一 三教首座
首座の名、即ち上座なり。席の端に居り、僧の上に処る。故に曰ふなり。
尋るに唐世、辯章に勅して修寺を檢校せしむ。宣宗、其の功を賞して、三教首座と署す。
三教首座は則ち辯章を始と為すなり。朱梁、周に洎で、或いは除き、或いは立す。悉く謂ふ時に随ふと。
『緇門正儀』5丁表、訓読は原典を参照しつつ当方
この一項は、本書が拠っている『大宋僧史略』巻中では、「三十三講経論首座」となっているのだが、その本来の内容から「三教」の部分のみを取り出したのが、上記の内容である。最初、採り上げるかどうか迷ったが、「首座」という言葉の解説が付されていたので、引用した次第である。
それから、「三教」も気にはなる。中国での意味であれば、一般的に「儒仏道の三教」を指すはずだが、上記内容だけでは分からない。これは、実は当初の「講経論首座」項の方が分かりやすいのである。「故に三教の字を標するに、未だ必ずしも六籍に該通し、二篇に博綜せず。本教の諸科に通ず」とあるのだが、まず「六籍」が儒教である。具体的には、『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』『楽経』が該当したというが、『楽経』は後に『周礼』へと置き換えられた。これらの6つの典籍を、「六籍」或いは「六経」という。
一方で「二篇」が何を意味するのかは、現段階では不明だが、もしこれが「道教」であるとすれば、『老子』『荘子』かとも思うが、良く分からない。ただし、これらの通じているかどうかよりは、諸科に通じ、しっかりと読めることの方が大事だったと言える。
また、ここで「三教首座」として名前が出て来る「辯章」だが、『仏祖統紀』などを参照すると、唐の宣宗(在位:846~859年)によって任命されたという。つまりは、武宗による「会昌の破仏」からの復興期に任じられた人だったといえるが、色々と大変で上記一節にも「辯章に勅して修寺を檢校せしむ」とあるが、仏教及び寺院復興に携わった人、という評価で良いわけである。
『釈氏稽古略』巻3を見ると、「受戒給牒」という項目に、「丙子大中十年、法師辯章に勅して三教首座と為し、初めて僧尼をして受戒給牒せしむ〈唐書旧史〉」とある。「大中十年」とは、宣宗の在世時であり、856年に当たる。ここで、男性と女性の僧侶に対して、受戒し度牒を給ったというが、辯章がそれを取り仕切った、ということかもしれないが、その辺は『唐書旧史(旧唐書)』を見る機会があれば、更に学びたいものだ。
なお、「三教首座」であるが『仏祖統紀』などを見ると、辯章以外にも任じられた者がいる。また、唐が滅亡して五代時代に入ると、王朝によって、その地位が置かれたり、除かれたりしたという。そう考えると、やはり何か意図があって置かれた役職かとも思うが、詳細は不明。
【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年
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