1227年(嘉禄3年)8~9月頃 道元禅師帰国(『建撕記』)、建仁寺に寓居(『典座教訓』他)
同年中 『普勧坐禅儀』(嘉禄本)執筆(『弁道話』)
1229年(安貞3年) 道元禅師と懐奘禅師の相見(『伝光録』第52章)
1231年(寛喜3年)7月 安養院にて了然尼に法語を授与(可睡斎所蔵『示了然尼法語』奥書)
同年8月15日 『弁道話』執筆(同書奥書)
1233年(天福元年) 観音導利院入寺(『伝光録』第51章)
同年夏安居日 『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻示衆(同書奥書)
同年7月15日 『普勧坐禅儀』(天福本)浄書(同書奥書)
同年8月 『正法眼蔵』「現成公案」巻を俗弟子楊光秀に与う
1234年(文暦元年)3月 『学道用心集』執筆(同書識語)
同年冬 懐奘禅師が帰投(『伝光録』第52章)
1235年(嘉禎元年)8月 戒脈を理観に授く(『授理観戒脈』識語)
同年中 『仏祖正伝菩薩戒作法』を懐奘禅師に授く、事実上の嗣法か(同作法書奥書)
同年12月 『宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏』執筆(『建撕記』)
同年中 『真字正法眼蔵』編集終(同書序識語)
1236年(嘉禎2年)10月15日 興聖寺にて集衆説法(『永平広録』巻1冒頭)
道元禅師が中国留学を終えて帰国された後のだいたいの伝記を辿るとこうなっている。1232年は何をしておられたのか、良く分かっていない。『三祖行業記』『伝光録』の記述からすれば、寺院建立のための良処を探していたのかもしれない。なお、拙僧は、道元禅師が『弁道話』を執筆した場所について、「安養院」だとする面山瑞方禅師の説を採用していない。
理由は、①可睡斎所蔵の『示了然尼法語』の真偽不明。②『弁道話』流布本系統では場所を示さない。この2点である。また、瑩山禅師『伝光録』第51章から、1233年に観音導利院入寺という説を採用している。安養院が、興聖寺近くの深草にあったという説を採用する人の中には、両寺院を混同する場合があるが、それは誤りである。そもそも、観音導利院については、「極楽寺の辺」(『伝光録』第51章)とかいう表現がされるので、安養院では無い。おそらくは、極楽寺の支院であったはずなので、それは後述する『勧進疏』の記述とも合致する。
この略年表を具に見ていくと、とりあえず道元禅師が日本に帰国されてから、自分自身のための寺院を開こうと努力され、そこで一処を得て、得た後は具体的な建立作業に入っていく様子が分かる。また、合わせて自らが伝えた様々な教えや実践法を伝えるべく、様々な執筆をされた様子も分かる。そして、徐々に弟子が周りに増えていく様子も分かる。その中でも最大なのはやはり、懐奘禅師の帰投であろう。それがあって、道元禅師は自らの僧団の支柱を得たといえよう。
興聖寺については、『勧進疏』の影響から、当初より「仏殿」があったことが分かる。また、『建撕記』に依れば、法堂と法座はそれぞれ正覚禅尼と弘誓院殿(藤原教家)から寄進を受けて建立され、残りの僧堂のみが勧進によって建立されたようである。その上での「集衆説法」であろうと思われる。
師、嘉禎二年丙申十月十五日に於いて、始めて当山に就いて、衆を集めて説法す。
上堂して云く。依草の家風、附木の心、道場最好叢林たるべし。牀一撃、鼓三下。伝説す如来微妙の音。正当恁麼時、興聖門下、且く如何が道わん。
良久して云く、
湘の南、潭の北、黄金国。無限の平人、陸沈をこうむる。
祖山本『永平広録』巻1-1上堂
なお、この段階で既に、寺院名が「興聖寺」になっていたことが分かる。観音導利院から、「甲刹」としての「興聖寺」になったのであろう。その上で、上堂をしているので、法堂は既に出来ている。また、敢えて「道場」「叢林」という言葉を使っている以上、僧堂も出来ていたと見て良いと思う。その上での「十月十五日」だったのであろう。なお、「十月十五日」に大衆を集めたということからは、これを「冬安居」として見て良いか、微妙ではある。何故ならば、道元禅師が『正法眼蔵』「安居」巻に於いて、「夏安居」のみを肯定した話があるためだが、時期的には「安居」巻の方が成立が遅いので、微妙と申し上げた。
ところで、『建撕記』の「大仏寺建立」の話を見ていくと、僧堂はかなりの短期間で出来ている。1244年11月に上棟式があり、年内には完成しているのである。つまり、『勧進疏』が1235年12月に書かれ、その後、各地で寄進を集め始め、(おそらく)翌年のどこかのタイミングで工事が始まり、10月には出来ていたと考えて良いと思う。
以上、そんなことを述べつつ、今日という日を祝したい。
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