耆婆答えて言く、「善哉、善哉。王、罪を作すと雖も、心に重悔を生じ、慚愧を懐く。
大王、諸仏世尊、常に是の言を説く、『二つの白法有りて、能く衆生を救う。
一つには慚、二つには愧なり。
慚とは自ら罪を作さず、愧とは他を教えて作せざらしむ。
慚とは自ら羞恥し、愧とは人に向かって発露す。
慚とは人に羞じ、愧とは天に羞ず。
是れを慚愧と名づく』〈以下略〉」。
『大般涅槃経』巻19「梵行品第八之五」
このように、大乗仏典の『大般涅槃経』では、「慚愧」について以上のように解説している。なお、説明している「耆婆」とは、釈尊と同時代に活動していた医者のジーヴァカのことだという。そして、上記内容を見ると、「慚愧」という語について、ただ自分自身の問題のみとは理解されていないことが分かる。そもそも、「慚愧」という言葉について、世尊は「二つの百法」であるとし、慚と愧とに分けている。
それで、慚と愧のそれぞれについて、3つの意味を示しているようなので、抜き出して学んでみたい。
①「慚とは自ら罪を作さず、愧とは他を教えて作せざらしむ」とあるが、これは、現代の我々が用いるような、ただ「恥ずかしい」という意味ではなく、むしろ、戒律などの厳修を誓うもので、慚が自分で罪を作らないようにすること、愧が他人にそうさせないことを意味している。つまり、「慚愧」という言葉には、「自他の問題」が含まれていることが分かるのである。
②「慚とは自ら羞恥し、愧とは人に向かって発露す」とあるが、ここは、現代の意味に近いように思う。つまり、慚については自ら羞恥心を懐くことであり、愧とは、自らの罪や恥じ入るべき行為について、他者に伝えることを意味していよう。そもそも、懴悔については、「発露白法」という方法が行われており、後者はそういう位置付けも可能な印象である。
③「慚とは人に羞じ、愧とは天に羞ず」とあるが、これについては、慚については、自分にとって身近な存在である人に対して恥じ入ることで、愧とは天部の神などに対して恥じ入ることを意味していよう。或いは、中国以東では、普通に「天(或いはお天道様)」として理解されたかもしれない。どちらにしても、これは現代の慚愧の意味からは少し遠い。
よって、意味としては②が近いことが分かるが、その内容も、今のような自分だけの問題ではなくて、他者を巻き込んだ形での意味が成り立っていることは、知られておいて良い。
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