まぁ、拙僧は『梁塵秘抄』を専門にはしていませんし、本来なら、専門に研究している学者の論文などを紹介すればいいのでしょうけど、それを調べている時間もなかったので、岩波文庫本『梁塵秘抄』から、念仏往生に該当する文言を抜き出して、見ていきたいと思います。
・阿弥陀仏の誓願ぞ、かへすがへすもたのもしき、一度御名をとなふれば、仏に成るぞと説いたまふ。 巻2-仏歌29
・弥陀の誓ぞたのもしき、十悪五逆の人なれど、一たび御名を称ふれば、来迎引接疑はず。 巻2-仏歌30、巻2-雑法文歌237
・我等は何して老いぬらん、思へばいとこそあはれなれ、今は西方極楽の、弥陀の誓を念ずべし。 巻2-雑法文歌235
・我等が心に隙もなく、弥陀の浄土を願ふかな、輪廻の罪こそ重くとも、最後に必ず迎へたまへ。 巻2-雑法文歌236
以上『梁塵秘抄』(佐佐木信綱校訂・岩波文庫)末尾の番号は同著、下線は拙僧
だいたい、このようなものが目に付きましたので、抜き出しておきました。特に、上から2つ目に挙げられている歌の下線部をご覧いただければ分かると思いますが、悪人であっても、阿弥陀仏の名前を称えれば、往生できるという話になっております。悪人正機説というと、悪人こそが救われるという話になっていますが、この箇所は、悪人であっても救われるという話で、その悪人正機説に見えるような逆説的救済論とまでは行かないように思います。ということで、ちょっと『歎異抄』を見ていきたいと思いますが、以下のような教えがあります。
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
『歎異抄』3、下線は拙僧
これを親鸞聖人が述べられたとすれば、やはり先に挙げた『梁塵秘抄』よりも踏み込んだ表現ということになります。『梁塵秘抄』では、どれほどの悪人であっても、お念仏で救われるということになりますが、この『歎異抄』では、悪人では無い人は、自分の力を頼ってしまうから、本願他力に反していて(それでも、上記引用文を見ると、善人も虚心にお頼みすれば良いようですが)、一方で悪人は、自分でどうにもしようがないから、虚心に阿弥陀仏にお任せするしかない、そこに他力の念仏があるということになります。まさに、悪人こそが、本来救われるべき存在(=正機)だというわけですね。
ですから、おそらく親鸞聖人の独自性を訴えたい人は、この「踏み込み」をこそ評価されると思います。拙僧も、その点の評価については、重要に思っています。ただ、どのような悪人であっても救われるという発想は、既にそれ以前にあったこともまた事実でありますので、「悪人でも」或いは「悪人こそ」という言い回しの違いでもって、両者の違いがあるという理解にしておくべきなのかな?と思った拙僧でした。
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