つらつら日暮らし

『大智度論』と「彼岸」について(12)

春の彼岸会である。「彼岸会」の起源や展開の一端については、【彼岸会―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただければ幸いである。さて、この期間に関連して、今回は上記タイトルの通り、龍樹菩薩造『大智度論』から、「彼岸」に関する語句を学んでいきたいと思っている。

復た次に、菩薩の持戒、仏道なるが故に、大要誓を作し、必ず衆生を度すべし。今世・後世の楽を求めず、名聞虚誉の法を為さざるが故に、亦た自らの為に早く涅槃を求めず。但だ衆生の為に長流に没在す。恩愛の欺く所、愚惑、誤る所なり。我れ当に之をして度し、彼岸に到らしむ。
    『大智度論』巻14


要するに、菩薩の持戒とは仏道だということである。そのため、誓願を起こして、衆生をわたすべきだという。つまり、菩薩の持戒は、ただ自らのみの解脱を願う声聞の持戒とは異なり、衆生のためになされるものだという意味になる。そうなると、外見的な行いのみを意味せず、極めて理念的な内容へと到るのが、菩薩の持戒、或いは端的に菩薩戒である。

なお、菩薩戒は今世のみ護持するのではなく、生生世世に護持されるべきものとなる。そして、名聞利養を求めず、しかも、涅槃に入ることも求めないという。それは、衆生のためにこの世界に留まって、ひたすらに救済活動を行うためでもある。しかし、それをこの世界へのとらわれが激しい者などは、誤解することがあるという。だが、そのような者達をこそ、菩薩は救済の対象としていくのである。

そのような困難な救済対象への活動こそ、菩薩の本懐であるといえよう。結果として、自他の分別を止めたとき、誰か特定の人への執着は無くなるけれども、誰に対しても斉しく救おうと努力し続ける、しかも、自他の分別が無いから、どちらかの都合でそれを止めることもないという状態になる。

俗っぽい表現をすれば、救済無双・・・それこそが、菩薩の大誓願なのである。

さて、春のお彼岸は今日までである。墓参された方へは、心からお疲れ様と申し上げたいし、ご先祖に成り代わってありがとうという思いをお伝えして、この短期連載を終える。

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