つらつら日暮らし

道元禅師の僧団に見える雑居性

この記事では、道元禅師と、他宗派の方々との繋がりを確認することで、いわゆる初期曹洞宗僧団の「多様性」を見ておきたいと思う。

●達磨宗(ただの禅宗と区別するために「日本達磨宗」ともいう)の関係
永平懐奘禅師(1198~1280) 永平寺2世
※元々は日本達磨宗で、仏地覚晏の弟子であった。弟子入りの経緯は『伝光録』第52章に詳しい。『正法眼蔵随聞記』の筆録者、『正法眼蔵』『永平広録』の編者。

・懐鑑上人(?~1251?)
※達磨宗で、能忍―覚晏と続いた系統を受け嗣いだ。なお、道元禅師に対し、先師・覚晏上人への追悼の上堂を請うた(『永平広録』巻3-185上堂)。後に、弟子である義準は、懐鑑上人に対しての上堂を道元禅師に請うた(『永平広録』巻7-507上堂)。その他達磨宗から来た者。徹通義介禅師(永平寺3世)・義演禅師(永平寺4世、『永平広録』の編者)・義準上人(道元禅師の晩年に書状侍者を務めた)なども、初期曹洞宗僧団に入った。

●宝慶寂円禅師(1207~1299) 福井宝慶寺
※『宝慶由緒記』では、元々天童如浄禅師の下で道元禅師と同参であったとするが、法嗣の永平寺5世・義雲禅師の『義雲禅師語録』などからは、詳細が知られず、伝記的内容などは議論されている。

●永興寺教団と『正法眼蔵抄』
・詮慧禅師(不明) 京都永興寺 『永平広録』の編者
・経豪禅師(不明)
・寂光禅師(不明)
※詮慧禅師は元々天台宗であり、道元禅師の興聖寺での上堂を聞いて弟子入りを決めたとされる(『永平広録』巻1―2上堂)。75巻本系統への『正法眼蔵聞書』を著す。その後は永興寺で弟子達が参究を続け、いわゆる『正法眼蔵抄』の成立を見る(同書中に「永興寺五世和尚」の語句も見えるため、しばらく後まで続いたものか)。

●他宗派からの弟子入り
〔浄土教系〕
・正信房湛空上人(1176~1253)
古モ仏ヲカンシ橛ナント云詞アリ。故嵯峨ノ正信上人、仏ヲカンシ橛ナント殺仏ナムト開山説法ノ時被仰タリケルヲ聴聞シテ、アナクチヲシ仏ヲカヽル物ニ喩ラル禅宗ヲソロシキモノカナトテ、落涙セラレケリ。此事ヲ開山モレ聞テ、アレホトニ愚痴ニテ人ニ戒ヲサツケ被帰依事、不便ノ次第也。我モイヤ目ナラハ落涙シツヘキ事也ト被仰ケリ。見解ノ黒白以之可准知比興物語也。
    『正法眼蔵抄』「行仏威儀」巻、『蒐書大成』巻11・350~351頁


・鎌倉光明寺 然阿良忠上人(1199~1287)
※浄土宗鎮西派の第三祖。その伝記である『鎌倉左介浄刹光明寺御伝』に道元禅師への参学が見えるが、実際のところは疑わしい。

・覚明房長西上人(1184~1266)
※浄土宗九品寺流の祖。東大寺の凝然大徳が著した『浄土法門源流章』に「仏法禅師に値って久しく禅学を経る」という一文があるため、少なくとも南都で、上記の伝承があったことが知られる。

〔南都仏教〕
・如空房理然(不明)
※戒壇院で戒律を学んだ後、永平寺にて参じたとされる(一説には懐奘禅師の時か)。詳細は【永平寺で学んだ律宗の人】をご覧いただきたい。

このように、出自は天台宗を初め、達磨宗・浄土宗、そして南都仏教からも修行僧が訪れていた。よって、道元禅師の御垂示に、叢林作法としての威儀・進退に関する説示が多いというのは、この辺に理由がありそうである。無論、教学的な要素も十分に議論され、教授しなくてはならないところだろうが、内面的な教義より、外見的なことは、常に眼につくため、細かいことまで気にされる場合は、常に苦言を呈されたと思われる。例えば、御袈裟の作り方について、非常に細かな指摘をされる箇所が知られる。

 袈裟を受持すべくは、正伝の袈裟を正伝すべし、信受すべし。偽作の袈裟を受持すべからず。その正伝の袈裟といふは、いま少林・曹渓より正伝せるは、これ如来より嫡嫡相承すること、一代も虧闕せざるところなり。このゆえに、道業まさしく稟受し、仏衣したしく手にいれるによりてなり。
 仏道は仏道に正伝す、閑人の伝得に一任せざるなり。俗諺にいはく、千聞は一見にしかず、千見は一経にしかず。これをもてかへりみれば、千見万聞たとひありとも、一得にしかず、仏衣正伝せるにしくべからざるなり。正伝あるをうたがふべくは、正伝をゆめにもみざらんは、いよいようたがふべし。仏経を伝聞せんよりは、仏衣正伝せらんはしたしかるべし。千経万得ありとも、一証にしかじ。仏祖は証契なり、教・律の凡流にならふべからず。
    『正法眼蔵』「伝衣」巻


つまり、服装(威儀)とか、作法(進退)について、繰り返し述べられたのは、こういう様々な背景を持って来ていた弟子達の雑居性に対応するものだったのではないか?と思うのである。或いは『正法眼蔵』の中では、繰り返し「正伝」ということ、或いは「仏道」「祖道」というような表現でもって、自ら自身が伝えられたことの正統性を主張し、またその道を歩ませようとしている様子が確認できる。従来は、この辺が全て「達磨宗」にばかり関心が持たれていたが、実際のところ、弟子の全体からすれば、達磨宗は部分的だっただろうし、特に京都にいた頃には、達磨宗よりも、他宗派の方が勢力的に大きかったのではないかと思うのである。

天台宗とか、南都仏教(密教の影響が強い)とか、或いは浄土宗(聖[ひじり]の印象も強い)とか、それぞれに宗教性を持っていた人達が、道元禅師に何を学びに来ていたのか?実際のところ、伝記などでは参学した事実ばかりが強調されて、詳しいところは良く分からないが、貴重な例外としては、やはり懐奘禅師に関する記録であろう。

然るに永平元和尚、安貞元丁亥歳、初て建仁寺に帰りて修練す。時に大宋より正法を伝て窃かに弘通せんといふ聞へあり。師聞て思はく、我既に三止三観の宗に暗からず、浄土一門の要行に達すと雖も、尚ほ既に多武の峯に参ず。頗ぶる見性成仏の旨に達す。何事の伝へ来ることかあらんと云て、試に赴きて乃ち元和尚に参ず。
    瑩山紹瑾禅師提唱『伝光録』第52章


まだ建仁寺に居られた道元禅師の噂を聞いて、自分自身、天台宗の止観行に通じ、浄土教(小坂という記述もあるため、村上源氏の証空上人か)の教えも会得し、そして見性成仏までしているのだから、今更に別の教えなどあるものか?として聞きに来られている。つまり、道場破り的な来訪者であったともいえる。先に挙げた正信房湛空上人も、何かを求めてきていたようである。無住道曉禅師の『雑談集』巻8では、道元禅師の僧団が坐禅行をしていたことを貴び拝んで人がいたとされる。

そういえば、もう1人特記すべき参学者として、挙げておきたい人がおられる。

爰に東海道遠江巌室寺の住持、僧・円智上人、三廻覿面して、仏祖の大道を咨参す。
    『永平広録』巻8-法語2


この円智上人がどのような人であるのか?先行研究では明らかにされていないが、しかし、一寺の住持であった人も道元禅師に参じていたため、仏祖の大道について興味があり、それを知りたがっていたものか。特に、円智上人は道元禅師から公案を与えられ、それを学んでいたというから、当時の臨済宗と方法論的に異なっていた様子は、あまり見られない。

とはいえ、『雑談集』などからすれば、やはり坐禅という正伝の仏法を学びに来ていたと考えるのが、妥当だろうか。

仏教 - ブログ村ハッシュタグ
#仏教
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事