○我国にては斉明天皇三年〈我紀元一千百九十八年〉七月十五日須弥山の形を飛鳥寺の西に作り且つ盂蘭盆会を設けたるよし続日本紀に見えたるを始となすべし、其後聖武天皇の天平五年〈紀元一千三百九十三年〉七月盂蘭盆供を宮中に置き立て常式となし且つ天下一般に令して七月十五日の盂蘭盆供と行なはしめられたり
大内青巒居士『釈門事物紀原』鴻盟社・1883年、下巻18丁表
このように、だいたい日本に於ける盂蘭盆会の紀元などを見る時には、『日本書紀』と『続日本紀』を見るようになっていて、しかも、斉明天皇の時の飛鳥寺が最初で、その後で聖武天皇が更に広めた、というのは定式である。
三年秋七月丁亥朔〈中略〉辛丑、須弥山の像を飛鳥寺の西に作りて、且つ盂蘭瓮会を設く、暮に覩貨邏人を饗す。
『日本書紀』巻28・斉明天皇章
まず、これは先に青巒居士が示したように、斉明天皇3年(657)に起きた一事で、その年の秋・7月の出来事なのだが、同月は「丁亥」が朔(1日)であるので、普通に十二支で数えれば、12番目の「亥」から始まって、一周して更に2日目であるから、辛丑は「15日」に当たるわけである。そのため、7月15日の行事、盂蘭盆会に該当することが分かるわけである。なお、覩貨邏人とは、「トカラ人」と呼ぶようだが、玄奘三蔵の『大唐西域記』にも見える、現在の中央アジアに存在した国を指すようである。
それから、聖武天皇の話については、『続日本紀』に見えることである。
〈天平五年〉○秋七月乙丑朔、日、之れ蝕せること有り。○庚午、始めて大膳職をして盂蘭盆の供養を備へしむ。
『続日本紀』第11
こちらも、7月の行事であるが、乙丑から1日で始まり、庚午の6日に大膳職に命じて、盂蘭盆供養の準備をさせた、という意味であろう。つまり、この辺を典拠にしつつ、日本国内でも盂蘭盆会が一般化したという風に見ているのである。特に、青巒居士が指摘するように、宮中に盂蘭盆会が導入され、常式にしたのである。
青巒居士は、天下一般に令してとはしているが、それをここから読み込んで良いのかどうか迷っているのだが、「大膳職」がそのカギになるのかな?と思いきや、これも外れ。理由は、この役職は、宮中で「膳羞」を調進する役目(和田英松『新訂官職要解』講談社学術文庫、113頁参照)とあるので、全国に法要が広まった理由にはならない。むしろ、盂蘭盆会は施食会と習合しがちであるから、食事を調える役目だったということくらいしか分からない。
ということで、以前も一度は採り上げた青巒居士の記事であるが、更に読み込んでみたのであった。
この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈仏教〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
コメント一覧
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事