中秋の上堂に云く、
中秋月中秋月、古今尽く謂く尋常とは別なりと。
別と不別と、皎皎たる清光大千に遍しし。任従あれ天下紜紜の説。
『法演禅師語録』巻中
まず、こちらを詠まれたのは中国臨済宗の五祖法演禅師(?~1104)という人である。「五祖」と付いてはいるが、決して中国禅宗五祖を意味しているのではなく、化を振るったのが五祖弘忍禅師がいた黄梅山(五祖山)だったことから、このように呼ばれている。なお、中国宋代の禅宗に詳しい人なら、もちろんこの人の名前は良く見ると思うが、そうでもない人にとっては、弟子の方が有名かもしれない。
この人の弟子には、かの『碧巌録』を編んだ、圜悟克勤禅師が輩出されているのである。そうなると、徐々に公案禅が大成されていく状況で活動した人というイメージで見ていれば良いことになる。
そこで、上記に挙げた漢詩の内容だが、中秋に法演禅師は上堂・説法されると、中秋の月、中秋の月と二度呼ばれて、その独立した様子を讃えた。そして、古今の人々がことごとく、この名月は普段の月の様子とは異なっていると讃えていることを、法演禅師は「別と不別という分別がある」としつつ、皓皓とした清らかな光は、大千世界に遍いているため、そもそも、そのような違いの有無を考えるべきだはないとした。
そして、天下に広がる紜紜(混乱した様子)たる説については、耳を貸すべきではないとしたのである。
つまり、どこまでも月の独立し、絶対的な輝きを持っていることのみを讃えれば良いのであって、それを他の日の月と比較すれば、分別に堕落することを批判した内容だといえよう。今日、もし中秋の名月を味わうことが出来ても、分別すれば汚すことを注意しておきたい。
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