それで、中国の様々な故事を見てみると、各宗派の僧侶が王宮に呼ばれて、皇帝(王)や皇后、或いは大臣などに授戒する場合はあったようだが、庶民も含めて広く授戒した場面というのは、中々見られなかった。
宋景造暦、求めて短を捨つ。大儒、徐遵明・李宝頂等、一対して言前に信べて、菩薩戒法を以て授く。五衆、これに帰すること市の如し。
『続高僧伝』巻8「釈僧範」項
「五衆」というのが、具体的に何を指しているのか分からないのだが、四衆は含まれるのであろう。つまり、在家信者も、「市をなす」ほど多く集まってきたことを意味していよう。なお、この僧範だが、中国南北朝時代の北斉(550~577年)時代の人であったらしい。よって、上記記述は、かなり古い記録といえよう。それこそ、禅宗では六祖慧能や大通神秀の頃に、授戒会が盛んであったとはされるが、それよりも遡る記録である。
此の日、山院に法花会畢んぬ。集会の男女、昨日二百五十人、今日二百来人す。結願已後、集会衆の与に、菩薩戒を授く。斎後、皆な散去す。
慈覚大師円仁『入唐求法巡礼行記』巻2
こちらも、「法花会」が終わった後で、その法会に集まってきた男女を相手に、「結願(四弘誓願か?)」を行った後、菩薩戒を授けていたという。これなども、集団を相手に行ったものといえる。なお、円仁の入唐は838~847年であり、上記一節は円仁が一時期寄寓していた赤山法華院(山東半島・赤山浦に所在)での出来事であったようである。
六年癸丑、是年二月十五日、念仏施戒会を創建す。
『四明尊者教行録』巻1「尊者年譜」
「六年癸丑」というのは、中国北宋代の大中祥符6年(1013)を指しており、「念仏施戒会」を創建したのは、宋代の中国天台宗を興隆させた四明知礼(960~1028)である。なお、知礼に関する年譜の記述のみでは、いわゆる「授戒会」であったのかどうか、よく分からないところがあるのだが、知礼の師翁である義寂(919~987)について、以下の記述もある。
師、人の与に菩薩戒を授くること、約数十万。
『四明尊者教行録』巻7「浄光大師塔銘」
つまり、ここにも、集団に対して授けていた様子が見て取れる。つまり、趙宋天台では明らかに授戒会を修行していたことが分かる。それで、そのための儀礼についてはよく分からないところもある。そこで、知礼が用いていた『授菩薩戒儀』を簡単に見ておきたい。
菩薩戒儀〈十二科〉
第一求師授法
第二策導勧信
第三請聖証明
第四授三帰依
第五召請聖師
第六白仏乞戒
第七懺悔罪愆
第八問無遮難
第九羯磨授戒
第十略説戒相
第十一発弘誓願
第十二結撮迴向
それで、これが出家者向けであったかというと、そうは決めきれない。実際に、本作法は、明らかに『梵網経』に基づいて構築されている。なるほど、「第九羯磨授戒」は「三聚浄戒」であるから、『瓔珞経』との関係も考えたいところだが、「第十略説戒相」が、「十重四十八軽戒」について説くものであるから、『梵網経』だと判断出来るのである。そこで、『梵網経』は、出家・在家に通じて授けることが出来るとされている。そのため、この作法が在家者に用いられていたとしても、おかしくないのである。
しかも、「第十略説戒相」を見てみると、末尾に「此を以て浄土を荘厳し、命終に往生を決取することを得んことを庶い、方に念仏・受戒の功勲、思議することを得べからざるものと知るべし」とある。つまり、受戒を通して極楽浄土への往生を願うのである。そうなると、単純な教義や思想に限らず、現世の人々を往生まで導く行法として授戒が位置付けられているため、教化としての役割を見て取ることが出来る。
まぁ、纏まりの無い記事にはなってしまったが、中国仏教に於ける「授戒会」の淵源を探る一試論として挙げた次第である。
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