講戒と受戒とは、その儀、別なり。これを詳らかにする者、少かなり。何に況んや大僧菩薩の戒相、これを明かにする者、多からず。
今、撰する所は、講戒の流なり。
しかも菩薩戒の儀式、これを伝授する者、稀なり。今、聊か略作法を存して、受授の儀を示す。諸の阿笈摩教、及び諸の教家に云うところと同じからず。若し、この儀によって受授すべくんば、得戒すべし。
唐土・我朝、先代の人師、戒を釈するの時、詳しく菩薩の戒体を論ずるは、甚だ以て非なり。体を論ずる、その要、如何。如来世尊、唯だ戒の徳を説き、得るや否やなる、体の有無を論ぜず。但だ、師資のみ相い摸して、即ち得戒するのみ。
道元禅師『出家略作法』奥書、原漢文、訓読・段落は拙僧
このようにある。つまり、道元禅師は「講戒」と「受戒」とは違うと仰っているのだが、ご自身は本書上記箇所以外で「講戒」という用語そのものは用いておられないため、その具体的内容が分からないのである。それで、「講戒」に因んで、『大正蔵』巻85・疑似部に収録されている『小法滅尽経』には、面白い記述があった。
或いは縣官を避けて吾道に依猗して沙門と作ることを求むるは、戒律を修さず、月半月に卦を尽くして講戒と名づく。厭惓懈怠にして聴聞を欲せず、前後を抄略して尽説を肯んぜず。
訓読は拙僧
このようにある。つまり、世間に於ける仕事(この場合は官吏)になることが嫌で、仏道に来た者は戒律を修行しようとせず、半月ごとに卦を占うことで、講戒の儀式にしていたということになるのだろうか。ただ、本来必要な『梵網経』の読誦などを、めんどくさがってしていなかったとはあるので、仏道修行とは関係ないことをしていたとしても、不思議では無い。
それで、「講戒」なのだが、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師の見解があるので、それを見ていきたい。
問、講戒の流とはいかなる道理ぞや。
答、これは沙弥に授戒せしむる前に、菩薩戒の訣を説き聞かしむるはずを、直に十重の文を読み聞せて、説戒受戒一度に成ずるなり。これを講戒の流と謂ふ。これゆへに、祖師は梵網の長文を、直に得度式に載られたり。この講戒の流は、本が建仁栄西祖師の行はれし作法ゆへに、永祖はそれを伝へて用ひらる。建仁の式は、世間の禅林の知るが如し。
『得度或問』第4問答、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・194頁上段、カナをかなにするなど表現を改める
このようにあって、面山禅師は「講戒の流」について、沙弥に授戒する前に「菩薩戒の訣」を説くところを、「十重禁戒」の本文(『梵網経』下巻)を読み聞かせ、説戒と受戒とを一度に成就するという。なお、この「講戒の流」については、本来は建仁寺を開いた栄西禅師の作ったものだといい、それは天下の禅林がよく知っているともいう。
それで、「講戒」については、瑩山禅師が『瑩山清規』『洞谷記』にそれぞれの用語を書いていて、まず『洞谷記』からすれば、「祖師忌(先師忌等含む)」において、「講戒」を行う可能性があることを示し、「講戒略式」という場面までもが描かれている。大乗寺流布本系統の内容からすると、釈尊の法号を唱え、洒水し、懺悔、三聚浄戒・十善戒・回向(ここまでが講戒か)、講経(南無妙法蓮華経[三編])という流れとなっている。それから、禅林寺本『瑩山清規』では「臨時設斎(または設粥等)」に於いて、講戒や諷経を行うことを指示している。
その意味では、瑩山禅師の頃には、当たり前のように「講戒」を行っていたといえる。瑩山禅師は栄西禅師のことについても重大な配慮をされており、それは特に清規面で顕著(正確にいえば、栄西禅師から影響を受けた道元禅師の影響を伝えているともいえる)だから、先ほどの面山禅師が指摘したことについて、事実建仁寺からの伝来としての「講戒」であったのかもしれない。
なお、栄西禅師のことについては、もう少し資料を整えて探ってみたいと思うし、面山禅師の見解などを受けてであろうが、当時面山禅師と議論をしていた逆水洞流禅師にも「講戒」に関する説示があるので、それらはまた別の機会に取り上げてみたい。
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