では、まさに自らの修行という点では、もっとも厳しいのではないか?と思われている道元禅師はどのような誓願をお持ちになられたのか?まず知られているのは『正法眼蔵随聞記』に出る以下のような言葉である。
一日示云、我在宋の時、禅院にして古人の語録を見時、ある西川の僧の道者にて有しが、我に問て云、「なにの用ぞ」。
云、「郷里に帰て人を化せん」。
僧云、「なにの用ぞ」。
云、「利生のためなり」。
僧云、「畢竟じて何の用ぞ」。
予、後に此理を案ずるに、語録公案等を見て、古人の行履をも知り、あるいは迷者のために説き聞かしめん、皆是、自行化他のために無用なり。只管打坐して大事を明め、心理を明めなば、後には一字を不知とも、他に開示せんに、用ひ不可尽。故に彼の僧、畢竟じて何用ぞとは云ひけると、是真実の道理なりと思て、其後語録等を見る事をとどめて、一向に打坐して大事を明め得たり。
『正法眼蔵随聞記』巻3
道元禅師は中国で修行中に、お寺で語録を読んでおられた時、その理由を「郷里の人を教化すること」「衆生に利益すること」を挙げておられた。おそらくはこれが、道元禅師の原初的な誓願だったのだろうと思われる。そして、これは後に『弁道話』にて「すなはち弘法救生をおもひとせり、なほ重擔をかたにおけるがごとし」のように示されるに到った。
道元禅師は、只管打坐の行を徹底してまさに坐禅こそが大悟底に他ならないと確信されるが、それを回向してやはり日本に来ても、「法を弘め衆生を救うこと」を誓願とされた。しかし、この時はまだご自身のお寺も無い一方で、坐禅を自行化他として行いたい道元禅師は、坐禅修行を行う僧堂を建立されようとする。
ただ草庵樹下にても、法門の一句をも思量し、一時坐禅をも行ぜんこそ、実の仏法興隆にてあれ。今僧堂を立んとて勧進をもし、随分に労する事は、必しも仏法興隆とは思はず。ただ当時学道する人も無く、徒に日月を送る間、ただあらんよりもと思て、迷徒の結縁ともなれかし、また当時学道の輩の坐禅の道場のためなり。
『正法眼蔵随聞記』巻3
道元禅師は、とにかく坐禅をすることが仏法興隆だとされるが、しかし、勧進して僧堂を立てることは、とにかく多くの迷える衆生に仏法への結縁を願っていることを示される。そして、後に永平寺に僧堂を立てていることについて、以下のようなことも述べられた。
測り知りぬ、坐禅は是、悟来の儀なり。悟は只管に坐禅するのみ。当山始めより僧堂有り、是、日本国、始めてこれを聞き、始めてこれを見、始めてこれに入り、始めてこれに坐す。学仏道人の幸運なり。
『永平広録』巻4-319上堂、傍線拙僧
この、傍線部分については、先の『随聞記』で示した「必ずしも仏法興隆とは思わず」という意識から、「学仏道人の幸運なり」にまで変化したことを考えると、やはり道元禅師は坐禅によって仏法を弘めるということに極めて高い意識をお持ちだったということになる。
一方で、永平寺に於いて道元禅師が強く持たれた誓願を紹介したい。
上堂、
我が本師釈迦牟尼仏大和尚、先世に瓦師作りしとき、名づけて大光明と曰う。爾の時、仏有り、釈迦牟尼仏と名づく。彼の仏世尊、寿命名号、国土弟子、正法像法、今仏に一如なり。彼の仏と弟子と、倶に瓦師舎に至って宿す。瓦師、草座・燃燈・石蜜漿を以て仏及び比丘に施して誓願を発す。当来、五濁の世に仏と作る、仏及び弟子、寿命名号、国土身量、正法像法、一切皆、今釈迦牟尼仏の如にして、不異、と。
其の昔の願の如く、今日、作仏、国土弟子、正法像法、寿命名号、一切皆、古釈迦牟尼仏の如し。
日本国越宇、開闢永平寺沙門道元も亦、誓願を発す。当来、五濁の世、作仏、仏及び弟子、国土名号、正法像法、身量寿命、今日の本師釈迦牟尼仏に一如にして不異、と。
唯、願わくは、仏法僧三宝、天衆地衆、雲衆水衆、拄杖払子、此の願を証明せんことを。然も是の如くなりと雖も、今釈迦牟尼仏、親曾、古釈迦牟尼仏国に在って、仏及び弟子、自舎に来宿せしとき、一に与に、草座石蜜を供養して発誓願す。今已に其の願を成就す。
而今、道元も亦、今釈迦牟尼仏、及び仏弟子に見え、亦、仏説法を聞くや、也、無や。
釈迦牟尼仏の言く、「〈法華涌出品文〉始見我身、聞我所説、即皆信受、入如来慧」と。既に是の如く仏の所説を聞くことを得るに、即ち仏身を見るなり。始見仏身して、也、自能信受し、入如来慧なり。況んや耳に仏身を見、眼に仏説を聞き、乃至、六処、亦復、是の如きは、仏家に入って住し、仏所に入って誓願を発し、昔願に一如して異なることなからん、と。
『永平広録』巻2-182上堂
時期的には、寛元4年(1246)の6月下旬から7月上旬に掛けて行われた上堂と推定される。この直前の6月15日には自ら開闢された寺院の名前を、それまでの「大仏寺」から「永平寺」へと変更された(詳細は、【大仏寺―つらつら日暮らしWiki】参照のこと)。道元禅師はこの上堂で、自ら過去の時代に於いて釈尊が未来の成道を願って供養したように、自分も同じように供養し、後の世に出世しようとする誓願を発された。なお、これについては以下の一節も参照されるべきであろう。
そのとき売身の菩薩は、今釈迦牟尼仏の往因なり。他経を会通すれば、初阿僧祇劫の最初、古釈迦牟尼仏を供養したてまつりましますときなり。かのときは、瓦師なり、その名を大光明と称す。古釈迦牟尼仏ならびに諸弟子に供養するに、三種の供養をもてす、いはゆる、草座・石蜜漿・燃燈なり。そのときの発願にいはく、国土・名号・寿命・弟子、一如今釈迦牟尼仏。
かのときの発願、すでに今日、成就するものなり。
『正法眼蔵』「供養諸仏」巻
こちらの一節は、先ほどの上堂と同じ典拠から導かれた誓願である。それで、先ほどの上堂も「供養諸仏」巻の一節でも、ともに参照されているのは『大智度論』巻3「共摩訶比丘僧釈論第六」となっている。それで、実はこの誓願には、或る重大な問題が含まれる。この辺は、かつての宗学者の先生方も論じておられたが、道元禅師は『弁道話』で「一生参学の大事ここにをはりぬ」と言って、あたかも全ての悟りを得られたように仰っておられたが、この誓願は更に成仏を目指すような内容である。
その辺をどう会通させるかなのだが、先の誓願を読み解いてみたい。
道元禅師は先の誓願で、「仏の家」に入ったのみでは成仏とは見なさない。あくまでも、今の釈尊が成道したように、未来に成道することを求めておられる。しかも、この誓願の証明は、「仏法僧三宝、天衆地衆、雲衆水衆、拄杖払子、此の願を証明せんことを」と期待されている。これらの存在が誓願の事実を証明するのであれば、対象といいつつもこれらの一切の存在は、発願した主体にとってはただの対象ではなくて、「手段であると同時に目的」とならねばならない。そもそもこれらの他者の存在との関係性があることを前提に発願が成立し、また、自らが形成されていくことからすれば、この相手に対しては倫理的にならねばならない。倫理的にあることは、関係性が継続するように相対することであり、結果として道元禅師が『重雲堂式』にて示された「のちをあはれみて、いまをおもくすべし」という言葉に結実することになる。
また、別の機会に「現在成仏-未来成仏」は議論するが、誓願一般について考えると、「誓願の対象」と称してただの自己満足に陥り、相手と見れば自らの教えと同化するべき存在としか見えないような宗教観を提示する場合もあるが、それは相手を自らの正しさや強さを証明する手段にしかなっていないことを意味する。しかし、そうであってはならず、そもそも固有の教義は、正しさを得る必要はない。むしろ、正しさとは常に救済されているかどうか、安心となっているかどうかという事実だけでのみ判断されるべきであり、「かつて正しかった」や、「後に正しくなるであろう」という強弁を主張してはならない。「後に正しくなるであろう」という未来への架橋は「誓願」として行われるべきであり、「かつて正しかった」なんてしがみつくべき過去は捨てられるべきである。
その意味で、宗教者とは教義が正しいかどうかを、常に自らで実修実証する必要があると言えるし、他人に押し付けられないという意味では、宗教的活動とは謙虚にならざるを得ない。謙虚さを忘れた宗教など、凶暴化した暴徒集団と変わりないのである。
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