双樹に滅を示してより八百余年、世界丘墟にして樹木枯悴し、人に至信なく、正念軽微なり。真如を信ぜず、唯神力を愛すと。言ひ訖りて、右手を以て漸く展て地に入て金剛輪際に至り、甘露水を取り、瑠璃器を以て持て会所に至る。大衆、皆見て皆帰伏悔過す。
悲むべし如来在世より八百年、尚お是の如し。何に況や後百歳の今、僅に仏法の名字を聞くとも、道理如何なるべしとも弁まへず。到れる身心なき故に、如何なるべきぞと尋ぬる人なし。聊か其道理を得ることあれども、護持し来ることなし。設ひ知識ありて、大慈大悲の教誡に依て、聊か覚知覚了ありと雖も、或は懈怠に侵されて真実の信解なし。故に真実の道人なければ、真実発心する者なし。実に末世の澆運宿業の拙きに依て、是の如きの時分に遭へり。愧ても悔ても余りあり。
釈尊が沙羅双樹の下に身を横たえ般涅槃して以来、世界の木々は枯れ、人には信仰心が無く、仏教を学ぶ際に必要な「正念」という意識状態すらほとんど得られていない状況が続き、真理を見ることもせずに、ただ「神通力」だけを愛する人が増えていた、と西天十七祖・僧伽難提尊者は糾弾しながら、自分は自分の手で水を汲んだという。
拙僧自身もややもすると、この勘違いをしてしまいそうになるが、我々仏教徒というのは、決してワケの分からない「力」を得るために修行をしているのではなく、むしろ「ただの人」として生きることに、その主眼が置かれている。しかし、その内容は、一切の誤解を持たない人でもあり、同時に誤解=煩悩によって生じる「苦」を滅していることになる。
それはただ、「道理如何」と疑問に思い、そして道理を捉え、護持するだけで良い。しかしながら、この護持というのが非常に難しい。瑩山禅師も慈悲心に基づく諭しによって、多少は覚知することがあっても「懈怠に侵されて真実の信解なし」と、怠け心を起こして、結局は真実への確信をすることがないと注意を促される。瑩山禅師の時代(鎌倉時代中期から末期)であっても、以上のような状況であったとすれば、今はもっと酷いかもしれない。最近では、仏教を思想や哲学としてのみ捉え、「釈尊は執着をしないと説いた」と、ただそれだけを叫び、分かったフリをしている人もいる。
問題は、それをどう実践に活かすかであり、その実践に活かすことが難しいからこそ、釈尊は「僧伽」として、集団での修行を選択し、その中で戒や律を制定された。頭で「執着しない」と分かっているに過ぎない人は、結局、それを背負って、ちょっとでも自分の気に入らないことがあれば、「それは釈尊の教えと違う」と、相手の言葉の揚げ足を取る。そこには、慈悲もなければ、方便もない、だからこそ共感されない。
まさに、不信心な者達に囲まれる世界に生きなくてはならない我々は、「愧ても悔ても余りあ」る、と思いたいところか。
然も諸仁者、正法像法に生ず。師としても資としても、悲むべしと雖も、思ふべし、仏法東漸して末法に至て我朝如来の正法を聞くこと、僅かに五六十年なり。這事初めなりと謂ふべし。仏法到る処に興らずといふことなし。汝等が勇猛精進にして志を発し、吾我を吾我とせず、直に無我を証し、速に無心なることを得て、身心の作に拘ることなく、迷悟の情に封ぜらるることなく、生死窟に留ることなく、生仏の綱に結ぼふることなく、無量劫来、尽未来際、曾て変易せざる我あることを知るべし。
しかしながら、瑩山禅師は、先の言葉を以上のように続けられて、末法の世に生きていることは悔やむとしても、日本に真実の仏教が伝わったのは、たった5~60年前なのだから、改めて勇猛なる菩提心を発し、精進していくべきだとされた。この真実の仏法を伝えた方こそ、永平寺を開かれた道元禅師に他ならない。瑩山禅師は四世の法孫として、道元禅師の仏徳を称賛しながら、同じ世代の修行者達に、奮起を促された。
それでは、その奮起をして、一体我々は何を会得すべきなのだろうか?まさに、日常的な吾我を吾我とせずに、無我を明らかにし、無心を明らかにして、日常的な身心を脱落しなくてはならない。身心脱落とは、まさに道元禅師が会得され、瑩山禅師も会得し、お伝えになられたことである。それでは、脱落した身心とは、一体どのような場所に向かっているのか?それは、迷悟・生死・生仏という相対的な価値観を離れ、あらゆる時間・空間に於いても変わることのない「我」を会得するということに向かいます。そして、この「我」こそ、「無我の我」ということになる。
無我、でありながら、今ここに活き活きと働き続けている「我」。これこそが、瑩山禅師が仰る「変易せざる我」ということである。そして、同時に常に変異する「我」でもある。当然に、それを知見する我々にとっても、変異し続ける、ということで変異しないという境地に至る。この境地は、日常的に我々が「知る」様には捉えられない。そして、それで良い。何故ならば、知ることが目的では無い、まさに生きることが肝心だからである。
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事