爰に有る在家人、来つて問て云く、近代在家人、衆僧を供養じ仏法を帰敬するに多く不吉の事出来るに因つて、邪見起りて三宝に帰敬せじと思ふ、如何。
答へて云く、即ち衆僧、仏法の咎にあらず。即ち在家人の自が誤なり。その故は、仮令人目ばかり持戒持斉の由現ずる僧をば貴くし、供養じ、破戒無慚の僧の飲酒肉食等するをば不当なりと思うて供養せず。この差別の心、実に仏意に背けり。因つて帰敬の功も空しく、感応無きなり。戒の中にも処々にこの心を誡めたり。僧と云はば、徳の有無を択ばず、ただ供養すべきなり。殊にその外相を以て内徳の有無を定むべからず。
末世の比丘、聊か外相尋常なる処と見ゆれども、また是れに勝りたる悪心も悪事もあるなり。仍て、好き僧、悪しき僧を差別し思ふ事無くて、仏弟子なれば此方を貴びて、平等の心にて供養帰敬もせば、必ず仏意に叶つて、利益も速疾にあるべきなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2
この一文の意旨は、お読みいただければ分かると思うのだが、要するに或る在家人が、僧侶を供養しても良いことがないのは僧侶のせいだとして、供養を止めてしまった、という話に対し、道元禅師がそのような在家人の態度を批判したものである。そこで、道元禅師は在家人が僧侶の善し悪しを差別する心そのものを批判しているといえる。それで、「戒の中にも処々にこの心を誡めたり」とあるわけだが、出典・典拠について気になっていた。先行研究では、明示したものを見たことがない・・・
すると、次の一節を見出し、ここで道元禅師が言われることと一致しているので、参照してみた次第である。
斎僧の法は敬をもって宗となす。ただ僧次によって延迎し、妄りに軽重を生ずることを得ざれ。凡夫の肉眼誰か聖賢を弁ぜん。誤って軽心を起さば定めて薄福を招かん。
『禅苑清規』巻10「斎僧儀」
最初の「斎僧の法は敬をもって宗となす」については、道元禅師御自身『示庫院文』で引用されるため、この一節自体を参照しておられたことは明らかだといえる。そこで、内容を吟味すれば、もし、僧侶を食事に招く場合には、ただ僧次(出家してからの年数、法臘によって付けられる順番のこと)に従ってもてなすべきなのであり、それ以外に軽重を生じることがあってはならないとしている。
この辺は分かりやすくいえば、「あのお坊さんは善いお坊さんだから、お布施をたくさん包もう」とか、その逆に「このお坊さんは悪いお坊さんだから、お布施は包まないでおこう」という時の「善し悪し」、或いはその扱いの「軽重」について、差別をしてはならないことの取り決めである。『禅苑清規』では、凡夫の肉眼では、僧侶の優劣を判別することが出来ないと断じており、よって、もし、特定の僧侶などを軽んじることがあれば、そのことによって、却って幸福が減少するとまで述べているのである。
それを思うと、先に引いた道元禅師の教えと全く一緒といえる。道元禅師も、在家人が僧侶の善し悪しを差別する心こそが、むしろ功徳の発現を妨げているという。こうなると、結局、あくまでも布施という行為そのものは、その当人に責任があるともいえるし、同時にその本人が功徳を享受するとも言い得る。対象が問われるのではなくて、その当人の行い、心持ち、そちらが肝心なのである。
しかし、原則として、凡見に於いて聖・賢を見出すことが出来ないという『禅苑清規』の指摘は、我々が思っている以上に、深くて重いと思われる。昨今の状況であれば、「消費者」というような用語や、「市場価値」というような用語を用いながら、僧侶そのものや、僧侶による宗教的行いを「サービス」に還元してみるという営みがある。だが、その極論を申し上げれば、これらも全て、凡見による価値付けに過ぎず、『禅苑清規』による批判の射程を逃れていない。
よって、世間一般に於ける僧侶への様々な評価が、仏教界と呼ばれる領域に常に届かない理由は、これらの原理的問題があるためだと思われ、これを解消する手段については、今のところ良く分からない。
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