五時と言うは、既に方域儀異にして、月数離合あり、指事に非ず自りには、以て委しく知り難し。
一には謂く冬時、四月有り、九月十六日従り正月十五日に至る。
二には謂く春時、亦た四月有り、正月十六日従り五月十五日に至る。
三には謂く雨時、但だ一月のみ有り、五月十六日従り六月十五日に至る。
四には謂く終時、唯だ一日一夜のみ、謂く六月十六日の昼夜なり。
五には是れ長時、六月十七日従り九月十五日に至る。
此れ乃ち独り律教の中に於いて仏制ししたまふ、是の如く次第して明すに密意有るなり。
若し方俗に依れば、或いは三時、四時、六時と作す。余処に説くが如し。
『南海寄帰伝』巻3・3丁裏、原漢文、段落等は当方で付す
まず、ここで義浄が指摘しているのは、出家する時の時間を定める方法についてである。今は、カレンダーも時計もあるので、何月何日何時何分に出家したかが一目瞭然だが、当時はそういうことも無かったので、様々な方法を定めた。上記については、「五時」ということで、1年360日を5に分けたのである。
ただし、義浄もいう通り、地域によって季節の数え方が異なるのと、指事(位置・数量などの抽象的概念)というばかりでは測れないので、詳しく知ることは難しいとしている。それで、上記の内容は「此れ乃ち独り律教の中に於いて仏制ししたまふ」とあるので、『律』に定められたことだと理解出来る。
具体的には、これも義浄が翻訳したが、以下を典拠にしていると思われる。
仏言わく、「五時の差別有り、
一には、冬時。
二には、春時。
三には、雨時。
四には、終時。
五には、長時。
冬時と言うは、四月有り、謂く九月十六日従り正月十五日に至る。
春時と言うは、亦た四月有り、謂く正月十六日従り五月十五日に至る。
雨時と言うは、一月有り、謂く五月十六日従り六月十五日に至る。
終時と言うは、謂く六月十六日の一日一夜、是なり。
長時と言うは、三月有りて一日一夜を欠く、謂く六月十七日従り九月十五日に至る〈此れは是れ、西方の衆僧の要法なり、若し解せずんば、即ち苾蒭に非ず、但だ比の為に来して未だ翻さず、致りて聞者をして悟らしめず。此に謂く仏家・密教と俗と殊有り、若し西国に至りて、他に問うて知らずんば、人、皆な見て笑う。支那の月を記すと同じからざるのみ〉」。
『根本説一切有部百一羯磨』巻1
つまり、先に挙げた『南海寄帰伝』で義浄が「仏制」というのは、この箇所を引いてのことである。なお、末尾に義浄による割注として、「西方の衆僧の要法」とあるが、「若し西国に至りて、他に問うて知らずんば、人、皆な見て笑う」とあって、義浄自身が苦労したのかもしれないと思わせる文章である。
それから、「或いは三時、四時、六時と作す。余処に説くが如し」ともあるが、これは、色々と調べたが、義浄がどこを参照しているのかは分からなかった。ただし、これは実際に見たかどうかはともかく、確かに「三時、四時、六時」の議論があったことは確認した。
又た云く、六時の中は二解なり。
河西云く、外国では二月を一時と為し、年に六時有り。是れ則ち春・夏・冬の三時、各おの前後有り。
金光明に云く、若しくは二二の説足して六時に満ず。三三、説いて一歳四時なり。今、此に正しく二二を足して六時に満ず、と取る。
招提云く、春・冬の両時を挙げて各おの孟仲季有るが故に六時と言う。
『大般涅槃経疏』巻26「師子吼品之四」
なるほど、これはまぁ、中国での議論であり、「三時、四時、六時」が挙がっているが、義浄が引いた「五時」は無い。よって、おそらくはこの辺を議論の対象にしているのだとは思うが、そもそも、この「五時」自体、それほど多くの文献に出ているわけでは無いので、義浄自身が当時のインドの様子として伝えたものとしか理解出来ないかと思われる。
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