つらつら日暮らし

出家の志とは何か?

最近でも、様々に仏教を学ぼうとする志を抱く方がいることをありがたく思うが、例えば「自未得度先度他」の志を発すことが大事だとされる。

そして、ただ自分1人のみの救済を願うことは、よろしくない。それに、自分自身を救うのは、ただ、自分の考え方を翻すだけで済むが、他者をどのように救済に導くかという方が難しい。これは、この救済のために、様々な「誓願」や、それを補強する「回向」という概念などが整備されていることからも明らかである。

「誓願」は、端的に願い事という意味ですが、それが出来なければ、自分は一生この苦しい現実に留まり続けるという、とても悲壮な決意を意味している。一方で回向は、善業を積み、それが積まれて自分自身の救済に使うことも出来るのに、その力を他人のために使うことを意味している。

ところで、江戸時代初期に活躍した鈴木正三が、弟子達を前に出家の志とはどうあるべきかを指導したことがあったので、今日はそれを見ていきたい。

 夜話の次で去る人、今時の出家には道心なしと云ふ。
 師、聞て曰く、道心無き事は置て、先づ家を出たる者一人もなし。其故は今寺を追出したらば皆迷惑すべし。
 亦、彼人云、今時の出家は仏事供養にも、施物少ければ悪く云ふ也。
 師曰く、それは当分使ふ事も有れば、貪るもまた道理あり、寺と云ふ物は、持つ程苦也。然れども好みて離れず、未だ持ざる者は是れを羨む。然るに志は宝也、志さへ少し付けば世間がいやに成るに仍て、望みも休み、寺をも捨つる也。如是なり共修行者とは云はれず、され共是れ程の人も無し、況んや人喰犬のやうに急度咬みしめて居る気質を修し出す人無し。扨も是非なき事也。
    『驢鞍橋』上巻30


かつて、伝教大師最澄が『山家学生式』にて「国宝とは道心である」といったが、まさに道心とは志である。鈴木正三という人は、元は武士であったから、この辺の考え方が非常に厳しい。よって、当時の僧侶について様々な苦言を呈している。まず、本気で家を出るような者がおらず、気合いも無くて、ただのんびりとお寺に居るような者の場合、お寺から追い出したら、どこに行っても役に立たないといっている。

それから、気になったのは、この正三に対して意見を言っている者の言葉「今時の出家者は、仏事供養でも施物が少なければ、施主を悪くいいます」というその内容、なんだか現在でもこのような苦言を呈する方がいる。ネット上でよく見かける。しかしそれに対して、正三の言葉はちょっと変わっている。まず、当座に欲しいのであれば貪るのも道理だというのは、ただ一概に坊さんは清貧であるべきだという「観念」だけを振り回し、施物を少なく済ませようとする施主が多かったことを伺わせる。

また、寺の話は言いたいことが分かる。お寺は、確かにあればあったで、色々と有効なこともあるが、さりとて「出家者」という観点からすると、煩わしいような側面があるのも事実である。かつて、澤木興道老師が「宿無し」と称されたのも、正三の指摘を思うと納得出来る。お寺を持たないような僧侶からは、羨ましい側面もあるが、中々難しい。

最後の部分に示された正三の「道心観」は面白い。ただ世捨て人のように世俗から離れていくことは、修行者であると認めていない。そして、もっとも良いのは、人に咬みつく犬のように大いに迫力を出して修行するのが理想的だという。さすがに仁王禅を提唱した正三らしい。

まぁ、拙僧的にはもっと自然とした様子で修行を進めるなり、学びを進めていければと思っており、決して咬みついたりはしないので、どうぞご安心を・・・

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