つらつら日暮らし

『漢光類聚』巻2に於ける円頓戒論

『漢光類聚』という文献は、一般的には天台本覚思想関係の文献だと思われていると思うが、そのために、一応作者として忠尋(1065~1138)の名前が出ては来るのだが、実際には仮託であろうとされている。それで、天台本覚思想というのは、我々には仏性(如来蔵)が本より具わる(本覚)状態だとされることが第一だが、本来は、そこに修行が加わることにより、仏性を見聞して成仏に近づくという考え方であった。

ところが、仏性が具わっている自然なままを肯定し、修行を経ることなく衆生は本より成仏しているという考えに至った。そして、『漢光類聚』はその思想の影響下にある文献であるとされる。今日はその一節を見ていくことで、天台本覚思想下に於ける戒思想を見ておきたい。

 信解堅固の後、起こる所の諸心、皆な諸波羅蜜と相応するが故に、常に一心三観の義を以て之を有つべき云云。
 円頓止観心、三学一体の戒体を談ずる時、円頓戒受得の後、十方仏土より、戒光来たりて、念念歩歩に行者の身中に入る。等覚の菩薩、尚お此の戒色を見ず。只だ妙覚・極仏のみ見此の戒光を見ること有るなり。今、又た此の如し。
 信解成就の後、身口意の三業、悉く如来の行と成る、云云。
    『漢光類聚』巻2、原漢文


信解堅固というのは、ここでは道理を深く納得した、という意味で拝しておきたい。そして、その後は、自らの心に起きた一切のことが、諸々の波羅蜜(完成)と相応するという。そのため、常に一心三観の義を持って、この心を持つべきだということになるだろう。

それから、円頓止観心の意味については、中々当方では理解が難しいが、要するにこの三千大千世界の全体を仏体として見ることであるらしい。その上で、三学一体の戒体を談ずるときというのは、いわば智慧も含まれているため、完全に仏体としての戒体を見ていることになるだろう。

つまり、円頓止観心としての円頓戒を受得した後は、十方の仏土から戒光が来て、念念に、あるいは一歩一歩ごとに、その行者の身中に入るという。だが、その様子は、菩薩五十位の修行を経た等覚であっても、その戒色(戒の表現)を見ることはできず、妙覚或いは仏陀のみが、この戒光を見ることが出来ると言う。

ここから、本書における戒や、戒体というのは、あくまでも信解した衆生におけるそれであることが理解できるのである。でも、信解し、円頓戒を受得した後の様子、なんだか楽しそうではある。よって、信解した後の衆生にとっての身口意の三業は、全て如来そのものになるのである。

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