一 法躰は十徳、これ礼服なれば真なり、ひら羽織は行、草を兼るなり、尤も、十徳、羽織の紐を解くもの、ままあれども、解くに及ばず、何かの取扱、邪魔ならぬよう結びたるがよし
岩波文庫本、20頁
上記一節は、「十徳」という服についての取り扱いを述べている。しかし、現状、「十徳」という名称の服を用いている宗派などはあるのだろうか?覚えていることとしては、「十徳」というと、江戸時代初期の盤珪永琢禅師(1622~93)の語録に、或る逸話が載っている。
身どもが年三十のとき、師匠のいはれまするは、この間長崎へ南院山道者超元禅師といふ唐僧が渡らせたといふ程に、其方も行きてあふたらばよからうとおしやりましたによつて、長崎へ行く支度をいたしましたらば、また師匠のおもしやるは、其方も今までは十徳ですんだれども、今は唐僧にも相見にゆけば、十徳ではすむまいか、法のためでもある程に、本のころもを著て、長崎へ行きて道者禅師にまみえよといはれましたに付いて、始めて本のころもを着まして、道者禅師に見えまして……
『正眼国師法語』
以上の一節から、「本のころも」という言い方と対照的であるので、いわゆる「十徳」は、略衣の1つであったことが分かる。しかし、盤珪禅師は普段は「十徳」を着けていて、道者禅師と会う時まで「本のころも」を着けたことが無かったというくらいだから、当時の僧侶の服装は、推して知るべきというか、上記の記述はまだ、沙弥だったのだろうか?盤珪禅師の年譜とかを見れば分かるのかな?
さておき、『茶湯一会集』には、以下の記述もある。
一 出家は衣に五丈、七丈袈裟、勿論の事にて、俗躰麻上下に対すべし、行、草の服とて、出家にはきっと差別も有るまじく、小五丈などは、行、草に応ずべきなり、兎角如法の袈裟、衣を着し、なお、宗旨に兼て略衣の定めあるならば、行、草に対し着用苦しからざるなり
岩波文庫本、21頁
そういえば、先ほども出たが、「行」と「草」について、良く分かっていないので確認しておくが、どうも、「真・行・草」という言い方をしている(岩波文庫本、20頁)ようなのだが、特に註記も無いので、他で調べてみたが、以下のページがあった。
・道具の真行草(表千家)
要するに、その茶席の正式さ、或いは崩し方で分けた様子が「真・行・草」となっている。そして、『茶湯一会集』では、僧侶の「真」の服装としては、衣(法衣、直裰)に五条・七条袈裟が設定されていることは間違いないが、小五条(曹洞宗なら、絡子に相当)ならば、「行・草」でも良いという。
ところで、井伊直弼といえば、彦根藩内の清凉寺に住持していた曹洞宗の仏洲仙英禅師(1794~1864)を参禅の師としているはずだが、仏洲禅師の威儀については、本人の語録を見ても良く分からない。よって、この探究はまずここまでとしておきたい。
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