およそ生飯を出すこと七粒に過ぎざれ。餅麺等の類は半銭の大きさの如くなるに過ぎざれ。
道元禅師『赴粥飯法』
ここで、「餅麺等の類は半銭の大きさ」という表現があることに注目したい。何となく、餅であればちぎって大きさを整えることがあるような気がしていて、それを「半銭(要するに硬貨の半分くらいの大きさ)」というのは理解出来るのだが、「麺」もと思うと、もっと他の表現がされても良いのではないか?と思うようになった。
しかし、そもそも、それぞれの食品について、上記のような理解で正しいのだろうか?つまり、餅と麺について、勝手に餅米をこねて作った餅と、小麦粉を伸ばして作った麺という理解で正しいのか?という疑問が出て来た。すると、以下の一節を見出した。
餅、則ち従来是れ麺なり。造作、人に由りて百変す。
『古尊宿語録』巻28「舒州龍門仏眼和尚語録」
これを見ると、餅は麺から出来ているという。そのため、その形などは、作る人によって様々だと述べている。この点を踏まえると、「餅麺」とは、「餅と麺」ではなくて、「麺から出来た餅」の意味で理解されねばならないだろう。つまり、漢字の由来などから考えれば、この「麺」とは、小麦粉のことなのである。よって、小麦粉を練って餅になるという理解が正しい。
よって、道元禅師は「餅麺」とは、小麦粉を練って作った餅であり、今の日本で近いものというと、すいとんのような類だった可能性が高いといえる。それを前提に見ていくと、以下の一節も理解が変わってくる。
画餅といふは、しるべし、父母所生の面目あり、父母未生の面目あり。米麺をもちいて作法せしむる正当恁麼、かならずしも生・不生にあらざれども、現成道成の時節なり、去来の見聞に拘牽せらるると参学すべからず。
『正法眼蔵』「画餅」巻
ここで、道元禅師は画餅を作るのに、「米麺」を用いて、と示しておられるが、ここも「米」と「小麦粉」という理解が必要だといえる。この辺、註釈ではどのようになっているのだろうか。
米麺をもちゐて作法せしむるとは、餅米麺等を以て世間に作る、其をたよりにして被呼出歟。
『正法眼蔵抄』「画餅」篇
このように、道元禅師の直弟子だったとされる経豪禅師は、『正法眼蔵』本文への註釈で世間に於ける「餅」の材料としての、「米」と「小麦粉」を明示していることから、鎌倉時代初期の状況も理解すべきなのだろう。今日は「粉の日」ということで、餅の材料としての「麺」に注目してみた。
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