つらつら日暮らし

鎌倉時代の禅僧達に於ける出家受具への雑考

出家受具というのは、出家して、具足戒を受けたことを意味し、いわゆる正式な比丘になったことを指す言葉なのだが、日本の場合、奈良時代中期に鑑真和上が来日して構築しようとした東大寺戒壇体制(学術用語でこの辺どう表現しているのか?当方の勉強不足で分からない)が、和上入滅後100年を経ないうちに崩壊したとされ、その後は、当初の状況が中々確立出来ないまま、何となく現代まで来ている印象だ。

そこで、今日の記事は鎌倉時代の禅僧達の出家・受具に関する伝承を見ていこうという話である。とはいえ、万事に雑な拙blogなので、とりあえず目についたところだけではある(『続群書類従』第9輯を参照した)。

承元元年丁卯 師、歳十三にして薙髪、専ら天台大教を以て教え・・・
  四年庚午 師、歳十六、入壇して大僧と為り、密観定慧悉く具足す・・・
    『栄尊和尚年譜』


これは「叡尊」の間違いではなくて、臨済宗で東福円爾禅師とともに入宋し、伝法して帰ってきた神子栄尊禅師(1195~1272)という祖師である。かの『宝物集』を編んだ平康頼の子供であったが、母の意向で元々法華宗(天台宗)の僧に就いて薙髪(髪を剃って沙弥になった)し、比叡山の大乗戒壇に上り、大僧(菩薩比丘)になったという話らしい。

まぁ、当時の日本っぽい話なのだが、ここで不思議なのは、この人は薙髪⇒大僧という二段階を経ている。ところが、当時は沙弥⇒大僧、或いは最初から大僧という方法があったということなのだろう。

普光寺の処謙に、法華等の諸経を習い、二歳を踰えて得度する間、如城中の応真律寺にて開遮を聴き、延慶教寺にて天台の教観を学ぶ・・・
    『一山国師妙慈弘済大師行記』


鎌倉時代に日本に来た一山一寧禅師(1247~1317)の伝記である。この人は元々中国天台宗の僧侶だったようで、その中で出家得度したが「応真律寺」というところで「開遮(要するに戒律の守り方、生活法)」を習ったことが記されている。後に臨済宗に転宗し、日本に来たときには北条時頼と一悶着あったけれども、建長寺や円覚寺などに住した。この律寺で「開遮を聴き」という辺り、この時代の中国に僧侶教育(今風にいえば徒弟教育)があったことを想起させる。

年始十三、義父に従って群の巨福を過ぐ。蘭渓隆禅師、奇其鋒骨を一見して、且く父の告げる所の由を聞いて之の異なることを得る。遂に収めて以て、童子と為して教う。〈中略〉十六にて落髪、尋で南京の東大寺に往きて、具戒を受く。
    『仏灯国師塔銘』


この人は、約翁徳倹禅師(1245~1320)という日本人で、たまたま鎌倉の巨福山建長寺を通っていたときに、蘭渓道隆禅師の目に留まって童子となり、16歳で落髪(出家)すると、東大寺に行って戒壇院で具足戒を受けたという。問題は、上記のように見ると、16歳で受具したようにも見えるのだが、本来は20歳以上のはずなので、この辺がどうだったのかは気になる。「塔銘」からだと良く分からない。なお、引用はしていないが、約翁禅師は受具の後、建長寺から建仁寺に移ってきた蘭渓禅師に再度参じたとなっている。1253年に建長寺の開山となり、13年いたとされるので、1265年には建仁寺に来たという計算か。そうなると、役翁禅師21歳の時?計算は合う・・・

年十五、父母を捨送して州の南の報恩にて出家す。〈中略〉遂に剃度を得て、十六にて具戒を開元に於いて受く。
    『大鑑禅師塔銘』


これは、中国福州の出身で、後に来日して建仁寺などに住した清拙正澄禅師(1274~1339)のことである。この人は元々中国にいたときに、地元福州の報恩寺で出家したが、その時は15歳であった。そして、翌年には同じ福州の開元寺で具足戒を受けたという。つまり、15歳で沙弥、16歳で比丘になったということになるだろうか。

あれ?そうだとすると、中国でも20歳で比丘という資格条件は満たされていなかったことになるのだろうか。

(建治)十年丁亥 師、十歳。春に祝髪し、夏四月八に、叡山にて受戒す。
    『海蔵和尚紀年録』


この海蔵和尚というのは、京都東福寺や南禅寺の住持を退いた後で、東福寺の海蔵院に移ったことから呼ばれた名前で、一般には虎関師錬禅師(1278~1346)と呼ばれている臨済宗の僧侶である。この方は自身10歳の時の4月8日に、比叡山の大乗戒壇で受戒(要は菩薩比丘になったということだろう)したという。残念ながら同『紀年録』を見ても、他に受戒のことが出てこないので、結局、この時に大僧になったと判断せざるを得ないようだ。

当時の10歳は、今の9歳なので小学校3年生・・・ただし、いうまでもなく虎関禅師は大変に優秀な方で、『元亨釈書』などの大部の著作をなした人でもあるから、ただの10歳では無かったはずだが、それにしても若い。とはいえ、諸方遍歴した後で、8歳の時に知己になっていた宝覚禅師(東山湛照禅師のこと)に就いており、14歳の時には既に堂々たる問答をしたとあるので、当方の理解を超えていると見て良いのだろう。恭敬、合掌。

ということで、簡単にではあるが、鎌倉時代の禅僧数師の伝記を見ながら出家・受具の様子を見てみた。感想は各文章に任せて総括はしないけれども、とりあえず、各人色んな出家への道があった、ということだけは分かった。しかも、中国でもそんな感じだったようなので、当時の僧侶の資格について、我々が思っているほどカチッとはしていなかったのかもしれない・・・

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