つらつら日暮らし

中国の盂蘭盆会の始まり(令和4年度八月盆②)

昨日、日本の盂蘭盆会の始まりについて論じたが、今度は中国のそれについて考えておきたい。明治時代の研究で、以下のような指摘があったので、その検証をしつつ確認したいと思う。

  ○盂蘭盆会
 漢土にては梁武帝大同四年〈我紀元一千百九十八年〉初めて盂蘭盆会を設けたるよし仏祖統紀に見ゆ。
    大内青巒居士『釈門事物起原』巻下・18丁表


以上である。なお、これは中国南北朝時代の南朝・梁の武帝(464~549)が大同4年(538)に、盂蘭盆会を実施したという記事である。当文献の編著者である大内青巒居士は、『仏祖統紀』を典拠としている。そこで、典拠は以下の通りである。

四年、帝、同泰寺に幸し、盂蘭盆斎〈梵語の盂蘭、此に云く倒懸と解す。是れ目連尊者、此の盆供を設けて、母氏の餓鬼の苦を得脱す〉を設く。
    『仏祖統紀』巻37


これが、青巒居士の参照された文脈であると思われる。この「四年」は「大同四年」であるし、「帝」は「梁の武帝」のことである。そこで、個人的に気になったのは盂蘭盆斎が開かれた「同泰寺」だが、このお寺自体、「辛丑 普通二年 九月、帝、同泰寺を建つ」(『釈氏稽古略』巻2)とある通り、武帝によって建立された寺院であり、普通2年(521)の建立以後、しばしば武帝は同寺院に行幸しているのである。

そして、記録上、中国での盂蘭盆会の最古は、まずこの事績になるようである。もちろん、記録されていない場合があったのかもしれないが、当方の調べではよく分からない。なお、『盂蘭盆経』は竺法護(233~316)訳だとされていたので、時代的には武帝よりも遡る。ただし、僧祐(445~518)編『出三蔵記集』には巻下之四に『盂蘭経』が出ているが、『盂蘭盆経』とは名称が異なる。とはいえ、宗密『盂蘭盆経疏』や『経律異相』巻14「目連為母造盆十一」でも『盂蘭経』という名称を用いているので、同じものなのかもしれない。

盂蘭盆 丙午大暦元年七月壬午、帝、盂蘭盆会を禁中に作し、高祖太宗已下七聖の位を設け、巨幡を建て、各おの帝号を以て其の上に標す〈中略〉是の歳より、以て常と為す。
    『釈氏稽古略』巻3「代宗」項


代宗(727~779)は、唐の第11代皇帝であり、この「大暦元年」とは西暦766年に該当する。ここで、代宗皇帝は禁中で盂蘭盆会を実施し、唐王朝の祖廟を祀り、供養した様子が分かる。つまり、盂蘭盆会は先祖供養の要素を色濃く持っていたことになるだろう。そして、この年からは、毎年、禁中で盂蘭盆会を行うようになったようである。

なお、代宗皇帝は、父の肅宗とともに、玄宗皇帝の置き土産というべき「安史の乱」からの国勢の回復を目指した人であったが、皇帝自身の権威などは失墜していた時代でもあった。その時代に、先祖供養としての盂蘭盆会を実施したというのは、その観点からも興味深いことである。つまり、祖廟の供養で、皇帝の権威と国勢を回復しようとしたのではないか、ということである。

また、唐王朝は、8世紀まではまだ、上記のように仏教への信仰も強く持っていたわけである。9世紀中頃には、武宗が出て、いわゆるの「会昌の破仏」を実施してしまい、壊滅状態に陥るが、その前の段階として扱うことが出来る一事であった。今回の記事はあくまでも、皇帝などが主導した形での盂蘭盆会であったが、民衆中心として行われた場合はいつ頃の時代からだったのだろうか。それは当方の問題意識として残しておきたい。

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