黄龍の南和尚云く、「孤舟で共に渡るすら、尚お夙因有り、九夏の同居、豈に曩分無からん乎」。
『吉祥山永平寺衆寮箴規』
これは、『先徳語録』という文献に載っている一節から引かれており、元々は中国臨済宗黄竜派の黄竜慧南禅師による結夏上堂の語句である。結婚式のスピーチで参照されるのは、前半部分の「孤舟で共に渡るすら、尚お夙因有り」になる。現代語訳すれば、「一つの舟に乗り合わせてともに川を渡ることですら、なお従来の深い因縁がある」というくらいの意味である。そして、慧南禅師は、ともに90日間の夏安居を行うこともまた、それまでの深い因縁があってのことなので、和合僧で修行に励むように促したのである。
つまり、一つの「家庭」という舟にともに乗ることは、それまでの深い因縁があってのことなので、仲良く頑張りなさい、という意味で、結婚式スピーチに使われると思われる。最近では、こういう話について、もしかするとめんどくさい、という思いをする人がおられるかもしれない。ただ、仏教的には、縁起・因縁を重んじるため、一時的な気分の盛り上がりで結婚した、と思っている人であってもなお、そのこと自体に縁起・因縁を見ることとなる。
最近の曹洞宗の「仏前結婚式」のリーフレットも、その辺についてはやはり縁起・因縁でもって結婚という盛事を祝うようになっている。
ここで、敢えて「縁起・因縁」を考えることの意義を考察してみる。以前から、日本では「自己責任」ということが強調されることがあった。その人の個人的な判断が優先されることは、一面その人の「自由」を保証しており、それが上手く行っている間は、とても良いことだともいえる。ところが、反面、上手く行かなくなった場合、或いはその人本人に自信が無くなってしまった場合、等はどうだろうか。或いは、様々な災害などに遭遇し、被害を受けたときなどについても、「自己責任」としてのみ考えてしまうと、その人本人は逃げようが無くなる。
結果、大きな精神的負担を受けてしまう。拙僧は、それを危惧するものである。
そこで、出てくるのが「縁起・因縁」である。これは、我々自身に知覚されるような、身近な因縁だけを意味するのではなく、もっと大きなところで考えるべきだとされる。最近では、色々と問題も指摘されますが、本来は「前世」なども考えていくべきなのだろう。そうすることによって、現状の善し悪しについて、ただ「今の自分がなしたこと」とだけ考えるのでは無く、「これまでの複数の人生の何かが原因としてある」ということにし、自己に掛かる精神的な負担や責任を、そちらに負ってもらうことが可能になる。
無住道曉上人の『沙石集』に見える「先世房」という人の記事は、それを示しているように見える。
もちろん、過去の因縁を持ち出すと、今の我々に対して抑圧的に働く、というのは可能性としてはあり得るし、よって健全な賛否両論があるべきだと思う。特に前世などを、相手の苦悩が解消されないことを更に押し付けるようにして用いられるのは、大きな問題となり、人権問題にもなろう。転じて、苦悩の解消に役立つとすればどうだろうか?或いは、結婚生活に訪れるかもしれない、様々な困難に対して、その本人や周囲の人の努力ではどうしようもない場合、それを受け止める方法として考えればどうだろうか?
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