復た次に、善男子、四種の僧有り、何等をか四と為すや。
一つには勝義僧、
二つには世俗僧、
三つには唖羊僧、
四つには無慚愧僧なり。
『大乗大集地蔵十輪経』巻5「有依行品第四之一」
以前、【勝義僧】のみは検討したことがあった。ただし、その際には訳語の相違だろうか、「第一義僧」という名称であったが、同じことである。そして、そのリンク先の記述では、「浄僧」に当たるのが、ここでいう「世俗僧」のようである。
一見して、「世俗僧」という表現は、世俗に生きる僧侶くらいの意味で、或る種の堕落などを指摘するのかな?とか想っていたら、そういう話では無いらしい。
云何が世俗僧と名づくるや。謂わく、鬚髪を剃り、袈裟を被服して、出家別解脱戒を成就す。是れを世俗僧と名づく。
同上
このように、世俗僧とは、髪などを剃り、袈裟を着け、出家として守るべき別解脱戒(波羅提木叉)を成就するとあるので、出家者としての本分をしっかりと果たしているように思えてしまう。よって、もう少し別の文脈を学ぶ必要がある。
世俗僧とは、謂わく、善異生なり。此れ能く作法・非法の業に通ず。
勝義僧とは、謂わく、無学法を学す。
『阿毘達磨順正理論』巻38「辯業品第四之六」
同じような見解は、別の論書にも見られるので、上記のように引用しておいた。つまり、世俗僧というのは、戒律を能く学んでいるので、作法・非法の業に通じており、やはり出家者としての本分を果たしている。一方で、四種の僧という順番からすると、「勝義僧」に劣る印象もあるが、「勝義僧」とは無学法(阿羅漢)を学ぶことを指している。
ということで、世俗僧というのは、この世界に於いて普通に学ぶ僧侶を指していることが分かり、また、その内容は上記の『地蔵十輪経』との記載とは矛盾しないことが分かる。しかし、上記の記述だけでは、「世俗僧」という名称が採用された理由が分からない。これは、色々と調べてみたが、現段階では本当に良く分からない。
また、敢えてその分類に入らないということは、勝義僧については非世俗的な位置付けで存在することになるのだろう。
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