つらつら日暮らし

今日は高祖降誕会(令和6年版)

今日は曹洞宗の高祖・永平道元禅師(1200~1253)の誕生日に当たるとされ、宗派内では「高祖降誕会」と呼ばれている。なお、この日になった経緯だが、以下の通りである。

江戸時代に大本山永平寺35世・版橈晃全禅師(1627~1693)は貞享2年(1685)に著した『僧譜冠字韻類』巻88で、道元禅師の御生誕が「正治二年庚申正月初二日」であると示した。その後、面山瑞方禅師などもこの見解を踏襲し、曹洞宗内で一般的な見解となった。そこで、大本山永平寺、及び永平寺東京出張所では道元禅師御生誕700回の記念法要を、明治32年(1899)年2月11日に行った。そして、翌33年1月1日、曹洞宗務局(後の曹洞宗宗務庁)は旧暦1月2日を新暦1月26日と改めて高祖降誕会を定め、現代まで続いているのである。

拙僧、これまでの記事で両祖の降誕会について定めた条文自体を読んだことが無いことに気が付いた。ということで、色々と調べてみたが、残念ながら今の段階では見ることが出来ないようなので、代替として以下の一節を参照してみた。

(明治三十三年一月一日)高祖并に太祖の誕辰を太陽暦に推歩して、高祖の誕辰正治二年庚申正月二日を紀元一千八百六十年一月廿六日とし、太祖の誕辰文永五年戊辰十月八日を紀元一千九百二十八年十一月廿一日とし、当日は全国末派寺院は慶讃の法会を修すべき旨を普達す(宗報七十三)
    「日本曹洞宗年表」、『曹洞宗全書』「年表」巻・646頁


これが、先に挙げた一節の経緯を良く示す「普達」である。ここから、道元禅師の誕辰を1月26日にするという話が確定したのである。

さて、今日という高祖降誕会に際して、確認しておきたいことは、道元禅師の両親に係る話である。今でも、江戸時代以来の古説に従って論じられている文献などが多いので、とても困ってしまうのだが、改めて道元禅師御生誕の状況について確認しておきたい。

まず、古説についてだが、先に挙げた晃全禅師や面山禅師の見解などもあって、久我通親公(1149~1202)が父、藤原基房の子・伊子が母だとされていた。だが、これは結構色々と問題があって、まず通親公の家名は、久我ではなくて「土御門」なのである。明治時代の時に、いわゆる村上源氏(村上天皇に由来する公家源氏)の家系で残っていたのが、久我家だったため、その関係で久我家ということになるのだろう。

これまで何度も論じたように、道元禅師の古伝は全て、父親について早くに薨去されたことを示さない。8歳で母親が亡くなったことは等しく示されるところなので、ご両親の扱いの違いは一目瞭然である。つまり、通親公が父とする古伝は無いのである。そこで、【道元禅師の「育父」の話(令和5年度版「父の日」)】などの記事で書いたように、道元禅師の父親として推定されているのは源通具公であり、そうなると薨去されたのはちょうど、道元禅師が中国留学を終えてご帰国なさった頃になる。

よって、古伝には母親が亡くなったことを書いても、父親が亡くなったことを書かないのである。

以上、高祖降誕会に因み、道元禅師の古伝について少し私見を述べてみた。今日は道元禅師への鑽仰の思いを持って、朝、坐ってみた。

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