つらつら日暮らし

「甘茶」考(再掲)

多分、本気で調べている人もいると思うので、そういう場合にはそちらの記述を参照して欲しい。このブログでは、とりあえず目の及ぶ範囲で記事にしておきたい。

先日、【今日は釈尊降誕会(令和4年度版)】の記事でも少し指摘したが、釈尊の降誕に際し、生まれた直後に二頭の龍が、釈尊にお湯や水を掛けてさし上げたという伝承は、仏典上に存在することは確認したが、それが現代的には「甘茶」になってしまっている。

そこで、この「甘茶」って一体何だ?という疑問が起きてきた。まとめれば、釈尊降誕会(花まつり)で「甘茶」を誕生仏にかける習慣はいつから出て来たのか?と思ったのである。まずは、明治期の或る記述を参照しておきたい。

後世鎌倉幕府の末葉から足利氏室町の治世に至つて、四月八日釈迦の誕生会を祭ることゝなり、ついで江戸徳川時代に今のやうな花見堂の中に裸体のまゝの右手を上げて、左手を下げ天上天下唯我独尊の、小さな釈尊の像を飾り、それに甘茶を注ぎかけて、仏の功徳を願ひつゝこれを家土産に一家の後生を願ふやうになつたのであります。
    湯川玄洋『胃腸之一年』(東海堂・1907年(明治40))「灌仏会の甘茶」項164~165頁、見やすく表現を改める


このようにあって、甘茶をかける習慣は、江戸時代からであると明記されている。よって、『江戸年中行事』(三田村鳶魚編・朝倉治彦校訂、中公文庫・昭和56年)には、全部で15編の江戸における年中行事に関する文献が収録されており、「灌仏会(釈尊降誕会の別称の一)」に関する記述があることが分かったので、特に「甘茶」に関する文脈のみを抜き出し、後学のための備忘としておきたい。

なお、この15編の文献だが、元禄3年(1690)から、安永6年(1859)までに開版(刊行)されたものであり、江戸時代のごく初期はやや不明瞭ながら(とはいえ、都市としての江戸を造営中であり、記録されるまでも無かろう)、江戸時代中期から末期にかけてよく知られるものといえる。

よって、ここから見ていけば、少なくとも江戸の町人達に於ける灌仏会の意識・行事を探ることが出来るだろうと思うのである。

○(四月)八日 灌仏、此日諸寺にて五香水、仏に奉る。
  元禄3年(1690)版『江戸惣鹿子』「(町中)年中行事」、前掲同著16頁


まずはこちらの記述から紹介してみよう。非常に簡潔な内容だが、4月8日に灌仏会を修行していることと、「五香水」を仏に奉ることが記されている。問題は、この「五香水」だが、上記著作には書かれていないようである。だが、別の文献にはちゃんと書いてあったので、後で紹介したい。

○(四月)八日 諸寺灌仏会
  元禄10年(1697)版『国花万葉記』「惣年中行事」、前掲同著27頁


本書はほとんど、行われる行事名のみが記されているので、細かな内容は分からない。

○(四月)八日 灌仏会、諸宗、前日、卯の花、新茶を売る。
 浴仏日といふ、此日、仏に香水を濯ぐ事、推古天皇の御宇に始ると云、〔高僧伝〕是日浴仏するに、都梁香を以青色水とし、鬱金香を以赤色水とし、丘降香を以白色水とし、附子香を以黄色水とし、安息香を以黒色水とし、仏頂にそゝぐ、是日新茶を煮て仏に供し、卯の花をさゝぐ也、又江都にては、卯の花を節分の柊のごとく門戸にさす也、上がたには、竿の先にむすびて高く上る事也。
  享保20年(1735)版『続江戸砂子』「江府年行事」、前掲同著40頁


こちらの記述はかなり詳しくて、いわゆる「五香水」を奉ることについては、記述的に極まった感がある。それで、まず、推古天皇の頃から始まった、という説についてだが、出典は『日本書紀』で、行われた寺院は元興寺であるとされている。それを受けたものであろう。そして、後者の「五香水」の説明だが、本書では『高僧伝』であるとしている。色々と調べてみたが、当方がすぐに手にできる資料中の諸年代の『高僧伝』には見られない記述である。それで、一応『法苑珠林』巻33・洗僧部第八に、『仏説摩訶刹頭経(亦は灌仏形像経と名づく)』からの引用として、五香水の内の3種類(青・赤・白)のみ記載していることが分かった。他の2種類は、現段階では不明。

また、卯の花についての典拠も不明。卯月だからかなぁ?なお、個人的に気になったのが、「諸宗、前日、卯の花、新茶を売る」とあるので、境内地の一部を開放して売っていたのだろうか?今でも参拝者が多い寺院では、お盆やお彼岸になると、お線香やお花を境内地内で売る場合はあるが、それと似たようなものか?

また、本書の作者が、学究肌であったものか、以下のような記述が続いている。

○月建のあやまれる事は涅槃会の所に見へたり。
  前掲同著40頁


これはどういうことなのだろうか?涅槃会のところを見てみよう。

〔仏祖統記〕云、周の昭王二十四年四月八日、釈迦仏生とあり、周の代は子の月を以歳首とすれば、周の正月は、今用る所の十一月なり、此代の二月は今の十二月也、仏生日の四月八日は今の二月八日にあたる、周の代の子の正月を、今用る夏の寅の正月にして用る理にあたらずと云、 〈以下略〉
  前掲同著36頁


以下は、釈尊の涅槃会に因んで、その火葬の作法などについて言及していくのだが、この記事で必要なのは上記の文章のみである。これは何を指摘しているかといえば、要するに釈尊の降誕について、「四月八日」の原典となっている『仏祖統記』の日付の記述がおかしく、本当ならば「四月八日」ではなくて「二月八日」だろう、という話なのである。実際に、釈尊の三仏忌に該当する日付について、元々大乗仏教では「ウェーサーカー」の月に行っていたとされ、これはインドの「二月」に当たるという。よって、上記に引用した本書の指摘は、極めて真っ当な内容だといえる。江戸時代の学者の見解は、こういうところから分かるように、決して侮れないのである。

○(四月)八日 木戸楽屋共、卯花を挿事はなき事也。
  安永6年(1777)版『江戸大芝居三座年中行事』、前掲同著60頁


江戸の芝居に関する行事を集めたもので、現代でも歌舞伎好きの人にはよく知られた文献のようである。それで、4月8日の項目に上記の通りあった。最初は何を言っているか分からなかったが、前の『続江戸砂子』を踏まえると、なるほど、釈尊降誕会に因んだ行事について、芝居関係者が行う必要はない、という態度を採ったといえよう。おそらく、卯の花を挿すというのは、先にも「節分のような」とあった通りで、或る種の縁起担ぎだったと思われ、それを否定したのだろう。どちらかといえば、芝居は神事に近いこともあるから、その辺の関係を見ていく必要があるのかもしれない。

○(四月)八日、灌仏。
  明和5年(1768)版『吉原大全』、前掲同著111頁


いわゆる吉原に於ける年中行事を記したものだが、遊郭という不安定な商売に関連するために、この辺の仏事・神事はかなり熱心に行われたものと思われ、簡潔ではあるが指摘はある。

○(四月)八日 釈尊たん生、諸寺院参詣、
  享和3年(1803)版『増補江戸年中行事』、前掲同著130頁


こちらも簡単な記載である。だけれども、釈尊降誕会に因んで、諸寺院を参詣するというお祀りになっている事に注目したい。実は、最初から常に記載されていて、でも、引用しないで来たのだが、日付として降誕会の前後数日にわたり、江戸市中の大寺院では、「千部経供養」を行っていた。大概よく出てくるのは「奥沢九品仏(いわゆる東急線の駅名にもなっている浄土宗九品仏浄真寺)」であり、他にも浅草幸龍寺(前掲同著には「法華」と記すが、日蓮宗。現在は世田谷区内に移転)などが見える。なお、詳細は知られないが、宗派の違いから、九品仏は浄土三部経の千部経供養(要するに、浄土教関連経典を千回読む修行)で、幸龍寺は『法華経』全巻の千部経供養だったと見るべきなのだろうか。と思っていたら、本書収録の別の箇所に「浄真寺弥陀経千部」とあるから、『仏説阿弥陀経』を千部経供養したようだ・・・『法華経』全巻に比べるとかなり短(以下、自主規制)

それで、話を戻すと、それらの供養をしている様子を見に行くということもあったのか?と思った。無論、詳細は不明。

○(夏・四月)八日 灌仏会、東叡山、増上寺、浅草寺、本所回向院、同弥勒寺、大塚護持院山開あり。牛込榎町済松寺、小石川伝通院、此外諸寺に猶多し。
  安政6年(1859)版『武江遊観志略』、前掲同著200頁


「遊観」とある通りで、物見遊山を前提とした文献であるから、このように「山開」のデータを記載している。分かりやすくいうと、「山開き」というのは、一般の方に対して参詣を許す期間に入ったことを意味しており、今では何か、365日開いていて当然のような雰囲気があるが、元々はそうでは無かったことを意味している。それで、これより前の文献にも、少しだけ山開きのことは出ているけれども、部分的であった。しかし、この江戸末期になると、釈尊降誕会に因んで山開きをすることにし、かなり有力なイベント化が進んでいたことを知ることが出来る。引用はしないけれども、本書では各寺院に祀られている仏像などを紹介しており、その魅力を熱心に伝えている。

○(四月)〔八日〕釈迦誕生灌仏会賑ふ、寺院しるしつくしがたし、△諸人、門戸へ卯の花を挿す、薺草(註:ナズナ)を行燈に掛て虫除とし、又蛇よけの歌を厠へ貼る、歌は諸人のしる所也、○上野、浅草寺、増上寺、山門ひらく、○北見村名主齋藤伊右衛門、蛇よけの守りを出す、○大塚護持院山びらき、○小日向服部坂龍興寺、法花経の文字にてかきたる五百羅漢の画軸掛る、○今日、俗にははなくそ餅とて、仏に供ず、はなくそは花供御の訛言也、餅を花といふ事、故実あり、小冊に尽しがたし。
  嘉永4年(1851)版『東都遊覧年中行事』、前掲同著380頁


一応、一番最後の引用となる。この辺になってくると、これまで紹介したことを全部並べたような感じになっている。ただ、残念なのは本来この記事で確かめたかった「五香水」「甘茶」に関する記述が無くなってしまったことだ。享保20年版の文献までで、その後は見えなくなってしまった。ただし、この曖昧さこそが、今回の記事で問題にしたことの本質であるのかもしれない。もしかすると、江戸時代も中期以降になると、この辺の風習が混乱し、それで書けなくなったということである。或いは、「釈尊降誕会」に於ける「灌仏・浴仏」が、諸寺院の「山開き」に取って代わられて、細かな習慣が衰退した可能性もある。「はなくそ餅」にはちょっと笑ってしまったが、釈尊も鼻くそをもらうとなると、流石に困惑されることだろう。まぁ、禅宗ではもっと酷い扱いをされる(生まれた瞬間に殺害すれば良かった、みたいなことをいう禅僧もいるので)こともあるから、当方がいう資格は無いが。

それから、山門開きについては、上野(東叡山寛永寺)・浅草寺・増上寺辺りが人気であった。今でもその通りであるから、非常に長い期間にわたって観光スポットだったことが分かる。個人的に気になったのは「龍興寺」の「法華経の文字にて書きたる五百羅漢の画軸」であるが、これは、各羅漢像の輪郭を、『法華経』の経文で書くことをいう。しかし、「五百羅漢」となると、かなり大変な労力がいる。それで更に気になるのは、本書収録の別の文献を見ると、この画軸は、先に紹介した幸龍寺のところに書かれている・・・所有権が移ったのだろうか?それとも、別のを新たに揃えたのだろうか?その辺のやや生々しい話も気になった。

ということで、元々の「甘茶」の影も形も無くなってしまったが、江戸時代初期には「五香水」というのが使われていたことを確認(典拠は先に挙げた通り)した。そして、甘茶については書かれていないけれども、むしろ、江戸時代後半には何も書かなくなるので、その頃に混乱してきたか?という推測を申し上げて、記事を終える。

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