仏法の上から云へば、迷ふて居る凡夫の位置は此方の岸で、仏の境界は彼の岸ぢや。釈尊御一代の説法も、高祖大師・太祖国師の御教化も、唯々我等をして凡夫地を超えて仏地に進み、迷いを転じて悟を開かしめんが為めの御導びきぢや。此処を能う合点さへすれば、仏法の一大事は彼岸の二字に帰するといふても宜い。此一大事を忘れる様なことでは、終日仏の御傍に侍し、終夜御経の声を聞たとて、所謂心外に正覚を求むる者で、トンと仏法には契はぬぢや。
『永平悟由禅師法話集』鴻盟社・明治43年
以上の御垂示を参究していくと、やはり、凡夫の側から見た様子として、此岸・彼岸の分別があり、それこそ、仏も分別されている。だけれども、その彼岸の境涯から説かれている仏祖の説法は、我々凡夫をして、その彼岸の境涯に至らしめようとしているという。では、その教えにしたがって、我々自身の誤解や迷妄を解き、そして、仏地に進んだとしよう。
そうなると、仏法の一大事は「彼岸の二字」に帰するという。要は、仏地の境界からすれば、此岸・彼岸の区別が無いといえよう。この辺、仏の境涯という観点でいえば、一切全てが彼岸であるという見解に立つからこそ、一切衆生悉有仏性であり、能く引導することが可能である。逆に、仏地に到ったつもりで、此岸・彼岸の分別を残せば、そこから本来救われるべき衆生に、様々な差別を行っていくことになる。それは、仏祖の本意では無い。
つまり、彼岸の二字きりであるという一大事を想うからこそ、仏像を前に読経している一切が、仏の行いであり、仏の御教化であり、それを以て転迷開悟するのである。此岸・彼岸との区別を強く持っている限り、それを超えていくのは並大抵のことでは無い。だけれども、自分は既に彼岸にあるはずだという一大事を確信していれば、その超越は容易である。無論、確信に到ることが容易であるとは想えないけれども、道元禅師には「自己本と道中に在る」(『学道用心集』)という教えもある。
或いは、曹洞宗では仏陀の教えの中に、「大地有情同時成道」をいただいている。これこそ、彼岸から発せられた、文字通りの「獅子吼」であり、衆生は従わざるを得ないみ教えである。結局、同時成道・本と道中に在ることを確信し、それに相応しい学びをしていくことが肝心である。彼岸は近くにある。だけれども、我々はそれに到れない。とすれば、その方法をよくよく吟味すべきなのである。
そして、吟味の結果は、普段から仏法に近く、慣れ親しんでいることへの感謝を持ち、修行の生活を送ることである。立場は各々であるから、各々のやり方で修行の生活をすることが出来る。よって、その修行している事実に、「彼岸到」を自覚するのである。この自覚は、新しいことを新たに知るのではない。既に知っていることを深く納得するのである。それを直下承当ともいう。
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