良く、「南無妙法蓮華経」という唱題だけで何でも契うという人がいる。それこそ、俗的な信仰のレベルでは、日々の善し悪しにまで、この五字の経題は影響している場合もあるようで、そういうネット上の言説を見ることは、決して珍しいことでは無い。先日には、とある猥褻な内容までもこの「五字の功徳」とまで書いている人がいた。その人は、自称:法華系・日蓮系の信仰を持っているとは書いているが、何かの当てつけだったのだろうか?そんな仏教に関係の無い、猥褻なことまでも「五字の功徳」とされる日には、日蓮聖人も困るのではないか?とまで思う(まぁ、勿論、「日蓮聖人も困る……」は拙僧の勝手な想像。参考までに、その猥褻な内容とは、しゃがんだ女性の下着が見えた云々という内容であった)。
さて、然るに唱題がどれほどの功徳を持っているのか?まずはそこから探ってみた方が良さそうだ。
三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成給へり。南無阿弥陀仏は仏種にはあらず、真言五戒等も種ならず。
『秋元殿御書(筒御器鈔)』、1280年(弘安3)1月27日
これは、真筆本が残っていない写本のみなのだとは断りつつ、これは良く分かりやすいと思う。要するに、あらゆる諸仏は、「妙法蓮華経」という五字を種(基盤・絶対的な因)として仏に成ったのだという。経題にそれだけの功徳があるというのは、拙僧などはにわかには頷けないところだが、とはいえ、文字面だけ見れば『法華経』にはそう書いてある。
・答て云く、妙法蓮華経の第八に云く、法華の名を受持せん者……福量るべからず。正法華経に云く、若し此の経を聞いて名号を宣持せば徳量るべからず。添品法華経に云く、法華の名を受持せん者……福量るべからず。
『法華題目抄』(文永3年[1266])
・我が所説の経典無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり。薬王此の経は是れ諸仏の秘要の蔵なり。分布して妄りに人に授与すべからず。諸仏世尊の守護したもう所なり。昔より已来未だ曽て顕説せず。而も此の経は如来の現在すら猶お怨嫉多し、況んや滅度の後をや。薬王当に知るべし、如来の滅後に其れ能く書持し読誦し供養し、他人の為に説かん者は、如来則ち衣を以て之を覆いたもうべし。又他方の現在の諸仏に護念せらるることを為ん。是の人は大信力及び志願力・諸善根力あらん。当に知るべし、是の人は如来と共に宿するなり。則ち如来の手をもって其の頭を摩でたもうを為ん。〈中略〉薬王、多く人あって在家・出家の菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養すること得ること能わずんば、当に知るべし、是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜざるなり。若し是の経典を聞くこと得ることあらん者は、乃ち能善菩薩の道を行ずるなり。其れ衆生の仏道を求むる者あって、是の法華経を若しは見、若しは聞き、聞き已って信解し受持せば、当に知るべし、是の人は阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たり。
『妙法蓮華経』「法師品」
ということで、同経の随処にその広大甚深なる功徳は説かれているけれども、日蓮聖人が引いた箇所や、拙僧が引いた箇所などは分かりやすいと思う。「諸仏の秘要の蔵」とか、同経を受持する「是の人は阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たり」とか説かれているから、ちょっとこう、秘密秘密していて、「自分だけが救われたい」とか思う、選民思想的な人にも十二分に受け入れられることになる。よって、同経を護持する人達の中には、多分に、秘密結社的な活動をした人もいるが、それは経中に既に根拠があるということになろう。それで、日蓮聖人の話に戻す。
夫れ以れば、釈迦如来の一代顕密大小二経、華厳・真言等の諸宗の依経、往いて之を勘うるに、或は十方臺葉毘盧遮那仏・大集雲集の諸仏如来・般若染浄の千仏示現・大日金剛頂等の千二百尊、但、其の近因近果を演説して其の遠の因果を顕さず。速疾頓成、之を説けども三五の遠化を亡失し、化導の始終、跡を削りて見えず。華厳経・大日経等は、一往之を見るに別円・四蔵等に似れども、再往之を勘うれば蔵通二経に同じて未だ別円にも及ばず。本有の三因之無し、何を以てか仏の種子を定めん。而るに新訳の訳者等漢土に来入するの日、天台の一念三千の法門を見聞して、或は自らの所持の経々に添加し、或は天竺より受持する之由、之を称す。天台の学者等、或は自宗に同ずるを悦び、或は遠を貴んで近を蔑ろにし、或は旧を捨てて新を取り、魔心愚心出来す。然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ざれば有情の成仏・木画二像之本尊は有名無実也。
問て曰く 上の大難、未だ其の会通を聞かず、如何。
答て曰く 無量義経に云く、未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前す等云云。法華経に云く、具足の道を聞かんと欲す等云云。涅槃経に云く、薩とは具足のに名く等云云。龍樹菩薩の云く、薩とは六なり等云云。無依無得大乗四論玄義記に云く、沙とは訳して六と云う。胡の法には六を以て具足の義と為す也。吉蔵の疏に云く、沙とは飜して具足と為す。天台大師の云く、薩とは梵語。此れには妙と飜す等云云。
私に会通を加えば本文を黷すが如し。爾りと雖も、文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。
『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』1273年(文永10)4月26日
まぁ、要するに最後の二行が特に大切なのだろうけど、釈尊の修行と仏果は、妙法蓮華経の五字に具足するのだから、我々もその五字を受持すれば、その釈尊の受けた因果の功徳を譲り受けることが可能、ということである。これと、先ほどの写本の内容に鑑みれば、結局この「妙法蓮華経」という五字を受持すれば、『法華経』本文でも多くの功徳が説かれているようだが、日蓮聖人もその功徳の最たるものとして、「成仏が出来る」と考えていたのは明白である。拙僧、いつも思うのだが、このような仏教的文脈に於ける功徳の有無というのが実際には肝心で、先に挙げた世間的な内容については、判断を留保しておいた方が良いと思うのだ。もちろん、仏教的功徳なんか待てないような、それこそ在家仏教教団などは、現世的・世間的な功徳を求めたいのだろうけど、果たして、経文にせよ、祖師の言説にせよ、それをそこまで保証しているのか?と拙僧は聞きたい。無論、善行の功徳が現世利益として顕れることもあるかもしれないが、それだって、祖師方の多くは、「方便」くらいに説くと思うぞ。つまり、仏縁を深めてもらうための「方便」という意味だ。しかし、逆に、方便が重視されて、その上で順縁・逆縁なんかを考えてみたって、結局はその辺はそれを語る本人の問題でしかないので、拙僧などは正直、共感は出来ない。
で、日蓮聖人は「五字を受持」すれば良いのだ、ということになるのだが、その内容や行法については具体的に『法華題目抄』辺りでも読めば良いという話になりそうなので、それはまた別の機会に学んでみようと思う。
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