つらつら日暮らし

仏教に於ける『律』の始めについて

以前、【なんとなく五比丘の話】という記事を書いてはみたものの、それは何となく『四分律』に見えた一節を確認しただけで、個人的な見解を出ていない。それで、今日はまず、以下の一節を見ておきたい。

通常伝説には、釈尊成道後五年目に不都合なことあつて、律をつくつたのを始めとして、以来御入滅迄の間に、今日に見る如き多数の律が出来るに至つたと云ふ。
    椎尾弁匡先生『授戒講話』弘道閣・昭和6年、190頁


今回見ておきたいのは、この「釈尊成道後五年目に不都合なことあつて、律をつくつたのを始めとして」とある部分である。この釈尊成道後五年目に『律』を制定したというのは、どの辺を根拠にしているのだろうか?また、制定経緯としての不都合なこととは何だったのだろうか?その辺を見ておきたい。

世尊、成道より五年、比丘僧悉く清浄なり。是れ自り已後、漸漸に非を為す。世尊、事に随って制戒を為す。波羅提木叉の四種具足法を立説す。自具足・善来具足・十衆具足・五衆具足なり。
    『摩訶僧祇律』巻23「明雑誦跋渠法之一」


実は、この一節は知っていた。ただ、これは『律』というよりも、「戒」の話をしているようにも思うが、まぁ、それは良いか。ただ、椎尾先生はこの伝承を元に論じておられるのだろうと思う。ところで、残る問題は「世尊、成道より五年、比丘僧悉く清浄なり。是れ自り已後、漸漸に非を為す」の部分である。これは、具体的には何を指しているのだろうか?

それで見つけたのが以下の一節。

世尊、毘舍離城に於いて、成仏より五年の冬分第五半月十二日中の食後、東に向いて坐し、一人半影なり。長老・耶舎迦蘭陀子の為に此の戒を制す。已に制すれば、当に随順して行ずべし。是れを随順法と名づく。
    『摩訶僧祇律』巻2「明四波羅夷法之二(婬戒之余)』


この一節は、他の著名な『律』には見られないようだが、「随順法」の嚆矢として指摘されているようなので、おそらくはこれが釈尊成道後5年に起きた問題だということなのだろう。具体的には、四波羅夷の一である「不婬戒」に該当するようだ。ただし、この長老の名前は『摩訶僧祇律』の字の通りで探してみても、他に出て来ない。しかし、これは「不婬戒」についての説示だと考えてみると、おそらく「須提那」のことだと思う。「迦蘭陀」は住んでいた村の名前である。

それで、「須提那」で調べると、『四分律』『十誦律』その他の諸律にも制定経緯が見えるのだが、以下の指摘があった。

僧祇律に依れば、五年已後、広く戒律を制す。若し四分に依れば、十二年後、須提那に因りて広く戒律を制す。
    『大乗義章』


こうあって、上記の一節では『摩訶僧祇律』と『四分律』とで、制定時期に違いがあることを指摘している。確かに『四分律』を見てみると、「五年」という話は出て来ないように思う。ただし、上記の説を合揉した場合もある。

婬戒〈仏、毘舎離国に在り。須提那子、出家し已りて本村に還り、与に故に二共に不浄を行じ、制に因る。僧祇の婬戒、五年の冬分に制す。余の三戒、並びに六年の冬分に制す〉。
    霊芝元照『四分律行事鈔資持記』中一下


宋代の元照は、上記の通り指摘し、『摩訶僧祇律』において、婬戒の制定時期と、波羅夷戒の他の三戒との制定時期が異なることを指摘している。そして、この時、比丘の名前は「須提那子」としており、「耶舎迦蘭陀子」とはしていない。なお、「五年」ということと、「随順法」という2つを具備していることから、この辺が典拠になるのだろうということまでは理解した。

まぁ、もう少し先行研究を見れば判明することも多いだろうが、拙僧なりに調べるという過程が大事だと思っているので、今日の記事は以上までとする。

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