問題意識としては、仏陀自身が生きておられる間は、当然に仏像などというものは必要は無かったわけである。もちろん、だからこそ、嵯峨の清凉寺にある釈尊像などは、その釈尊が天上界を教化する際に、一時的に地上を離れることを悲しんだ王が、その代わりに作ったものの写しだという伝承があるが、これは釈尊の不在こそが、仏像の建立に繋がることを示した逸話であるといえる。
そのことを思う時、仏像についての話が出ている経典などは、釈尊入滅後であるとは思われ、また、当然に大乗経典に多く見られるかと思う。その時、とりあえず以下の一節などを見ておきたい。
世尊、若し復た人有りて、七仏の名を持し、彼の仏の本願功徳を憶念し、并びに此の呪を持して、読誦・演説せん。我れ彼の人の願う所をして満足せしめ、乏少なる所無し。
若しくは我を見んと欲して、善悪を問う者は、応当に此の経を書写して、七仏の像、并びに執金剛菩薩像を造らん。皆な仏身に於いて、仏舎利を此の像前に安ぜん。上の説く所の如き、種種に供養し、礼拝・旋繞せん。衆生の処に於いて慈悲心を起こさせ、八戒斎を受け、日ごとの別三時に、澡浴して清浄なる、三時に衣を別せん。白月八日より十五日に至り、毎日誦呪すること一百八遍して、心に散乱無ければ、我れ夢中に於いて即ち自ら身を現じ、共に言説を為さん。所に随いて求むる者、皆をして満足せしむ。
『薬師瑠璃光七仏本願経』巻下
これは、世尊に対して「執金剛菩薩」が唱えた偈頌なのだが、要するに、この中で薬師信仰を持つ者を、この菩薩が護持することを示したものだが、その中で、薬師信仰の表出としての仏像礼拝を挙げているのである。ただし、注目したいのは、仏舎利の安置とともに仏像への礼拝が行われている。
よって、本来、仏舎利は仏塔信仰と繋がっていたはずだが、本経はそれが、仏像への礼拝や信仰と習合したことになる。そうなると、礼拝している対象が仏像なのか?仏舎利なのか?よく分からないところではあるが、礼拝の功徳という観点では、後者の方が分かりやすかった時代ということなのかもしれない。
さて、ここまで論じてみたところ、以下のような一節もあった。
時に彼の仏世に一比丘有りて九弟子有り。諸弟子とともに仏塔に往詣して、仏像を礼拝す。
『観仏三昧海経』巻9「本行品第八」
こちらでは、比丘が弟子達とともに仏塔へ参詣に行ったのだが、仏像を礼拝しているという。これは、仏塔に仏像が設置される事例もあったということなのだろう。まぁ、インドやその周辺地域の仏教遺跡に関する様々な調査結果を見てみると、実際にそういう仏塔があるようだから、その時代の状況を示しているのだろう。つまり、仏塔は本来、在家信者による信仰の対象だったのが、上記のように「比丘」であっても、礼拝の対象にしたということなのだろう。そして、その頃には仏像も仏塔の周囲などに設置され、ともに礼拝の対象となった。
つまりは、大乗仏教の信者・実践者である比丘が、仏像への礼拝を始めたということなのだろう。もちろん、この辺は実際の歴史を明らかにしたものではなく、ごく一部の大乗経典を読んだだけに過ぎないから、何も分かっていないのだが、この辺の変化は、礼拝法の変遷という観点からも、もう少し深掘りしてみたい。
この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事