔法の呪文のようなもので、それを聞くと、うさぎ竜の胸はとても幸せに温もってくるのだ。はあ、とうさぎ竜はため息をつく。本当に花はやさしいな。本当のことほど、美しくて、やさしいものはない。

夜になると、薔薇もそのほかの花たちも、少し休んで、花を閉じたり、香りを控えたりして、眠りにつく。うさぎ竜は山の上に立ち、星空を見上げる。昔の友達の中には、星の向こうに帰ってしまったものもいたっけ。彼らは今、どうしてるだろう? 人間のことなど、とっくに忘れて、ちがうところで、ちがうことをしているんだろうな。ぼくはどうして、星の世界に行かなかったんだろう。あそこなら、人間はいないし、傷つけることを恐れて、こうしてひとりで隠れてなんかいなくてもよかったろうに。

うさぎ竜は思う。ぼくは、本当は、今も、人間のことが、忘れられないのだ。できるなら、人間のために、よいことをしてあげたいのだ。しようと思えば、いくらでもできることを、なんでもしてあげたいのだ。でも、ぼくを見ると、人間は驚いて、やっつけてしまおうとするから、どうしてもできない。だから今も、こんなところでひとり、森や薔薇の世話をしながら、暮らしているのだ。いつか、人間が、竜の本当の心に気づくことができるようになったら、本当にそんな時がきたなら、きっとぼくは、彼らのために、なんでもすることだろう。たくさん、たくさん、愛の歌を歌ってあげることだろう。ぼくは、そのときを、待っているのかもしれない。人間が、ぼくの本当の心をわかってくれて、ぼくを探して、ぼくのところに来てくれるのを、待っているのかも知れない…。

季節はめぐった。薔薇は花を終わらせると、やがて、小さな赤い実をつけ始めた。うさぎ竜は喜んだ。なぜならこの薔薇の実は、本当においしかったから。うさぎ竜は秋になると、薔薇にお願いして、ほんの少し、自分の食べたい分だけ、実を分けてくれるよう頼むのだ。すると薔薇は喜んで、どうぞ好きなだけ持っていって、と言ってくれる。薔薇は、与えることが好きなのだ。自分の持っているものを、与えて喜んでもらえるのがうれしいのだ。実をちぎられるのは痛いけれど、喜びの方がもっと大きいのだ。だってそれは薔薇の本当の心だから。薔薇の本当の心を、うさぎ竜は心深く知っていて、それをとても喜んでくれるから。

「痛いのに、ごめんね」と言いながら、うさぎ竜は、おなかが少しいっぱいになったかな、という分だけ、薔薇の実を食べさせてもらう。薔薇の実は甘くて、少し酸っぱくて、胸にしみてくる。それは少し、悲しみに似ている。生きていると、幸せなことがいっぱいあるけれど、どこか、悲しみがあるね。それはどうしてだろう? うさぎ竜は、薔薇の実を味わいながら、誰に問うこともなく、つぶやいてみる。すると一息の風が、耳ざとくそれを聞きつけて、やさしげに笑いながらいうのだ。

「うさぎ竜、君はやさしすぎるよ。何でもかんでも、自分で背負ってはいけないよ」

するとうさぎ竜は、恥ずかしがって、白い耳を伏せ、しばし薔薇の茂みの中に、隠しようもない自分の大きなすがたを隠そうと、しゃがんでしまうのだ。薔薇は、自分のとげで、うさぎ竜をできるだけ傷つけないように、気をつけるのだけど、どうしても傷つけてしまう。うさぎ竜は少し傷みを感じると、すぐに薔薇の茂みから体を起こす。なぜなら、薔薇のとげで傷ついた自分よりも、傷つけてしまった薔薇の心の方が苦しくなってしまうのを、うさぎ竜は知っているから。

うさぎ竜は少し悲しくなって、薔薇に、実のお礼を言うと、自分の洞窟の中へ帰っていった。洞窟の中で、悲しみは、きのこのように膨らんできて、涙になってあふれてきた。さみしいんじゃない。ぼくが、ぼくであることは、間違ってはいない。ぼくは、待っていることしかできないのだ。長い時を、人間が、竜の愛を信じてくれるようになるまで、待っていることしかできないのだ。誰も傷つけられない。傷つくより、傷つけることの方が痛い。ぼくが外に飛び出すと、人間は困る。だって誰も、竜がいるなんて信じていないから。竜がいるなんてわかったら、人間は本当に困るだろう。

その夜は月夜だった。うさぎ竜は、山の上に登り、白い鳩のような翼を大きく広げ、空に飛び出した。そして、まるで月でボール遊びをするように、空を飛びまわった。その姿は、まるで白い絹のようなひとひらの雲が、月にまとわりついているようにも見えた。

そこから遠いところの海の上では、一艘の白い豪華客船が海の上を静かにすべっていた。一人の子供が、船の欄干に手をかけて、なんとはなしに月を見上げていた。そして、小さな白い鳥のようなものが、月の周りをぐるぐると回っているのを見つけて、あれ?と首をかしげた。夜に、あんなふうに月の周りを飛ぶ鳥などいるものかな? 図鑑にそんなことが書いてあったっけかなあ? 子供は、だれかを呼ぼうかとも思ったけれど、なんとなくひとりでいたくて、ずっとその、月の周りを飛ぶ白いものを見ていた。子供は、少々変わった子供で、本と、一匹の猫以外に友達がいなかった。だって、嘘をつかないのは、猫だけだったから。

子供は、その白い鳥を見ているうちに、なんとはなしに、胸の中で何か、温かなものが芽生え始めてきているのに気付いた。それは、心臓の中に温かいヒヨコがいるような感じの、幸せなぬくもりだった。子供は、気持ちが優しくなって、早く帰って、親戚に預けてある友達の猫に会いたいと思った。やさしくしてあげたいなあ。誰かに。でも、何となくわかるんだよ、ぼくには。この世界では、人にやさしくすると、それは、お金が欲しいって言う意味になるんだって。だから、本当の心で人にやさしくするのは、とても難しいんだね。友達の猫になら、いつだって、どんなにやさしくしたって、いいんだけど。

ほらね。こんな風に、竜がいると、とてもいいことになるんだ。子供は、うさぎ竜を見ただけで、幸せな本当のことに気付いた。このことは、うさぎ竜も知らない。子供は、うさぎ竜を見ただけで、大切なことがひとつ、わかったのだ。愛することは、ただ、愛するだけでいいんだってことに。

やさしくすることや、愛することが、とても難しい世界に、人間は今、住んでいる。誰も知らない小さな島に住んでいる、うさぎ竜は、そのことをあまり知らない。空を自由に飛べる風が、いろいろと教えてはくれるから、何となく、わかるような気はするんだけれど。

竜のくせに、うさぎのように臆病で、ひとり小さな島に閉じこもってすんでいる、うさぎ竜は、今も、知らない。時々、本当に、奇跡のように、自分の姿を見た人間が、それだけで何かに気づいて、自分の本当の心が開き始め、幸福の星がその心に灯るのだと言うことを。うさぎ竜はただそこにいるだけで、ただその姿を見るだけで、人の心に、真実の種をまくことができるのだということを。

子供は、寒くなってきて、月を見上げるのをやめて、客室に帰っていった。うさぎ竜も、月と遊ぶのをやめ、静かに自分の島へ戻っていった。薔薇が、少し寝ぼけた声で、お帰りなさいと言ってくれた。うさぎ竜はほほえんで、ただいまと答えると、自分の洞窟にもどり、静かに寝そべって、疲れた翼を休めた。

夢を見られるといいなあ、と思いながら、うさぎ竜は翼で身をつつみ、目を閉じた。夜の風が空の高い所で不思議な星の歌を歌った。

優しすぎて、臆病なうさぎの竜よ。君は眠っていていいよ。いつか、人間の方が、君をみつけるだろう。君の心が欲しくて、小さな薔薇の実を分けて欲しくて、やってくることだろう。

ああ、そんなときがきたら、どんなにいいだろうね。心なら、いくらでもわけてあげられる。ぼくは、どんなにかいいことができるだろうね…。

うさぎ竜はまどろみながら思った。そして、夢の中で、空に浮かぶ小さな白い船を見た。船の上から、自分に向かって、誰かが手を振っている。うさぎ竜を呼んでいる。うさぎ竜はそれにこたえようとするのだけど、声が出ない。

眠っているうさぎ竜の目に、小さな、薄青い星のような涙が点った。


(おわり)


 
 
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ジョヴァンニ・カルリの災難

2024-11-22 03:08:22 | 猫の話

さてわたし、マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニは、昼の町の裏道を静かに歩いています。季節は春を過ぎ青葉のすがすがしい風が吹き始める頃。空を見ると、白い雲に紛れて、白い半分のお月さまが見えます。

今日はベルナルディーノのお店がお休みなので、わたしも店番の仕事はなく、ぼんやりと眠っているだけでよかったのですが、なぜか今日はそんな気になれず、こうして町に出て、ぶらぶらとしています。フェリーチャ奥さんが、わたしの姿が見えないと、ほとんど気絶しそうな声でわたしの名を呼んで探しまわるので、そう長い時間の散歩というわけにはいきません。でもわたしにも、時には家を出て、気分を変えたいと思うことがあるもので。

ふ。このわたし、マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニともあろうものが、心がつかれている。ベルナルディーノは、フェリーチャの前では、ほとんどわたしを無視しているような態度をとりますが、フェリーチャがいなくなると、とたんに表情を変え、わたしに言うのです。
「このごくつぶし。おれが精出して稼いだ金を、無駄に食いやがって」

ああ。ため息が出ます。人間は何もわかってはいない。それをわたしは、十分に理解しているつもりですから、何を言われても、人間には反論しませんが、時に、やりきれなくなることは、あります。
自分の心を理解してもらえない。どんなに愛しても、心はかえってはこない。それでも別にかまわないと思ってはいますが、そういうことが積み重なったとき、どうしても生きることが苦しく、心が病気になってしまう恐れがある。それをわたしは深く学んでいます。ですから、心が病気になる前に、こうして散歩をして、心に、美しい自然の愛を取り込みます。そうすれば、幾分、萎えた心がよみがえってきます。

おや。わたしとしたことが。なんてことだろう。道端に見覚えのあるオリーブの木がある。やれやれ。思いもしなかった。わたしの足は正直だな。それほど、疲れているのか。

わたしの足は、町にある小さな教会に向かっていました。その教会は、ごく最近建てなおされたもので、見栄えは近代的で、装飾の類も少なく、少々そっけない感じがしますが、中に入ると見える、祭壇に掲げられた十字架のイエス…ジェス・クリストの木像は、かなり古い時代に作られたものらしく、教会を建てなおしたおりに修復されて、今も神のように人間たちにあがめたてまつられています。

猫としてわたしは言いますが、ジェス・クリストほど、美しい人間はいないと思いますね。猫が、どうしても勝てないと思う人間の男は今のところ彼だけです。実に。だれがあんなことをできるでしょう。あれだけの惨い目にあいながら、神の愛の中に溶けてゆき、すべてを許す。人間は彼について、いろいろと研究しているようですが、まだまだです。

一部の人は、彼は、人間たちの罪業を背負って、自分たちの代わりに死んでくれたなどと言いますが、はは、勘違いもいいところだ。あの苦しみ、あの痛み、あの寒さ、冷たさ、自由を奪われた魂の叫び、あれを、自分たちの罪を押し付けた結果だと言って、平気でいられるのですか。紙に自分の名を書いて、十字架に貼りつければ、彼が全部それを背負って自分たちの代わりに死んでくれると。それでいいと思っているのですか。人間たちよ。馬鹿もいいところだ。

さて、わたしは、町の小さな教会につき、裏口の方に回りました。そこには、猫専用の出入り口があることを知っているからです。わたしはその入り口をくぐり、教会の中に入っていきました。そして、祭壇の方に向かいました。ああ、やっぱり、いました。

木造の磔刑像の足もとには四角い小さな台があり、そこに高窓からさした日の光が陽だまりを作っていて、猫が一匹、その台の上に寝そべっています。ジョヴァンニ・カルリです。茶白ぶちのぼさぼさの毛並みをした彼は、この教会の飼い猫でした。世話をしているのは、エミリオ・コスタという名の若い牧師さんです。ジョヴァンニ・カルリは猫としても行儀よく、人間にとって不快なことは一切しないので、そう美しい毛並みでなくても、たいそう人間にかわいがられています。その、あまり美しくはない容貌が、返って人間の心をとらえるようだ。彼は、猫たちにも、相当人気があります。あの顔でね、この町の猫たちのリーダーをしている。クレリアやマルゲリータやダフネも、彼を見るときの目は、わたしを見るときの目と、違う。ふ。全く。ジョヴァンニ・カルリ。今この世界で、ただ一人、わたしに少々不快な思いをさせる男の猫。誰も彼にはかなわない。

わたしは、ジョヴァンニのそばにゆっくりと近づいていき、声をかけました。
「やあ、ジョヴァンニ。元気かい?」するとジョヴァンニはゆっくりと目を開けてわたしを見、言いました。「これは、マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ。いらっしゃい。何か用かい?」
わたしはそれには答えず、ひらりと飛び上がって、ジェス・クリストの足もとにある小さな台の上の、ジョヴァンニの隣に座りました。ジョヴァンニは、自然に身を横にずらして、わたしが寝そべる場所を作ってくれました。ほんとうに憎いやつ。こんなこと、だれにでもできそうで、できない。彼がいると、何もかもがうまくいくんです。ほんとうに小さなことだが、美しく、大切なことを、自然にやってくれる。こんなことを。わたしのために、自分の位置を少しずらして、場所を開けてくれる。それだけのこと。だけどそれが、なかなかできることではないのですよ。わたしも、彼のまねをしてやったことがありますがね、まったく、自分らしくないと思って、すぐにやめてしまいました。

猫は賢いですから、自分の場所が欲しい場合は、相手に、少しどいてくれと言えばいいのです。そうすれば、よほど馬鹿な猫でない限り、そっと場所を開けてくれます。それで別にかまわない。

「何かあったのかい。マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ。君がわざわざぼくのところにくるときは、たいてい、何かがあったときだ」ジョヴァンニは言います。わたしは、かすかに、左の青い目をゆがめます。そっぽを向いて、痛い言葉の一つも投げたいところだが、わたしは紳士なので、そういうことはやりません。ただ、答えます。
「特に何もないさ。話し相手が少し欲しくなっただけだ。君、ジョヴァンニ・カルリほど、わたしを飽きさせない、おもしろい話し相手はいないからね」
「それは光栄だね。マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ」

わたしは、しばし、教会の高窓から差す光の陽だまりに身を置いて、静かにジョヴァンニ・カルリの隣に香箱を組んで座っていました。季節の日が暖かい。時々光がちらちらと揺れるのは、教会のそばに生えている木がこずえを風に揺らせているからでしょう。背後では、十字架にはりつけられて死んだジェス・クリストが静かにわたしたちを見下ろしています。

「鳥の声が聞こえるだろう」ジョヴァンニ・カルリが突然、言いました。わたしは答えます。「ああ、腹がすいているときには、あれほど魅力的な声はないだろうね」するとジョヴァンニはおかしげに笑い、言うのです。「たしかにね。ぼくも狩りをしたことは何度もあるよ。狩りほど魅力的なものはない。ママが、ぼくに、はじめてネズミをとってきてくれた、子供の頃のことを思い出すな」「ママはやさしかったかい?」「もちろんさ。ぼくのママは、ぼくにそっくりの茶白ぶちだった。でもきれいな猫だったよ。近所の雄猫にもてもてだった。もうとっくに死んでしまったけれど」「わたしは、ママのことはほとんど覚えていない。生まれて間もなく、わたしは箱に入れて捨てられたんだ。フェリーチャが拾ってくれたんだけど、五匹いた兄弟の中で、生き残ったのはわたしだけだった」「ああ、知っているよ。ジェス・クリストの分け前だろう。君のすてきな口癖だ」「そうともさ」

猫の人生の苦しみは、ここにあります。ほんとに、人間は、邪魔になる猫は平気で捨てる、殺す。もちろん、かわいがって大事にしてくれる人もいますがね、生まれてくる猫たちは、たいてい、誰も知らないうちに、死んで、消えてゆく。生き残った者は、本当に幸運だ。いや、本当に幸運なのかな? 死んで、消えていった、わたしの兄弟の方が、幸せだったのかもしれない。

「ここにいて、鳥の声を聞いているとね。どんな苦しみも、光に溶けて、なくなっていくような気がするよ」ジョヴァンニが、そのかすかに緑色を帯びた黄色の瞳を閉じて、言いました。わたしは、ふん、と言いながらも、彼と同じように目を閉じて、鳥の声を聞きました。日差しが、やわらかく、わたしの毛皮を温めてくれる。小鳥の声は、鈴のように落ちてきて、何かで濁っていたわたしの心に、きれいな光を入れてくれる。

わたしたちはしばし、並んで日差しを浴びながら、小鳥の声を聞いていました。

ジョヴァンニはただ黙っています。わたしは、隣にあるジョヴァンニの気配を、重く感じました。どうして、気持ちが苦しくなる時、ジョヴァンニに会いたくなるのか。わたしは、深いため息をつきました。確かに、彼のそばにいると、安心する。茶白ぶちの冴えない男。わたしは、彼に、どうしてもかなわない。この美しいマウリツィオ・パスカーレ・チコリーニともあろうものが。

わたしは、小鳥の声に、右耳を澄ましました。左耳はもちろん、聞こえないからです。わたしは、小鳥の声の美しさを感じながらも、決してそれを受け入れはしない左耳の存在を大きく感じました。わたしは、何かに少し腹が立ってきて、それをジョヴァンニにぶつけてしまいました。

「君はいいね。わたしみたいに奇形的じゃない。わたしはみんなに珍しがられる美しい男だけど、君の方がずっと自由だ。両目とも同じ色だし、耳も健康だし。わたしのように苦しむことはない」
「そうだね。ぼくには君の苦しみを肩代わりすることはできない。それは君の勲章だ。いや、生きるために必要な、重荷だ」
「重荷ね」
「猫も人も、生きる者は誰もが重荷を背負っているものさ。君がよくいうじゃないか。ジェス・クリストの苦しみの、分け前。それがその、左耳」
「ああ、そのとおりさ。この耳のおかげで、どんなに苦しんだことか。品のないやつに、この弱点をつかれて、左の頬を噛まれたことがあった。どんなに美しい音楽も、わたしには半分しか聞こえない。大切な約束を教えてくれる人の言葉を、何度も聞き逃した。そして道に迷った。何度も何度も、迷った。この苦しみ、これだけは、君に負けない。これがわたしの、あの美しい男、ジェス・クリストの味わった苦しみの、千万分の一の、分け前。これでわたしは、ジェス・クリストの十字架のひとかけらを、背負っているのさ。それだからこそ、わたしは美しすぎるほど、美しいのだ。君には負けない。この左耳がある限り」

わたしは、思わず、言ってはならないことまで、ぺらぺらとしゃべってしまいました。そうです。わたしは、この冴えない茶白ぶちの男を、ライバル視しているのです。勝手にね、好敵手として、認めている。いや、もしかしたら、彼の方が、わたしよりもずっと上なのかもしれない。

ジョヴァンニ・カルリは、わたしの話を聞いて、少し困ったような顔をして、かすかに微笑み、黙りこみました。背後にいるジェス・クリストの気配が、まるで生きているように、わたしたちを見つめているような気がしました。

なぜこんなに、わたしは彼をライバル視するでしょう。わたしはマウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ。長毛白猫、金目銀目の美しすぎる男。甘い言葉で女性に幸福を与える。だれもわたしの真似はできない。女性たちは、おもしろげに笑いながらも、わたしのことを待っている。傷ついた女性ほど、わたしは深く愛します。そして心を抱きしめる。美しくも優しい言葉をかけてあげられる。それだけで、どれだけ女性たちの心がよみがえり、美しくなっていくか、わかりますか。わたしの使命は、女性に尽くすことなのです。美しきマウリツィオ・パスカーレ・チコリーニの使命は、女性を本当の美しい女性にすることです。

しかし、女性たちは、わたしよりもむしろ、ジョヴァンニの方が、好きなようだ。なぜだかわかりますか? 簡単なことです。そう、簡単なこと。簡単なことだけど、難しいことを、彼は、いかにも自然に、誰にも知られないように、そっとやってくれる。小さなこと、だけど大切なことを、黙ってやってくれる。簡単だが、誰にもできないことを。

あれはいつのことだったでしょう。昔、ジェルソミーナという老いた雌猫がいました。わたしはまだ三歳くらいのひよっこでしたが、もう十分に、女性を喜ばせる言葉には長けていました。ジェルソミーナは不幸な雌猫で、飼ってくれていた人間の家族が引っ越していったとき、捨てられて残され、野良猫に落ちてしまったのです。彼女はもうその時、十五歳くらいになっていましたから、かなりのおばあさんでした。たぶんそれが、人間に見捨てられた理由の一つでしょう。

ジェルソミーナはある日、二匹の子猫を生みました。それはジェルソミーナは喜びました。子供がいることほど、幸せなことはありませんでしたから。ジェルソミーナはたいそういいお母さんでした。子猫の世話をそれは細やかにしていました。なんとかして、食べ物を都合つけてきては、乳を飲ませ、食べ物を与え、子猫を育てていました。だが、野良猫にとって、この生きるものたちの世界は厳しすぎた。ジョヴァンニも、わたしも、彼女が見ていられず、何度か食べ物をわけてあげたりしました。けれども、とうとう彼女は、子猫を失ってしまった。子猫たちは、すぐに猫風邪にかかり、目がつぶれて、あっという間に死んでしまったのです。老いたジェルソミーナの受けた心の傷は深かった。愛おしい子供を、すべて、失って、彼女は半分狂ってしまいました。

わたしは、ジェルソミーナに近寄り、言いました。
「美しいママ、泣かないでおくれ。ぼくのかわいいママ、愛しているよ」
けれど、そのことばは、もうジェルソミーナの心には、届かなかったのです。ジェルソミーナは、もうものを食べなくなり、日に日に痩せ衰えていきました。何もかもを失って、絶望の中に、彼女の瞳の光が消えていくのを、わたしは、見ていることしか、できませんでした。

そんなある日のことでした。ジョヴァンニ・カルリが、ジェルソミーナのもとにやってきました。わたしは、近くの木陰に隠れて、見ていました。ジョヴァンニ・カルリは言いました。
「ママ、かわいいママ、ミルクをちょうだい」
そうすると、ジェルソミーナはふと、目に光を宿らせ、ジョヴァンニを振り返ったのです。そしてうれしそうに、ジェルソミーナは言ったのです。
「ああ、かわいい子、おいで、おいで、お乳をやろ。なんでもしてやろ。あっためてやろ。おいで、ぼうや、お乳をあげるから」
そういうとジェルソミーナは、そこに横たわり、おなかのお乳を見せました。そして、ジョヴァンニは、ジョヴァンニは、何も迷うことなく、その老いさらばえてしなび果てた乳首にすいつき、やさしく彼女のおなかをもみながら、お乳を吸ったのです。
そのときの、ジェルソミーナの幸福に満ちた顔を、忘れることが、できません。

だれが、できるのか、あんなことを。ジョヴァンニ・カルリ!!

おまえには、プライドなど、ないのか! なんてことをするんだ!!

愛おしい子が帰ってきたと思って、ジェルソミーナは本当に幸せそうでした。ジョヴァンニの毛皮をやさしくなめ、何度も、かわいい、かわいい、と言いました。ジョヴァンニはただ、赤ん坊のように、ジェルソミーナによりそい、やさしく、そのもう出なくなった乳を吸っていたのです。

ジェルソミーナが死んだのは、それから何日か経った後でした。ある、強い雨の降った日の翌日、町を流れる小さな川に浮かんでいる、ジェルソミーナを、猫仲間が見つけました。ジェルソミーナの体を川から引き上げることのできる猫などいません。人間も見向きもしません。ジェルソミーナの体は、川に流され、いつの間にか水に溶けて消えていきました。

猫の最期は、たいてい、こんなもの。大切にしてくれる人間はいますけれどね、いつもこうして、たくさんの猫が静かに世界に溶けてゆく。何度生まれても、何度生まれても、すぐに、風の消しゴムに命を消されてしまう。

わたしは、胸の奥から、詰まった小石を吐き出すような、痛いため息を吐きました。すると、少しの沈黙を挟んで、隣のジョヴァンニが言いました。

「猫の人生は、つらいことが多いが、お日様はいるよ。天にね」
ジョヴァンニめ。わたしは、胸の中で返します。憎いやつだと思いながらも、彼の声と言葉を聞いて、安らぎを感じている自分を、否定することはできません。
そう、わたしは、ジョヴァンニの、この声を聞きたかったのだ。彼はいつも言う。「お日様はいるよ。天にね」

「ああ、そうだね、ジョヴァンニ。お日様はいるよ。ソーレ。わたしたちの暖かい神さまは」わたしは、できるだけ胸を張り、彼に負けそうな自分を奮い立たせながら、言ったのでした。

「何があったのかは聞かないけれど、君のことだから、そろそろ立ち直っているだろう」ジョヴァンニはさらりと言います。ええそのとおり。もう立ち直っていますよ、わたしは。
「ジョヴァンニ・カルリ。君ほどの男を、わたしは見たことがないねえ。どうだ、君の背中のぶち模様ときたら、まるで薔薇のようだ。すてきだねえ。おしゃれだ。女の子はみんな君が好きさ」
それを聞くと、ジョヴァンニは少し困ったような顔をして、笑いながら、言いました。
「まいったね。君にはかなわないよ。マウリツィオ」
わたしは、胸に何か暖かいものが満ちてきたような気がして、ジョヴァンニに笑い返し、立ち上がりました。そして、ジェス・クリストの足元から降りると、そっとジョヴァンニを振り返り、別れの言葉を言いました。
「じゃあこれで、ジョヴァンニ。話ができてうれしかったな。また会おう」
「ああ、また会おう。マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ」
こうして、わたしはジョヴァンニと別れ、教会を出て、自分の家に帰っていったのです。ベルナルディーノの無礼な態度や仕打ちにも、もう許せるような気がしていました。

ジョヴァンニ・カルリ。ただひとり、わたしがライバルと認める男。数少ない、本物の男。わたしはあなたが、大好きだ。きっと、女の子よりもね。

さて、わたしが気分を取り戻して、フェリーチャの元に帰ってきたころ、ジョヴァンニは、そっと教会を出て、外の光を浴びていました。そしてそのまま、ゆっくりと散歩をしていると、途中で、シルバータビーのクレリアに出会いました。ジョヴァンニは、武骨な男ではありますが、自分を見るときの、クレリアの瞳が、いつもやさしく濡れているのには気付いています。クレリアはジョヴァンニに出会えたことが、とてもうれしいらしく、笑いながら、言いました。
「こんにちは、ジョヴァンニ。いいお天気ね」
「ああ、いい天気だ。お日様はいつも空にいらっしゃる」
「いつもの口癖ね。でもどうしたの。あなたがそれを言うときは、たいてい、ちょっと苦しいことがあったときだけど」
「君にはかなわないね。そう、ちょっとしたことがあってね。さっきまで、教会で、マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニと話をしていたんだ」
それを聞くとクレリアは、さもおもしろそうに笑って、言ったのでした。
「それはまあ、大変な災難ね!」
「まったくね」
ジョヴァンニも、笑って、言いました。

(おわり)

 
 
 
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マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニの証言

2024-11-21 03:05:18 | 猫の話

みなさん、こんにちは。わたしの名はマウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ。今年で八歳になります雄猫です。まずはわたしの毛並みについて説明させていただきましょう。猫にとって毛並みはとても大事なものですから。わたしは、ご先祖にペルシャの猫かシャムの猫がいるらしく、幾分被毛は長く、毛並みは全身雪のように真っ白です。瞳は右目が金色ですが、左目はアイスブルーのアクアマリンを思わせる青です。よくいうオッドアイ、または金目銀目というやつですが、このおかげで、わたしは生まれつき左耳が聞こえにくく、少々、難儀しております。

わたしの飼い主は、ベルナルディーノ・チコリーニという靴職人で、今の時代には珍しく、手作りの靴を並べて売っております。店の奥に工房があり、たくさんの木型や牛皮や釘などに囲まれながら、主人は色々な靴やサンダルを毎日作っております。
店先で靴を売っているのはフェリーチャという名の、彼の奥さん。わたしはと言いますと、店先の定位置である小さな椅子の上で、まるまって眠りながら、客の呼び込みなどしております。自慢ではありませんが、わたしは毛並みも雪のように白くつややかで、瞳の色が左右で違うため、たいそう珍しがられて、わたしをひとときでもなでたり抱き上げたりしたい客が、つい店の入り口をくぐってしまうなど、よくあります。そしてわたしをなでながら、客はフェリーチャと世間話をしつつ、いつしか、一足のサンダルなど買い求めてゆくのです。

まあこうして、わたしはご主人の商売に一役買っているわけではありますが、人は言いますね。猫はいいな、ただ座って寝てるだけで、なんにもしなくていいからと。そこにいるだけで、何となく、いいことになると。ふ。人間とはほんと、何にも知らない生き物です。それは、頭と手を器用に使って、いろいろなものを作りますし、おもしろいと思っていろいろなばかばかしいことをやっておりますが、さても、彼らは一体自分が何をしているのか、さっぱりわかっておりません。彼らは、わたしたち猫が助けてやらねば、大変なことになってしまうのです。もちろんわたしたち猫は、そんなことは一言も言いませんが。まあその、こうして、猫が人間の言葉をしゃべるなどとも、思ってもいませんでしょうから。

猫がしゃべれるのかって? 現に今しゃべってるじゃありませんか。これは、本当は猫族の秘密みたいなもので、といってもまあ、その秘密を漏らしてはいけないと言う決まりもないのですが、いろいろと困ったことにもなるので、猫はみんな、何となく、ずっとこのことを秘密にしてきたのです。でも、言いたいことを言おうと思えば、猫はいくらでも人間に言いたいことがありますね。実際、口に出かけたこともありますが、ぎりぎりで飲み込みました。人間ときたら、どうしてこんな簡単なことがわからないのかと、そういうことが、しょっちゅうあるものですから。

何を言いたいのかって? ふむ、それは良い機会ですから、よし、ひとつだけ、言いましょう。人間様、どうかお願いですから、朝っぱらから朝食にけちをつけないでくれますか。パンが焦げすぎだの、ジャムが足りないだの、チーズが腐ってるだの、卵の焼き加減がどうだの、フルーツが硬いだの。まったくね、気の利かないやつに説教するつもりで、偉そうに言わないで下さいよ。フルーツが硬いのなら、自分で柔らかいのを探してくればいいじゃないですか。ほんの小さなことをひっかけて、人を馬鹿な笑いものにして、悲しい目に合わせないでください。そばにいてくれる人を、傷つけないでください。

こんなとこですか? 何気ないことのような気がしますけどね、ここらへんが大事なんですよ。人間は、全然わかってないんだ。わたしはもう、深いため息が出ます。優しいことを言えば、なにもかもがうまくいくというのに。

やあ、そろそろ店じまいですね。フェリーチャ奥さんが、店のカーテンを閉めました。ベルナルディーノは今日、靴を二足作ったようです。お客さんの希望にこたえて、深いセピア色のきれいなパンプスを一足と、子どもの誕生日のお祝いのための、赤い小さな靴と。ベルナルディーノはなかなかに腕のいい職人のようで、靴はピカピカでとてもきれいな形をしています。人間の足に、よく似合いそうだ。わたしも店番の仕事を終えて、椅子の上から降り、体を伸ばすと、フェリーチャがくれる晩御飯を食べて、ほっと息をつきます。するとフェリーチャはわたしを抱きあげて、しばし頬ずりをします。

「マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ。わたしのきれいな白ネコちゃん」フェリーチャは甘い声でわたしにささやきます。実際、彼女はベルナルディーノよりわたしを愛しているようだ。まあ、わたしはたしかに美しい男ではありますから、当然のことかもしれませんね。ベルナルディーノには気の毒だが。彼も少しは、女性の心をとらえる方法を、勉強してほしいものです。

さてと、夕食も終わり、主人二人はシャワーを浴び終えて、寝床につく前に居間のソファに並んで座り、テレビのヴァラエティ・ショーを見ています。テレビの小窓の向こうでは、プルチネッラの格好をした道化が、ナポリなまりで少々卑猥な冗談を言っています。ベルナルディーノとフェリーチャは腹を抱えて笑っています。わたしと言えば、あまりそういうものには興味ないので、居間を出て、寝室の方に向かいます。寝室の窓は鍵が甘く、猫がちょっと力加減を工夫して取っ手につかまれば、簡単に開くのです。

わたしは開いた窓からするりと出て行き、店の二階から、屋根や樋を伝って、ひらりと道に降り立ちます。今宵は望月、ルーナ・ピエーナ、お美しいお月さま、あなたほどの女性は見たことがない。輝かしくも清く白い百合の色を、どうやって手に入れたのですか? 私は月の女神に言います。ふ。これくらい女性に言えなくては、男はできませんよ。男なら、女性には尽くさねばなりません。ここんとこ、よおく勉強してくださいね。わたしの態度が、あなた方の良い見本になると、よいのですが。

さて、こうしてわたしは、お月さまにちゃんとご挨拶をしてから、月に照らされて明るい道を、どんどん歩いていきます。望月の夜には、猫の大切な集会がありますから。道を歩いていると、小さな風がわたしの髭をなでて行く。聞こえない左の耳が、少し重く感じるのはこんなときです。右の耳は風の音を聞いてくれるのに、左の耳はあるのかさえわからないほど、何もしないのです。人間は、耳が聞こえないことなど、猫にはつらくないだろうと思っているでしょうが、そんなことはない。この生まれつきの苦しみが、わたしの胸を何度締め付けたことか、生きることを暗くしたことか、それはわたしと、神しか知らない。

「マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニ」誰かが呼ぶ声を、右の耳がとらえてくれました。振り向くと、白黒はちわれの、大きな雄猫が近づいてきます。わたしは彼に答えて言います。「やあ、ニコ・メローニ。久しぶりだね」
「一月ぶりだね。前の満月のときより、少し痩せたかい?」
「そうかな。だとしたら多分、理由はベルナルディーノだね。職人気質の頑固なことと言ったら、猫をてこずらせるんだ」
「君の飼い主はまだましなほうだ。ぼくの飼い主のダリオ・メローニときたら、もう半分死んでいるよ。不幸ばっかりの人生で、妻にも子どもにも逃げられて、残ったものと言ったら僕だけさ。猫は、人間を見捨てるわけにいかないからね」
「そりゃ大変だ。君がそばにいてあげなくちゃ、ダリオはきっと死んでしまうよ。あの爺さんは、大事なことが全くわかっていなかった。食事はちゃんともらえてるかい?」
「なんとかね。ダリオは今、隣町のコンビニ・ストアでバイトをしてるんだ。年寄りでも雇ってくれたらしいよ」
「コンビニ・ストアか。最近増えたねえ」
「この町にも三つあるそうだよ。人間が交代で、終夜営業している。便利にはなったけど、その分、人間は大変になったみたいだ」
「そろそろ、節度をわきまえろって、叫びたいね。人間に」
「全く同意するね」

わたしたちは話しながら並んで歩き、広場につきました。広場と言っても、人間がいっぱい歩いているあの町の真ん中の広場ではなく、空家と空家の間にできた、小さな空き地というところです。隅には大きな百合の木があって、白い月はその上にちょこんと載るようなかたちをして、わたしたちを見下ろしています。広場にはもう、三十匹ほどの猫がいました。中央では、茶白ブチの、ジョヴァンニ・カルリが、集まってきた皆に向かい、話をしていました。

わたしは猫たちの間をめぐり、シルバータビーの美女の隣に座りました。
「こんばんは。クレリア。いつも美しいね」
「あら、ありがとう、マウリツィオ。あなたの青い目、いつも素敵ね」
「うれしいね。でもやっかいものさ。この目のおかげで、わたしは運命の神の気難しさを知ったよ」
「片方の目が青い哲学者さん、楽しいお話は後でね。ジョヴァンニのお話を聞きましょ」
「ああ、もちろん」

わたしは前を向き、茶白ブチのジョヴァンニの声に、聞こえる方の耳を傾けました。

「…新しい件については、これで、ジュリアーノがやってくれることになった。ジュリアーノはまだ若いが、なんとかしてくれるだろう。だんだんと、苦しむ人間が増えている。影で助けてあげてくれ。本当に、今は、大変なことになっているから、猫も大変だ。君たちが頼りだから、ぜひお願いする。担当する件について、疑問のある猫はいるかね?」
ジョヴァンニが言うと、猫たちの中から、一匹の雌の黒猫が声をあげました。
「はあい、あたし、マルゲリータ・ルーティ。担当しているのは、エヴァンジェリナっていう女の子なの。毎日、七百個も小さな造花を作らなくちゃならないのだけど。簡単な仕事なのに、もういやだって言って、やめたがっているのよ。でもやってもらわなくちゃ、また困る人間が増えるわ。どうしたらいいと思う?」
「そうだねえ、どうしたらいいと思う、みんな?」
ジョヴァンニが猫たちに尋ねました。すると、きれいなソマリの雌猫が声をあげました。
「はい、わたし、ダフネ・アニャーニ。それはもう、わたしたちが半分以上やるしかないと思うわ。そうしたら、エヴァンジェリナは楽になるでしょ。マルゲリータは大変だけど。猫のわたしたちなら、それくらいなんとかできるわよね」
「ええ、そうね。できるわ。ありがとう、ダフネ」
「どういたしまして。猫はみんな大変だから、助けがいるときは言ってね」

このようにして、満月の夜の猫の会議は終わりました。そして、皆それぞれ、自分の担当する人間の所に行って仕事をするようにと、ジョヴァンニ・カルリが言いました。

わたしはニコとクレリアに別れの挨拶をし、自分の担当する人間の元に急ぎました。今夜は、会議があった分、少し遅くなってしまった。きっと、わたしのフランチェスコ・トッティは、とてもつらい思いをしているだろう。早く行って、助けてあげなくては。

フランチェスコ・トッティは、小さな部品工場を一人で切りまわしている、工場長です。彼は毎日、一万個の小さなネジを作らねばなりません。一人の力で一万個のネジを作るのは、熟練のフランチェスコにも、とても辛いことでした。けれども、フランチェスコがネジを作らねば、子どもたちがみんな欲しがる、キラキラきれいで楽しいゲーム機が、作れないのです。だからどうしても今日中に、一万個のネジを作らねばなりません。わたしがフランチェスコの工場に行った時、フランチェスコはまだネジを六千個しか作れていませんでした。わたしは内心、まずいなと思いました。フランチェスコはネジを作る機械を操りながら、もう死んでしまいそうなほど、疲れきっています。これ以上、人間を働かせるのは無理です。

秘密をもう一つ、教えましょう。猫には、魔法が使えます。人間の背中から、自分の魂を人間の中に滑り込ませて、その人間の代わりに、その人間のやることをやることが、できるのです。わかりますか? 言い換えると、少しの間だけ、人間の体をわたしたちがのっとって、彼らの代わりに、彼らの仕事をするのです。その間、人間の魂は眠っています。ほら、時々、人間は何かをしながら、夢中になってやっているうちに、自分がわからなくなって、ふと気付いた時には、いつの間にか仕事がたくさんできているってこと、あるでしょう。それはね、人間が、意識を失っている間、猫が代わりにやっているからなんですよ。

こうして、わたしは今夜、フランチェスコの代わりに、フランチェスコになって機械を操り、ネジをたくさん、作りました。フランチェスコの心は、わたしの後ろで、眠っていました。疲れきって、心もしびれて、死にそうになっていましたが、少し休んでいるうちに、力も戻ってきたのか、やがてふと、彼は目を覚ましました。フランチェスコは、はっとしました。時計を見て、びっくりしています。もう少しで、朝になる。機械の方を見ると、いつの間にか、メーターのネジの数が一万個を越えていました。フランチェスコは、大喜びしました。

「やった。今日も何とか、遅れずにすんだ!」

猫に戻ったわたしは、そんなフランチェスコの様子を見つつ、少しほっとして、そこからそっと姿を消し、ベルナルディーノとフェリーチャの待つ家へと向かいました。

途中、クレリアに会いました。ルーナ・ピエーナはずいぶんと西に傾いて、そろそろお日様、ソーレの気配が、東の空にかすかに漂い始めていました。
「左目の青い白ネコさん、今日もご苦労だったわね」
「そういう君こそ、クレリア。君の担当するシルヴァーナは、今夜ハンカチに薔薇の模様を何枚刺繍したんだい?」
「二千枚というところかしら。だんだん増えてくるわ。途中で刺繍の機械の調子が悪くなって、五十枚も失敗してたの。でも、わたしがなんとか帳尻をつけて、明日の分も少しやってあげたわ」
クレリアは器量よしでやさしい雌猫です。シルヴァーナをとても愛していて、いつもおまけをつけてあげるのです。かわいいシルヴァーナは、刺繍工場で夜番を働く少女。怖い工場長にこき使われて、毎夜ハンカチに薔薇模様の刺繍をさせられているのでした。

「ハンカチに、薔薇の模様があると、うれしいね」わたしはクレリアと並んで歩きながら、言いました。するとクレリアは、少し悲しげに、言うのです。
「人間は、心が寒いのよ。だから少しでも、何か暖まるものが欲しいんだわ」

途中、わたしたちは、小さなコンビニ・ストアの前を通りました。わたしはニコの飼い主のダリオのことを思い出しながら、言いました。
「こんな風に暮らしを便利にするために、たくさんの人が、苦しんでいるんだね」
「ええ、そう。人間は、文明を、進め過ぎたのよ。暮らしが便利になるのが、悪いとは言わないけれど、それにも、程度というものがあるわ。文明が進み過ぎて、そのしわよせが、一部の弱い人の肩に、重くかかっている」
「このコンビニ・ストアに商品を運んでくるために、トラックは危険なスピードで道を走ってくる。ドライバーは死にそうなほどつらい。でもやらなくては、文明が、うまくゆかなくなる。今の文明は、人間にとっては、少し進み過ぎているんだ。だからこうして、ぼくたち猫が、人間にできないことを補っている。人間には秘密でね」
「猫がやってあげないと、人間にはやりこなせないわ、今の文明は。それにしても、なぜ、人間は、こんなに文明を進めたがるのかしら?」
クレリアは、沈んでいく月を見ながら、ため息交じりに言いました。わたし、哲学者マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニは、彼女の美しい横顔の瞳を見詰めつつ、答えます。

「…それはね、人間が、不幸だからさ」

するとクレリアは、きれいな目を瞼の中にしまい、少しうつむいて、微笑みました。

「幸せって、もっと簡単なもので、いいのにね」クレリアはぽつりと言いました。わたしはクレリアにやさしく、言いました。
「銀河に染まってきたような、シルバータビーの星の君、わたしは君のことが、大好きだな」
するとクレリアは、目をまるまると見開いてわたしを振り向き、本当に素敵な笑顔で笑いました。
「あら、マウリツィオ、すてきな青い左目のお馬鹿さん、お世辞を言ったって、何もしてあげないわよ」
クレリアはそういうと、笑いながら、コンビニ・ストアの向こうの角に、走って行ってしまいました。

クレリアがいなくなると、わたしは西の空のルーナ・ピエーナに挨拶をしました。
「美しき白百合の君、あなたに会えて、あなたをたたえることができる幸せを、本当にありがとう」

わたし、マウリツィオ・パスカーレ・チコリーニの、大事な仕事は、こうして今日も無事に終わったのです。明日もきっと、わたしはフランチェスコのところにいき、一緒にネジを作ってくるでしょう。

わかりましたか? 人間のみなさん。何もかも、自分たちが全部やっているのだと思ったら、大間違いですよ。あなたたちはこうして、猫に、だいぶ、助けられているのです。少しは、わかりましたか? 

節度というものを、守りましょう。やりすぎにも、ほどがありますよ。ほんと、言いたいのはこの一言に限りますね。

それではみなさん、そろそろわたしの家が見えて来ました。フェリーチャは今頃、夢でわたしと遊んでいることだろうな。昼間はずっと、寝てばかりいて、夜にはこうして、密かに人間のために働いている。

猫はずいぶんと前から、こんなことを、やってますよ。


 
 
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