つらつら日暮らし

「人日の節句」と禅宗について

本日、1月7日は「人日の節句」といい、「七草粥」を食べることでも知られている。節句といえば、禅宗の修行道場では、その日に合わせた説法を行うことが伝統的だったが、人日についても、江戸時代の曹洞宗の学僧達は、何かしらの行持を行っていたらしい。といいつつ、今日は別の観点でのお話しをしてみたい。

 人日の示衆。記得す。
 古人曰く「元日、鶏と曰う。二日、狗と曰う。三日、猪と曰う。四日、羊と曰う。五日、牛と曰う。六日、馬と曰う。七日、人と曰う」と。
 人日、即ち問わず。那一人、何処に在りや。諸人、試みに一人を指出して看よ。
 〈竹箆を挙して〉代って曰く、急いで眼を著けて看よ〈擲下し去る〉。若し也、著けざれば直に当来を待って弥勒に問え。
    『虎穴録』


この『虎穴録』とは、臨済宗大本山妙心寺11世の悟渓宗頓(1416~1500)という人の語録である。時代的には15世紀の室町時代を生きた祖師だが、その中にこの示衆の語が残されている。なお、宗頓が指摘する「古人」とは、中国での言い伝えを指している。人日について、非常に分かりやすい教えであるように思う。

さて、宗頓がこの示衆で問うているのは、人日という経緯に加えて、「人」とは何ぞや?ということである。「そんな人を」というくらいの意味で「那一人」と問われているが、この一人を問うというのが難しい。しかし、これが会得できねば、人日などをいくら迎えても、意味は無いといえる。或いは、この「一人」は「一箇半箇」の「一箇」にも似て、ただの数字的な問題を超えている。いや、元から「一」というのは、数字的な見え方を超え行くものである。一というのは不思議な数字である。一さえあれば、ありとあらゆる自然数・整数を数えることができる。その意味では、あらゆる現象の「根源」とも言える。しかも、根源でありながら隠れているのではなくて、それ自体数字の「一」である。

よって、全ては「一」でありながら、同時に他の数字にもなる。よって「一人」もまた同じで、あらゆる人間存在でありながら、その根源である。よって、この一人を会得し、更にその応用も悟ることが出来たら、人日の節句に相応しい心持ちになることも出来る。ところで、一人というのは根源であるといったが、根源ということは、有的なところのみで話をすると厳しいモノがある。実際のところ、本当の意味でありとあらゆるモノに成り行くのは、「無」だからである。つまり、那一人も、有的なモノとして執着すれば、ある時までは良いにせよ、必ずその自らの存在性に引きずられて限界を露呈する。

したがって、この那一人は、一切の人間存在の根源とし、応用まで可能な存在ではあるうが、こだわることは許されていない。宗頓はその様子を示さんがため、手にした竹箆を採り上げて、学人の注意を引き付けておきながら、それを捨てた。師が竹箆を捨てた際に、修行僧はそのこだわりを捨てなくてはならない。もし、捨てることが出来ないような未熟者は、この世界での悟りを明らめ、後は弥勒菩薩が56億7千万年後に下生してきた時の「竜華会」で聞くしかないといえる。


なお、余談になるが、今朝、拙僧も七草粥を頂戴した。

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