つらつら日暮らし

尾崎放哉「師走の句」(1)

明治時代の自由律俳人である尾崎放哉(1885~1926)は、元々エリート社員であったが、遁世したことで知られている。その遁世後の俳句には、中々見るべきものがある。今日は季節にしたがって、「師走の句」を紹介したい。

師走の夜のつめたい寝床が一つあるきり
    ちくま文庫『尾崎放哉全句集』65頁、「独座三昧」


遁世というのは、孤独との付き合いである。インド以来、阿蘭若での孤独の坐禅修行の習慣は、形を変えて世界各地に広がっているといって良い。そして、そのなれの果てが、日本に於ける「遁世の系譜」である。日本では、やはり、平安時代末期に於ける遁世修行の流行があり、そこから「聖」という伝統も生み出された。「聖」とは、文字通りの聖者ということでは無い。俗世から離れていることを、「聖」と表現したのである。

半面、集団の論理と価値観に裏打ちされた集団仏教からは、遁世に見るような孤独感は生まれてこない。この孤独感は、同時に絶対者への希求を生む。『大品般若経』や『歎異抄』など、幾つかの大乗仏教系の文献に見える孤独感と絶対者への希求は、遁世者の独露でもある。

その系譜に、放哉の句がある。

日本に於ける師走、特に、都市部ではなく離島などに住み(放哉は小豆島に住んでいる)、防寒具や暖房器具も乏しい中では、この「師走の夜」に感じる「つめたさ」は、まさにあらゆる生命活動の極限を示している。禅語には「寒灰」という表現が見える。炭が燃え尽くして冷え切った灰のことである。まさに「つめたさ」の極限である。しかし、禅語の場合、まだその中に「埋もれた炭」が期待されている。

しかし、放哉の句には、「寝床が一つあるきり」である。これもまた、つめたさの極限である。

寝床は本来、暖かい場所のはずである。だが、寒い夜に寒い部屋に引かれた布団は、決して暖かさをもたらしてくれない。むしろ、その全身の体温を奪われるような感覚にすら陥る。その感覚の中で、感じることはわびしさ、寂しさ、孤独感、そして「死」を感じていく。

中国の陰陽思想を持ち出すまでも無く、我々の感覚からすれば、暖かみには生命の活動を感じる、冷たさにはそれを感じない。その点が問題である。なお、放哉の「独座三昧」については、まだ暖かみのある俳句も見える。だが、この句にはそれがない。その意味で、この句の段階で、放哉の遁世は完成したように思う。しかし、その完成は、生命活動、或いは「陽」の一切を否定して成立した・・・いや、成立という一切の肯定的事象をもっていない。まさに、エンプティである。

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