ところで、優婆塞が比丘になるための方法(いわゆる受具)は、『十誦律』などを見ると10種類あったそうだが、その中に1つに釈尊から直接「善来、比丘(ようこそ、比丘よ)」と呼びかけられることで、出家した事例がある。それで、拙僧自身気になったのが、同じように優婆夷に対して「善来、比丘尼」という呼び掛けがあるのだろうか?ということであった。
最近の検索ソフトはかなりの文献を調べられるので、それで見たけれども、一定量ヒットした。勿論「善来、比丘」ほどではない。あったはあったのだが、あれ?
結果として、『撰集百縁経』という本縁部の経典に見えるけれども、いわゆる阿含部には無いことが分かった。一応、本経は月氏国出身の支謙(3世紀前半が主な活動期間、三国時代の呉に移住)の訳出で、支謙は他にも『維摩経』『無量寿経』などの訳出でも知られるから、その人に係る訳出というのは、まぁ、あり得る話なのだろう。
それで、『大正蔵』巻4に収録されるのは、10巻本の『百縁経』であり、その第八が「比丘尼品」である。
仏、舎衛国祇樹給孤独園に在す、時に彼の城中に、一りの長者有り。名を善賢と曰う。財宝無量にして、称計すべからず。族望より選択し、娉を婦と為すと以てす。諸の音楽を作り、以てこれを娯楽とす。
其の婦、懐妊して満十月に足りて、一りの女児を生む。端政殊妙にして、世の希有する所なり。頂上に自然に一つの宝珠有りて、城内に光曜す。父母歓喜して、因みに字を立てて名づけて宝光と曰うと為す。
年、漸やく長大し、体性調順にして、恵施を好喜す。頂上の宝珠、来たりて乞う者有れば、即ち取りて施与するも、尋ぬれば復還た生ず。
父母歓喜して、将に仏の所に詣づ。女、仏を見已りて、心に喜楽生じ、入道せんことを求索す。
仏、即ち告げて言く、「善来、比丘尼」と。頭髮自ら落ち、法服身に著いて、比丘尼と成る。精勤に修習して、阿羅漢果・三明六通を得て、八解脱を具う。諸天・世人の見る所、敬仰す。
「宝珠比丘尼生時光照城内縁」、訓読は拙僧
上記の通り、一般的な比丘の出家の因縁と変わることがない。なお、特にこの宝珠(宝光)比丘尼は独特な因縁があって出家したからこそ、本縁部であるこの経典に記載されたのだろう。それで、問題なのは、ここを見る限り、仏陀は比丘尼の出家を決して忌避していなかったことであろう。その意味に於いて、『毘尼母経』などの見解をどう会通していくかは、それなりの課題となってくる。残念ながら、今の拙僧にはその解決が出来ないので、まずは措いておく。
若し比丘尼なる者は、名字を比丘尼と為す、相似比丘尼、自称比丘尼、善来比丘尼、乞求比丘尼、著割截衣比丘尼、破結使比丘尼、受大戒白四羯磨如法成就得処所比丘尼なり。
是の中に比丘尼なるは、若し受大戒白四羯磨如法成就得処所なれば、比丘尼法中に住す。是れを比丘尼の義と謂う。
『四分律』巻22「八波羅夷法」
このようにあって、8種類の「比丘尼」を挙げており、『四分律』としては、白四羯磨を経て正式に具足戒を受けた女性を比丘尼であるとしているが、善来比丘尼も1つとしてあったことを指している。この辺は比丘と同じで、釈尊の在世中にも何らかの変化があった可能性があるし、後代にも勿論変化があった。結果として、部派仏教の頃は、「白四羯磨」こそが正式な出家法として認められ、そのための作法も整備されていくことになるが、『百縁経』ではそうでは無い状況を画いていることになる。
最後に改めて『百縁経』とは、全10巻で各巻に10話ずつの話が収録されており、結果として、100の説話からなっているため、同経の名前となっている。或る意味で、「第八巻 比丘尼品」は特徴的な内容だ。ただし、そこにしか見えないということは、果たして比丘尼の出家をどう考えるべきなのだろうか?今後も関連する文献を見ておかなければならないだろう。
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