読書によって書物の内容をどれだけ理解し得るのであろうか?わたくしはかねがね疑問に思っていた。
前掲同著、223頁
一瞬、これだけをいわれると、「むぅ、中村博士のような人でもそう思うのか?」と思ってしまいますが、どうやら、普通の読書についてそう仰っているわけではないようです。少なくとも、同じような専門分野の文章や、同国人の文章については「解り易い」としているからです。要するに、ここで中村博士が「疑問」に思っておられるのは、「翻訳文」ということになります。確かに、翻訳文は大変です。まぁ、拙僧自身がほとんど外国語を解しない研究者だという笑える事実もありますけれども、それ以前に、そもそも、思考方法も文化も違う相手が書いた文章を理解するというのは、どこかに「傲慢さ」がなければならないと思います。そういうことを考えていると、中村博士が、読書法について次のように仰っていることが目に付きました。
一つの書物を隅から隅まで理解することは困難であるならば、それはそのままでよい。ただ立論の骨子を自分なりに理解すればよいのではないか。そうしてその書物のうち採用すべき部分を採用し、価値のない部分は、あっさり捨ててしまえばよいのではなかろうか。
極端に言うならば、書物というのは、隅から隅まで理解できなくてもよい。ただ手もとに置いておいて、必要なときに再吟味すればよいのである。
前掲同著、226~227頁
この指摘は、実は拙僧などが他のブログを読むときに用いている方法と同じだったりします。逆に言えば、このブログの読者の皆さんにも、同様の読解法をしていただければと思っています。中村氏は、特にこれをツェラーの『ギリシア哲学史』(ドイツ文)に対する感想として指摘されています。このツェラーの著作は、権威がありますが、しかし一方で中村氏はイギリスの老学者から、この著作についての、ツェラーの見解自体は、余り良くないという評価を頂戴していたそうなのです。そこで、「価値のない部分は捨てよ」という考えに到ったようです。しかし、このように考えてみると、果たして、我々自身にとって読書とはどのようなものなのでしょう?楽しいということがあるでしょうけれども、それだけでしょうか?そこで、中村氏の言葉を続けてみていきましょう。
読書から得られる楽しみも大きいが、読書によって得られた知識が自分の知識体系の中のいずれかの場所に位置を得たことを知る喜びは、非常に大きなものがある。
そうして究極的には、新たに読書によって得られた知識が、従前に自分の理解体得した知識の全体系のうちに組み入れられ、自分なりに生かされていればよいのである。
前掲同著、227頁
要するに、読書によって、それまでの自分自身の知識の確認をするのではなくて、新しい自分を作ることが肝心だということになるでしょう。要するに、読書は、それを咀嚼して、自分の中に入っていることを気付いたときが、一番嬉しいのでしょうし、自分のものとなっているとき、始めて読書は役に立ったといえましょう。ところで、そのような自己の形成に役立ったのは、端的に情報ということで理解できそうですが、情報であれば、テレビでも、ネットでも、様々なメディアを媒介に得ることが出来そうです。しかし、中村氏は同じではないと指摘します。
今日コミュニケーションのメディアが発達したために、そのメディアは多岐にわたっている。そこで人々が書物を読まなくなったと言われている。ところがテレビやラジオは事実を跳び跳びに印象強く伝えるだけで、事柄を構造的に理解させてくれない。事柄を構造的に理解させてくれるのは、書物である。たといわれわれが書物の一部分だけしか理解し得ないにしても、書物に述べられている事柄は、事柄の全体のわく組みの中における特殊な位置づけを知らせてくれるからである。
前掲同著、228頁
読書するという行為をよくよく考えてみますと、繰り返し、すぐにその情報の全体を見直すことが可能であり、それはネットに於けるハイパーテキストの発達によって、若干改善されつつありますが、それでも、まだ不十分だといえます。今よりも、よほど様々なメディアが発達しなければ、中村氏の説かれる「書物の優位性」は健在だといえましょう。やはり、拙僧も、極限まで行けば、ネットや他のメディアよりも、書物を手に取ります。読書という以上に自然に本を手に取っています。その結果の一部が、このブログということになりますね。
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