◎十二月 和名を師走と云は、むかしは此月諸家に仏名をおこなひて、導師ひまなくはしり行なれば、師走り月を略せりと。○又云、しはすは四時のはつる月なれば四極月なるべい、豊後に四極山と云有、此心かよへり、又極月といへるも此意也。○殷の世は此月を正月とす。
三田村鳶魚編『江戸年中行事』中公文庫・昭和56年、55頁
以上の記事は、享保20年(1735)に刊行された『江府年行事』に収録された一節で、「師走」の語源には、複数のものがあったことが理解出来よう。拙僧的には、「師走」が妥当かどうかが気になっており、【師走に関する幾つかの記事】も書いた。
そこで、肯定的な意見を見ておきたいと思うが、古来、お正月が来る前に、歳末看経なる行事が行われていたことも考えておくと、理解が進むかもしれない。
・十日以後。坐禅を開く。歳末看経牓。
・除夜前の両三日間、清書を結び、施餓鬼し了りて、維那宣疏して云く・・・
禅林寺本『瑩山清規』「年中行事・十二月」
このようにあって、「歳末看経」という行持と、施餓鬼供養が行われていた様子が分かる。両者は、別の行事であって、十二月の中旬を中心に看経法要を行うことと、除夜が近い歳末に施餓鬼するという話である。後者の対象としては、色々と記載があるのだが、注目すべきは、この歳に死んでしまったありとあらゆる生き物であろう。いわば死んでしまった生き物に対して功徳を回向し、「仏種の縁熟し、苦を脱し楽を得ん。法界の衆生、同じく種智を円かにするものなり」(原漢文)と『疏』(同上)で読み込まれている。
しかし、瑩山禅師の場合には、あくまでも寺内での行事であって、外をかけずり回る様子とはならない。ただ、一説には、近世以降に盂蘭盆会時の棚経のように、各檀信徒を廻ったということもあるようなので、その様子が「師走」に見えなくもないのだが・・・本来、坊さんは走らない筈なんだよな。むしろ、「経行」といわれる作法があり、歩くべきなのだ。この用語については、昨今では坐禅時に於ける休憩時間のような印象となっているかもしれないが、元々はただ「歩いて目的地に行く」という意味でしかない。
ところで、我々の先達の祖師方は、各月の旧名は用いられることが極めて珍しく、十二月を表現するときは「師走」ではなくて、「臘月」を用いた。以下のような表現が知られる。
同臘月十日、上堂拈香して云く、〈中略〉今暁、二祖大師来たりて、一夜精進し、祖室に投入して、直指人心・見性成仏の妙旨を聞く。
流布本『洞谷記』
これは、後半部分の内容からも明らかで、「十二月十日」を意味している。また、関連した用語もある。
師云く、心は臘月扇の如く、身は寒谷雲の如し。
『永平広録』巻1-27上堂
ここでいう「臘月扇」とは、分かりやすくいえば「十二月の扇」ということで、寒い時期に本来不要なものを意味している。よって、仏道に於いて我が身心などは、無用のもの、とらわれの対象とはならないことを指しているのである(「心如臘月扇」は元々、中国曹洞宗の雲居道膺禅師の言葉)。ここからも、「臘月」が明らかに十二月を意味していることが理解出来よう。
では何故、十二月を臘月というかといえば、この「臘」には、冬至の後、第三の戌の日に、猟のえものの獣肉を供えて先祖の百神を祀る「臘祭」があって、それらから「臘月」という名称が出来たとされているのだが、当時の冬至は11月末だったので、この辺はどうなのかな?とは思う。一説には、「臘」を「にかわ」の意味で捉えて、歳と歳をつなぐ意味もあるというが、ネットなどで調べてもその意味はほとんど出てこない。
なお、「歳の終わり」という意味が転じて、僧侶の年齢(出家受戒してからの年数ということ)を数える場合にも、「臘」を用いるので、その関連が指摘されることもあるし、もちろん、曹洞宗でも語の用例があるのだが、両祖の時代には「夏安居」しかしておらず、大概は、「安居終了時」を「法歳周円」とかいって、年齢を一つ重ねるとするため、「臘月」は中国の習慣をそのまま用いていると考えるべきであろう。
それにしても、「師走」について、仏教界での用例が少ないから、どうしたものか?と思っていたら、基本は世間での言い方だとされる。それなら多少は納得出来るけれども、どうも当て字の印象を得る。それは、このような記事をまとめてみると、更に強まってしまった。
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