つらつら日暮らし

三毒を離れるための祈り……観世音菩薩

我々はどうしても、仏典を漢文でそのまま読むために、以外と内容について知らないことも多い。まぁ、内容は知らなくても、それはそれで構わない。原始仏教や部派仏教では違うようだが、大乗仏教では経典は内容を理解していなくても、ただ読めば良いといわれたためである。だからこそ、読経は「善行」であって、功徳を得るのである。

とはいえ、大乗経典は無内容では無い。よって、読めば読んだで、良い理解を得られるものである。このようなことを、「解説(げせつ)」という。説意を解するのである。

 若し衆生あって淫欲多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち欲を離るることを得ん。
 若し瞋恚多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち瞋を離るることを得ん。
 若し愚痴多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち痴を離るることを得ん。
 無尽意、観世音菩薩は是の如き等の大威神力あって、饒益する所多し。是の故に衆生常に心に念ずべし。
    『妙法蓮華経』「観世音菩薩普門品」


このように示されている。要するに、観世音菩薩を常に念じ、敬うことを忘れなければ、貪(欲)・瞋・痴の三毒を離れるといっているのである。何故離れることが出来るのか?世尊は無尽意菩薩に対して、観音菩薩の大威神力があるためだという。しかし、いつも思うのだが、観音菩薩はどのようにして、このようなすぐれた力を得るに至ったのだろうか?残念ながら、『観音経』ではこの辺は説かれず、ただその功徳が讃歎されるだけなのである。

なお、『観音経』を具に見ていくと、最後に無尽意菩薩が観音に瓔珞を供養し、それを更に観音が釈迦牟尼仏と多宝仏塔に分施するというような話が見えているので、全くどこか別の世界にいる菩薩について話しているのではなく、すぐそばにいるような設定になっている。

ということは、間近にその菩薩本人がいるわけし、実際観音菩薩は何処の世界にも現れてくれるので、我々にとっても安心ではあるが、しかし、何故この力を得たのかが示されない。よって、常に我々にとって、慕い、供養し、信仰すべき対象ではあっても、ともにその位に登るべき菩薩ではないといえる。

同じように、観音菩薩の功徳を説く経典としては、浄土教系にて用いられる『観無量寿経』もあるけれども、こちらも観世音菩薩・大勢至菩薩という二大菩薩は出てくるが、それだけであり、やはり彼らが何故、阿弥陀仏の脇侍となったのか?等の経緯については、知らされることがないのである。

よって、今回見ているように、観音への祈りは、我々をして三毒より離れせしむるけれども、その理由はただ、観音の功徳が広大である、ということ以外良く分からないといえるのだが、いや、もうちょっと深読みしてみると、各々の項目に出ている、「常に念じて観世音菩薩を恭敬せば」がカギかもしれない。そもそも、特定の対象を、「常に念じる」こと自体が難しく、また、「恭敬」出来るということは、自我の抑制も利いていることになろう。そうなると、もはや祈りに入る段階で、三毒からの遠離は確約されている、ともいえる。それでか・・・

まぁ、ちょっと難しい話になり掛かったが、そうなるって書いているのだから、素朴に信じて、とにかく「南無観世音、南無観世音」で良いともいえる。う~む、こんな結論で、本当に良いのだろうか?

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コメント一覧

tenjin95
コメントありがとうございます。
> 釈愚 さん

色々と示唆を戴きありがとうございます。いただいた一々の事柄は感想なので、そうですね、と申し上げておきます。

そこで、観世音菩薩ですけれども、何故この菩薩が様々な姿を現し、また、どこにでも姿を現すのか?

その理由を考えてみますと、この観世音菩薩というのは、特定の誰かの人格(菩薩格)を示すのでは無くて、観世音菩薩的生き方をする人全てを指すのだろうと思われるわけです。よって、仏が観世音菩薩的な場合には、仏の姿になったといわれ、婆羅門が観世音菩薩的な場合には、婆羅門の姿になったとされるのでしょう。その意味で、観世音菩薩とは、どこにいるのでも無い、我々の実践や、慈悲心そのものに宿ると考える方が良いと思われます。
釈愚
テスト氏
コメントなので、気楽に書かせてもらっています。

フランスの詩人のポール・ヴァレリーが、たしか「テスト氏との一夜」という一文をなして、それを小林秀雄が翻訳していましたが、先生の文章を読んでいて思い出しました。

より大きな欲望をもって、小さな欲望を消してしまうというような内容です。

西洋人らしく大欲をもって小欲を消すということで、あっ、なるほど、と思ったものでした。

観世音というのは、その字のとおりの義と考えてよいのでしょうか。もともと、この観世音ということのなかに、三毒を客体化して見る、というようなことが含まれているのかなー、なんて思ったりしました。

客体化、あるいは相対化するということは、その時点において、すでに、三毒から脱しているということですね。

観世音菩薩を「常に念じ」、また、「恭敬」出来るということは三毒どころか、あらゆる毒から離れることができるのだろうな、と思ったりしました。

じゃ、この観世音菩薩というのは、どういうお方なのだろうか、ということが興味があります。 日本人ならば、観世音菩薩はあの像を通じてよく知っているつもりですが、実のところ何も知りません。

そのあたりのことをいずれご教示いただければとも思いますが、まずは、先生もおっしゃられるように「南無観世音、南無観世音」で三毒を脱することができるのですから、これはさっそく実行してみたいと思いますし、この記事の文意のとおり、それでいいのだと思ったりしています。

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