此の偈は是れ迦葉千衆の集律に非ず、時人の造る所なり。
乃ち是の後の五部の分張、各おの伝える所に拠る。
即ち是の一衆の首に居く者、将に衆の為に律相を弁釈すると欲するが故に、先ず偈讃じて然る後に之を説く。
以上の通りで、『四分律』冒頭の偈頌は、摩訶迦葉尊者による仏典結集時に編入されたものではなく、後に『四分律』を用いている法蔵部の誰かが、大衆のために律の内容を「弁釈」するために詠まれたものだと評している。さて、その偈頌の中に、「十句偈」という一節が見えるので、それを読んでおきたい。
今十句義を説く、諸仏の戒法は、
僧をして喜び永く安からしむ、僧を摂取するが故に。
信ぜざる者をして信ぜしめ、已に信ずる者をして増長せしむ。
不持戒の者を断じて、邪道をして正に入らしむ。
慚愧する者をして安穏ならしめ、仏法をして久住を得せしむ。
ここで、「十句」がどこを指すかなのだが、先行研究だと、上記全体で「十句」であるという。つまり、「今十句義を説く」から始まって、「仏法をして久住を得せしむ」までとなる。そして、それが何を意味しているかなのだが、簡単に訳しながら見ておきたい。
今、十句の義を説いて、諸仏の戒法について示す。諸仏の戒法とは、僧伽に所属する比丘達を喜ばせ、永く安楽に至らせることを目的としている。何故ならば、戒法が僧伽を摂取するからである。そして、仏法を信じない者を信じさせ、既に信じている者は、その信心を増長させるのである。持戒しない者を断ち、誤った道に進んでいる者を改めて、正しい道に入らせる。自らの行いを慚愧する者は、それにより安穏となり、仏法については久しくこの世界に存在させるのである、とでも出来ようか。
若干不思議なのは、5・6句目と、7・8句目の意図である。まず、仏道を信じていない者は、そもそも戒法を受けるに至らないと思うのだが、その辺が何故指摘されているのか分からない。それとも、やはり仏道を信じていなくても、食べるために出家するような場合があったということなのだろうか。そうであれば、修行を通して徐々に信心が増すというのは、理解出来ることである。
それから、不持戒の者を断じるとはあるが、これも正しく戒法が示されていることへの確信であるといえよう。よって、邪道に進んでしまった者も、持戒を通して正しく仏道を歩むことになるのである。その正邪の基準は、どこまでも戒法に由来することが分かる。
このようなことからも、伝統的な僧伽に於いて、戒法がどのように位置付けられていたかが理解出来よう。更に、上記の偈頌は以下のように続く。
是れ世の最勝なるを以て、禁戒経を演布す。
同上
つまり、禁戒経たる『四分律』こそが、世の最勝の教えであるため、演説し公布するとしているのである。
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