つらつら日暮らし

仏教の論争の結果とは・・・

先日、岩波のリクエスト復刊を手に入れたので、嘉祥大師の『三論玄義』を読んでいた。その冒頭に近いところに、このように書いてある。

 総じて宗要を序ぶるに、開きて二門と為す。
 一つには通じて大帰を序べ、二つには別して衆品を釈す。
 初門に二つあり、一つには破邪、二つには顕正なり。
 夫そも、適化に方無く、陶誘、一に非ず。聖心を考うれば、患を息くを主と為し、教の意を統くくりて、以て理を通ぶることを宗と為す。但し、九十六の術は火宅に栖んで浄道と為し、五百の異部は見の網をまとうて泥洹と為す。遂に鹿苑を坵墟とし、鷲山を荊蕀とならしむ。善逝、以て之を流慟し、薩埵、所以に大悲す。四依、此の為に興で、三論、斯に由りて作る。
    『大正蔵』巻45・1頁


拙僧つらつら鑑みるに、仏教に於ける論争の結果がどうなるか?ということが書かれている。有り体に言えば、当然に良くは書いて居ない。それこそ、『遺教経』の「八大人覚」で「不戯論」が説かれている通り、仏教は本来、無用な論争を嫌う宗教である。この場合も、「聖心を考うれば、患を息くを主と為し」とある通りで、仏教というのは、まずは目の前にいる人の苦悩を除くことこそが肝心であると言う。

そして、これで本来、必要にして十分な宗教であると言える。

だが、「九十六の術」という仏道以外の者(いわゆる仏教用語としては「外道」と表現する)については、この現世に留まってそれをさとりとしているが、それでは大きな問題であるし、また、仏教内部に発生した「五百の異部」は、自らの見解にとらわれてかえって煩悩を増し、やはり自らの見解をさとりであるとしている。

その結果、釈尊の基本的な教え(いわゆる阿含など)が説かれた鹿野苑は廃墟となり、大乗(特に法華など)が説かれた霊鷲山には茨が生えて誰も近づけなくなってしまった。これに対し、善逝(仏陀)は大いに落胆され、菩薩も大いに悲しんだ。その結果、四依の境涯にある龍樹(ナーガールジュナ)と提婆は、三論を作ったのである、という話になっている。

無用な論争をすると、仏陀の足跡を残す貴重な遺跡が廃墟になるという指摘、極めて重大である。拙僧どもも必要に駆られて議論を行うことがあるが、その時に忘れてはならないのは、絶対に枝葉に陥らず、本質を追究することである。この場合は、衆生の救済こそが仏教の本来なる役割であれば、法の性質などは枝葉である。我々の心の本質を見極め、それをどういう方法で救うかだけが肝心なのである。

「三論」は、そのような議論を終わらせるための議論として、この世界に登場した・・・ことになっている。何故そういう含みを持たせたかといえば、議論を終わらせるための議論というのは、中々に難しいためだ。結果、議論を終わらせるための議論を巡って、またしても議論となった。そうなると、今度はどこが廃墟になるのだろうか?中国で有名な仏教霊場であろうか・・・

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