放捨諸縁休息万事不思善悪莫管是非停心意識之運転止念想観之測量 外に有を諸縁と云、六塵の妄想なり、内に造るが万事と云、六塵の境に対して起る六根の妄想也、外を放捨し内心を休息すれば安楽の境現前するなり、伝灯達磨の章に曰く、九年為二祖説て曰く、外息諸縁心如牆壁可以入道云々是即ち吾家の仏法相続の大切なり、勿錯会不思――とは六祖の章曰、汝若要知心要但一切善悪都莫思量得入清浄心体なり、又保寿僧問云万境未侵の時如何、答云莫管他、是らの密意を取て示さる、心意識に三義あり、輔行に対坑覚知して異木石名為心次に量を為意了々として別れ知ぬるを為識即ち伊字三点也、又三身の三昧也、次念想観の三字も測量に付て麁より細に至る、初は念、中は想、後は観なり、又大般若の智論十八に実にして般若――多は実にして不顛倒念想已に除き言語法亦滅す也と有り、暁べし
6丁裏~7丁表
非常に興味深いのが、諸縁と万事を内外で対比させて註釈していることであろう。そして、外の諸縁(六塵の妄想)を放捨し、内の万事(六根の妄想)を休息(止める)すれば、安楽の境界が現前するという。
その典拠としては、達磨尊者が二祖慧可大師へ説示した「外の諸縁を息め、心の牆壁の如くならば以て入道すべし」(典拠は『少室六門』「第三門二種入」からの抄出)があるという。そして、巨海禅師はそれが「吾家の仏法相続の大切」だともしている。
「勿錯会不思」の話は、どこから来たのか良く分からない。ただ、それを「六祖の章」というのは、『景徳伝灯録』巻5の慧能禅師の一章を指しており、一切の善悪を思わなければ、「清浄心体」になるという。よって、あらゆる分別を破し、内心そのものをしっかりと把握していれば良いのである。
それから、「心意識」などの話が出ているが、この辺はほぼ、面山禅師『聞解』に同じだが、興味深いのは、「心意識」の3つの関係の解釈で、「了々として別れ知ぬるを為識即ち伊字三点也、又三身の三昧也」であろう。「伊字三点」とはサンスクリット語の「イ」の字は3点で1字としており、これを涅槃の内容だとした。そして、「法身・般若・解脱」の三徳が不離だという。
何等をか名づけて秘密の蔵と為すや。猶お伊字の三点の如し、若し並べば則ち伊成らず、縱も亦た成らず。摩醯首羅面上の三目の如し、乃ち得成伊の三点を成ずることを得る。若し別ならば亦た成ずることを得ず。我れ亦た是の如し、解脱の法、亦た涅槃に非ず、如来の身、亦た涅槃に非ず、摩訶般若、亦た涅槃に非ず、三法各おの異りて亦た涅槃に非ず。我れ今、是の如き三法に安住す、衆生の為の故に名づけて涅槃に入るは、世の伊字の如し。
『大般涅槃経』巻2「寿命品第一之二」
こちらが、「伊字三点」の説示の原典とされる。大乗『大般涅槃経』で説く「秘密蔵」の説明として、「伊字三点」を挙げており、つまりは、その内容について、解脱・如来・摩訶般若の3つは各々独立しながらも、世尊そのものだという。そして、世尊はこの三点のように、衆生のために涅槃に入ったとしても、現実における解脱・如来・摩訶般若は護持し続けることをいうのである。
ただ、これが「心意識」だというとき、この3つは不離でありながら独立しているという解釈になるのだろう、と思った。「念想観」は余り難しく考えていないので、上記文章の通りである。
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