当日受戒会
師、垂示云、一切諸法をおつ束て一大縁起じや、此縁起の法には必ず染浄の二法が分れ子ばならぬ、染汚縁起相続究竟すれば、必ず三悪趣に出現したものじや、三悪趣と云て、別に此縁起の外に定た所が有ではない、其染汚縁起の中にも厚薄あるゆへに、三悪趣の中にも苦報の軽重がある、清浄縁起相続究竟すれば、必ず仏界を出現したものじや、雲のあなた虚空のすまの隅に光る人が寄り堅つて御座あるではない、仏性とて別に一物昭々霊々たる鎮長霊の物あると云ことではない、其清浄縁起の中にも浅深厚薄ある故に、いやとも三乗の差別も出現したものじや、如此一法性の中、清浄に縁起差別する、
拙僧所持『慈雲尊者御垂示』写本、25丁表~裏、カナをかなにし句読点を付すなどした
まず、当該写本の内容や、御垂示の順番などから、宝暦11年(1761)より前であろうと思われる。よって、慈雲禅師の御垂示の中では、比較的早い時期の教えになるのだろう。それで、そもそも「当日受戒会」とは何であろうか?拙僧的には耳慣れない。1つ考えられるのは、受者が希望したその日に受戒できることなのであろう。一日授戒会の意味である。
なお、内容を読んでも、「一日授戒会」の意味かどうかが分からないし、内容は1回分の説戒だと理解出来るため、正直、何日だろうと余り関係が無い。ただ、一日授戒会だと、その日一日しか師家の教えを聞かない可能性もある。そうなると、余りに甚深な教えは説けないというべきだろう。
そういった推定などを踏まえて、以上の文章を読み解いていきたい。
まず、慈雲尊者は一切の諸法を束ねて、一大縁起だとしている。これは、この世界にある存在は全て、縁起だということである。縁起とは、何らかの事象が、何かに繋がっていくことを指す。そこで、慈雲尊者はまず、その縁起の法が、染汚と清浄との二法に分かれるとしている。その内、染汚の縁起を相続し、究竟すれば、必ず三悪趣に転生するという。三悪趣とは、三悪道、三途などとも表現するが、六道の内、下の三道を指すのである。ただし、三悪道の中にも縁起の定めというが、それは、軽重という形で現れるのである。
それから、清浄の縁起の相続もあるが、その究竟まで至れば、必ず「仏界」を出現するという。ここで興味深いのは、慈雲尊者は「仏性とて別に一物昭々霊々たる鎮長霊の物あると云ことではない」としている通り、仏性の機能は余り信用していないようである。その代わり、「其清浄縁起の中にも浅深厚薄ある故に、いやとも三乗の差別も出現したものじや、如此一法性の中、清浄に縁起差別する」としているので、必要な修行を行い、その善い結果としての仏界出現となるのだろう。
かつての「批判仏教」で明らかにしたように、仏性思想は或る種の縁起否定である。その点、慈雲尊者は、自己自身の修行とその結果に、救いを見ているのである。善行を行うために、「当日受戒会」に集まったであろう衆生へ、最も大事な説示である。
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